誰も知らない山羊の歌 Missing unknown tragedyl***** 作:katoja
これは昔々のお話。
今は遠いイスラエルのどこかの地、嵐が明けた野のとある羊飼いの家に足を怪我をした一匹の白い羊が迷い込んだ。
家主はこれでは長らえまいとひと思いに殺してやろうとしたが、どこか様子がおかしい。
注意深く羊を見ると、腹を庇っていることに気付いた。
この羊は身ごもっている。子供だけは助けられるかもしれない。
家主はそう考え、羊を介抱することにした。
羊は怯えていたが、家主に敵意がないことが分かると体を預けた。
そして羊が迷い込んでから何日目かの夜、羊は産気づきついにその時が訪れた。
羊は難産で、その夜の雨の音はいつまでも終わらぬ苦しみを表しているようであった。家主は長い間、羊に寄り添い見守っていた。
やがて朝となり雨は止み空が白けたと思えば、垂れた乳房のような形をした雲が渦を巻いて見渡す限りに覆い、立ちどころにあたりは暗く再び夜を取り戻したようだった。
こんな日は無いと村人たちは火の明かりを頼りに皆で集まりだす。
空を覆い隠す黒い天幕の異様さは村人を次々と納屋の前へと群れ集わせた。恐れをやり過ごすのに、家畜の御産は打ってつけであったのだ。
人の群れが納屋の周囲を囲い祈りの声が聞こえ始めた頃に羊はようやく子供を産んだ。そして子供を産んだ後、羊はピタリと息を止めた。
家主が体を揉んでも、息を吹きかけても動くことはなかった。
村人たちはそれをひどく残念に思ったが、羊の傍らにあるそれに目を向けた時その憐れみもすぐに消える。
腹から出てきたのは空と同じ色の固まりだった。
黒く、暗い、闇と言うより他ない全ての影を襲たような、満ちた月の如く丸い塊が絶命した母親の臍の緒を牽いて転がっている。
人々は見たこともない物に困惑していたが、家主は羊が固まりに向かって最期に舌を延ばしていたのを見ていた。家主は周囲の止める声も聞かずにその表面を爪で搔く。岩のように硬そうに、冷たそうに思えたそれは触れれば温かく、柔らかかった。
膜だ。家主は血に塗れた手にそっと力を入れる。
するとあっけなく膜は割れ、裂けた場所から包んでいた羊水が溶けだし、その姿が現れた。
毛の塊だった。とてつもなく長く黒い毛が家主の手に絡みつく。村人たちはいよいよ悲鳴のようなどよめきをあげたが、家主は待てと言う。家主が絡まった指で中を弄り何かを探し当てると、ゆっくりとそれを持ち上げた。
白い顔と耳、それから長い黒毛にぐるぐると守るように包まれた角であり、その顔は紛れもなく羊の子供であった。
体を覆う体毛は湯をかけてもかけても染み込むような暗さのまま。
夜を運んできたかのような様相と生まれたてでありながら角を持った奇妙な姿に村人たちは恐怖する。
村人達は口々にその獣は呪われている、殺すべきだと家主に言った。
しかし家主はこう言った。
「このあまりの暗さに主が迷われて、うっかり羊の胎に山羊を入れてしまわれたのだろう。よくあるよくある。」
家主は仔山羊を抱き上げ、懐疑の目をするりと避けて外へと躍り出る。
雨こそ止んでいたものの、村を取り巻く風の強さは強く家主の目を閉ざすほどであった。
すると前方から柵の一つが解けて、一直線に家主に向かってくる。
「危ない!」
村人の悲鳴が一際大きく家主の耳を刺す。
それでも家主は目を開けなかった。動かなかった。
柵の軌道は変わらず家主を目指し──人々は目を覆う。
ドスッ
あたりが静まり返る。
恐る恐る目を開けると、そこには家主が立っていた。そして家主の傍らに柵がそそり立っている。
風が止む。家主は目を開けた。
そして一度空の暗幕を見上げてまた一つ歩を進めて、懐の中の生まれた仔山羊を見つめた。
すると闇が薄れ空の雲間から光が差し、家主と仔山羊を照らした。
「見よ。」
家主は高らかに叫ぶ。
「主はこの者を受け容れられた!」
家主は仔山羊の豊かで艶のある丈夫な毛と牝でありながら牡山羊のように立派な角には使い道があると見たようだった。
家主は言葉巧みに周囲の反対を押し切り仔山羊を彼の牧野に引き入れた。
こうして仔山羊は気味悪がられながらも殺されることなく、周囲の者からアビシャグと呼ばれ疎まれながらも健やかに育っていったのだった。
アビシャグは大層腕白であった。
小さな身で自ら先頭に立ち家畜の群衆を率いる姿や険しい岩肌に登る性質はその見た目の奇異を除けば正しく山羊のようであった。アビシャグの角は成長するに連れ奇妙なほどに捻れ猛々しくなっていった。
だというのに、三年を経てもアビシャグの体躯は犬のように小さなままであった。繁殖期が来てもアビシャグは発情せずに他の山羊や羊と交わろうとしない。
小さな身体に不釣り合いな大きな角を持ち上げてアビシャグは高いところへと登り周囲を見渡す。
アビシャグの大きな金色の目が天空を見つめると、嵐が来る。
そのためますます周りの人間から恐れられた。
アビシャグ自身家主以外の人間に近寄らなかった。
遠巻きに此方を差す懐疑の目に曝されながらも、その状況をよしとし、人とはそういうもので、己とはそういうものだということを理解し受け容れ自ら人と干渉することはなかった。
けれどもアビシャグが特別に懐いている者が一人だけ。それは家主の末の息子だった。