DESIRE ARCHIVES 作:ベロベロベ
それにしてもこの小説を考え始めたのが11月。まだ謀略編の最中だったんですが……、時の流れは早いですな。
色々変遷がありましたわ。いつか過去の登場人物紹介も出来たら良いな。
「ん――――――?」
砂に塗れた校舎の中で、砂狼シロコはふとそれを感じ取った。どこかで響く獣の咆哮。全く聞き覚えの無いものであるはずのそれに、彼女は強烈な既視感に襲われた。自分が自分で無くなってしまうかの様な、いや寧ろ本来の自分が出てきてしまうのではないかと思わせてくる様な、不快な感覚。何にせよ今に至るまでに構築してきたものが崩れ去ろうとしているのは間違いなかった。不安で満たされる胸を抑えて、彼女はその場にうずくまった。苦痛がある訳ではない。ただ不安なのだ。その咆哮に自分の中の何かが共鳴しようとしている。特に理由もなく、彼女はそう確信した。
「はぁ……はぁ…………」
「シロコ先輩!?」
奥空アヤネが心配そうに駆け寄って来る。いつも大人しく、そして気丈に振る舞っている彼女の顔はどうしようもない不安と悲しみに塗れている。その理由は明白だ。
「大丈夫、私は居なくならないよ。ホシノ先輩や道長、セリカの分まで頑張らないといけないし」
「私はもう、皆が居てくれればそれで…………」
「うん、知ってる」
砂漠に吹き抜ける砂混じりの風が彼女のマフラーを揺らす。言い様の無い不安に蝕まれる胸の感覚は友人達が消えてしまった事に対する喪失感だけではないはずだ。だが何よりも恐ろしいのは、その感覚がどこか薄れ始めている事。遠くで聞こえた獣の遠吠えに対して、心が魅かれている事がこれ以上なく恐ろしかった。
仲間を失い、喪失感に暮れる少女達。その有様を見つめている者がここに1人。黒服はアビドスの生徒が織りなす人間模様を見ているのではない。彼の中にある神秘への知的好奇心、それを確かめるために見ているのだ。
「この世には『表』と『裏』がある…………。それは物が存在する数だけ在り方がありますが、結局のところ表面的なものに過ぎません。それらが最終的に帰結する先、即ち『生』と『死』。創造と破壊と言い換えてもいいでしょうか」
黒服が存在している場所には誰もいない。しかし彼がしているのは独白ではない。明確に、聞き手がその場に居るかの様に語り掛けていた。
「この2つに例外はありません。そこらに転がっている小石からこの世界そのものにまで、かつてあった過去といずれ来る未来が存在しているのです。」
例えばそれは水であったり、風であったり、火であったり、岩であったり。この世界に存在している全てが創造と破壊の表裏一体を持ち合わせているのだ。世界そのものに置き換えても同じ事が言える。世界が終焉を迎える時、必ずその終局を伝える何かが存在しているのだ。無論、それをそれ自身が自覚しているとは限らない。
だがその内に秘められた在り方を、完全に無視する事など不可能だ。動物が呼吸を必要とする様に、向日葵が太陽の方向へと顔を向ける様に、必ずやそれに準ずる何かを感じ取る。
「ほんの僅かですが、アビドスの銀狼の力が目覚めた。これはつまりその対極にある存在もまた目覚めという事です。
黒服は心底愉しそうに嗤い声をあげる。彼が口にした通り、今の状況は間違いなくピンチだ。しかし同時に彼の知的好奇心を満たす絶好の機会でもあった。目の前のモニターに映された雁字搦めの少女。彼女のヘイローは欠け、意識は底の無い沼に沈められている。開かれた二色に瞳は虚ろであり、おおよそ生きているとは言えない状況だった。
半ば亡骸と化した彼女は最早何かを考える事すらも億劫になってしまったかの様に、ただひたすらに虚空を見つめていた。
「クククッ…………! やはりあなたの内包する神秘は素晴らしい。これならばきっと、創世の女神に成り代わる事すらも可能でしょう――――――!」
「――――――」
ここはどこだろう。英寿は暗闇の中で下がろうとする瞼の重みに抗いながら、どうにか現状を把握しようと努めていた。しかしどうにも脳が正常に働かない。空腹もそうだが何よりも眠かった。矯正局でジャマトに襲われて以降の記憶は朧気だ。唯一鮮明に覚えているのはかつての吐き気を催す記憶の回想と、白い面をつけたかの様な白装束の何かに囲まれたという事。そしてその後に感じた燃え滾る様な熱い感覚だけだった。
それはまるで自分の中にある何かが溶けて、再度形作られていく飴細工の様な感覚。しかしそれが何かを探る事すらも億劫になる程、今の英寿は睡眠を欲していた。
だが今はマズい。せめてここがどこなのかくらいは把握しなければ、追われる身である彼からすれば安心して眠れない。込み上げる疲労を不安感でどうにか堰き止めようとするも、同時に脳内に響く声がそれを打ち壊そうとする。
「うああぁぁぁ………!」
その声はまるで年端もいかない少女の様に幼く、高い。しかし同時に襲い来る抗いがたい何かと割れる様な痛み。まるで英寿がそれに従う事を強制している様だった。
声は段々と大きくなるに比例して頭痛は強く、思考能力は低下していく。当初は抗っていた彼も次第に瞳を閉じていく。そして僅かに残った開きすらも閉じ切ったその直後。
《SET》《REVOLVE ON》
その姿が描き換わる。理性を有する人、肥大化した本能に操られる獣へと。僅かに残った理性すらも、この野生には狂わされるのが関の山だった。
そして火花を残して獣は消える。駆け抜けたその先に何が存在しているのか。それを考える力すら、今の彼には残っていなかった。
▪▪▪
トリニティ総合学園の地下墓地。その更に奥底にある祭壇、バシリカにてベアトリーチェは静かに瞑想していた。血に染まった閉じた花弁の様な顔に点在している瞳は瞼に隠れてはいるが、全てが確かに1ヶ所を見つめていた。
月明りすら灯らない程に暗いその場所で、唯一光を発する物がそこにはあった。
それは城門かと見紛う程に巨大なステンドグラス。そしてそこに存在する七色はとある1点に向かって渦を巻いており、その終着点にはまるで瞳の様な紋様が存在していた。それはいずれ来る崩壊への暗示であり、故に放たれる光は暖かくなどない。そんなものはこの場所には似合わない。似合うのはどこまでも冷たく研ぎ澄まされた憎悪と殺意。ただそれだけがあれば人は動ける。何故なら世界がそうなのだからと、彼女は大人として数多の子供を躾けてきた。
大人の言葉は子供にとって絶対だ。大人は子供よりも強く、聡明だ。そんな大人は世界をより素晴らしいものへと進化させるために行動する義務がある。そしてそのためには何をしても許されると、彼女は心の底から信じ込んでいた。
例え知りもしない過去の怨念を植え付けられようと、そのせいで己の命にしら無頓着な鉄砲玉の様な人間が出来上がろうと、例えそれが子供達の願うささやかな未来を根こそぎ奪う事になろうとも、それは必要な犠牲というものだ。寧ろ無くてはならないものだ。
世界を救うために子供は搾取され、支配を受けるべき。その先に更なる進化を得られるものが、『崇高』が存在しているのだから。
「では、準備に取り掛かるとしましょうか」
ベアトリーチェは腰に巻かれたヴィジョンドライバーのボタンを押そうと、紅い指先を伸ばす。しかしそれを行う直前に響いた足音によってそれを停止した。
「……ニラム」
「随分と、好き放題している様ですね」
「…………どうしてここがわかったのです。ここに来る事が出来るのは私かアリウスの生徒だけのはずです」
「確かにそうですね。このカタコンベに入るための入り口からして複雑怪奇でした。……ですがそこはまあ、少々のルール違反をさせて頂きました」
そう言って笑うニラムに対しベアトリーチェは舌を鳴らした。彼が使用した手段はベロバがここに出入りしている方法と恐らく似ているものだろう。しかし彼女のそれは対策をしていた。それを突破したという事は彼独自の上位権限があるという事に他ならない。
「元よりここは我々の土地。あなたが如何に妙な対策を講じようと突破するのは簡単です。――何よりもこの区域は我々にとっても重要度の高い場所ですから。ここが乗っ取られた時点で最大限監視を目を光らせていました」
ニラムが指を鳴らすと同時に出現する小型のカメラ。開かれた瞳の様な形をしたそれらは憎々し気に歪むベアトリーチェの表情を鮮明に写し出していた。
ニラムの顔から笑顔が消え、名が示す通りの敵意の籠った色へと描き換わっていく。彼女は虎の尾を踏んでしまっているのだという状況を瞬時に理解し、そして即座にジャマトを出現させた。
「マダム、私は再三忠告をしたはずです。我々はあなたの探求の邪魔はしない、あなた方が我々の邪魔をしない限りはとね」
粘ついた黒煙の中から姿を見せる多くのジャマト達に囲まれようと、ニラムは眉1つ動かさない。ただ粛々と目の前の狼藉者に眼光を浴びせるのみ。
「ヴルドンナの件に始まり、ナビゲーターの描き変え・ゲームマスターの殺害・ヴィジョンドライバーの強奪・果てはデザイアグランプリの乗っ取り……。流石に少々、介入が過ぎる。プレイヤー達の生み出すリアルを勝手に捻じ曲げないで頂きたい。既にデザイア神殿の制御は回収しました。これ以上の抵抗は無意味かと」
「黙りなさい! 崇高もろくに理解せず、ただ娯楽として世界を弄ぶ愚者が! ただ悪戯に消費するだけのあなたに、この私の行動の尊さがわかるはずもない……!」
「私にとってはリアルこそが崇高。我々の世界では決して手に入らないものであるからこそ、皆が焦がれる……。あなたの呼ぶ崇高も、結局はそういうものでしょう。自らの掲げる願いをそう脚色しているに過ぎない」
「私の崇高が、
ベアトリーチェ含めたゲマトリアは、彼らは探求者として自らの信念を賭けて崇高を追い求める存在だ。そのためにはあらゆる手段を用いて、それによって発生する被害には目を瞑るのが彼らだ。その在り方は確かにデザイアグランプリのプレイヤー達に通じるものがあるだろう。ニラムにとってそれは愚かしくもあり、どこか羨ましいものでもあった。ベロバと手を組むといった真似をしなければ、もう少し仲良くなれたかもしれないが仕方がない。
彼女は既に本来あるべき
《VISION DRIVER》
それはたった今ベアトリーチェがつけているものと全く同じ物に見える。しかし中身はまるで異なる。彼女が持つドライバーよりも遥かに高性能なプロデューサー用のそれを装着し、彼は自らの指紋を認証させる。そして透明のカードを取り出し、告げる。
「変身――――」《INNOVATION & CONTROL, GAZER――――!》
高級感溢れるスーツ姿から電子回路のような幾何学模様のラインが施された白と金の装甲へとその姿を変え、同時に周囲のジャマトを焼き払う。ニラムが変身した仮面ライダーゲイザー。その機能は通常のプレイヤーライダーとは一線を画す。勿論ベロバや警備隊ライダーなど相手にならないレベルであり、当然それらに倒される様な存在が彼に勝つなど不可能である事は明白だった。
その事はベアトリーチェ自身も把握していた。ベロバから最優先警戒対象に指定されていた人物を目の前にして尚、彼女は退かない。無論それはプライドのよるものでもある。彼女にとっての崇高をそこらの願いと一絡げにされた屈辱は筆舌に尽くしがたいものがある。しかしそれ以上に、これが好機だと判断したのだ。彼女の目的を果たすための重要な鍵、即ち世界を再構築する力を手に入れるための絶好のチャンスであると。
「一体何を企んでいるのかは知りませんが、無駄です」
残る一体が炭と化した。ゲイザーに差し向けたのは全てが上級個体であるにも関わらず、勝負は5分とかからない。全くもって忌々しいが、ベアトリーチェが狼狽える事は無かった。何も悪戯に手駒を減らした訳では無い。彼女は大人であり、故に行いは全て成功に紐づけられていなくてはならないのだ。
周囲のジャマトの残骸が分解され、塵となって周囲に舞い上がる。それらは全てがバシリカの中央奥、祭壇へと集められていく。そこに鎮座する十字架が妖しく光り、ゲイザーの視界を一瞬塞いだ。
次に目を開けた時、そこには人が立っていた。まだ年端もいかないであろう幼子でありながら、全身から放たれるそれは子供であると一笑にふせるものではない。腰につけられたドライバーが不釣り合いな程に大きく見える。
「…………馬鹿な。何だこの、神秘の濃度は……!?」
ここに来て初めて、ゲイザーは焦りの声を発した。普段ならば例え想定外の事が起きたとしてもリアルだと割り切り、冷静に仕事をこなす彼がただ狼狽える事しか出来ない。そこにあるのは通常ありえない
《SET》
厳かな電子音が響く。取り出したのは紛れもなくブーストバックル。しかし本来のそれとは色が異なっている。
「――――――――へんしん」
まだどこか幼さの残る口調で、彼は告げた。グリップを捻ると同時に噴き出す炎。それは黒く、まるで工場から発せられる排気ガスの様に穢れている。それが出現した『BOOST』の文字を砕き、鎧となって彼の全身を包む。
《BOOST》
そして現れたその姿を彼が知らないはずはない。かの者は幾度も世界を救った存在であるが故に。しかしあり得ないと彼は幾度も口にする。
確証は無い。しかしその存在はデザグラの法則どころか世界の法則まで破っている様な、そんな気がしてならないのだ。ベアトリーチェは間違いなく禁じ手を打った。それだけは何故か断言出来る。
「黒い、ギーツだと…………?」
《READY――――、FIGHT》
まるで新品の機械の様に体を軋ませ、それは祭壇から降り立った
「グッ…………!」
重い蹴りを受け止めたゲイザーの右腕から全身へと衝撃が駆け巡る。流石は切り札たるブーストフォーム、その一撃は完全な上位システムである彼にも十分なダメージを与える事が可能であるらしい。
「だが、戦い方はお粗末だ…………!」
ゲイザーはギーツの脚を掴んで動きを封じ、胸部に空いた拳を叩き込む。鈍い打撃音と共にたじろぐ彼に対してドローンをによる追撃を加える。光の槍がギーツの体を貫いていき、一方的な蹂躙が展開される。しかしそれらの攻撃に一切の隙が無いという訳では無い。光線を絶え間なく撃っていたとしても、必ずどこかで綻びは生じる。そしてその隙をギーツは見逃さなかった。
「――――――――」
ギーツの装甲には幾多もの傷が刻まれている。通常ならば既に変身は解除されているはずだが、黒いギーツにはその常識は通用しない。ミメシスたる彼には痛覚は疲労など存在しないのだ。故に
「何としてもここで始末しなければ…………」
ゲイザーはどこか空虚に呟く。彼にとっては目の前の紛い物の存在はリアルではなく、存在を許容する事は出来ない。仮面ライダー達は変えの利かない無二の存在であるからこそ尊いというのに。自由意志を持つのであればまだしも、それすら存在しないのであればもうどうしようもない。
しかしそれ以上に、この存在は危険だと訴えかけられている様な気がしてならなかった。これ程に危機感を彼は未だかつて抱いた事が無い。己の信念ではない大義のために力を振るうなど、幾年ぶりだろうか。
今持てる力をありったけ。彼にとって初めてであろう感情を両足に籠め、彼はカードをドライバーにスライドさせる。
《DELETE》
浮かび上がる光輪が翼を形作り、ゲイザーの体を宙へと導く。それはまるで審判を下す天使の様で、また命を狩り獲る死神の様にも感じられる。そして渾身の力がギーツ目掛けて惜しみなく放たれる。
バシリカ内が、閃光に包まれた。
▪▪▪
「景和、起きてる…………?」
「え、姉ちゃん……!?」
ゆっくりと扉を開いて現れた姉を前にして、景和は目を見開いた。淡い月明りに照らされる空色の髪が美しく輝く。キヴォトス全域の秩序を担う連邦生徒会長、桜井アロナは様々な評判で語られている。しかし今この瞬間だけは、弟を案ずる1人の姉として彼と向かい合っていた。
「良かった無事で…………!」
開口一番、アロナは景和を抱きしめた。涙混じりの声を発しながら、彼女は弟の胸に顔を埋める。たったそれだけで自身がどれだけ彼女に心配をかけたのか、彼は痛い程に思い知らされた。
「景和は昔から巻き込まれ体質だったけど、今度はテロに巻き込まれちゃうなんて…………! 私だけじゃない、リンちゃんやアオイちゃんもすっごく心配してたんだから…………!」
それはおおよそ普段の連邦生徒会長たるアロナからは、そして姉としても考えられない程に弱弱しい声だった。
ここ数日で、連邦生徒会は激動の日々を迎えている。その大部分がトリニティ総合学園で起きた騒動に起因するものであり、その鎮圧に彼女も追われていた。
加えて犯人の特定や追跡・調査。負担を軽くするために外部から呼び込んだ先生すらも意識不明になってしまった彼女の心情は察するに余りある。
その様な状況で更に追い打ちをかけてしまった自分の至らなさが、景和の心に重く圧し掛かってくる。せめて先生だけでも守れていたら――――。この思いだけはどうしても離れない。
「ごめん姉ちゃん……。俺がもっとしっかりしてれば……」
「ううん、しょうがないよ。でもどうして景和がトリニティに居たの?」
アロナからの質問に景和は言い淀む。確かに他校の自治区内、しかも校舎内に彼が居た事は確かに疑問だろう。監視カメラのでも映ってしまったのか、彼女の目に入ってしまったらしい。
だが馬鹿正直に伝える訳にはいかない。あれほど心配をかけた彼女に「命を賭けたゲーム」に参加しているなどと、言えるはずがない。
「ちょっと、友達に用があって…………」
「それって、浮世英寿の事?」
「…………っ?」
友達という言葉を出した瞬間、アロナの瞳が細められる。その奥にある鋭い怒気は見ているだけの景和でさえも、まるで背中に氷点下の冷水を流し込まれたかの様な感覚に陥らせた。
「姉ちゃん、どうしたの……?」
これだ、この感じだ。景和が姉を一時期苦手になった理由が今の彼女には詰まっていた。彼が知る優しい姉からは考えられない程に冷たく、そして恐怖を抱かせる様な出で立ち。それが彼にとっては何よりも恐ろしかった。まるで姉が全く別の何かになってしまった様で。
「景和、教えて? あいつと何をしたの? 何をさせられたの?」
「ちょっと待ってよ姉ちゃん! 英寿君は関係無いんだよ!」
「どうしてそんな事がわかるの? あいつはミカさんと接触しただけじゃない、トリニティの自治区で暴れていたりもしてたの。今回の件と関係がないならどうして混乱を作る様な真似をしたの?」
「それは…………」
「一緒にお蕎麦を食べた相手を庇いたいのはわかるよ。でもこれはもうそんなレベルで済む問題じゃない。……下手をすれば、アリウスと繋がっている可能性だってあるんだから」
アロナの言葉に、景和は沈痛な表情で言葉を詰まらせる。英寿は無実だ。アリウスが、サオリが自分達を襲ってきた理由はわからないが、昨晩の事を鑑みても彼がスクワッドの仲間であるはずはない。
伝えなければならない。しかし同時にジャマトグランプリの事を伝えて、彼女を巻き込む事になってしまうとなればどうしても口が開かない。
その様子を、アロナは傷心と受け取ったらしい。優しい弟が友人だと思っていた男に騙されて、傷ついているのだと感じた彼女はそっと景和の頬に手を置く。
「…………あの、姉ちゃん!」
「大丈夫。景和は何も心配しなくていいの」
「ぁ――――」
柔らかな感触に、景和の顔全体が包まれる。暖かな温もりと視界を覆うアロナの瞳。それを認識した瞬間に景和の喉は動きを止め、吐き出されようとしていた言葉が押し戻されていく。喉を逆流する感覚は気持ち悪く、そして苦しい。しかし再び吐き出そうという気にはなれなかった。
「嫌だったよね、苦しかったよね? もう良い、もう良いの」
姉は弟の頭を優しく撫でる。それはまるで甘く染み渡る様な、浴びた者を溶かしてしまうかの様な熱い
「あなたはただ私の家族で居てくれれば、それで良いから」
桜井アロナという少女はどこまでも支配者であると、誰かが言った。時として冷酷に、時として優しく。人が心の中で焦がれているものを見抜いてそれを与える。受けた当人は無意識で、しかし確かに受けた快楽は人を簡単に堕としてしまうのだ。それは家族に対してであっても例外ではない。彼女は自身の行いの正しさを信じている。自身の言う通りにすれば幸せになれると信じている。その妄信に近い愚直さがあるからこそ、今に至るまでに望みを達成してきたと言える。
「姉ちゃん……」
しかしアロナは神でも、機械でもない。それ故どこかで必ず間違える。そして今回に至っては、前提条件から間違えているのだと彼女は気がつかない。
彼女は景和が自身に対してどんな感情を抱いているのか、知ろうともしていなかった。
「姉ちゃんは、どうして連邦生徒会長になったの?」
景和の口から出たのはそんな単純な疑問だった。しかしずっと気になっていた事でもある。アロナが今の立場について以降、姉弟に時間は大きく減った。無くなったと言い換えても過言ではないかもしれない。
姉はキヴォトスの秩序の頂点に立ち、弟は少しでも姉の負担を減らそうと人助けに精を出す様になった。互いが互いに精一杯になっていたが故に話す事の無かった彼女の原点。彼には家族があっという間に消えてしまった様に思えてならなかったのだ。
桜井景和は、姉の事を何も知らない。
「何で、か――――」
アロナは一瞬考える仕草を見せた後、笑って言った。
「世界中の皆が幸せになれる世界を創るため、かな」
そう言って笑うアロナの瞳はどこまでも透き通っていて美しい。幼子が抱く夢物語にも思えるそれを語る彼女の顔は、内容の通りどこか幼くも見える。即ちそれは純粋であるという事。その思いに一点の嘘偽りも無いと思える程に彼女は輝いていた。まるで夜空を流れる流星の様に。
「今のエデン条約もそう。皆が仲良くなれば、きっと世界は幸せになる。景和もリンちゃんもヒナさんもナギサさんも、皆。そのためなら、私は
アロナの言葉には何1つ嘘は無かった。彼女が掲げる理想の世界。それを得るためであれば彼女はあらゆる手段を用いるだろう。時には非情な判断だってしてみせる。彼女の笑顔にはそんな覚悟も含まれている様な気がしてならない。景和は彼女を見て、更なる疑問を口にする。
「姉ちゃんは? 姉ちゃんは幸せにはならないの?」
景和のその言葉にアロナは心底嬉しそうにはにかんだ。向けられたのは外からやってきた大人と同じ、混じりけ無しの純粋な善意。先生や景和と一緒に未来を過ごせたら、それはどんなに幸福な事だろう。それ以上は無いと断言出来る程に幸せな未来。しかしそれを自身がそれを掴める日は来ないのではないかと、彼女はどこかで感じている。
今に至るまでにも多数を見捨て、切り捨ててきた。アビドス、補習授業部、アリウス分校。理想は理想だ。掲げる事自体は尊く、素晴らしい事。しかし相応に現実も見なくてはならない。
全てを救う事が不可能であるのなら、せめて手の届く範囲だけでも確実に。それが連邦生徒会長として下した譲れない一線であった。
「私は、どうだろう…………。結構恨みとか買っちゃってるからなぁ、あはは…………」
アロナは愚直であると同時に潔い。困った様に頬を掻くその様子は彼女自身を勘定に入れていない事は明白だった。そして景和はそれを見過ごせない。自分だけが幸せになって姉は取り残される世界など、冗談ではなかった。
「ダメだよ……! 姉ちゃんが幸せじゃなきゃ、俺も幸せになれない……」
「景和…………」
俯きながら景和は告げる。姉の理想は尊いものだ。彼女が明確に掲げたそれは彼が今まで漠然と掲げてきたものと同一であり、故に羞恥の感情が彼を満たしていく。掲げる
だが今彼が呟いた吐露した言葉は、今までに無い強さを有している様に思える。それは何よりも景和自身が感じている事だった。
「俺は姉ちゃんの役に立てないの? 俺だって皆が、姉ちゃんが幸せになれる世界を創りたいって思ってる……! 今更遅いのかもしれないけど、それでも…………!」
本当に嬉しい事を言ってくれる、とアロナは顔を綻ばせる。景和の言の葉が次第に熱を帯びていく。カエルに言われた言葉が彼の脳内を過る。世界を変えるのは他の誰でもない、景和自身なのだと彼は言った。何の根拠も無い言葉ではあるが、それでも彼はその事を心の底から信じ、渇望している様にも思えたのだ。
その思いに答えねばならない。世界の平和の願って己に託した者がいるのだから。
「姉ちゃんが誰かを怒らせたのなら俺も謝る。姉ちゃんが何かを溢したなら俺が拾う。姉ちゃんが守れなかったものはアレが守るから、だから――――!」
「ありがとう、景和」
2人の額が重なり合う。じんわりと伝わり、広がっていく温もりは2人の心に確かな熱を宿した。
「私には私の出来る事を、景和には景和の出来る事を…………。2人で一緒に頑張ろうね」
「………………うん!」
薄う白雲によって月が隠れていく。窓の外から照らされていた光は暗闇に消え、部屋全体が閉ざされていく。その隅で僅かに差し込んだ光を浴びたカエルだけが静かに嗤っていた。