これにてファントムバレット終幕です。
次はマザーズロザリオです。
実は次章にはかなりテコ入れする予定です。タグの変化に注目とだけ言っておきましょう。
ではどうぞ
中古の灰色のバイクを詩乃の学校の校門の前に停め、待ち人を待つ。校内から女子の話声がボソボソと聞こえるが、他人の話の内容を盗み聞きしようとはならない。バイクのシートに腰掛けて晴天を見上げて気を逸らす。
(いー天気だな)
「……あの」
声を掛けられ、視線を下ろす。鞄を抱えた詩乃が制服を着こなしていた。
「こんにちは、詩乃」
「……こんにちは。……お待たせ」
「学校お疲れ様。……ていうか、なんか……」
今気付いたが、校門の周囲から女子生徒がこちらを見ている。
「何故か注目されてるな……」
「あ……あのねえ。校門の前に他校の生徒がバイクで乗りつけたら、目立つのは当たり前だと思う」
「そ、そうなんだ?」
「ああもう! ほら、さっさと行くわよ」
「はい、サイズは大丈夫そう?」
予備の不使用のヘルメットを渡す。こういう物で不快感を覚える人も居ると聞く、一応配慮して用意したけど大丈夫だろうか。
「ん、ピッタリね」
「それはよかった」
ハーネスの留め方がわからないのか、手を止めていたからそっと留めて、ベルトを固定する。
「これでオッケー。じゃあ失礼して」
「きゃっ」
詩乃の制服がスカートだったので、姫様抱っこじゃないが、膝裏に手を回して腰を抱き、軽く上げてからリアシートに座らせる。周囲から何故か声が上がるが、原因は解らない。
「あ、あなたねえ!」
「え?」
「……この天然! 早く行くわよ!」
詩乃を蹴らないよう足を畳んでシートに跨って、キーを捻る。
「しっかり掴まっててね」
エンジンの爆音と振動を感じて、タイヤを回す。
~~~~~~~~~~
銀座四丁目に到着、バイクを停める。詩乃からヘルメットを預かって、高級喫茶店のドアを押し開ける。
「お二人様ですか?」
「あそこの五月蝿い眼鏡と待ち合わせです」
おーい、と外聞も無く陽気に手を振る菊岡に指差しでウェイターに伝える。表情筋は動いてないが、苦笑いしているのを感じた。
店内の貴婦人方の雰囲気に当てられたのか、詩乃が体を縮めているのに気付いた。片手を後ろに、片手を差し出して、まるで英国のパーティのエスコートのように振る舞う。
「行こ。詩乃」
「……」
おかしかったのだろうか。手を握ってはくれたのだが、俯いて黙りこくってしまった。貴婦人の方々も此方に視線を向けては「まあまあ」等と口にしている。礼儀作法に関しては勉強してきたつもりだったが、間違いだったらしい。
詩乃をエスコートしながらテーブルに着くと、菊岡がニマニマと気持ちの悪いニヤケ顔で見てくる。
「見せつけてくれるじゃないか」
「何のことです?」
「湊くんも隅に置けないねえ」
「?」
椅子を引いて詩乃を座らせて、隣の椅子に座ると、ウェイターがお絞りと革張りのメニューを置いてくれた。
「さ、何でも頼んでください」
「プリン・ア・ラ・モードとレアチーズケーキ・クランベリーソースとカプチーノ下さい」
メニューに唖然と凍り付いていた詩乃が信じられないといった顔で見てくる。
「遠慮はしないほうがいいよ。こういうお店には滅多に来れないし、全額奢りだしね」
「湊君は少し遠慮というものをして欲しいんだがね」
「じゃ、じゃあ……私もこのレアチーズケーキ・クランベリーソース……と、アールグレイ」
ウェイターが腰を折って立ち去ると、菊岡はスーツの内ポケットからケースを取り出し、名刺を詩乃に渡す。
「はじめまして。僕は総務省総合通信基盤局の菊岡と言います」
「は、はじめまして。朝田……詩乃です」
「この度は、こちらの不手際で朝田さんを大変な危険に晒してしまい、本当に申し訳ありませんでした」
「い……いえ、そんな」
「そうだそうだー。責任取って辞職しろー」
「湊君が早く教えてくれたらこんなこと起きなかったかだろう?」
「僕はそんな仕事受けた記憶は無いな」
手をヒラヒラと振り、話を進めるよう促す。皮肉のような何かを言われたが、あまりにも弱い。
詩乃を見ると、堅苦しい空気を壊せたのか少し破顔してくれていた。
「……で、何処まで明らかになったの?」
「……ハア。まだ彼らの犯罪が明らかになってから二日しか経っていないのでね。全容解明には程遠いんだが……」
自分のコーヒーカップを持ち上げ、一口含んでから続けた。
「《死銃》はチームで動いていて、リーダーの新川昌一の供述によって三人だったことがわかった。BoB本大会に出ていたのも彼だ。押収されたアミュスフィアのログにも記録されている」
「その彼についてはどうなんだ?」
「……それを説明するためには、2022年のSAO事件以前から始めなくてはならないようだ。だか、まあ、その前に……」
丁度その時、ウェイターがワゴンに大量の皿を載せて来た。音を立てずにテーブルに皿を並べる様はスマートそのものだ。高級な喫茶店なだけある。
「「
金色のフォークを手に取ってレアチーズケーキを詩乃と口に運ぶ。舌に巻き付く濃密な甘味、ソースの酸味も相まった相乗効果で深く、されどしつこくない幸福感が口に広がる。ゆっくりと味わい、舌にまだ余韻が残る口にカプチーノを一口。ふわりと薫る苦味とクリーム状に泡立てた牛乳の風味が居座るチーズを分散させた。
もう一口、レアチーズケーキにフォークを入れる時、横を見ると、既に半分ほど食べ終えている詩乃が居た。見て見ぬふりをして、ケーキを味わう。
「……おいしいです」
「おいしいものはもっと楽しい話をしながら食べたいけどね。また今度付き合ってください」
「僕の目の前で詩乃に手を出せるとでも思ってるのか?」
僕の睨みに菊岡は手を上げて降参の意を示すと、傍らのビジネスバッグからタブレットPCを取り出すと、画面をつつき始めた。
「総合病院のオーナーの長男である新川昌一は──」
(あー、長くなるやつかな?)
長話が始まることを察して、聴き流すよう意識を外に向ける。
この会合を設けたのは菊岡だ。あの事件当日、詩乃を襲っていた男を警察に引き渡した後、詩乃と僕は念の為に病院に運ばれ、一通りの検査を受けた。特に異常があった訳ではなかったが、病室での事情聴取が行われた。
菊岡に全て投げ出してやりたかったが、深夜ということもあって電話に出なかった。全てが終わった時には、太陽は空高くまで昇っていた。
犯人の裏事情なんかナノも気にならない。どのような事情があろうと、現実と仮想の狭間に自身の狂気を居すわせてはいけない。自覚がないとしたら重症だ。敬意と諦念が大事なんだ。
掻い摘んで話を整理すると、犯人は家庭の境遇で心が擦り切れ、SAOで暴れた後弟にその狂気を伝播。あるアイテムを機に計画を発案。不運にも、家には実行する為のマスターキーや薬品があった。結果として、犯行に及んだといった所だ。
「昌一はその過程自体がゲームだったと供述している。SAOで、標的のパーティーの情報を集め、必要な装備を整え、襲撃を実行したのと何も変わらない、と。自分の供述を取っている刑事に向かって、あんたも同じだろう、とも口にしたようだ。NPCの話を聞き、情報を集め、賞金首を捕らえて引き渡し、金を得る。警官のやっていることだってゲームと一緒じゃないか、とね」
「かなり重症だな。そんな戯言、気にするような奴が刑事やってる訳ないだろ」
不意に、口がポツリと呟く。自覚が無かったが、どうやら話の内容に不機嫌になっていたらしい。
「君は戯言だと思うのかな?」
「チッ。……そいつは現実もゲームだと本気でそう思い込んでんのさ。不思議なもんだよ。ゲームは現実から生まれたっていうのに、ならゲームが現実準拠に作られてるってことだろ? 仕事をして、報酬を得る。社会じゃ常識だ。それを敢えてゲームだと言い張りながら、他人の現実の死に魅せられて。都合の良いように現実と仮想を混ぜ込んで、仮想世界の良くない部分だな」
「ふむ。君は……どうなんだい?」
興味津々な顔で菊岡が聞いてくる。
「……仮想世界の僕、現実世界の僕、どちらも僕だ。他の何者でもない。アバターという皮を被っても、僕という存在はそこにある。後悔も失敗も思い出も……仲間だって、仮想と現実に境目を付ける必要は無い」
横をちらりと見る。
「詩乃はどう?」
「え……」
唐突に話を振られ、戸惑う詩乃。食べ終えた皿の上にフォークを乗せる。
「……私は、此処が、この世界が唯一の現実だと思う。もしここが、実は仮想世界だったとしたとしても、私にとっては現実……。湊とは似てるけど、ちょっと違う感じかな」
「なるほど」
冷めたカプチーノを飲み干し、カップを置く。
「さ、話を進めようか。何処まで終わったの?」
「大方、事件の終息は済んでいる。……しかし、昌一が最近に仲間に加えたという
「……ああ。《
言い切る前に、左手を握られる。ふと見ると、詩乃は首をゆっくりと振る。声には出さず、謝罪の意で視線を送る。
「……その金本の動向はわかってるのか?」
「いや、自宅アパートに捜査員が急行したところ、部屋は無人だった。今現在も監査中のはずだが、逮捕の知らせは無いね」
「薬品は?」
「…………昌一は念の為に三本渡していたそうだ。《ペイルライダー》と《ギャレット》の二人に使用されて、もう一本残っている可能性がある。念の為、キリト君と朝田さんに警察の警護がついたのはそれが理由だよ」
警護…………
「僕のは?」
「ああごめん、忘れてたよ」
ハイハイ、何時ものやつね。
「東京都心では自動識別監視カメラ網の試験運用が始まっている。そう長時間逃げられやしないよ」
「それは?」
「通称S2システム、カメラが捉えた人間の顔をコンピュータが自動解析して手配犯を発見するという……ま、細かいことは秘密なんだけど」
「…………」
システム……カメラ……、嫌な予感に顔を顰める。
「……あの。新川君……恭二君は、これから、どうなるんですか……?」
「うーん」
菊岡が指先で眼鏡を押し上げながら低く唸る。
「昌一は十九歳、恭二は十六歳なので、少年法による審判を受けることになるわけだが……四人もなくなっている大事件だから、当然家裁から検察へ逆送されることになると思う。そこで、恐らく精神鑑定が行われるだろう。その結果次第だが……彼らの言動を見るかぎりでは、医療少年院へ収容となる可能性が高いと、僕は思うね。何せ二人とも、現実というものを持っていないわけだし……」
「いえ……そうじゃないと、思います」
詩乃がぽつりと呟く。菊岡は視線で先を促した。
「お兄さんのことは私には解りませんけど……恭二君は……恭二君にとっての現実は、ガンゲイル・オンラインの中にあったんだと思います。この世界を──全部捨てて、GGOの中だけが真の現実と、そう決めたんだと思います。それは単なる逃避だと……世間は思うでしょうけれど、でも……」
詩乃は自身を襲った彼を憎むことが出来ないと解る。話を聞くと、彼は詩乃の頼れる唯一の友人だったという。少なくとも詩乃は、そう思っていた。
「でも、ネットゲームというのは、エネルギーをつぎ込むにつれて、ある時点からは娯楽だけじゃの物じゃなくなると思うんです。強くなるために、ひたすら経験値とお金を稼ぎ続けるのは、面倒だし辛いです。……たまに短時間、友達とわいわい遊ぶなら楽しいでしょうけど……恭二君みたいに、最強を目指して毎日何時間も作業みたいなプレイを続けるのは、凄いストレスがあったと思います」
「ゲームで……ストレス? しかし……それは、本末転倒というものじゃ……」
此処に時代に置いてかれた哀れな年寄りが一人。
「はい。恭二君は、文字通り転倒させたんです。この世界と……あの世界を」
「しかし……何故? なぜ、そこまでして最強を目指さなければならないんだろう……?」
「私にも……それはわかりません。さっきも言いましたけど、私にとってはこの世界も、ゲーム世界も、連続したものだったから……。湊、あなたにはわかる……?」
彼女に頼られるのは嬉しい反面、おじさんに説明する面倒に息をつく。腕を組んで、問に答える、
「強くなりたいから」
「……そうね。私も、そうだった。VRMMOプレイヤーは、誰だって同じなのかもしれない……ただ、強くなりたい」
「菊岡用に説明すると、優越感を得る為。人間の求力欲だよ。他者より強く、偉くなりたいってのは誰しも持つ無自覚の潜在欲求。それがたまたま、ゲームだっただけで、昇任したいとか、有名になりたいとかそんな感じの物だと思ってくれればいい。ってか菊岡、流石に考えがおじさん過ぎやしないか? プロの居るゲームだぞ? プロが生まれる理由を推測すれば簡単だ」
「な、なるほど」
何で此奴にこんなに権限があるのか解らん。
「あの……恭二君には、いつから面会できるようになるんでしょうか?」
「ええと……送検後もしばらくは拘置されるだろうから、鑑別所に移されてからになりますね」
「そうですか。……私、彼に会いに行きます。会って、私が今まで何を考えてきたか……今、何を考えているか、話したい」
菊岡はわずかに微笑を浮かべると、言った。
「あなたは強い人だ。ええ、ぜひ、そうしてください。今後の日程の詳細は後ほどメールで送ります」
詩乃は強い、それはもう疑いようがない。逞しくなった横顔を見て、僅かに笑う。
ちらりと腕時計を覗いた菊岡が、帰り支度を始める。
「申し訳ないが、そろそろ行かなくては。閑職とは言え雑務に追われていてね」
「詩乃に賠償とか無いのか? 危険な目に遭ったんだ。そちらの無力故にね」
「……そ、それは、後にさせてくれ。僕もそう多額のお金を動かせる訳じゃないんだ」
半分冗談だが、真面目な役人だこと。
「あの……ありがとうございました」
「いえいえ。また、新しい情報があったらお伝えしますよ」
態度が違うのは仕方ない。彼は今の
~~~~~
「お疲れ様」
喫茶店を出て、停めたバイクに向かいながら詩乃の顔色を伺う。
「……あの人は、一体何者なの? 総務省の役人、って言ってたけど……なんか……」
「情報を得すぎている。かな?」
「そう、でも違和感が……」
「総務省VRワールド監視部署所属、随分と大層な厚皮だな」
「……どういうこと?」
疑問に思う詩乃の目を見て、推測した情報を組み合わせて話す。
「実は、前に和人が菊岡を尾行したらしいんだ」
「和人?」
「あ……。キリトのことなんだけど。で、運転手のいる車で市ケ谷駅前で降り、見失ったんだと」
「市ケ谷? 霞ヶ関じゃなくて?」
「そう。総務省は霞ヶ関、市ケ谷は……防衛省」
「ぼ……。それって……自衛隊ってこと?」
「確定と見ていい。菊岡の立ち振る舞いは訓練を経験したそれだ。GGOのような仮想世界ではなく、この現実世界で。気を付けてくれ、警察と自衛隊は表面上仲が悪い。そこに何かしらのパイプラインを持っているなんて特殊過ぎる。眼鏡も変装用だろ」
「わ……わかった」
わかったようなわからないような顔で返事をする詩乃。
「でも……仮にあの人が自衛隊の関係者だとして、どうしてVRMMOの調査なんかしてるの? まるで縁もゆかりもないでしょ?」
「いや、VR技術ってのは多くの分野に変化を齎した。例えば、米軍では軍隊の訓練に利用している。実際に火器を扱うのとは感覚に齟齬があるが、基本的な操作は変わらない。無関係って言うのは尚早かな」
「そ……そう」
スマホで時間を確認して、ヘルメットを渡しながら言う。
「このあと時間ある?」
「別に用はないけど。GGOにも当分ログインする気ないし」
「そう。なら、来て欲しい所があるんだ」
「何処に?」
「えーと、御徒町までかな」
「なんだ、湯島の隣じゃない。ちょうど帰り道だわ」
詩乃が被ったヘルメットの留め具を掛けて、校門前と同じように座らせようと手を伸ばしかけて、
「自分で跨がれるわ」
……自分でリアシートに乗った。
「……行きマース」
「何で不機嫌なのよ?」
「そう?」
~~~~~~~~~~
ダイシーカフェの前にバイクを停める。詩乃のヘルメットを預かって、中に入る。
「いらっしゃい」
ジャズ、香ばしいコーヒーの香り、橙色の照明と落ち着いた雰囲気の店内に、スキンヘッドの巨漢のバリトンが響く。
「遅かったな」
「悪ぃな、文句は菊岡に言ってくれ」
店内には二人の先客が居た。制服姿の和人と明日奈だ。
「紹介する。こちら、GGOのシノンこと朝田詩乃」
「よ、よろしく」
流されるまま店内に取り込まれる詩乃。
「こっちの黒い奴がキリトこと桐ヶ谷和人」
「おい、何雑な紹介してんだ」
「そしてこちらがなんと和人の彼女の結城明日奈さん」
「ギャップでなんかむず痒いよ湊君」
「それで……この店のマスター、エギルことアンドリュー・ギルバート・ミルズさん」
「今後ともよろしく」
全員の自己紹介が終わり、四人掛けのテーブルの片方に歩み寄る。椅子を引いて詩乃を座らせ、その隣に座る。
「わぁ……」
「な?」
明日奈と和人が何かニマニマとしているが、理由は解らない。取り敢えず何か飲み物と思い、注文する。
「マスター、いつもの下さい。詩乃は何飲む?」
「あ……じゃあ、湊と同じので」
注文を終え、卓上で手を組む。
「さてと、全容を話そうか」
~~~~~
「細部は伏せたけど、大体こんなことが起こってたって感じかな」
「……何で俺菊岡に呼ばれてないんだよ」
「知らねぇよ」
確かに、和人いなかったなと今更ながらに気付く。
「あの……朝田さん」
「は、はい」
「色々、GGOの話とかも聞きたいなって、友達になってください」
お嬢様のコミュニケーション能力が発動。差し出された右手に詩乃の瞳に恐怖と危惧が映っている。
そっと、左手で詩乃の右手を握る。視線が合う。小さく頷くと、再び明日奈を見た。
手を離すと、詩乃はその右手を、明日奈の手にゆっくりと重ねた。
数秒待機し、空気が落ち着いたのを感じて口を開いた。
「……詩乃。最初に謝る。和人と明日奈には、君の過去の事件のことを話している」
「えっ……!?」
「詩乃さん。実は、私とキリト君と湊君は、昨日の月曜日に学校を休んで、……市に行ってきたんです」
「──────!!」
明日奈が言った地名は詩乃の、幼かった彼女の暮らしていた街の名前だ。彼女にとっては忘れたい、関わりたくもない場所だろう。
「なんで……そんな……ことを……」
立ち上がろうとする詩乃の手をまた握る。
「詩乃。君は、会うべき人にまだ会っていない。二人には僕が頼んで協力してもらったんだ。この後に君が傷付いたりしたら、迷いなく僕を責めて欲しい。この後、彼女の言葉を聞いてくれないか?」
「会うべき……ひと……?」
アイコンタクトで和人を動かす。店の奥のドアを開けると、一人の女性が姿を現した。セミロングで落ち着いた雰囲気の女性。その後ろを、小学校前と思われる女の子が付いてきた。
「はじめまして。朝田……詩乃さん、ですね? 私は、
一度息を吸ってから、大澤さんははっきりとした声で言った。
「私が東京に越してきたのは、この子が産まれてからです。それまでは、……市で働いていました。職場は……、……町三丁目郵便局です」
「あ……」
大澤さんは当時あの事件に巻き込まれた郵便局の職員だ。僕一人では彼女に連絡を取ることが出来なかった。和人と明日奈に協力してもらい、今日この日、このお店に来てもらった。全ては……
「……ごめんなさい。ごめんなさいね、詩乃さん。本当に、ごめんなさい。私……もっと早く、あなたにお会いしなきゃいけなかったのに……あの事件のこと、忘れたくて……夫が転勤になったのをいいことに、そのまま東京に出てきてしまって……。あなたが、ずっと苦しんでらしてるなんて、少し想像すれば解ったことなのに……謝罪も……お礼すら言わずに……」
大澤さんの目から涙が流れる。心配そうに見上げてる瑞恵ちゃんをそっと撫でながら続ける。
「……あの事件の時、私、お腹にこの子がいたんです。だから、詩乃さん、あなたは私だけでなく……この子の命も救ってくれたの。本当に……本当に、ありがとう。ありがとう……」
「…………命を…………救った?」
僕には和人が居た。和人が僕の生き証人だった。でも詩乃は? 彼女には? 必ず居るはずだ。その言葉は、少なからず救ってくれる。僕と詩乃は違う人間だ。同じとは限らないが、それでも、救われて欲しい。
「詩乃」
彼女の手を握る。
「君はずっと、独りで戦ってた。でも、確かに君は救えていたんだ。大澤さんを、他の人も……。それは、忘れちゃいけない。知るだけでいい、それだけでも、進もうと思えられるから……」
とん。と、小さな足音がした。瑞恵ちゃんが椅子から飛び降りて、詩乃の前までテーブルを回り込んで歩いていく。
四つ折りにした画用紙を取り出すと、詩乃に差し出す。クレヨンで描いた家族の絵。一番上には、平仮名で《しのおねえさんへ》と記されている。
詩乃は両手で受け取ると、瑞恵ちゃんはにこりと笑い、大きく息を吸い、たどたどしい声ではっきりと言った。
「しのおねえさん、ママとみずえを、たすけてくれて、ありがとう」
詩乃の頬に涙が零れる。瑞恵ちゃんは右手を恐る恐る、しかししっかりと握った。
大丈夫。彼女は進んでいける。もし転けそうになっても、僕が支えよう。これからも……ずっと…………