ライブハウス『SPACE』。僕が音楽を捨てた日、その遺志を置き去りにした場所。今日、この老舗ライブハウスがその歴史に幕を閉じる。都築店長からの「最後に手伝ってほしい」という電話を、僕は断ることができなかった。
スタッフパスを首に下げ、僕は薄暗い搬入口から中に入った。 鼻をつく煙草の匂いと、吸音材の湿った感触。そして、何よりも濃い「音楽の気配」。
店長が忙しそうに指示を出す中、僕はステージ裏でアンプの設営を手伝っていた。
「彗太、悪い。リハが終わったバンドが戻ってくるから、機材のハケを手伝ってくれ」
店長に言われるがまま通路へ向かうと、向こうから賑やかな声が聞こえてきた。 楽器ケースを抱え、興奮した様子で歩いてくる少女たち。その中心にいたのは、キラキラとした瞳をした戸山香澄だった。
「わあ! 彗太だ! 本当にいたんだね!」
驚いた顔で僕を指差したのは沙綾だった。ポピパのメンバー全員が、ここで僕と会うとは思っていなかったようで、一様に目を丸くしている。
「……今日は手伝いで呼ばれたんだ。お前たち、次だろ」
僕は努めて事務的に接しようとしたが、彼女たちの顔には隠しきれない緊張が滲んでいた。有咲はベースケースのストラップを何度も握り直し、香澄は落ち着きなく足踏みをしている。
僕は彼女たちの顔を見渡し、こう言った。
「お前たちの音は、CIRCLEの受付で何度も聴いてきた。……いつも通りやれば、この場所が最後に見る景色として最高のものになるはずだ。行ってこい」
僕の言葉に、彼女たちは一瞬だけ顔を見合わせ、やがて力強く頷いた。
「うん! 行ってくるね、山崎くん!」
香澄の弾けるような笑顔を残し、彼女たちはステージへと向かっていった。
彼女たちがステージに上がると、フロアからは地鳴りのような歓声が上がった。 僕は袖の暗がりに立ち、モニターから流れてくる彼女たちの音を聴いた。
ポピパの音楽は、眩しすぎるほどに真っ直ぐだった。 その音の粒が鼓膜を叩くたび、僕の胸の奥で、蓋をしていたはずの感情が微かに震える。
かつて、ただ純粋に音を楽しむことだけを考えていた日々。 けれど、注目が集まり、「期待」という名の重圧が積み重なるにつれ、あいつの音は少しずつ、けれど確実に色を失っていった。「漠然とした不安」――あいつが最後に残したその言葉が、今も耳の奥でノイズのように鳴り続けている。
ふと、観客席に降りてみると、後ろに一人の少女が立っているのが見えた。 短い髪に眼鏡をかけ、ステージを見つめるその瞳には、狂気的なまでの憧れと熱量が宿っている。 彼女の手には、使い込まれたギターケースが握られていた。
僕と目が合うと、彼女は少しだけ怯えたように肩を揺らした。
「……良いライブだな」
僕が短くそう声をかけると、彼女は眼鏡の奥の瞳を大きく開き、絞り出すような声でこう返した。
「……はい。凄いです、ポピパさん。うち……うちもいつか、あんな風に……」
彼女はそれ以上は何も言わず、ただ祈るようにステージを見つめ続けていた。 朝日六花。この時の僕には、彼女が後に僕の人生に深く関わることになるなど、知る由もなかった。
ライブがすべて終わり、客が引けた後の静まり返ったフロア。 僕は店長と二人で、ステージの片付けをしていた。 店長は使い古された灰皿に火を点けると、僕の背中に向かってこう問いかけた。
「彗太。今日、ここで鳴っていた音をどう聴いた?」
僕はケーブルを巻く手を止めず、こう答えた。
「……うるさかったです。でも、嫌な音じゃなかった」
店長は短く笑い、煙を吐き出した。
「あんた、あの子が死んでから一度も楽器を触ってないんだろ。……あの子が最後にここに残していった楽譜、まだ事務所にあるぞ。あれを完成させられるのは、世界中で一人しかいない」
僕は手を止め、暗いステージを見つめた。 あの日、あいつが最後に書こうとしていた旋律。 それを思い出すだけで、指先が凍りつくような感覚に陥る。
そして、僕はこう返した。
「店長、俺はもう音楽の人間じゃないんです。野球を辞めた時、全部あっち側に置いてきたつもりなんです」
だから、こうなった。 店長はそれ以上何も言わず、ただ黙って僕の肩を一度だけ強く叩いた。
搬入口を出ると、冷たい夜風が火照った顔を冷やしてくれた。 夜空を見上げても、あいつの奏でていたような星の音は聞こえてこない。 けれど、耳の奥では、ポピパが残したあの眩しい残響が、消えずにずっと鳴り続けていた。
僕はポケットの中で拳を握りしめ、一度も振り返ることなく、駅へと向かう道を歩き出した。