艦これの夏イベ対策にどっぷりハマり、夏イベの過酷さから逃げて溜め込んだ資材を大型建造で全部無駄にして目を覚ました大馬鹿物は自分です。
こんな阿呆の書くSSですが、良ければどうぞご覧になって下さい……
アリシア・ミッドノットがライヒハート邸を訪れてから一週間ほどが過ぎた。
色々と複雑な出来事であったが、終わってみれば何の事もない。変わり映えの無い日常の繰り返しが戻って来るだけだ。
向上心の伴わない鍛練は苦痛であっても、止める恐怖に代えられる物ではなく。例によって現れた狼面衆は何時もの様に追い返し、斬っても手応えの無い外敵が消えれば遣る瀬無さしか残らない。
だが、これで良いのだ。生きるとは、こういう事だ。
生活の糧を得るための奉公というのは誰もが遣り甲斐を感じられる物ではない。けれど食べる為、暮らす為に、人は繰り返しの日常への倦怠感を飲み込み、社会への貢献を行う。
人には分相応という物が在り、身の丈に合った仕事しか出来ない様になっている。それに満足して従事出来るかはその人次第であって、結局ユリウスの身の丈に合った仕事というのは、たまたま他に適任がいなかったこの害虫駆除ということだ。
それを不幸とは思わない。ただ、こんな筈ではなかったと、それだけを思っていた。
自分が本来居たのは戦いとは無縁な、退屈であっても暖かなあの世界だ。本来は縁もゆかりも無いこの世界の為に命を懸ける理由が無かったのだと、少し前にやっと気付いたのだ。
最初の頃は理由が在ると信じていた。例え無くとも、自分が特別になることで理由が出来ると疑っていなかった。
馬鹿な勘違いだ。正真正銘の異邦人である自分が、一時の欲に流されて事の本質すらも理解せずに浮かれていたに過ぎないのに。
この世界に居場所はない。あの遠い過去の世界に帰りたい、ユリウスの望みはそれだけだった。
長らく一人暮らしが続いているユリウスは、その日も昼を適当な外食で済ませて来た。
家主一人が使うには無駄に広い屋敷は、仮にも貴族の宅邸と思えば随分小さく優雅さの欠片もない貧しい外観だが、別にユリウスが金に困った事は一度も無い。
そもそも貴族の暮らしに金が掛かるのは使用人を抱える事や体裁を保つ上で必要な調度品の収集が理由であったり、社交界へ臨むための衣服や装飾品を揃える事で発生する出費が莫大な物になるからだ。
その点、保たねばならない体裁など持ち合わせず、社交界など向こうの方からお断りされるレベルのライヒハート家は金策に頭を悩ませずにいられる気楽な立場であったと言える。もっとも、それが良いか悪いかは全く別の話となるのだが。
ともあれ、お陰でユリウスは設備だけは一通り揃ったキッチンを無意味に汚す事もなく。長らく人の手の入っていない開かずの間の封印を今日も解く事無く食事にありつけているのであった。
「こんにちは、お元気でしたか?」
そうやって自宅へと徒歩での帰宅をすれば、門には何時か見た在り得ない人物が佇んでいた。
長い白金の髪、穏やかな笑みを浮かべる愛らしい顔立、触れたら壊れてしまいそうな華奢な体躯は男の庇護欲を無意識に誘う。
この深窓の令嬢という言葉を体現したかの様な容姿の人物が脇に立つだけで、荒れ果てた敷地内が豪奢な庭園の如く輝いて見えるのだから美人というのは恐ろしい。
……などと、驚きで思考が明後日の方に向かったユリウスは我に返って目の前の人物へ怪訝な視線を送った。
「当家に何か御用かな、アリシア嬢。叔父上への手紙に対する催促であれば、先日送ったため入れ違いになってしまったが」
「くすくす、意地悪な方……叔父様の御用でなければ、お会いにしに来てはいけませんか?」
「少なくとも、君のご家族はそう仰ると思うがね」
ついこの前あれだけ横柄な応接をされたというのに、再び現れたアリシアが向けてくる表情に含んだ物は何一つ感じられなかった。
人の悪意とはほとほと無縁に見えるこの女性が、ユリウス渾身の近寄るなオーラを爽やかに受け流しているのだから女という生き物は分からない。
或いは、目の前の人物ほど世の女性が不可解という訳でもない可能性も十分に有るのだが。
「以前お邪魔した際に、忘れ物をしてしまったのに気が付いたのです。申し訳ありませんが、少しお時間を頂けないでしょうか」
「手荷物の類を置いていった様には見えなかったが……」
「小瓶です、小さな首から下げるチェーンの付いた。ユリウス様がお持ちになっていると思うのですが」
可愛らしく上目遣いでこちらを伺うアリシアに、名女優の貫禄とでも言うべきものを感じずにはいられない。
この妙な女は、何故こうも白々しくも演劇染みた物言いを違和感も感じさせずにやってのけるのだろうかと。
貴族が芝居好きとは聞いた事もあるが……多分それはイギリスか何処かの話だ。いや、箱入り故の浮世離れがユリウスにそう思わせているだけなのかもしれなかったが。
「……大切な物なんです。厚かましいお願いだとは分かっていますが―――」
「分かった、分かった。直ぐに用意しよう、客間でお待ち頂けるか」
ユリウスの渋る気配に、アリシアの本心からの懇願が少しだけ見え隠れした。
となれば、結局はユリウスが折れるしかない。男の立場とは弱い物だ、こういう情緒が絡んだ場合では。
二度と来るなと言っただろう……なんて言葉は飲み込んだ。それを言ってしまえば、自分は今度こそ言い訳のしようもない極悪人だ。
早速気疲れを感じて溜息を付けば、それを見るアリシアが嬉しそうにはにかんでいて、微妙な気分になる。
美人は得だ、本当に。少なくとも、彼女の笑顔が見れた分だけ損をしてないと思ってしまうのに、酷く敗北感を覚えた。
例の小瓶はすぐに見つかった。
あの夜着込んでいた外套のポケットに仕舞っていた物だが、当の外套は足が付かない様にと処分してしまった後だ。
夜間の人目に付きたくない時にと買った物だが、日中で着れば一目で分かる不審者が出来上がる黒尽くめのデザインはどう見てもやらかしていたので、良い機会だと迷いなく捨てていたのは余談である。
銀細工で花の装飾があしらわれた小瓶を、ユリウスは客間の椅子に座るアリシアへと手渡した。
「中の毒はこちらで破棄させて貰った。勝手ですまないが、ご了承願いたい」
「いえ、ありがとうございます。元々、中身は入っていない物でしたから」
受け取った小瓶を愛おしそうに眺めながら、アリシアはそれを首に掛けた。
危険物を放置する事に躊躇いを覚えて持ち帰ったが故に、こうして面倒が後を引いているなと、ユリウスはやや恨めしげにアリシアを見た。
それに何を感じたかは分からないが、アリシアは花の様な笑みでユリウスを見つめ返した。
「母の形見なんです。他の物はみんな大切に仕舞ってあるのですが、これだけは肌身離さずに持ち歩いているんですよ」
「母君は、既にお亡くなりに?」
「ええ……私が幼い頃、流行りの病で。叔父様がよくして下さらなければ、私も今はもっと大変な暮らしをしていたと思います」
そうか……と小さく相槌をうって目を逸らす。
ユリウスを見た時のカルヴァーンの激昂具合からも分かったが、彼女は余程身内から大切にされているのだろう。
この美しい容姿に朗らかな性格を思えば、そうしたくなる理由も理解できる話だ。
「そんなに大事な物であれば、前回の訪問で言ってくれるべきであったな。遠慮をさせたのなら申し訳ないとは思うが」
「ユリウス様ともう一度お会いしたかったから、わざと置いていった……なんて言ったら、怒られますか?」
「……当たり前だ。私はまだ、君の叔父上に殺されたくはないのだからね」
まるで逢瀬を期待しているた様な物言いは、別にユリウスの自意識過剰とうい訳でもないだろう。
アリシアのサファイアの瞳が悪戯っぽく輝く様子に、彼女がカルヴァーンの姪でさえなければ浮ついた感情を抱くこともあったのだろうかと考えた。
あの厳つい強面の叔父上殿が、彼女をさぞ溺愛しているのだろうと容易に想像出来るあたり、そういった不埒な感情を持つこと自体が自殺行為にしか思えないのだが。
さぞ出会ってきた男達を泣かせているのだろうなと予測したユリウスの考えも、あながち外れてはいないだろう。
「君もライヒハートの姓が意味する所は聞き及んでいるだろう。またこんな所に来ていると分かれば、叔父上もお怒りになる」
「そんな事はありませんよ。叔父様は、逆にユリウス様の事を褒めていらしたくらいなんですから」
当たり前の様に言うアリシアの言葉に、ユリウスは嘘くさいにも程があると溜息を吐いた 。
朽ちた懐刀、ライヒハート。それが忌名であるのは、ユリウスが一介の武芸者として活躍している今でも変わらない。
既に時代は求めていないのだ、王家の暗殺者を。現女王の絶対的な実力は天剣授受者をも完全に押さえ込む程の物であり、名誉職の親衛隊は言うに及ばず、代々国王の身辺警護を宰ってきたリヴィン家すらも今では形式ばかりの仕事に従事している。
元より天剣授受者を抑えるのは、同じく天剣授受者だ。それが何時の時代であっても変わらないのは、歴史が証明している。ライヒハートは言うに及ばず、ただの武芸者が天剣授受者への抑止力になるなどと、そんな夢物語を信じている者はこの都市に誰一人として存在していない。
用も無ければ意味もない。ライヒハートに残っているのは遠い過去から積み重ねてきた、拭いきれない不名誉だけだ。
「世辞はいい、蔑まれるのは当然だ。末席とはいえ用も為さずに特権階級の恩恵を受けているのだからな。我が家に仕事があるとすれば、それは罵声を受けるくらいの物だろう」
「ご謙遜が過ぎますわ。ユリウス様は戦場で素晴らしい武功を挙げられている方だとお聞きしています。叔父様も自分の技を受けて無事でいられる武芸者を見たのは久しぶりだと感心していました」
……無事もクソも、全力で被害を抑えたにも関わらず最近まで療養中だった身だ。
天剣授受者から、並の武芸者であれば一撃で無力化される剄技を放たれていた事に心底ゾッとする。カルヴァーンもあの時は一応は生かして拘束する気でいたのかと思っていたが、何の事はない。守るべき対象がすぐ近くにいたから出力を絞っただけであって、そうでなければ一室を塵に変える程度の事はやっていたのだろう。
思っていた以上に命の危険に晒されていた事が分かり、ユリウスはじっとりと背中に嫌な汗が張り付くのを否応なく自覚した。
「本当に珍しいんですよ? 叔父様が武芸者の方を褒めるのは。以前に戦場で見掛けた事もあったそうで、在野に腐らせておくには惜しい人材だと。自分の門下から彼ほどの使い手を輩出できていないのは実に遺憾である、と」
「それは……身に余る光栄だ。恐れ多くて、身が竦んでしまいそうなくらいに」
アリシアの言葉に沸き上る嬉しさを隠し切れなかった。天剣授受者という枠組みの中に置いて、カルヴァーンは奇特な人物なのだ。
あの特殊な集団に見られる共通点は幾つかあるが、特に顕著なのは武芸者という存在にある種の見切りを付けている事だ。彼らは自分たちの能力が多勢から隔絶し、それが努力や経験で埋まる差でないのを本能的に理解している。
数ある武門の当主たちは、天剣授受者こそが武芸を極めた先に在る到達点だと称し、何時かそこに至る事こそが至上だと門下を激励するが、それは的外れと言える。天剣授受者とは生まれた時から天剣授受者であり、ただの武芸者であった事は一度もない。嘗ては一流派の門弟だったという事実が誤認を生み、それが建前として今の時代にも残っているに過ぎないのだ。
だから天剣授受者は後進の育成に興味が無い。
自分と同等の存在は生まれて来る物であって、育てる物でないのを知っているからだ。
そんな中にあって不特定多数の武芸者に門を開き、弟子の育成に情熱を向けるカルヴァーンの在り方は、武芸者としては絵に描いた様な模範であり、同時に天剣授受者としては突然変異の変わり者だと言える。
しかし、だからこそカルヴァーンの賞賛には皮肉が込められていないとも取れる。彼は一般的な武芸者の持つ評価基準を無意味と切り捨てず、適正な評価を下す上で必要な物として残してあるのだ。
……とまあ、ここまで言うとカルヴァーンが聖人君子みたいに聞こえるが、別にそんなことは断じてない。ご同僚よりはマシというだけであって、実際は他の天剣が意に介さない慣習やしがらみを気にする上に、実力は天上人という最高に厄介な頑固者が出来上がるだけだったりする。
いや、ユリウスも実力だけはそこそこ周囲に認められているのだ。となれば似た様な認識でいるであろうカルヴァーンの賞賛も、別にアリシアのリップサービスという訳でもない筈だ。
狂人云々の悪評にどんな感想を持っているかは、流石に恐ろしくて聞けないが。
「……無駄な身の上話が過ぎたな。生憎、客人を招く機会が無いので茶菓の類は置いていなくてね。余り気を悪くしないで欲しい」
「紅茶は、あまり飲まれないのですか?」
言外に「さっさと帰れ」と言ったつもりであったが、それに気付いてか気付かずか、アリシアは話題の矛先をユリウスへと定め直すのであった。
嗜好品としての茶など、ユリウスはもう何年も飲んでいない。調理場に行けば父の買い置きが幾つか残っている可能性も有るが、全てミイラの様に干上がっているのは想像に難くない。
いっそのこと、それを出してやるもの手かと考える。が、それによって彼女の花の様な笑みが凍り付くのを想像するのも怖いし、何より彼女の叔父上に無礼打ちにされるのは絶対に避けねばならない懸案であった。
「いけませんわ。日々の生活に潤いを持たせなければ、人の心は荒んでしまいます。お食事は、何時もお一人で?」
「必要分は問題なく摂取している。それに、カフェイン類は余り好ましくないな」
「ご自分に厳しいのですね、ユリウス様は。武芸へ真摯に身を捧げる……とても、素敵だと思います」
今日は褒められ過ぎて気味が悪い日だと、ユリウスは呆然とした気分になる。
というか、これではどちらが客で持て成す側なのか本気で分からなくなる。一々男を勘違いさせようとしているとしか思えないアリシアの発言に頭を抱えたくなる衝動をグッと堪えて、ユリウスは努めて気丈であろうとした。
前世から続く"彼女いない歴"が既に笑えない域に届いている彼は、女性の思わせぶりな態度への耐性を獲得する事に成功しているのだ。これでもう、勘違いから始まる黒歴史の増産など起こらない……と、コミュ障の悲しい自己弁護で胸中の平穏を保つ。
……この目の前の人物は危険だ。決して懐にはいれまいと思っていても、気付けば心を許してしまいそうな危うさを秘めている。
彼女が悪い人間に見えるほど、まだ目は腐っていない。けれど、カルヴァーンの姪であるという彼女の立場、ライヒハートの当主である自分の境遇を思えば、親密になる事で予想できるリスクを許容するなど出来ようもない。
「そろそろ、お暇させて頂きます。長居をしてしまって申し訳ありません」
「今度こそ忘れ物など無い様にな。次が有れば、こちらとしても居留守を使うのも考えなければならん」
「ふふ……本当に、ユリウス様は私に意地悪ばかり仰るんですから」
こちらの警戒心を察して帰り支度を始めた、というのも気のせいでは無いのだろう。
これではまるで、狐に喰われると怯える兎の様だ―――当然、狐が彼女で兎が自分だ。
何を考えているのやらとアリシアの顔を見た所で、彼女の浮かべる微笑みが全てお見通しだと言わんばかりの余裕の表情に見えて来るのだから始末が悪い。
「それでは、また。今度は今日のお礼もお持ち致しますね」
「……礼など不要だ。そもそも、こちらがゲオルディウス卿の御厚意に預かった身なのだからな」
「叔父様とユリウス様の間ではそうでしょうけど、私とユリウス様とでは違いますわ」
どんな押し付けがましい理由だ。そんな突っ込みを入れるより先に、彼女は席を立っていた。
まあ、帰ってくれるのでれば文句は無い。そう思って言いたい事を飲み下し、彼女を見送ることにした。
最後まで笑顔のままでいながらも、何処か名残惜しげに去っていくアリシアを見るユリウス。これが最後になって欲しいと思いつつも、また彼女が家の門の前に立っているのが絶対に避けらだろうと確信めいた予感に、彼は深い溜息を吐くのであった。
その後も、アリシアは何度もライヒハート邸に現れた。
約束の礼だと上等な茶菓を持って来たのを始めに、知り合いから珍しい茶葉を貰っただの自分で焼き菓子を作っただのと、何かしら理由をでっち上げて門の前で待ち構えているのだ。
毎度毎度食べ物を持ってくる辺り、何と言うか確信犯的だ。男をモノにするには胃袋を支配しろとは何かで読んだ憶えが有るが、武芸者はその傾向が殊更当て嵌ると言える。
要点を言ってしまうと、ユリウスの食事は侘しいのだ。武芸者は大量のエネルギーを消費するため基本大食らいだが、男の一人暮らしで使用人も居ないとなると、当然自炊なんて選択肢はなくなる。そこから更に身体を維持する為の物を選ぶとなると、食事も限られた種類になりがちだ。
そんな食糧事情の真っ只中に持ってこられる芳ばしい香りを放つ甘味の数々は、甘い物から離れて久しい男にとっては麻薬の様な物にすらなり得るのであった。
手中の珠である愛娘に悪い虫が付いている事に、彼女の親族や叔父君がどんな気分でいるのか戦々恐々としない日はなく。
しかし何ら苦情の来ない実情に気味の悪さを感じながらも、客人に施される美味を味わう度に、まあ良いかと思ってしまうのであった。
それどころか、客が来るのに茶も出せないのは格好が付かな過ぎると、彼女相手にしか使う筈もないティーセットを客人用という名目で一式購入する有り様だ。
……そんな経緯があって、ユリウスが初めて他人へと振舞った茶の味は、それは酷い物だった。
紅茶を淹れた経験など前世でもある訳がなく、もっぱらインスタントコーヒーを愛飲していた男が自分の茶を飲んで抱いた感想は、『これ、雑巾汁だ』である。
まあ、当然の結果だったと言えよう。素人かどうかが問題ではなく、料理と同じで事前知識の収集を怠った者が良い結果を得られる様な物ではないのだから。
想像を越えた不味さに顔を顰めるユリウスは、バツが悪くなってアリシアを見たが、彼女の反応は紅茶の味以上に想像外の物だった。
淹れた本人が窓の外へと上下逆さまにしてやりたくなるカップを、酷く大切そうに両手で包みこみ、本当に嬉しそうな表情を浮かべていた。
あんまりと言えばあんまりな光景に、ユリウスは思わずアリシアへと問いかけた。
「まさか、この味が気に入ったのか? 自分で言うのも何だが、私はここまで酷い飲み物は生まれて初めて飲んだよ」
「いえ、そんな事はありませんよ。とても……とても、暖かい味です」
「気を使わず不味いと言ってくれ。悪かった、不精者が気紛れで茶など出すべきではなかったな……」
尚もユリウスの紅茶に口を付けようとするアリシアへ流石に申し訳なくなり、ユリウスは彼女の持つカップへと手を伸ばした。
するとアリシアはついと身体を逸らし、ユリウスの手からカップの逃れさせるのであった。
その行動にユリウスが怪訝な顔をしてみれば、やはりアリシアは笑っていた。今までユリウスが見た中で一番幸せそうで、一番アリシアの本心からの物だと思える笑顔で。
「ユリウス様が初めて私の為に淹れてくれた紅茶なんですから、美味しくない筈なんてありません……だから、最後まで大事に飲ませて頂きますね」
「……好きにしろ。ただし、客間で吐き出すのだけは勘弁してくれ」
くすくすと笑うアリシアを傍目に見ながら、ユリウスは頭を抱えた。
茶の不味さにでも、飽きもせずに自分の中へと入り込もうとしてくるアリシアにでもない。そんな彼女の存在が、日に日に心の中で大きくなっている自分の情けなさに気が遠くなりそうだった。
こんな筈ではなかった。アリシアを過度に拒絶しなかったのは、カルヴァーンの怒りを買うのを恐れたからであり、人を傷つけてはならないという論理感での一線を守ろうとした結果でしかなかった筈だ。
始めの頃は、彼女は打算的に自分に近づいているのだとユリウスは確信していた。
人は知りたくなる物だ。狼面衆の事件に巻き込まれ、その一端を感じ取れたところで証拠は何一つ残らない。グレンダンで最高位の武芸者であるカルヴァーンにしても、狼面衆に関しては意図的に女王が情報を規制している事だろう。
だからアリシアはユリウスから知り得ようとしたのだ。それをユリウスが知っていると、アリシアは分かっていたから。だからユリウスは彼女の好意を作為的な物だと断定していた。
そう考えている事に罪悪感を覚える様になったのは何時からだったか、もうユリウスにも分からない。
いつの間にか彼女の笑みが尊いと思える様になり、何時の間にか彼女が門の前に居ないかと常に気にする様になっていた。
何か理由を付けてアリシアの好意的な態度を悪し様に捉えようとしていた筈が、逆に何か理由を付けて彼女の好意が本物であると信じたくなっていた。
……在り得ない、在って良い筈がない感情だ。彼女は夢の国の中に生きる、架空の存在の筈だから。男は現実に生きていた、生きていると思おうとしていた。だから架空の世界に生きる彼女を想うのは、それを否定し、自分が自分でなくなってしまうと考えた。考えていた筈だ。
結局、男はアリシアへの感情を否定出来ずにいた。
もう彼は、ユリウス・ライヒハートだったのだから。嘗て野心を抱き、世界が自分を中心に回っていると信じていた尊大な愚物は、もう何処にも居なくなってしまった。
残ったのは、よりちっぽけな。一人の女性への愛しさに自分自身が怯える、どうしようもなく矮小な武芸者が居るだけだったのだ。
グレンダンでの戦いは過酷だ。
他所の都市で暮らした経験のないユリウスは比べる尺度を持ち合わせてはいないが、これが異常だということは確かだと言える。
……汚染獣戦を何度ユリウスが生き延びようとも、毎回必ず死者は出る。それは未成年の武芸者見習いだった事もあれば、初老の熟練武芸者だった事もある。何度も大会で見掛けた名門流派の師範代が、ユリウスの目の前で汚染獣に食い千切られたなんて事もあった。
そんな戦いの中で、ユリウスは遂に浅くはない怪我を負う事となった。汚染物質の蔓延する都市外での戦いでは防護スーツの破損がそのまま生命の危機に繋がる為、生き残る事と無傷で生還する事は殆ど同義である。
ユリウスが汚染物質に身を焼かれたのは、これが初めてだった。今までの無謀な戦歴を思えば奇跡的とも言える結果ではあったが、汚染物質に焼けただれて行く己の身体にとうとう自分の番が来たのかと思えば、その恐怖は言葉に出来ない程の物であった。
「……病院を抜け出したと聞いたので、きっと軽い怪我だと安心していたのに。ご自愛下さい、ユリウス様」
「一身上の都合だ。少なくとも、自分では賢明な判断だったと思っているがね」
身元が割れている医療機関ではただでさえ人の視線が気になると言うのに、こんな目立つ見舞い客が来たらどうなっていたかは想像したくない。
更に言えば、ユリウスが怪我で療養しようが狼面衆は休暇をくれはしない。奴らときたら実力ではどうにもならない天剣たちは敢えて無視して、まだマシなユリウスの方を目の敵にしている節が在る。
ユリウスが入院などしていれば、狼面衆は喜んで襲撃の頻度を増やすだろう。その度に病院から脱走していてはユリウスとしても予想出来る面倒事が数え切れない程になるので、初めから自宅で待機していた方が幾分やり易い。
「……分かりました。ユリウス様が病院では不都合と仰るのでしたら、具合が良くなるまで私が毎日お世話をしに来させて頂きます」
「は……? いや待て、それは幾らなんでも不味いだろう」
「私は問題ありませんよ。週に数回が毎日に変わっても、今更ですから……ああ、叔父様なら平気ですよ。ユリウス様の所に行くと言っても、何時も何も言わずお見送りして下さりますし」
料理は得意なので任せて下さいと胸を張るアリシアに、今度こそ年貢の収め時が来たのだと思ってしまった。
思えば、彼女は周到だった。何時の間にか理由が無くとも訪れるのが当たり前になっていて、その頻度も徐々に違和感を感じさせずに増えていった。
カルヴァーンの了承が得られているのであれば、親族は彼に逆らいはしないだろう。外堀も確実に埋めていたという事だ。
そして今度はユリウスの身を案じて毎日食事を作りに来ると言う。それだけは駄目だった。
理解して受け入れてきた孤独感は、彼女が家に来てから徐々に癒されている。もう、ユリウスにはアリシアを拒むことは出来ないだろう。だから、これは彼女を突き放す最後の機会だ。
「アリシア、もう君はここに来るな。叔父上が許そうとも、それは在ってはならない事だ」
「……お家の事情は、重々承知しています。けれど誤解していますわ、ユリウス様が思うほど、多くの人は貴方の事を悪くなど思ってはいないのですから」
そうではないと、ユリウスは言葉が喉に閊えて黙ってしまった。
そもそも、アリシアを巻き込んだのは自分なのだ。彼女がユリウスへと恩を感じたあの一件は、狼面衆がユリウスを謀殺するために仕組んだ罠だったのだから。
アリシアがユリウスに感謝を抱くのも、好意を向けるのも、全てユリウスの身から出た錆であり誤解が生んだ物だ。
「狼面衆だ、奴らの名は」
「ユリウス、様?」
「奴らは仮面を使い、人を操れる。その起源を辿れば、歴史は定かでないが恐らくグレンダン三王家よりも以前の――――」
アリシアの顔を見ようとはせず、ユリウスは一人で語り出した。
一度言葉に出してしまえば、自分でも信じられないくらい濁流の様に言いたい事が溢れてきた。
これで良い。これで少なくとも、彼女がここに来る理由は無くなる。彼女がユリウスにそうだと思わせてきた理由は、これで無くなるのだ。
そして……アリシアはそっと、ユリウスの手を両手で包み込んだ。
「もう、良いのです。ユリウス様」
「……だが、君は知りたかった筈だ。今はどうあれ、初めは知ろうとしていた筈だ」
「そうですね。でも……もう、良いんです。知りたく、なくなってしまいました」
自分の手を握るそのか細い手を、握り返したい衝動をぐっと堪えた。
アリシアの顔を見れば、彼女への愛しさと罪悪感が胸の中でせめぎ合い、どうにかなってしまいそうだった。
きっとアリシアは、そんなユリウスの葛藤など全て分かっているのだろう。アリシアは、初めてこの家に来た時からずっとそうだった。ユリウスがどんなに言葉で偽ろうとも、その内面を見通してきた。
「私は君が好意を向けてくれるに値する様な人間ではない。愚劣で、矮小な男だ」
「そうですね。ユリウス様は、意地悪な方です。私がこんなにも貴方をお慕いしていると伝えようとしているのに、すぐにそっぽを向いて無視しようとするんですから」
「……私は、周囲が言うほど優れた武芸者ではない。この怪我を負った時だって、怖くて泣きそうだった。何でこんな事をしているのかと自分に問いかけたくらいだ」
「そうですね。ユリウス様は、臆病な方です。叔父様に怯えて、私にも怯えて……だから、貴方に受け入れられ始めていると分かった時、すごく嬉しかった」
アリシアの手は冷たかった。ひんやりとした心地よさが、熱に浮かされた心を落ち着かせてくれる様な気がした。
ここは、確かに夢の世界だ。フィクションの中にしかある筈のない、自分の頭の中にしか無いはずの世界だった。
けれど今この瞬間にユリウスが感じている暖かさは、現実に確かに存在しているのだ。
「そんな貴方だったから、愛しいと思った。傍に居て、癒して差し上げたいと思ったんです。これは、いけない事でしょうか?」
「……分からないよ、俺には」
でも、守りたいと思った。
戦う理由もないままに命を懸けてきた。でも、本当はその理由が欲しかったのだから。
自分がこの世界の人間になってもいいのだと、誰かに許されたかった。けれど臆病な自分は、それに自分から手を伸ばす事にずっと怯えていた。
「分からない。でも、俺は君が好きだよ、アリシア。ずっと傷つけて、これからも辛い想いをさせると思う。それでも」
「ええ、愛していますユリウス様。一緒に、苦労をしましょうね」
「……そうだね。まず、君の叔父上に殺される事を覚悟しようかな」
目の端に光る物を浮かべて胸へと飛び込んできたアリシアを、しっかりと受け止めた。
もう、逃げなくてもいいのだ。もう彼は、ユリウス・ライヒハートなのだから。
この瞬間に初めて。異世界に迷い込んだ日本人の男は、確かにこの世界の現実に生きる人間となったのだった。
げ、原作を……原作要素をくれえぇぇぇぇ……! オリキャラ出突っ張りとか、普通にそっとじされてそうで実に不安です。
アリシアは駄目男好きです。彼女と言うよりオリ主が凄まじくチョロいのですが、コミュ障の童貞野郎なんてこんなもんです。
最大の幸せは、オリ主自身は自分が攻略された側だと気づいてない事だと思ってます、多分。