夜明け前に目が覚めた。
セルイはしばらくベッドの中でもぞもぞと姿勢を変えた。冬の早朝ほど
だがまもなく踏ん切りをつけて寝床から起き上がった。アグニアの朝は寒い。白い息を吐きながらセルイは服を着込んでいく。*1
上衣の下には防具も兼ねて革製の胸当てを締める。以前より少し苦しく感じたが、セルイは力任せに締め直して上衣をかぶった。
こんな部分いらない、と思っているのにいつの間にやら育っている。
セルイの外見は比較的
階下に降りると宿屋《安眠亭》*4の
「何か?」
「いえね、昨日はたんまり飲んでらっしゃったもんだからお昼までぐっすりだろうと思ってたんですよ。お強いんですねぇ」
「えぇ、まぁ」
昨夜はフィバルがえらく上機嫌だったので長い夜になった。宿屋に併設の酒場で居合わせた客らに二十杯はふるまい酒を配ったのだから相当だ。
ヨミ・デボンから渡された金はまだ十分あるとはいえ、気を引き締めなければ今度は稼ぐ側としてダンジョンに潜る羽目になりかねない。
「できれば先に朝食を頂きたいのですが」
「もちろん。すぐにご用意を」
宿屋の酒場は朝と昼は食堂になるらしい。
昨夜酒を注いでいたのは宿の親父だったが、食堂は女将が切り盛りしているようだ。朝のメニューは一種類しかないらしく、座ると黙って料理が運ばれてきた。
味付けしたひき肉が中身の卵の包み焼き、見たことのない果物が丸々一個、手羽先と香草を煮たスープ、そしてパンにはバター。
飲み物には熱い湯で割った
「この香りは?」
「ビルダニアで採れる
細かく刻んだ
セルイは女将の目を盗んで蜂蜜酒に息を吹きかけて冷ましながら少しずつ口にした。酒にも毒にも無類に強いが熱い飲み物だけは苦手だった。香草のおかげで蜂蜜酒特有の甘ったるさが消え、舌にピリリと辛味だけが残り爽やかである。目が覚めるような味だった。
続いて食事にも手を伸ばしたが、どれも妙な風味が必ず混じる。同時に美味い。おそらくそれが最適解だろうと予測して卵をパンに挟んで口に運んだが……案の定抜群に合う。蜂蜜酒で流し込めば完全に仕上がった。
昨夜の酒席でも思ったが、アグニアの食事は滋味に富みながら同時に刺激的だ。様々な地域から人が集まるからか、調理の
完食し、二杯目の蜂蜜酒を冷まし始めたところでフィバルも下りてきた。胸元まで開いたあられもない姿で頭をかいている。見るからに二日酔いの体たらくだ。
「風邪ひきますよ」
「ああ……」
わかってはいてもどうにもならないらしい。
従者だが使用人ではないので
「あらやだ、旦那様そんな格好で」
女将は恥ずかしそうに手で顔を隠しながらもしっかり目は向けていた。アグニアでは到底拝めない美しき痴態であろう。
「悪いな女将……飯は食えそうもない。水だけくれるか?」
「それは構いませんが、湯で割った蜂蜜酒もいかがです?」
「セルイ?」
「美味しいですよ。二日酔いにも効くらしいです」
「なら、くれ」
「良ければ風呂屋も呼びましょうか」
「風呂があるのか?」
「
フィバルの目に生気がよぎった。香辛料より好奇心が先に二日酔いに効いたようだ。
「是非頼む」
あんた! と大声を上げて女将は主人を使いに走らせた。
フィバルほどではないがさすがにセルイも興味がある。風呂屋を呼ぶというからには設備を持ち込んでくるのだろうか? 相当な代物になりそうではあるが。
はたして十分と待たずに風呂屋はやってきた。
大型長毛種が
少年は手綱を放すと荷台に飛び乗り、商売人らしい笑顔を浮かべた。
「へへーい、まいど! 冒険者兼、魔道具屋兼、今は風呂屋のキャナン・レッカ参上! ラクスカブルスカ!」*5
キャナンと名乗った少年は荷台から飛び降りると女将から料金を受け取り支度に取り掛かり始めた。積んでいた大きな風呂釜を宿屋の中庭に据え付け、さっそく魔石を並べ始める。
アグニアでは街中に石造りの水道が走っており、川の水を巡らせている。キャナンは宿屋の真下に通っているそれを風呂の湯として利用するようだ。
「これはどういう仕組みだ?」
「魔石で湯を沸かすんですよ、旦那」
「それは見ればわかる。聞いているのは水の汚れをどうするか、だ。水の魔石を使うんだろうが、沈めて清めるだけでは日が暮れるぞ。どうする?」*6
ああ、とキャナンは笑った。
「決め手はこいつ」
キャナンが懐から取り出したのは格子模様に穴の空いた丸い板だった。
確かに精巧な細工ではあるが……とよく見たところでフィバルはうなった
「これは……水の魔石を格子にしているのか? なるほど、水の通り道にこれを置けば素早く水を浄化できるというわけか」
少年は口笛を吹く。
「御名答! 旦那、いい目利きをしてらっしゃるね? そう、水の魔石の効力ってのは大概が接している面の大きさによるんでさ。じゃあ穴を開けて当たる面を増やせば効率が上がるってわけ。あとはこれを火の魔石で沸かせば仕上がり」
「見事だ。加工も君がやったのか?」
へへん、とキャナンは胸をそらせる。
「手先は器用な方でして。さてではお客様、そろそろ湯浴みのご用意をば」
石の水道管を通り、綺麗に濾過された水がみるみるうちに風呂釜へ溜まり始めていた。
湯上がりのフィバルが食堂に戻ってきた。
女将がまぁ、と歓声を上げる。
「ご立派になられて!」
褐色の肌に艶も戻り、鋭く大きい瞳が輝いている。
「だいぶ良いようだ。朝食はまだ出せるか?」
もちろんと答えて厨房に引っ込もうとする女将に、二人分頼むとフィバルは付け加えた。
食卓に朝食が並び始めると、片付けを完了させたキャナンにフィバルは声をかけた。
「少年、朝飯はまだだろう? いい湯を馳走してくれた礼だ。時間があるなら食っていけ」
「いいんですかい? やったぜ!」
キャナンは相当空腹だったようで少年らしい頬張り方で勢いよく平らげていく。
「さっきの水を綺麗にした魔石の網、あれはお前が作ったのか?」
「これですか?」
キャナンが差し出した板をフィバルは手に取りまじまじと見る。
「よく出来ている。魔石の加工は難しいと聞くが」
「ま、手先は器用な方なので」
ラクスカブルスカ、と唱えて右手に握っていた果物を消す。あっ、と言った時には左手に握られていた。いたずら小僧らしい笑みを浮かべて、キャナンは皮ごと果物を勢いよくかじった。
「面白い。率直に言うが、売って欲しい。いくらなら買える?」
ええ、といかにも嫌そうにキャナンは顔をしかめた。
——さて……と、果物をかじりながらキャナンは考える。商売道具を手放せば次に手に入れるまでの間は収入が途絶える。もちろん他にも稼ぎの口はあるが……
キャナンは断るつもりで親指を立てた。法外な値段と言えるだろう。宿の女将は出入りの業者が上客に吹っかけたもんだから、怒鳴り散らそうと腕まくりする。
しかしそれをフィバルの声が遮った。
「
「いや、旦那!? マジ?」
「
今度はフィバルが唱える番だった——ラクスカブルスカ。
袖から無造作にこぼれ落ちてきた金貨は、狙いすましたように少年の手のひらに収まった。キャナンは目を剥いた。お目にかかったことはある。だがこいつを自分が手にする日がくるなんて!
少年は手元の輝きと、目の前の男の顔を交互に何度も見比べた。まばゆいばかりの金貨より、この男の笑顔の方がまぶしく見えるのが不思議で仕方がなかった。
フィバルは言い聞かせるように言う。
「キャナン、手先の器用さもそうだが発想が気に入った。どうだ、俺についてこんか」
「えっ?」
「作りたいものがもっとあるのではないか? だが金や他の事情で十分とはいえない。そうだろう? 俺と来ればその全てを解決してやる」
たらしめ、と隣で聞いていたセルイ・シャーランは無表情のまま毒づいた。自分の美貌に無頓着でありながら押しの強い男という生き物ほどたちの悪いものもそうはない。さらに金払いもよく、人の気持ちを汲む能力まであるとなれば手がつけられない。ダヤバディードの街でどれほどの女がこれで人生を誤りかけただろうか。
「あの、旦那……」
「もちろんすぐにとは言わん。いつでもいい話だ。だからまずは俺を上客として扱ってくれ。決して損はさせん。あらためて言っておこう。俺の名はフィバル・レバン。良い出会いであると信じてほしい」
「へ、へい!」
「もう一つ言っておく。その金貨には手付けの意味も含まれている。次も
なぜかフィバルはキャナンの帽子の上に手を置いた。それは、偶然人も彼の父親そっくりの手付きだった。戦傷で一昨年死んだ父も、事あるごとにこうしてよく頭を撫でてくれた……
——やられた、と思いながらキャナンは一歩後ずさった。そして帽子を取って敬意を示す。商売人が人に惚れちゃおしまいだ、というのもまた父の教えた言葉だったから。しかしこんなに清々しいというのは教えちゃくれなかった!
去りゆくキャナンを見送ると、フィバルは書き物を始めた。
手帳に軽やかにペンを走らせながら、時おり足を組み替えては思慮に耽る。
ぞんざいなくせに華麗な所作だった。宿屋の女将もうっとりと見惚れている。
セルイが見たところ、二日酔いはすっかり失せて本調子である。
「面白い街だ」
話しかけるのは相槌が欲しいということだろう。
「気に入られましたか」
「創意工夫に満ちている。いまだ旧態依然としたダヤバディードとは大違いだ」
「国に持ち帰るおつもりですね」
「これからの我が国の行く末に色々と役に立ちそうじゃないか、なあ?」
まるで国を左右する力を持っているかのような物言いだった。
さもありなん。
彼は名をフィバル・レバンと名乗ったがそれは一部でしかない。
——正しくはフィバル・ゴルンバシュア・ボーバン=ラオ・レバン・ダヤバディード。*7
ラザン帝国第七代
その美貌と力を評し、ラザンの人々は彼を《メジャの
正真正銘の帝王の血。
そして野心と異才を秘めた砂漠の獣。
昨年の内戦では自ら新設した魔杖騎兵を先頭で駆り、反乱を企てたメライダス王の軍を粉砕、鎮圧した。すでに高齢にあらせられる今上帝の後代を継ぐであろうズファーファン紅緑王即位の際は、その右腕に不足なしとして余人の評価はとどまるところを知らない。
しかし若き獣はいまだ奔放で、恐ろしいまでの好奇心と行動力ですぐに城を飛び出てしまう。
彼はいま、自らが知るべき事実を知るため、国境を越えてアグニアにやってきた。セルイはそのお目付け役を仰せつかった、彼がもっとも信任する幕僚の一人であった。
手帳を閉じるとフィバルは立ち上がり、
「出るぞ」
「どちらへ?」
答えもせずにさっさと外に出てしまった。表情は始終穏やかなのでかなり上機嫌なようだ。セルイもまた一歩も遅れずにその後ろにピタリとついた。
広場の塔に掲げられている大時計*10を見るが、約束の時間にはまだ少し早い。
「昨日はろくに見て回りもせずに帰ってしまったからな。せっかくだ、冒険者という仕事をもう少し知っておきたい」
本当に冒険者として登録しかねないな、とセルイは聞こえないようにため息を吐いた。
——昨日も思ったが組合は活気に満ちていた。ここに来れば仕事がある、というのがまず大きい。活気とはつまり収入のあてがあるかどうかで決まるのだから。
所狭しと貼られている応募紙をかたっぱしから見て回る。
日時と期限、業務内容、報酬、条件、必要となる
それぞれ番号が振られており、その数字を応募用の別紙に記入するという仕組みらしい。剥がしてもいいようにどの案件も複数枚が束になって貼られていた。
ダンジョン攻略だけが仕事でもないようだ。輸送の護衛から害獣の退治、なんと土木工事の請け負いまである。土木建築の職業組合は別にあるというのにわざわざここに貼られているということは、危険で特殊な業務ということなのだろう。
二人でまじまじと応募の束をながめて回った。興味が先走って長居をしてしまったのだろう、やがて背後から声がかけられた。
「どいてもらえる?」
——振り返ると少女がいた。
背はセルイよりも低い。
子供に見えるほどだが立ち振る舞いに隙はない。書類に目を通しながらも周囲を警戒していたセルイが気づかないほどの気配のなさ。
常人の見方では見目麗しいと言えるだろう。黒髪をざっくりとまとめ、武装は腰の短剣だけ。
フィバルとセルイが場所を譲ると、ざっと目を通して二、三枚の依頼書を剥がしていった。どれも高報酬、高難易度だ。いずれもダンジョン内部への侵入を前提にした
即座にきびすを返して去ろうとする少女。だがここでフィバルが動いた。
「待たれよ」
少女は立ち止まり、振り向きもせずに答えた。
「なに?」
「その
「用紙ならまだあるでしょ」
壁を指差す。絡むんじゃない、と背中が語っていた。
だがそんな空気をフィバルが読むわけないことをセルイはうんざりするほど知っていた。
「うむ。だが君の実力が気になった。荷が重いのではないか? それとも
少女はあらためて向き直った。やはり隙がない。怯えは
「私は基本的に
「ほう。では名のある冒険者と見たが」
「おのぼりさんに名乗る必要はない、かな」
「これは手厳しい」
セルイ・シャーランは戦慄した。
フィバルが牙を剥き、獣のように笑っていた。
いつも何かを真剣に欲した時、彼はこの表情を見せる。先程の水の魔石の加工品の時でさえ見せなかった顔だ。
フィバルの思惑を測りかねていたセルイもようやく得心がいった。
——
つまりこの小柄な少女が
セルイが主人の眼力を疑うことはもはやない。
そうでなくては、ダヤバディードに揃った面々の説明がつかない。中には
「俺たちと組まないか?」
声をかけられた少女は胡散臭そうにフィバルの全身を見回して顔をしかめた。
「アホなの? 初対面で隊を組むやつなんているわけない」
少女はにべもない。フィバルは怒りもせず、引きもせずに声を張る。
「
「……無理。先約がある」
去ろうとする少女を、笑いながらフィバルは追う。是が非でも引かないつもりらしい。
「奇遇だな。私も先約があるのだがそれを押してでも君と話したいと思っている」
言葉が通じないと判断したのか、少女は半身になり腰に手を伸ばした。ここでセルイも前に出た。ビンタくらいなら是非見たいが、もし武器に手をかけるのであればフィバルの護衛として仕事にとりかかることになる。
少女は初めてセルイを見た。
「……あんた、そいつの護衛?」
「だったら何か?」
「苦労してそうな顔」
「今まさに、ですけど」
フィバルも止めない。試してみろというところか。いざとなれば
何か面白げなことが始まったらしいと物見高い冒険者たちが集まり始めたのだ。
物騒で下品なひやかしが応酬し、笑いが起こる。決闘を煽る声まで聞こえた。周囲からすればフィバルとセルイがまるで因縁をつけているようにしか見えだろうし、事実そうなのだからどうしようもない。
やがて聞き覚えのある第三者の声が飛んできた。
「おいおいどうした、なんの騒ぎだ? 喧嘩ならよそでやれや!」
ギルド長であるヴァータル。粗野な人間が多い冒険者組合で揉め事は尽きないのだろう、手慣れた様子で人だかりをかき分けてやって来た。
少女とフィバルとヴァータルが同時に叫ぶ。
「助かった! なんかヤバいやつに絡まれて……今から例の打ち合わせでしょ? こいつ追い払って!」
「ヴァータル殿! 俺はこの人を気に入った。すでに対応頂いたところ申し訳ないが、同行者はこの方に変更して頂きたい」
「なんだあ? あんたら先に会ってたってたのか。よくやったクロエ、手間が省けて助かるぜ!」
三者三様の表情で首を傾げる。
だがやがてフィバルは満面の笑みを浮かべ、少女は顔を青ざめさせ、ヴァータルは満足げに頷いた。
ヴァータルが斡旋した冒険者とは、この少女だったのだ。
フィバルは高笑いを上げ、奇縁と運命に向けて派手な感謝をあらわし先陣を切って歩き出した。クロエと呼ばれた少女はヴァータルに引きずられるように歩く。
さすがにセルイも同情した。
——この出会いが全ての始まりであることを、今はまだ誰も知らない。
設定はいずれどこかでまとめるつもりです。