空は低く、今にも泣き出しそうな鈍色の雲が街を覆っていた。新学期の喧騒から逃れるように、僕は少し遠回りの公園を抜けて帰路についていた。湿った風が頬を撫でる。こんな日は、過去の澱んだ記憶までが湿気を帯びて蘇ってくるようで、どうにも気分が晴れない。
ふと、池のほとりで立ち尽くす二人の小さな背中が目に入った。見覚えがある。山吹ベーカリーで何度か見かけた、沙綾の弟の純くんと、妹の沙南ちゃんだ。
「どうした、二人とも。こんなところで」
声をかけると、二人は弾かれたように僕を見上げ、今にも泣き出しそうな顔で訴えてきた。
「あ、山崎のお兄ちゃん……!あのね、おもちゃの鉄砲が、池の中に……っ」
「純が変なところに飛ばしちゃうから……っ」
池の濁った水面を見れば、確かに銀色のプラスチック製の銃が、岸から少し離れた蓮の葉の影に沈んでいるのが見えた。子供の足では届かないし、不用意に入れば泥に足を取られて危ない。
「……待ってろ。俺が取ってやるから」
「でも、お兄ちゃん服が汚れちゃうよ!」
「気にするな。……お前たちの宝物なんだろ」
僕は近くにいた公園の管理人に事情を話し、許可を得た。管理人は「泥だらけになるぞ」と苦笑いしていたが、今の僕には、泥に汚れることよりも、目の前の子供たちの涙を止めることの方が優先順位が高かった。
ローファーを脱ぎ、ズボンの裾を捲り上げて池に足を踏み入れる。冷たい泥の感触が足指の間を通り抜け、沈殿した泥が舞い上がって視界を奪う。僕は屈み込み、手探りで水底をさらった。一分、二分。冬の名残がある水温に指先が悴んでくる。けれど、野球部時代に泥まみれでボールを追っていた頃を思えば、これくらいどうということはなかった。
「……あった」
指先に硬い感触が触れた。それを引き上げると、泥まみれの銀色の銃が姿を現した。岸へ戻ると、二人は「わああっ!」と歓声を上げて駆け寄ってきた。
「はい。次は落とすなよ」
「ありがとう、お兄ちゃん!……あ、でも、お兄ちゃん真っ黒だよ……」
見れば、僕の制服のズボンとシャツの袖は、救いようのないほどに黒い泥に染まっていた。 僕は苦笑いして、バッグを肩にかけ直した。
「いいよ、家で洗う。じゃあな」
「ダメだよ!そんな格好で帰ったら怒られちゃうよ!うちに来て!お姉ちゃんに洗ってもらおう!」
「そうだよ!うちならすぐそこだし、洗濯機あるもん!」
二人は僕の左右の手を掴み、強引に山吹ベーカリーへと引きずっていった。子供の力だと侮っていたが、感謝の気持ちがこもったその牽引力には、今の僕には抗う理由が見つからなかった。
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山吹ベーカリーの勝手口。バタバタと騒がしい足音を聞きつけて、奥から沙綾が顔を出した。
「純、沙南! 遅かったじゃない、どこに行ってたの……って、ええっ!?」
沙綾は、泥だらけで立ち尽くす僕の姿を見て、持っていたトングを落としそうなほど目を見開いた。
「彗太!?どうしたの、その格好!怪我したの!?」
「いや、怪我じゃないんだ。……この二人が池に落とし物をしたから、それを取っただけだよ」
「お兄ちゃん、池の中に入って助けてくれたんだよ!」
二人の説明を聞き、沙綾は状況を察したようだった。彼女は「もう、二人とも……」と弟たちを優しく嗜めた後、改めて僕に向き直った。
「彗太、本当にごめんね。うちの子たちが迷惑かけちゃって……。……って、そのまま帰るつもり?絶対ダメだよ。風邪引いちゃう」
「いや、でも悪いし。着替えもないから……」
「いいから!今すぐ脱いで、シャワー浴びてきて! ズボンもシャツも、乾燥機にかければ一時間くらいで乾くから。その間、うちの予備のジャージ貸してあげる。……ほら、入った入った!」
沙綾の、強引だけど温かい「お姉ちゃん」のパワーに押し切られ、僕は彼女の家の脱衣所へと通された。
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シャワーを浴び、沙綾から手渡された(少しサイズが小さいけれど、石鹸の良い香りがする)ジャージに着替えてリビングに戻ると、そこには申し訳なさそうに、けれどどこか嬉しそうに僕を待つ沙綾の姿があった。
「……ごめんね、彗太。無理やり。……はい、これ。あったかいココア」
「……ありがとう。助かる」
リビングのソファに座ると、純くんと沙南ちゃんが「お兄ちゃん、遊ぼう!」と両脇から飛びついてきた。僕は彼らにせがまれるまま、おもちゃの銃で「的当て」をしたり、絵本を読み聞かせたりした。沙綾はその様子を、キッチンで明日の仕込みをしながら、時折柔らかな眼差しで見守っていた。
「……彗太って、意外と子供の扱い上手なんだね。ポピパの香澄たちの相手も上手いけど」 「そうか? ……弟や妹が欲しかった時期があったからかもしれない」
僕がぼそりと呟くと、沙綾は少しだけ驚いた顔をして、僕の隣に腰を下ろした。
「……そうなんだ。……なんだか、嬉しいな。彗太が私の家族とこうして笑ってるの」
不意に、沙綾の手が僕の手に重なった。彼女の指先は、いつもパンを捏ねているからか、少しだけ硬くて、けれど驚くほど温かい。
「……泥だらけになってまで助けてくれるなんて、やっぱり彗太は優しいね。……そういうところ、私、すごく好きだな」
沙綾の顔が、至近距離で見つめてくる。彼女の瞳には、夕暮れの淡い光と、僕への真っ直ぐな好意が映っていた。心臓の鼓動が早くなる。さっきまで池に入っていたはずなのに、体中の血が熱を帯びていく。
「……彗太。……顔、赤いよ?」
「……お前のせいだろ」
僕が目を逸らそうとすると、沙綾はクスクスと笑った。 ジャージ越しに伝わる彼女の体温。パンの香りと、彼女自身の優しい匂いが混ざり合い、僕の警戒心をゆっくりと溶かしていく。
その時だった。ピシャリ、と窓ガラスを叩く音がした。次の瞬間、バケツをひっくり返したような激しい雨音がリビングを満たした。
「わあ、すごい雨……! これ、当分止まないかも」
沙綾は窓の外を見つめ、それから悪戯っぽく微笑んで僕を見上げた。
「彗太。……この雨じゃ、帰るの危ないよ。……ねえ、今日はうちに泊まっていかない?」 「……え?」
「いいよね、純、沙南?お兄ちゃん、泊まってもいいよね?」
「「いいよーっ!お兄ちゃんと寝たい!」」
二人の歓声に包まれ、僕は逃げ場を失った。隣で沙綾が、耳元で小さく囁いた。
「……予備の布団はあるけど。……寂しかったら、私の部屋に来てもいいよ?」
その声は、雨音に消されそうなほど小さかったけれど、僕の耳にはどんな爆音よりも鮮明に響いた。 外は冷たい土砂降り。けれど、この家の中は、僕が今まで知らなかったほどの熱量と、優しい香りで満たされていた。
「……分かった。……お世話になるよ」
僕の答えを聞いて、沙綾はこれ以上ないほど幸せそうに微笑んだ。止まっていた僕の時間が、この雨音と共に、また新しいリズムを刻み始めていた。