青年と少女たちの日常   作:柊真夜

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13 アイデンティティ

放課後の特別棟。美化委員の仕事である廊下の清掃は、とっくに終わっていた。 けれど、僕と奥沢は、清掃用具入れの近くにある予備の机に並んで座っていた。窓の外では吹奏楽部の練習の音が遠く響き、オレンジ色の夕日が校舎を長く、鋭く切り取っている。

 

奥沢がタブレットの作曲ソフトを睨みつけながら、重い溜息をついた。

 

「……はぁ。やっぱり上手くいかないな。こころたちの無茶なイメージを形にするには、コードが足りないっていうか」

 

彼女は『ハロー、ハッピーワールド!』の全楽曲の構成を、実質的に一人で担っている。DJであり、着ぐるみ担当。そして、あの制御不能なメンバーたちを音楽という枠の中に繋ぎ止める、唯一の錨だ。

 

僕は彼女からタブレットを受け取り、ヘッドホンを片耳だけで聴いた。

 

「……どれ。貸してみろ」

 

彼女は苦笑いしながら僕にデバイスを差し出した。

 

「あ、ごめん、山崎さん。結局、また頼っちゃって」

 

彼女は僕がCIRCLEで機材を完璧に扱っている姿を見て以来、時折こうして作曲のアドバイスを求めてくるようになった。僕も、彼女の「普通」を守ろうとする必死さに、つい断れずに手伝ってしまっている。

 

僕は画面を操作し、さらさらとトラックを組み替えていった。

 

「……メロディが渋滞してるんだよ。弦巻さんの『笑顔!』っていう直感に、お前が論理で答えすぎてる。ここは思い切って、バスドラのキックを強調して、上物はシンプルに弾ませればいい」

 

奥沢は隣で、僕の手元を食い入るように見つめていた。

 

「……あ、なるほど。論理で縛りすぎてたのかも。山崎さんって本当に何なんですか?教え方も的確すぎるし……やっぱり、昔かなり本格的にやってたでしょ」

 

僕は彼女の鋭い指摘を、いつものように冗談で受け流した。

 

「……さあな。野球部だったから、リズム感だけは鍛えられてるんだよ」

 

奥沢は呆れたように肩をすくめた。

 

「またそれ。野球部がそんなに簡単に転調のテクニックを使いこなせるわけないでしょ」

 

彼女は自嘲気味に笑い、自分の左手を見つめた。その指先には、慣れない機材操作や着ぐるみのメンテナンスでついた小さな傷がいくつもあった。

 

「……私、時々わからなくなるんです。この曲を作っているのは奥沢美咲なのか、それとも、ミッシェルなのか。みんなが欲しがっているのは、ミッシェルが届ける笑顔でしょ?ステージに立てば、誰も私の素顔なんて見てない。中の私がどれだけ必死に汗をかいていても……求められているのは、あのピンクのクマなんです」

 

夕日に濡れた彼女の瞳が、少しだけ揺れていた。自分を消して虚像を演じ続ける孤独。その音楽が評価されればされるほど、彼女自身の輪郭が薄れていくような感覚。

 

奥沢は震える声でこう呟いた。

 

「……ねぇ、山崎さん。私は、何なんだろうね」

 

僕は操作していたタブレットを置き、彼女の目を真っ直ぐに見返した。

 

そして、こう言った。

 

「……美咲」

 

不意に名前を呼び捨てにされ、彼女の肩が小さく跳ねた。

 

「お前がクマの着ぐるみを着ていようが、制服を着ていようが、俺にとっては何も変わらない。この曲のこの繊細な繋ぎを選んだのは、弦巻さんでもミッシェルでもない。お前、奥沢美咲だ。どんな姿をしていようと、美咲は美咲なんだから。自分をそんなふうに切り離して考えるな。俺が今、こうして作曲を教えてる相手は、クマじゃない。俺のクラスメイトの、ちょっと苦労性で、誰よりも優しい女の子だ」

 

奥沢の瞳が大きく見開かれた。夕日の赤さのせいか、それとも僕の言葉のせいか、彼女の耳元までが真っ赤に染まっていくのが分かった。

 

彼女は俯き、消え入りそうな声でこう返した。

 

「……そんなこと、さらっと言わないでください。……心臓に悪い」

 

僕は努めて平然とした態度で付け加えた。

 

「事実を言っただけだ」

 

奥沢は膝を抱え、顔を半分埋めるようにして小さくなった。

 

「それがズルいんです。……みんなが『世界を笑顔に!』って叫んでる中で、山崎さんだけは、一番後ろにいる私を、ちゃんと見てる。」

 

彼女は顔を上げると、まだ赤らんだ顔のまま、最高の「素顔」の笑顔を見せた。

 

「……お礼に、と言ったら何ですけど。次のライブ、絶対に来てくださいね」

 

いたずらっぽく笑う彼女は、もう「普通」を装う一人の女の子ではなかった。

 

僕はその真っ直ぐな瞳に、こう答えた。

 

「……わかった。約束するよ、奥沢」

 

だから、こうなった。 帰り道、校門を出る時、奥沢はふと立ち止まって僕を振り返った。

 

「山崎さん。私頑張ってみます」

 

彼女はそれだけ言うと、軽やかな足取りで駅の方へと歩き出した。僕はその背中を見送りながら、胸の奥に澱んでいた過去が、少しだけ軽くなったような気がした。

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