青年と少女たちの日常   作:柊真夜

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12 彩りすぎている

 放課後の教室。西日が差し込み、埃が光の粒のように舞っている。僕がカバンを持って立ち上がった時、前の席で机を叩く音が聞こえた。

 

「……はぁ。やっぱり、ここが覚えられない……」

 

 丸山彩だ。同じクラスで、パステルパレットというアイドルのセンター。いつも明るく、クラスの男子からも女子からも「アイドルだ」と持て囃されている彼女だが、今はボサボサになった髪をかき上げ、必死に英単語帳と格闘していた。

 

「丸山、そこ、過去分詞の不規則変化だから、機械的に覚えるより音の繋がりで捉えた方が楽だぞ」

「ふぇっ!? や、山崎くん!? 起きてたの!?」

「ずっと起きてたよ。後ろの席なんだから」

 

 彩は慌てて乱れた前髪を整えようとしたが、指が絆創膏だらけで上手くいっていない。

 

「もう……! 見ないでよ、アイドル失格だぁ……。テスト勉強も全然進まないし、明日は事務所のダンスチェックがあるし、ライブの新曲の歌詞も飛ばしちゃいそうで……」

 

 泣きそうになりながら、彼女は必死にペンを動かす。クラスメイトとしての彼女は、テレビで見る「完璧なピンクのアイドル」とは程遠い。どこまでも不器用で、綱渡りのような毎日を過ごしている。

 

「……じゃあ、バイト先で続きを教えてやるよ。どうせ、今日もCIRCLEで練習だろ?」 「えっ!? いいの!?……あ、でも山崎くん、最近忙しそうだったから……。文化祭の時も、なんだか凄く大変そうだったし」

 

 文化祭での修羅場。あの日のことは、学校中、特に女子の間で「山崎を囲む会」などと揶揄されているらしいが、彩だけはそれを面白がる風でもなく、どこか心配そうに僕を見ていた。

 

「別に、受付で単語帳を開くくらいなら構わない。……来いよ」

「……うん。ありがとう、山崎くん!」

________________________________________

 夕方のCIRCLE。僕は受付で機材のチェックリストを埋め、彩はカウンターの端で単語帳と睨めっこをしていた。

 

「……山崎さん。この『relieve』って、どういう意味だっけ?」

「『和らげる』とか『解放する』だ。痛みを取り除く時とかにも使う」

「和らげる……。あ、ダンスの後のマッサージみたいな感じかな?」

「……まあ、近いかもしれないな」

 

 他愛のない会話。ふと見ると、彼女のペンを持つ手が止まっていた。視線の先には、スタジオから漏れ聞こえてくる、他のバンドの力強い演奏。

 

「……ねぇ、山崎くん」

「何だ」

「私って、やっぱり向いてないのかな。……周りの子たちは、みんな楽器が弾けたり、自分たちの言葉で歌を書けたりするでしょ?私は、誰かが用意してくれたステージで、誰かが作った歌を、笑顔で歌うだけ。それなのに、こんなにボロボロで……」

 

 彩が自分の左手を見つめた。絆創膏の下には、隠しきれない豆やマメの跡がある。アイドルには必要ないはずの、努力の結晶。

 

「楽器が弾けることと、アイドルとしてステージに立つことに、優劣なんてないだろ」 「でも、説得力が違う気がするの。……私には、何もないから」

 

 僕は、チェックリストを置いた。この前、麻弥が言っていたことを思い出す。「丸山さんのダンスは、どんなに激しくても『笑顔』が崩れない。それは技術じゃなく、執念ですよ」と。

 

「丸山」

「……なに?」

「さっきの単語、忘れるなよ。『relieve』。……お前の歌を聴いて、心が救われる奴は、その瞬間、日常の痛みから『解放』されてるんだ。お前がボロボロになってまで作ってる『笑顔』には、それだけの価値がある」

 

 彩が目を見開いた。僕は努めて事務的に、次の機材リストに目を落とす。

 

「お前の努力は、誰も見ていないところで完結してない。……俺は、お前のダンスが昨日より数センチ高く跳べてることも、指が絆創膏だらけな理由も知ってる。それは、お前が『丸山彩』というアイドルに、命を懸けてる証拠だろ」

 

 沈黙が流れた。ふと顔を上げると、彩が僕のことをじっと見つめていた。  その瞳には、いつものアイドルのキラキラしたフィルターではなく、熱を持った「一人の女の子」としての色が宿っていた。

 

「……山崎くんって、本当にズルい」

「何がだよ」

「そんなふうに、誰も気づかないような細かいところまで見てて……。そんなの、勘違いしちゃうよ」

 

 彩の顔が、みるみるうちに赤くなっていく。  彼女は慌てて単語帳をカバンに押し込み、スタジオの鍵を掴んだ。

 

「これ!次のパスパレのライブのチケット!……関係者席、一枚空けておくから!」 「おい、仕事があるかもしれないだろ」

「絶対!絶対に来て! ……山崎くんに、私の『説得力』、ちゃんと見ててほしいから……!」

 

 彼女はそれだけ言うと、逃げるようにスタジオへと走り去った。  バタン、と重い扉が閉まる。

 僕は一人、受付に残された。ペンを回しながら、自分の指先を見る。あいつの死以来、僕は誰かの心に深く踏み込むことを避けてきたはずだった。なのに、丸山彩のあの真っ直ぐな熱は、僕の頑なな拒絶をさらりと溶かしてしまう。

 

「……アイドルってのは、恐ろしいな」

 

 呟いた声は、空っぽのエントランスに消えた。

何日かして、教室に入ると、彩はすでに自分の席に座っていた。  僕が後ろの席に座ると、彼女は振り返らずに、小さなメモ用紙を僕の机に置いた。

 

『今日の英語の小テスト、昨日教えてもらったところ、バッチリだったよ!山崎先生、ありがとう(はぁと)』

 

 メモの隅には、小さなピンクのハートマーク。そして、その下には小さな文字で書き足されていた。

 

『昨日の言葉、ずっと忘れないよ。……山崎くんは、私にとっての「relieve」かもしれないね』

 

 僕はそのメモを二つに折り、筆箱の中に隠した。前の席から、クスクスと楽しそうな、それでいてどこか恥ずかしそうな笑い声が聞こえてくる。

 周囲の連中は、まだ知らない。このクラスの「完璧なアイドル」が、僕という偏屈な男にだけ、その不器用な素顔をさらけ出していることを。

 日常の歯車が、また一つ、狂い始めていた。けれどその狂いは、不快な音ではなく、ポップで、どこか愛おしい旋律を奏でているような気がした。

 

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