冷たい冬の風が街を白く染め始めた頃、僕のスマホに一通のメッセージが届いた。差出人は奥沢美咲。そこには「ごめん、また断れない状況に追い込まれた」という、呪いの言葉にも似た一文が添えられていた。
だから、こうなった。
そびえ立つ白亜の要塞――という形容が相応しい弦巻家の豪邸の前に、僕は立っていた。 美化委員や掃除で奥沢とは親しくなったが、まさか彼女から「弦巻家のクリスマスパーティーの助っ人」として呼び出されるとは思わなかった。
「……悪い。本当に、悪いと思ってる」
エントランスで僕を迎えた奥沢は、いつもの私服の上から、なぜか既に重そうなクマの着ぐるみの片腕を抱えていた。
「いや、いいけど。……それで、俺は何をすればいいんだ?」
「こころが『世界を笑顔にするには、まず冷えた心に火を灯さなきゃ!』とか言い出してね。山崎さんは……その、こころの話し相手兼、暴走のストッパー役を期待されてるみたいだ」
奥沢に案内された大広間は、もはや個人の家とは思えないほどの装飾が施されていた。 中央の大きなツリーの下で、金髪をなびかせて笑っている少女――弦巻こころ。彼女は僕の姿を見つけるなり、弾けるような勢いで駆け寄ってきた。
「あなたが彗太ね!美咲から聞いていたわ!ようこそ、世界で一番ハッピーな場所へ!」
こころは僕の手を強引に掴むと、爛々とした瞳で僕の顔を覗き込んできた。 その瞳は、嘘を一切許さないような、残酷なまでに澄んだ輝きを放っている。
「……初めまして、弦巻さん。奥沢から手伝いに来るよう言われて」
「ふふっ、そんなに硬くならなくていいわ!」
こころはふと、笑みを少しだけ和らげ、僕の瞳をじっと見つめた。
「彗太。あなたの目、とっても綺麗。……でも、なんだか少しだけ、悲しげだわ。なにかあったの?」
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。初対面で、しかもこんな天真爛漫な少女に、僕が隠し続けている「過去の澱」を見抜かれるとは思わなかった。僕は慌てて視線を逸らし、適当な言葉で誤魔化した。
「……寝不足なだけだよ。それより、パーティーの準備だろ?」
「そうね!じゃあ、準備を始める前に……一つ、とびきりのハッピーをプレゼントするわ!」
こころはそう言うと、広間の中心に置かれたグランドピアノの側へ駆け寄った。 伴奏があるわけでもないのに、彼女は堂々と胸を張り、突然歌い出した。
ハロー、ハッピーワールド!の楽曲。 いつもはミッシェル(奥沢)の音に支えられている彼女の歌声だが、アカペラで聴くそれは、暴力的なまでのポジティブさを孕んでいた。 技術がどうとか、ピッチがどうとか、そんな次元の話ではない。 ただ、「世界を笑わせる」という一念だけで突き進む、純粋なエネルギーの塊。
僕は、その歌声に圧倒されていた。 あいつと一緒に曲を書いていた時、僕たちはいつの間にか「誰かに評価されるための音」ばかりを追いかけていた。 でも、この少女の歌には、そんな濁りが一切ない。
歌い終えたこころは、さらにテンションを上げた。
「次は、最高のアクロバットでみんなを驚かせるわ!ミッシェル、見ていて!」
「ちょっと、こころ!室内で宙返りは――」
奥沢の制止も聞かず、こころは近くのソファを蹴って高く跳んだ。 だが、冬の床はワックスがかかったばかりで、着地の瞬間に彼女の足が滑った。
「わっ……!?」
「危ない!」
僕は反射的に体が動いていた。かつて野球部で培った、瞬発力。倒れそうになったこころの体を、僕は両腕でがっしりと受け止めた。彼女の細い肩が、僕の胸に衝突する。金髪から香る、甘い冬の果実のような匂いが鼻をくすぐった。
「……っ、大丈夫か、弦巻さん」
「……ええ。ありがとう、彗太」
腕の中のこころは、なぜかじっと黙ったまま、僕の胸に耳を当てるようにして固まっていた。
「……弦巻さん?」
「……あったかいわ。彗太の中にあるもの、とってもあったかい」
彼女はゆっくりと顔を上げると、頬を赤らめ、好奇心に満ちた瞳で僕を見つめた。
「悲しい色をしているのに、すごく優しいのね!私、もっと詳しく知りたくなっちゃったわ!」
言うが早いか、こころは僕の首に腕を回し、まるでぬいぐるみに抱きつくような勢いで抱きついてこようとした。
「ちょっ、ちょっと待て、弦巻さん!」
「逃げないで!あなたの『あったかい秘密』を、私に全部教えてちょうだい!」
「ああ、もう……だから言ったんだよ、山崎さん!」
奥沢のクマの腕が虚空を舞う。 こころの天真爛漫な、けれど執拗な「ハッピーの追求」に、僕は冷や汗を流しながら後退りした。
「悪い、奥沢!やっぱり俺には荷が重い!」
「ああっ、逃げるなんてずるいわ、彗太!待ってー!」
僕は追いかけてくる金髪の嵐から逃れるように、豪華な廊下を全速力で走り抜けた。 背後からは、こころの鈴を転がすような笑い声と、「山崎さーん、助けてー!」という奥沢の絶望的な叫びが響いていた。
だから、こうなった。僕は弦巻家を飛び出し、凍てつく冬の夜道へ逃げ帰ることになった。けれど、マフラーに埋めた口元からは、自分でも驚くほど自然な吐息が漏れてい た。
こころが言った「あったかいもの」。自分ではもう枯れてしまったと思っていた感情が、あの少女の歌と、あの小さな体温に触れた瞬間、微かに熱を取り戻したような気がした。
「……勘弁してくれよ」
僕は一言だけ呟くと、二度とあのお屋敷には近づかないと心に決めた。……と言いつつも、明日、学校で奥沢にどんな顔をすればいいか考え、結局は深く溜息をつくのだった。