自らの生活に違和感を抱えながら生きてきたゆかり。中学を卒業し、“直感”を信じてひとり暮らしを始めた彼女は、移住先である一人の少女と出会う。

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私の『一生』の始まり

 私には友達がいない。

 正確に言えば、教室内で他愛もない会話を数度交わす程度の親交はある。が、例えばプライベートで遊んだり、共通の趣味に花を咲かせたりするような深い親交がない。こういうのを、世間一般では“友達がいない”と言うのだろう。

 実のところ、私自身それを苦と思ったことはなかった。小説を読んだり、あるいは書いたり、天気が良ければ散歩に出向いたり。一人であっても、有り余る時間を活用する術はたくさんあった。

 しかし、いつの頃からだろうか。そんな生活に多少の違和感を覚えるようになる。

 その違和感の正体も掴めぬまま中学生活も終盤に差し掛かり、周囲のほとんどは進学する高校を決めつつある状況で、私は違和感と焦燥の間にただ懊悩していた。

 そんな折、私の携帯に一枚の写真が送られてくる。

 それは随分前に東京へ越した近所のお姉さんからの物で、夕焼けがよく写っている以外は何の変哲もない、ただの街の風景写真という感じだった。

 だがそのただの風景写真は、得体の知れない、しかしある種確信めいた“直感”を私に感じさせた。

 ここならば、もしかしたら。

 そう思ってから、親や教師を必死に説得する日々が始まった。私はこの街に移り住み、この街の高校に通うのだと。

 千葉の実家から通うのではなく、あくまでひとり暮らしをする選択をした。もちろんその打ち明けは両親と教師をひどく心配させたが、最後には受け入れ、了承し、私の背中を押してくれた。

 曰く、「私がここまで必死になった姿は見たことがなかったから」と。

 そうして迎えた入学試験も見事合格し、特に思い入れを作ることもできなかった中学を卒業し、気づけば三月は下旬に差し掛かっていた。

 私は今、生まれ育った千葉を離れ、東京行きの電車に揺られている。

 両都県の間を流れる江戸川は、本を読んでいる最中に渡り切ってしまったようだ。

 

 *

 

 ドアの開くチャイムと共に降車して、少し歩いて思い切り伸びをする。二時間にも満たない乗車時間だったが、その間で体はすっかり固まってしまった。

 走り去る電車を見送り、そのまま反対ホームの駅名標に視線が移る。

「相声町《あいせいちょう》」──今日からここが私の住む街だ。

 軽く一息ついたところで、またキャリーケースを引き始める。人を待たせているから、あまり悠長にもしていられない。

 ホームからエスカレーターを使って改札に。待ち合わせの出口に注意しながら駅舎を出ると、すぐ近くの広場に目的の人はいた。そして、彼女もこちらに気づいたようだ。

「久しぶり、ゆかりちゃん」

「お久しぶりです、そらさん」

 “桜乃そら”、彼女こそが私に写真を送ってきた近所のお姉さんだ。

「ゆかりちゃんも大きくなったわね、すっかり大人びて」

「そう言われるほど久しぶりではないですが……去年も会いましたよね?」

「そうだっけ? ふふ」

 そらさんが地元を離れ、ここでひとり暮らしを始めたのは六年前のことだった。私と同様高校へ入る時に引っ越していったはずだから、今は大学四年の年だろうか。

「でも、ゆかりちゃんがここへ来たいって言ったときはびっくりしちゃった。ただ綺麗な夕日を見せたかっただけなのに、こんなことになるなんて」

「その節は本当にお世話になりました。そらさんの助けがなければ、私はここにいなかったと思います」

 大げさね、とにこやかに微笑む。

 実際は大げさでもなんでもなく、彼女が保護者役を買って出てくれなければ両親は了承しなかっただろう。

 このひとり暮らしを始めるにあたって、一番の問題は安全面だった。まだ高校生にもなっていない娘を親の目の届かない場所にやるなど、普通なら承知するはずもない。

 しかし、この街にはそらさんがいた。彼女なら両親もよく知っているし、すでに成人もしている。保護者役としての適正は十分にあった。

 結果、そらさんと同じアパートに住むのであれば許す、という形で落ち着いたのだ。

 駅からしばらく歩いて、閑静な住宅街へと入る。話を聞く限りではもうすぐのはずだが。

 そう思っていると、そらさんが一つのアパートに指をさす。

「あそこよ。あそこが私たちの家」

 指の方向を見てみれば、そこにはなんとも普通といった感じのアパートが建っていた。古くもなく、かといって特に新しさも感じない、いたって普通だった。

 そんな雰囲気を感じ取ったのか、そらさんは笑って付け加える。

「大丈夫、住み心地は結構いいのよ? 二年くらい住んでるけど、特に不満はないわ」

 まぁ、実際に住んでいる人間が言うならそうなのだろう。

 ゆかりちゃんの部屋はここね、と部屋の前まで案内される。部屋自体はそらさんの隣なので、私にとっても結構安心だった。

「荷解き、手伝おうか?」

「いえ、流石にそこまでのご迷惑は」

「そう? じゃあ何かあったらすぐに言ってね?」

 そう言って、彼女が部屋に入っていく。しかし伝え忘れがあったのか、ひょっこりと顔だけ出して付け加えた。

「ひとり暮らし、楽しんでね!」

 頷いた私を見て、改めて部屋へ戻っていった。

 さて、私も家へ入ろう。

 鍵を開け、ドアを開け、部屋に入る。

 足を踏み入れた瞬間、他人の家の匂いを感じた。しかし、この匂いもいつかは自分の家の匂いとなるのだろう。

 まずは形から、ここは自分の家なのだと言い聞かせるように。

「ただいま」

 この街での新たな生活が始まる。

 

 *

 

 ひとり暮らしを始めてから数日が経ったある日のこと。

 その日は珍しく朝早くから目が覚めた。

 休みの日の午前七時に起きることなど、実家にいたころからは考えられない。ひとり暮らしを始めるにあたっての調整は功を奏したと言えるだろう。

 ハムと野菜にマヨネーズをかけ、トーストで挟んだだけの簡単なサンドイッチを食べながら、早起きで得た三文をどう活かそうか考える。

 洗濯、はどれにしろやらねばならない。荷解きと掃除、は昨日で大体終わらせた。

 そうか、今日早起きできた最大の要因は、前日に疲れて早く寝たからか。

 早く寝れば早く起きられる。当たり前のことだが、これがなかなか難しい。

 あとやりたい事といえば……小説を書く、本を読む、この土地を探索する、くらいだろうか。

 そういえば、私はまだ自分の通う高校の校舎を見ていない。入学式までに道を覚えなければならないし、時間的にもちょうどいいだろう。

 道中や近所で雰囲気のいい場所でも見つかれば御の字だ。今日は快晴だし、外で本を読むのもたまにはいい。

 思考がまとまったところで、洗面所の方からピーッという電子音が聴こえてくる。洗濯が完了した音だ。

 すでに食べ終えていたサンドイッチの取皿を片付けようと立ち上がったところで、そういえばコーヒーを付けるのを忘れていたな、と気づく。

 

 *

 

 鍵を閉め、マップを開き、学校までの道のりを歩き始める。時刻は八時を過ぎていた。

 三月も終わりかけだというのに、外の空気は少し肌寒い。太陽に当たっている間は温かいが、日陰に入ったら冷えそうだ。

 私が四月から通う学校「都立相声高校」は、地元の人が多く通う普通科高校、という評価らしい。一応そこそこの偏差値はあったはずだが、基本的にそれ以外の特徴はない真面目な学校なのだろう。

 そういえば、ホームページで自校のことを頑なにAHSと呼称していた気がする。Aisei HighSchoolの略なのだろうが、なぜそこまでそれにこだわっているのかはわからない。

 そんなことを考えていると、目的の校舎が見えてきた。マップを見たり目印になりそうな場所を探していたりで、結局二十分以上もかかってしまった。本来なら十五分もあれば十分に着ける距離である。

 改めて校舎を見てみると……まぁなんというか、やはり普通だ。ホームページに載っている写真はもう少し綺麗だった気がするが、宣伝と実物の差なんてこんなものだろう。

 ここまであまり心躍らない情報ばかりだが、実際高校としては必要十分な設備を備えているし、日常を過ごす上ではそこまで不満のない良い高校なのだと思う。腐っても都内の高校だ。

 しかし、学校までの道を覚えられたのはいいとして、これだけではあまりにも出かけた意味が薄すぎる。本の読めそうないい雰囲気の場所もこの道中にはなかった。こうなったら予定を変えて、駅の方まで歩いてみるのもいいかも知れない。

 ただここで止まっているだけでは何も起きない。とりあえず駅の方面を目指すことにした。

 相声高校と相声町駅はアクセスも良く、電車に乗って登校する人もそれなりにはいるらしい。確か直線で十分ほどだったか。

 肝心の相声町駅についてだが、駅周辺はそれなりに栄えている。

 飲食店やショッピング施設はもちろんのこと、家電量販店や基本的な娯楽施設まで網羅しているため、ここに来れば大体揃う、といった感じだ。仮に揃わなくとも、電車に乗ればそのまま東京の中心へ赴けるので、特に不便はしないだろう。

 しかし栄えているのは駅周辺だけ。そこから少し離れてしまえば、あっという間に閑静な住宅街へと迷い込んでしまう。

 ……そして私は今、件の閑静な住宅街にいる。

 なんとかあちこち探し回っては見たものの、やはり駅の近くは人が多く、しっくりくる場所が見つけられなかったのだ。

 つまり、特に収穫もないまま街を一周してしまった。

 駅前にチェーンの喫茶が数店舗あるのは確認済みだが、現在地からだと家へ帰る方が早い。しばらく歩き続けて疲れたし、雰囲気のいい場所探しはまた今度にしよう。

 そんなことを考えながら住宅街を歩いていると、一つの立て看板が目に留まった。

『喫茶maki名物、マキカレー』

 はて、この道は家を出たときにも通ったはずだが、こんな看板はあっただろうか。

 見上げて、この看板の主を確認する。

『COFFEEHOUSE 喫茶maki』

 maki……まき。ここら辺に“まき”の字が入っている地名はなかったはずだから、だとすると創業者……いや、見たところそこまで歴史を感じるような店でもないし、店主の名前から取ったのだろう。

 ふむ、と少し考えて、入ってみようと思い至る。この発見は偶然だが、その偶然の中から縁を見出すのも面白いかもしれない。

 そうして目をやった入り口には、『OPEN 9:00〜20:00』という掛け板がかかっていた。

 そういえば私が家を出たのは八時過ぎだった。だとすれば、看板の存在に気がつかなかったのも無理はない。なぜなら、私が最初に通ったときにはまだ看板は店内にあり、開店と同時に外に出されたのだから。

 謎というほどでもない胸のつっかえを解消したところで、改めてドアに手をかける。

 

 カランカラン。

 

「いらっしゃい、お好きな席へどうぞー」

 カウンターの中にいる金髪ポニーテールの女性店員が言う。店にいるのは彼女一人だった。

 さて、どこに座ろうか。候補として、カウンター席、窓際の席、二人がけのテーブル席、四人で座れるボックス席がある。

 二人がけとボックス席は論外として、残る候補はカウンターと窓際だが……他に客もいないのに、さっさと窓際を確保するのは微妙に気が引ける。もちろん店員さんは気にしないだろうが、私が気になってしまう。

 というわけで、消去法でカウンター席が選ばれた。

 席まで歩くついでに、軽く店内を見回してみる。店自体はそこそこの広さがあって、席数と空間のバランスはよく取れている。

 内装はレトロチックな純喫茶、しかし格式張ったものでもなく、あくまで“風”といった感じ。多少の年季も相まって、非常に落ち着き払った雰囲気だった。

 席に座り一息ついたところで、今度はお冷を用意している店員さんの姿を観察する。

 少しサイズの大きそうな白いワイシャツの上には、胸元に喫茶makiの店名ロゴが入ったエプロンをかけている。長い髪を一つに束ねているのは厨房仕事ゆえだろう。

 うーむ、彼女が“まきさん”なのだろうか。見たところ店主にしてはかなり年若い。私と同じくらいに見える。

 だが見た目で判断するのもよろしくない。外見上はうら若き乙女、しかしその実は本場の第一線でも活躍していた敏腕バリスタである、その可能性も否定はしきれない。

 そんなことを考えていると、カウンターからお冷を持った手が伸びてきた。

 彼女はそのまま腕をカウンターに乗せ、こちらの方へ身を乗り出すような姿勢になる。

「お客さんが本日一号目ですよ」

 突然そう言われ、思わず思考が固まってしまった。

 少ししてから意味を理解し、身に着けている腕時計を見遣る。針は九時二十分ほどを指していた。家を出てからもう一時間も経ったのか。

 ……どう返答しよう。おそらくただの雑談の種だろうし、相手もそこまでのものは期待していないと思うが。

 しかし、この人からはなんだか話しやすそうな感じがある。私と同年代のように見えるからか、あるいは穏やかな雰囲気を感じるからか。せっかくだし、ここは一つ冗談でも言ってみよう。

「何か特典はありますか?」

 え、と声を漏らした彼女は、顎に指を乗せて考える素振りを見せる。

 しばしの沈黙の後、その指は天井を指した。何かひらめいたようだ。

「じゃあ、ブレンドコーヒー一杯サービス、ってのはどう?」

 言われて、近くに置いてあったメニュー表を手に取る。コーヒー欄の一番上、目立つ箇所にそれはあった。

『マキブレンド ¥390

   おかわり ¥150』

 個人経営の店としては標準的な価格設定だろう。それはいいとして──

「言い出してなんですが、いいのでしょうか? 普通はサービス外ですよね」

 そう言うと、彼女は笑いながら返す。

「ああ、いいのいいの! 多分」

 多分。

「それじゃあ、ホットとアイスどちらになされますか?」

 ふむ、と少し考える。外で太陽に当たっている間は少し暑いくらいだったが、店内に入って少し経った今では微妙に寒いような気もする。おそらく外から来たばかりの客に合わせて暖房を弱めに設定しているのだろう。

 というわけで。

「ホットでお願いします」

「はーい。ではマキブレンドのホット、少々お待ちください」

 淹れてもらっている間、再度メニューに目を落とす。

 メニュー表はラミネート加工されたA4サイズの一枚紙で、コーヒーやその他飲み物が書かれている方がオモテ面っぽくなっている。

 そのオモテの顔となっているのは、やはりブレンドコーヒー。それ自体の値段は普通だが、おかわりで安くなるのはかなりありがたい。

 また、流石コーヒーハウスといったところで、ブレンドや豆の種類も豊富だ。しかも各メニューの下には簡単な味の説明も書いてあり、私のような疎い人間にもわかりやすい。

 全体にある程度目を通し、今度はウラ面へ。こちらは主にフード欄となっていた。

 フードの顔になっているメニューは、外の看板にも書いてあったマキカレー。写真と解説付きの好待遇だ。ごろりとした具材が特徴とのこと。

 その下に一回り小さく置かれているのは、二番人気のカツサンド。マキサンドではないらしい。

 その二つ以外はほとんど名前だけの掲載で、サンドイッチがあったりパンケーキがあったりと、なんとも町の喫茶らしい、どことなく安心感を覚えるラインナップだった。

 そうして一通りのメニューを見終えたところで、

「お待たせしました、マキブレンドのホットです」

 と、コーヒーがカチャリと提供された。

 ソーサーの上には大きめのマグに入ったコーヒー、それにスティック砂糖とコーヒーフレッシュ。

「ごゆっくりどうぞ〜」

 そう言うと、彼女はカウンター内の椅子に座って雑誌を読み始めた。うむ、この雰囲気こそまさに喫茶店だ。

 そのままコーヒーに意識を向ける。

 いつもなら私はここで躊躇なく砂糖とミルクを入れるが、初めての店、初めてのコーヒーでは、まずブラックで飲んでみることにしている。

 奇跡が起きることを信じて、いただきます。

 ………………。

 ……苦い。

 いや、味自体は濃くもキツくもなく、かなり飲みやすい。が、苦い。

 やはりブラックはまだ早いようだ。ミルクと砂糖を入れたマキブレンドはとても私好みの味だった。

 

 *

 

 ふと気づくと時間が経っていた。

 読んでいた小説から目を離し、時計を確認する。十時三十分、なんだか一時間ごとに時計を見ている気がする。

 開店からしばらく経った現時点でも、未だに他の客は一人として来ない。繁盛していないにしては年季も感じるが、はてさて。

 カウンターの彼女はというと、やはり先ほどと変わらず雑誌を読んでいた。

 しかし、読んでいる物は違うようだ。今度の本の表紙には、楽器──いまいちよく見えないが、おそらくギター──が大きく掲載されている。

 どういった本なのだろう。そんなことを気にしながら眺めていると、不意に彼女が顔を上げる。まずい、失礼だっただろうか。

「何かご注文ですかー?」

「ああいえ、ええっと……」

 ああ、動揺が思い切り出てしまっている。どうしたものか。

 言い淀んで目を泳がせると、いつの間にか空になっていたマグカップが視界に映る。

 すかさずカップを手に取り、目の前に勢いよく突き出した。

「お、おかわりをお願いします!」

「え、あ、はい、かしこまりました……?」

 よし、なんとか誤魔化せた。それよりももっと大事なものを失った気がしないでもないが。

 焦る鼓動を抑えつつ、財布を取り出してからもう一つの問題に気づく。

 勢いでおかわりと言ったはいいものの、料金はどちらで払えばいいのだろうか。一杯目はサービスと言ってくれたが、そのままおかわり料金で二杯目を頼ませてくれるとは言っていない。

 財布を持ちながらしばらく硬直していると、彼女は合点がいったように頷き、声をかけてくれた。

「トイレなら左手側の──」

「あのそういうわけではなくて」

 思ってもみなかった小ボケに思わず面喰らいそうになる。というより、小ボケであってほしい。

「あははっ、冗談冗談! 150円でいいよ、未来の常連さんに中途半端なサービスなんてできないからね」

 彼女はそう言って、満面の笑みをこちらに向ける。

 実際、コーヒーも美味しく、おかわりも安く、家からも近い。リップサービスなのは承知の上で、わざわざ通わないという選択肢はないな、と、その笑顔を見て思った。

 

 コーヒーが来るのを待ちながら、また少し思考する。

 彼女とは初対面であるはずなのに、こうも親しみやすさを覚えるのはなぜだろう。今まで感じたことのない感覚だ。

 彼女が嫌でなければ、雑談でも持ちかけてみようか。

 そうだ、読んでいた本について聞いてみよう。ついでと言ってはなんだが、先の失礼も詫びなければ。

 心の中で決心をつけると同時に、コーヒーがテーブルに運ばれてきた。

「お待たせしました〜」

「あの、先ほどは失礼しました。ジロジロと見てしまって」

「いえいえ。気づかなかったのはこっちだからね」

 言いながら、椅子に置いていた雑誌を手に取っている。

「さっきから読まれているその本、なんの本なんですか?」

「ああ、これ?」

 差し出された雑誌を受け取って、パラパラと中を覗いてみる。

「ギターの本だよ、専門誌って言うのかな。楽器は好き?」

 内容として、ギタリスト同士の対談とインタビューが主な特集として組まれていた。その他には機材の使い方や演奏テク、新商品など。

 正直、書いてあるほとんどが馴染みのない内容だ。質問にかぶりを振る。

「いえ、音楽は好きですが、楽器までは。ギター、お弾きになるんですか?」

「うん、父さんの影響でエレキをちょっとだけ。まだまだ全然へたっぴだけどね」

 自嘲しながら頬を掻いている。可愛らしい笑顔だ。

 しかし、父親の趣味か。私にも親から受け継いだ趣味や習慣はあっただろうか。

 深く考えかけて、ふと気になっていたことがあるのを思い出す。

「そういえば、このお店の名前はどこから取られたんでしょうか」

 喫茶maki。密かにこの店名のことがずっと気になっていたのだ。取り立てて不思議な名前でもないし、店主の名前だろうという推測で一応の納得を得ている以上、それはそれでいいのだが。

 しかし、せっかくなら答え合わせをしてみたい。仮に彼女がただのアルバイトだとしても、店名の由来くらいは聞いたことがあるのではないか。

 そんな私の期待を受けた彼女は、エプロンのロゴ部分を前に突き出しながら軽快に口を開く。

「これねぇ、私の名前」

 ほう。

 あまりにもあっけなく疑問が解決され、少し拍子抜けの気分を味わった。もちろん予想していた答えの一つではあったのだが。

「でも細かい説明するとなるとちょっとややこしいんだよねぇ……」

 そう言って少し悩んだ後、情報を整理するように説明し始めた。

「十六年くらい前かな。まだ私が母さんのお腹の中にいたときにね、父さんがこの店を作ったの。で、その時にはもう私の名前を“マキ”にするって決めてたみたいで、じゃあこの店もそのままmakiにしようってなった……みたいな感じだった気がする」

 なるほど。店主の娘の名前をそのまま取る、それ自体はよくあることのように思える。

「まぁ、私の名前をつけた意味はちゃんとあるらしいんだけど。まだ教えてくれないんだよね」

 そこまで言って、ご清聴ありがとうございました、と深く頭を下げる。こちらも礼儀に則り軽い拍手を送った。

 やはり推測だけではわからないものだ。人が関わっている以上、そこには歴史があり、意味があり、ドラマがある。もちろん全てがそうというわけでもないだろうが、少なくともこの店には、彼女たちにはあった。

 それをただの一見の客であるはずの私に教えてくれたのだ。これを人の温かさと言わずしてなんと言うか。

 心の中に温もりが生まれたのを知覚しながら、コーヒーを啜る。

「あ、コーヒーの味は心配しないで! 子供のころから特訓して父さんからお墨付き貰ってるから!」

 なるほど、通りで。

「『喫茶maki』の意味、教えてもらえるといいですね」

 言い終わって、自分の口元が緩んでいるのに気づく。彼女もこちらを見て、また頬を緩ませて頷いた。

 しばらく心地の良い無言が流れてから、彼女が表情をパッと取り直す。

「ね、今度はさ。お客さんのこと教えてよ」

 そういえば、聞いてばかりで自分のことを何も話していなかった。いろいろ教えてもらったのだ、こちらも話さねば無作法というものだろう。

「では、そうですね……私の名前は“ゆかり”と言います。“結月ゆかり”」

「へぇ、ゆかりちゃんかぁ。いい名前だね。あ、ちなみに私は“弦巻マキ”。よろしくね」

 どうも、と会釈し合って、話を続ける。

「私、この間千葉から上京してきたばかりで。とりあえずこの土地を知ろうと散歩していたら、いつの間にかこの店の前に」

「おお〜、なんか運命って感じするね」

 運命、か。それは私がこの店に行き着いたことに対してか、あるいは私たちが出会ったことに対してか。

「上京ってことは、ひとり暮らし? 大学生?」

「いえ、春から高校生です」

「うっそ同い年!? 見えない……」

 まさか口を抑えるほど驚かれるとは。

 しかし、同い年だったのか。そういえば、十六年前にこの店ができた時にはまだ生まれてなかったと言っていたな。

「いやぁでも、高校からひとり暮らしって凄いなぁ。よくご両親から許可もらえたね」

「ええ、本当にたくさんの心配をかけてしまいました。最終的にはこの辺りに住んでいる知人に協力を仰いで、なんとか」

「あはは、ホントに大変だ」

 明るい笑顔を見せたあと、打って変わって神妙な顔で聞いてくる。

「で、そうまでしてなんでわざわざ東京に越してきたの? 千葉からでも通えそうなもんだけど」

 聞かれて、少し口をつぐんでしまう。

 当然の疑問だ。二時間未満の電車通学と、ひとり暮らしにかかる負担や疲労、それに心配。どちらが重いかなど、天秤にかけるまでもない。

 それでも私は、移り住むことを選んだ。

 ではなぜそれを選んだ? そらさんがいたから? 直感が働いたから? どちらも言い訳で、本質ではない。

 今まで目を逸らし続けていた違和感の正体。そんなもの、とうの昔に気づいていたはずだった。

 そう、私は──

「場所を変えれば、環境を変えれば、私も何か変われるのではないかと、そう思ったんです」

 コーヒーに反射する自分を見ながら、ゆっくりと話し始める。

「中学までの私の生活は、多くが灰色でした。クラスの中心にいれるような明るさもなく、かと言って隅で深く語り合えるような友人もいない」

 カップの中の自分はどんな表情をしているだろう。あまりに暗く、よく見えない。

「ただ平坦で、青く彩られた思い出も、忘れてしまいたいような痛みさえも無い。きっと、そんな自分が嫌だったんです」

 そこまで言って、自らをかき消すように一口だけコーヒーを啜る。彼女はまだ、静かに見守ってくれていた。

 マグを置き、自分なりの明るい表情を彼女に向ける。

「それで実際にここへ来てみて、私は変われました。今までの私だったら、こうしてマキさんと仲良くなれたりなどできなかったと思います」

 マキさんと出会えて、こんなにも美味しいコーヒーを飲めて、私はとても嬉しい。どうか、私の表情にそれ以外の感情が乗っていませんように。

 静かに話を聞いてくれていたマキさんが少し俯き、そして口を開く。

「うーん、ちょっと違うんじゃないかな」

 その否定に、束の間底冷えの恐怖を味わう。

 しかし私の恐怖と裏腹に、彼女の表情は明るかった。

「ゆかりんはさ、『変われた』んじゃなくて、『変わった』んだよ。自分からね」

 意味の違いも上手く理解できないまま、マキさんは話を進めていく。

「だってさ、住む場所一つ変えただけでこんなだーれもいない店に入ろうだとか、こんな口の多い店員と仲良くなろうだとか、思えるようにならないよ」

 大げさな言い方で自嘲してから、諭すような、柔和な表情になって。

「きっかけは環境だったかもしれない。でも、それでゆかりんが変えられたわけじゃない。ゆかりんは自分で変わったんだよ。だから、私たちは友達になれたんだ」

 そして、その柔らかい笑顔のまま。

「なんて、馴れ馴れしいかな?」

 そう優しく聞いてくる。

 ああ、本当にこの人は優しい。

「いえ、むしろ……ありがとう、ございます」

 私は今、心の底から嬉しい。心にも、表情にも、どこにも暗い感情はなく、ただ嬉しかった。

 私はきっと、肯定されたかったのだ。私の選択は間違っていなかったのだと。ちゃんと自分を変えられるようになっているのだと。

 そして、私は人の友達になってもいいのだ、と。

 優しく、柔らかな温かさが私の中に広がっていくのを感じる。その心地よさに、ただしばらく浸っていた。

 

 *

 

 喫茶makiを訪れた日からしばらく経って月も変わり、いつの間にか入学式当日になっていた。

 あれ以来、私はあの店に行けていない。というのも、新居に親を呼んだり日用雑貨を買い揃えたりしていて、立ち寄る暇もなかったのだ。

 全く着なれない制服を身にまとい、玄関ドアに手をかける。

 大丈夫、私は変わった。彼女のお墨付きなのだ、私もそれを信じてみようと思う。

 扉を押し開けて、ふと誰もいない部屋を振り返る。

 ああ、そうか。これを言っておかなければ。

「行ってきます」

 新たなる日々の始まりに、足を踏み出した。

 

 四月に入ってからというもの、外はすっかり春の陽気だった。生暖かい風とともに運ばれてくる甘い香りが、本格的な春の訪れを実感させる。

 結局あの後すぐに別の客が来て、私たちの雑談は終わった。

 マキさんによると、やはりあの時間まで客がいないのは珍しいことだそうだ。昼にはランチを食べにくる客で賑わって、それなりに忙しくなるという。

 私はその時点で結構長い間居座っていたし、忙しなく動く店内の一番目立つ席を占有し続けるのは気が引けるので、本格的に客が入ってくる前に帰ることにしたのだ。

 その去り際に一つだけ、質問をした。なぜ初対面であるはずの私に冗談を言ったのか、と。

 それを聞いた彼女は、意地悪に微笑んで言う。

「仲良くなれそうな気がしたから、かな」

 直感というものは、かくも不思議なものだ。

 学校に着くと、昇降口付近に集まる大勢の人たちが見える。どうやら、クラスの貼り出しと教室への案内はすでに始まっているようだ。

 少し急いで貼り紙の前に行き、自分の名前を探す。下から数えた方が早い名字なおかげで、前の人たちがはけるまで見つけられなかった。

 なんとか名前を確認し、今度はクラスの方へ。1年A組、なるほど、わかりやすくて良い。

 上級生の案内に従って移動しながら、次から迷わないように必死で道を覚える。なぜ初めての学校はこんなにも迷路のように感じるのだろう。

 内心合っているのかと不安になりつつも、なんとか教室まで辿り着いた。私の席はいわゆる主人公席というやつだった。

 席に座って窓の外を眺めながら、教師が来るまでの時間を潰す。

 入学式は一時間程度で終わるそうだから、前後の説明を含めても昼頃には帰れるだろう。

 しかし今日は特に予定も無いし、残りの半日をどう過ごそうか。最近は忙しくて小説も書けていなかったから、久しぶりに集中して書くのも良い。

 ああそうだ、喫茶makiに顔を出すのも悪くない。昼ご飯に何を食べるか迷っていたので、この前食べそびれたマキカレーでも食べに──

 トントン、と自分の机が叩かれる音が聴こえる。少し驚いて音の方向へ振り向くと、一人の女生徒が軽く手を振りながら挨拶してきた。

「やほ」

 なんだかどこかで見覚えがある。癖の少ない金色の長髪、パッチリとした碧色の瞳、豊満な──

「マ、マキさん!?」

 思わず席を立って大きな声を出してしまう。はっ、と我に返って周りを確認するが、幸い近くの数人から注目を集めただけで済んだようだ。

 そんな私を尻目に、マキさんは話を始める。

「いやぁこんな偶然あるんだね! 高校行くのにこの辺りに引っ越してきたって聞いてからもしかしたら相声なんじゃないかーと思ってたんだけど、やっぱりそうだった! 昇降口の貼り紙見てたらさぁ“結月ゆかり”って名前を見つけて、しかもよく見たらおんなじクラス! ホントにゆかりんなのかと思いながら教室来てみたら見覚えある紫色の髪が見えてもうテンション上がっちゃったよ! これも何かの縁ってやつなのかなぁ?」

 偶然、縁……。

 再開の驚きと興奮するマキさんのまくし立てに茫然と立ち尽くしていると、彼女もそれに気づいたのか、こほんと一つ咳払いをする。

 少し落ち着いてから、今度は大きな笑顔を輝かせながら口を開く。

「改めて、よろしくね! ゆかりん!」

 窓から吹き込んできた春風が、金色の髪をふわりとなびかせた。



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