昼食時の喧騒を避けるのは、僕にとって日課のようなものだ。騒がしい食堂や、中庭の芝生。そこには僕の居場所も、僕が求める静寂もない。
だから、こうなった。 僕は人気のない旧校舎の空き教室に陣取り、一人でパンを齧っていた。窓から差し込む冬の柔らかな日差しが、埃の舞う教室内を白く照らしている。ここなら、誰にも邪魔されずに時間を潰せる。
そう思っていた。
「……あ!見ーつけたっ!」
静寂を切り裂くように、扉が勢いよく開いた。そこに立っていたのは、水色の長い髪を跳ねさせ、宝石のような瞳を爛々と輝かせた少女。氷川日菜だった。彼女は僕が一歩的に知っているだけのはずだ。彼女は僕の姿を認めるなり、まるで獲物を見つけた小動物のように駆け寄ってきた。
「君、山崎くんだよね!お姉ちゃんの知り合いの!」
僕は喉に詰まりかけたパンを何とか飲み込み、怪訝な顔で彼女を見返した。
「……何でここに。氷川――姉の方には、届け物でもあるのか?」
「そうそう!お母さんに頼まれちゃって。でもこの学校、広すぎて全然わかんないんだもん。ね、案内してよ。山崎くんなら、お姉ちゃんが今どこにいるか知ってるでしょ?」
日菜は悪びれる様子もなく、僕の腕を強引に掴んで立ち上がらせた。彼女の行動には一切の躊躇がない。氷川(紗夜)から聞いていた「天才肌の妹」という言葉が脳裏をよぎる。紗夜があれほどまでにストイックに、そして時に神経質になる理由が、この無邪気な嵐のような少女と対峙して一瞬で理解できた。
案内を断る間もなく、僕は日菜に連れられる形で廊下へと出た。
「ねえねえ、山崎くんから見て、お姉ちゃんってどんな感じ?学校でのお姉ちゃん、気になるなー!」
日菜は僕の隣を弾むように歩きながら、次から次へと質問を投げかけてくる。
「……氷川は、真面目すぎるくらい真面目だよ。音楽に対しても、掃除の当番に対しても。……でも、時々、自分のペースを乱されると、すごく子供みたいにムキになる。そこが、まあ……面白いというか、目が離せないところではあるけど」
僕がぼそりと本音を漏らすと、日菜は突然立ち止まった。彼女は僕の顔をじっと覗き込み、そして、満開の花が咲くような笑顔を見せた。
「……るんっ!と来ちゃった!」
「は……?」
「山崎くん、お姉ちゃんのこと、すっごくよく見てるんだね!今の話し方、なんだか『特別』って感じがしたよ!」
日菜はニヤニヤと笑いながら、僕の二の腕に自分の腕を絡めてきた。
「ちょっ、お前、近すぎ――」
「いいじゃんいいじゃん!ねえ、もっと教えてよ。お姉ちゃんが山崎くんにだけ見せる顔、あるでしょ?るんっとくるエピソード、期待しちゃうなー!」
日菜は僕の反応を楽しむように、わざと体を密着させてくる。傍から見れば、完全に放課後のカップルがイチャついているようにしか見えないだろう。僕は必死に距離を取ろうとしたが、彼女は驚くほど力が強く、結局そのまま引きずられるようにして生徒会室の前まで辿り着いた。
「……いた。あそこだ」
生徒会室の扉の前、書類を抱えて歩いてくる紗夜の姿が見えた。彼女は、こちらを見るなり、持っていた書類を床に落としそうになるほど驚愕の表情を浮かべた。
「な……っ!?日菜!?それに、山崎さん……!?」
紗夜の視線は、僕の腕にがっしりと抱きついている日菜の手元に釘付けになっていた。
「ヤッホー、お姉ちゃん!山崎くんに案内してもらっちゃった!すっごく優しかったよ、山崎くん!」
「優し……っ?日菜、今すぐその手を離しなさい!山崎さんも、そんな……そんな不謹慎な真似を許すなんて、どういうつもりですか!」
紗夜の顔が、怒りと――それ以上に、言葉にできない焦燥で真っ赤に染まっていく。彼女は日菜の手を乱暴に振りほどくと、僕と日菜の間に割り込むようにして立った。
「届け物なら受け取りました。用が済んだなら、日菜は早く帰りなさい。山崎さんも、あまりこの子を甘やかさないでください!」
「えー、お姉ちゃん、もしかして嫉妬?顔、真っ赤だよ?」
「嫉妬なわけないでしょう!ただ、校内での規律を――」
紗夜の声が裏返る。僕はその場に漂う凄まじい「修羅場」の気配に、早々に退散することに決めた。
その日の夜。氷川家の、静かな時間が流れるリビング。紗夜は自分の部屋で、開いたままの参考書を前に呆然としていた。ペンを握る手は止まり、頭の中では昼間に見た、日菜と僕の親しげな姿が何度もリフレインしていた。
(……あんな風に、距離を詰めて……山崎さんも、満更でもなさそうだった……)
胸の奥がチリチリと焼けるような、嫌な感覚。 それは、自分だけが知っているはずだった「特別な場所」に、土足で踏み込まれたような痛みだった。
そこへ、ノックもなしに扉が開いた。
「お姉ちゃーん、入るよーっ」
「……日菜。ノックをしなさいと言っているでしょう」
紗夜は努めて冷静を装い、妹を睨みつけた。だが、日菜はニマニマとした含み笑いを隠そうともせず、紗夜のベッドに腰を下ろした。
「ねえ、お姉ちゃん。今日、山崎くんのこと見てる時、すっごく『るんっ』てしてたよね」
「……何のことよ。私はただ、風紀を乱す行為を注意しただけです」
「嘘ばっかり。お姉ちゃん、山崎くんのこと、好きでしょ?」
心臓が、跳ねた。紗夜は持っていたシャーペンを机に落とし、椅子から立ち上がった。
「な、何を……っ、何を根拠にそんな馬鹿げたことを……!」
「だって、山崎くんが私の腕を避けた時、お姉ちゃん、ちょっとだけホッとしてたもん。それに今の顔、真っ赤だよ。お姉ちゃんのそういう『るんっ』としない嘘、私には全部わかっちゃうんだから」
日菜の無垢で残酷な指摘に、紗夜の防壁は音を立てて崩れ去った。彼女は両手で自分の顔を覆い、指の間から漏れる吐息とともに、その場にへたり込んだ。
「……っ……日菜、あなたは、本当に……」
「あはは、やっぱり当たり!いいなー、お姉ちゃん、恋してるんだ!応援しちゃうよ!」
真っ赤になった顔を隠しきれず、震える肩。 自分でも認められずにいた想いを、最も近く、最も「るんっ」と見抜いてしまう存在に暴かれた瞬間だった。
だから、こうなった。翌日の学校。僕が廊下を歩いていると、向こうから歩いてくる紗夜と目が合った。 彼女は僕を見た瞬間、まるで爆発したかのように真っ赤になり、挨拶もせずに反対方向へ全速力で逃げていった。
僕はその背中を見送りながら、ただ首を傾げるしかなかった。旧校舎の窓から差し込む冬の光は、昨日よりも少しだけ、騒がしい春の予兆を孕んでいるようだった。