深夜の住宅街。昼間の喧騒が嘘のように寝静まった通りを、僕は一人で歩いていた。 ライブハウス『CIRCLE』での深夜シフトを終え、切らしたコーヒーと明日の朝食を買うために近所のコンビニに立ち寄った帰り道のことだ。
店舗の裏手、街灯の光も届きにくい暗がりに、不釣り合いな赤色のメッシュが混じった黒髪が見えた。
美竹蘭だ。
彼女のことはよく知っている。CIRCLEのステージに立つバンド『Afterglow』のギターボーカル。いつも仲間たちと熱い音をぶつけ合っている、ストイックで真っ直ぐな少女。 だが、こんな時間に、制服の上に薄いパーカーを羽織っただけの姿で、冷たいコンクリートに座り込んでいるのは明らかに異常だった。
僕は関わりたくないという本能に従い、一度は歩みを早めた。 けれど、彼女の震える肩と、今にも消え入りそうな孤独な気配が、僕の足を止めさせた。
僕はため息をつき、ホットの缶コーヒーを二つ買って、彼女の隣に無造作に置いた。
「……何、あんた。CIRCLEの……山崎先輩?」
蘭が鋭い視線で僕を射抜く。その瞳は少しだけ潤んでいて、けれど決して弱みを見せまいとする強い意志に満ちていた。
「ただのスタッフだよ。そんなところで固まってると、風邪を引くぞ」
「……もうどうでもいい。……ほっといてよ」
彼女は吐き捨てるように言うと、僕が置いたコーヒーを手に取り、その温もりを確かめるように指を丸めた。
だから、こうなった。
僕は深夜のコンビニの駐車場で、家出中だという美竹蘭の、強引な話し相手を務めることになった。
「……ケンカした。どうしても、分かり合えない人がいるの」
蘭は遠くの街灯を見つめながら、ポツリポツリと語り出した。相手の名前は出さなかったが、家風や伝統という言葉が端々に出る。厳格な父親との確執だろう。
「あの人は、私の音楽も、私の選んだ道も、全部『遊び』だって決めつける。華道だとか伝統だとか……そんなことばっかり。私の歌が、あいつらと一緒に鳴らす音が、どれだけ必死なものか、一秒も聴こうとしない」
彼女の声は怒りに震えていた。けれど、その底には、聴いてもらえないことへの深い悲しみが沈んでいた。かつて、僕があいつと一緒に音楽を紡いでいた時、周囲の「期待」や「評価」という勝手なレッテルに苦しんだ記憶が、蘭の言葉と重なって胸を突く。
僕は、彼女の横顔を見つめながら静かに口を開いた。
「……一回、その人と冷静に話し合ってみたらどうだ?」
蘭は弾かれたように僕を見た。
「無理だよ。だって、あの人は絶対に――」
「話し合って、もしそれでも合わなかったら、その時だ。その時に、自分の道を行けばいい。感情をぶつけるだけじゃ、相手にはノイズとしてしか届かない。あんたがステージで届けようとしているのが『音』なら、まずは静寂を作らないと」
僕の言葉に、蘭はハッとしたように目を見開いた。
「……合わなかったら、その時?」
「ああ。決別するにしても、自分の想いを整理して伝えた後なら、後悔は少なくて済む。逃げたままだと、その音がずっと耳の奥でノイズになって残り続けるぞ。俺みたいにな」
僕が自嘲気味に付け加えると、蘭はしばらく黙って、冷めかけたコーヒーを一口飲んだ。
「……あんた、変なスタッフ。いつも裏方で黙って機材弄ってるだけだと思ってたのに」
蘭が少しだけ表情を和らげた、その時だった。 駐車場の入り口に、一台の黒い高級車が静かに滑り込んできた。
車から降りてきたのは、和服の上にコートを羽織った、厳格そうな初老の男性だった。 その一瞥だけで空気が凍りつくような、圧倒的な威圧感。蘭の父親だ。
僕はまずいと直感した。深夜に女子高生を連れ回していると思われても文句は言えない。最悪、バイトをクビになるか、あるいはもっと面倒な事態になることを覚悟した。
だが、男性は蘭の姿を確認すると、大きく一つ溜息をつき、僕の方を向いて深々と頭を下げた。
「……娘が、夜分に付き合わせてしまって申し訳ない。山崎くん、と言ったか。今度何かお返しをしなければ」
「え……あ、いえ」
僕は驚きで言葉を失った。蘭も父親の意外な低姿勢に、毒気を抜かれたように立ち尽くしている。
「蘭。……お前の言い分は、家で聞こう。寒かろう、帰りなさい」
父親の声は低く、相変わらず厳格だったが、そこには娘を案じる微かな温度が含まれていた。蘭は僕を一瞬だけ振り返り、何かを言いかけてから、小さく唇を噛んだ。
「……コーヒー、ごちそうさま。山崎」
彼女はそれだけ言うと、父親と共に車に乗り込んだ。走り去る車のテールランプを見送りながら、僕は自分の手の中に残った空の缶コーヒーを見つめた。
だから、こうなった。 数日後、CIRCLEのロビーで機材を運んでいた僕の横を、蘭が通り過ぎた。 彼女はいつも通りの不愛想な顔だったが、通り過ぎる瞬間に、誰にも聞こえないような小さな声でこう囁いた。
「……昨日の、試してみた。もしダメだったら、またあんたにコーヒー奢らせるから」
赤いメッシュが揺れる背中を見送りながら、僕は肩をすくめた。 日常という名の五線譜に、また少しだけ新しい音が混じる。 それは、昨日よりも少しだけ澄んだ、迷いのない一音だった。