ジムかん。(トレセン学園内ジムの管理人の話。 作:なっぞのひと
きっかり朝7時半に目を覚ました流は首を軽く左右に動かすと、手を合わせて八の字にグリグリ回してそのまま肩甲骨の周りをほぐしていく。寮の部屋ではなく、物置の木の板に薄めの布団を敷いただけで机が置いてあるだけのドヤのような部屋だと起きた時の血の巡りの悪さはどうにもならない。
立ち上がるといつものように、足を肩幅に開いて左足を後ろに下げて膝を緩めての6対4の後重心、拳は握りきらず、こめかみの横に上げて脇はやや開けておく。
キックボクシングというよりはムエタイの構えだった。
そのまま右左とワンツーを繰り出して、直後左の肘を振っていく事を数回繰り返し肩が解れたのを実感する。
事故の影響なのか、筋力が落ちたのか骨盤や股関節周りの動きに違和感があったが許容範囲内でしっかり温めて柔軟すれば少しはマシになるだろう。
寮の台所に行き、冷凍庫に入れておいた安物の深煎りブレンドコーヒー豆をコーヒーメーカーに適当にぶち込んで、出来上がったコーヒーを氷で急冷して一気に流しこんだ。
部屋に戻ってスーツに着替えて鏡をみるとそこには反社が映っていた、目つきが鋭い以外は普通の顔立ちでも複数の縫い合わせたような傷跡があるせいか、その筋にしか見えない日本刀を思わせる鋭さのある顔立ちなら尚更だ。
喧嘩や暴力沙汰ではなく、キックの試合における肘打ちで切られた傷なのでやましいことは何もないが、やっぱり何かを疑われるんだろうかとは思うし、トレセンって女子校だから絶対怖がられるな、というか学園にたどり着く前に不審者扱いで通報されるのが一番困るが気にしても仕方ない、適当なことを言っていれば普通に落ちるだろと考えていた。
今から歩いていくならちょうど一時間位だ、準備を終えると流はそのまま寮を出て学園へと向かっていった。
こうしてトレセン学園の前に着いたがデカい、登校時刻は過ぎているおかげでウマ娘の姿は殆ど見ない。
正門にいるのは警備員だろうか、普通の警備員というよりはクラブのセキュリティのような若々しくて体格のいい連中だ、突発的な状況なら勝てないというか打撃を思い切り打ち込んでも効かせきれずに耐えられて組討で制圧されるだろうか、こういう事を考えるのは格闘技経験者の悪い癖だ。
流は正門に着き、警備員に近づくと普通に話しかけた。アポ無しで面接に来たらまず門前払いされるだろう。それで帰ってそのまま落ちたと言えばいい。
「すみません、本日学園のトレーニングジムの職員の面接に来た蒼真というものですが、どちらへ伺えばよろしいでしょうか?」
「学園の方に確認を取りますので、左手の警備室の受付前でお待ち下さい。」
警備室の受付の方へ通されるとすぐに
「昨日ご連絡を頂いた蒼真様ですね、お待ちしておりました。間もなく担当の者が参りますのでしばらくお待ち下さい。」
あり得ないほどすんなり話が通ってしまった。ちょっとまて俺は連絡なんかしていない。想像できたのは伯父が此方の行動を予測して昨日の内か寮を出た直後に連絡をいれていたか、抜け目がない。
警備員の制服に着いているワッペンを見たら CSSと書かれていた。
クラッシュセキュリティサービス、クラブ関係や身辺警護をメインに格闘技経験者や現役プロが多く所属している武闘派の民間警備会社で何方かというと法人化した暴力団に近い。
其の上でCSSファイトジムという用心棒達だけでなく一般にも開放している格闘技ジムも経営している。
流も過去にCSSのジムに所属しているキック選手と試合したことがあったが、とにかくタフで肘を顔面に何度も叩き込んでも倒れず、最終的に肘で切ったときにストップが掛かっていなければ、そのまま負けていた。
応援席の横断幕と、激励賞のアナウンスで聞き覚えがあった。
受付の奥の壁に刺股と、少し前にネットで話題になった片手剣と盾を合わせた装備がいくつか立てかけてあるのが見えたりと、物騒としか言いようのない装備品の数々は見なかったことにした。
入り口で記帳して待っていると5分もしない内に全身緑色の長身の女性が歩いてきた。あれ?校舎から警備室までの距離結構ありそうだよなウマ娘だからか?いや見た感じ尻尾も耳もないから、人だろうと思うが。
「本日はご足労いただき有難うございます。私、理事長秘書の駿川たづなと申します。理事長が直接面接したいということで、理事長室へご案内します。」
「蒼真流です。本日はよろしくお願いします。」
授業の時間帯なのか人通りの少ないメインストリートを歩き校舎に入り、理事長室へと案内されるとそこには、上等な服を着て猫を頭に乗せた少女が居るぐらいで、理事長らしき人物は見当たらない。
目を合わせた直後いきなり【理事長】と書かれた扇子を広げた少女がとんでもないことを言い出した。
「採用ッ!蒼真君ようこそトレセン学園へ!」
「は?なぜ」
わけがわからない、いきなり顔を合わせた瞬間に口頭とはいえ採用と言われるのは、最初から落ちるつもりで来た流にとっては余りにも予想外だった。
「調査!君の性格や行動に関しては伯父上から確認済みかつ、資格関係も把握済み!資格も申し分なく、現在所属するジムのトレーナーとしても勤務態度も良好と報告を受けている。」
調査済みかよ、興信所かその手の調査機関で調べるだろうけど、伯父さん俺を売りやがったなと複雑な感情しか出てこない。
聞きたいことは多々あるが、よく整理してまずは一つ。
「貴方が理事長でいいんですよね?俺のことを調査済みなら私がウマ娘達に興味がないというかあまり関わりたくない事は分かっているでしょう?」
「無論!私が理事長の秋川だ!君の心情は把握しているが、説明すれば引き受けてくれると伯父上から保証されている、学園に居る君の友人からもな。」
声がでかい、というか学園に居る友人って誰だ?あんまり深く考えると確実に頭が痛くなるのでそれは置いておく、思い当たる人物がわからないだけで知り合いがいるのだろう。
「伯父から大体の話は聞いているのですが、要はトレーナーたちの派閥につかず中立で担当のある無しに関わらずケガ予防や体力向上のノウハウを指導できる人間が欲しいって事でいいんですよね?やってほしいことは。」
「その通り!やる気になってくれたようでなにより」
「やる気も何も、雇用条件や福利厚生とか何も説明受けてないですけど。」
「失敬!この書類を確認してくれ!」
手渡された書類から見た待遇はかなり良いというか、寮ありで食事もタダ。福利厚生も充分過ぎるぐらいで給料も良い。
「書類の内容が事実なら、凄く良い待遇なんですけど?」
「事実!それで蒼真君はコーヒーの扱いも出来ると聞いたが、このコーヒーメーカーは使えるか?カフェテリアで楽しめるように最高級品を導入したのだが、難しすぎて誰も扱いきれないので放置されている状態、扱えるなら業務時間外なら自由に使っていい、寧ろ彼女たちに提供して欲しい、無論契約してからなのだが」
理事長が見せてくれた写真はコーヒーメーカーではなく、サンレモ社OPERA2.0エスプレッソマシンとSR64グラインダーのセットでどちらも最高級品で競技会常連クラスのバリスタが良く使っている代物だ。
大型マルチボイラーシステム搭載のコンピュータ制御システムで各工程を自由に制御可能で、リアルタイムに数値を管理できるのであらゆる環境に合わせて最高の状態でエスプレッソの抽出を調整できる最高の機種がほぼ誰の手も入っていない新品の状態で放置されているのだ。
流も触っていいなら触ってみたいし、何なら使いこなす自信だってある。正直どんな待遇よりも魅力的だったし、このマシンを扱えるならここで手のひらを返して就職しても全く問題ないぐらいには。
「わかりました。ここ迄の待遇をしていただけるなら、無下にはできません。よろしくお願いします。」
「成立!コーヒメーカー目当てで受けたようで複雑だが、契約感謝する!」
「事実このエスプレッソマシンを操作するのが目当てですから」
「正直でよろしい。仕事もちゃんとやってもらうがな。」
本心からこのマシン目当てでの就職だが、仕事はしっかりやらなければならないと思った。
こうして半ば無理やりではあるが、流のトレセン学園での就職が決まった。