青年と少女たちの日常   作:柊真夜

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22 泊り止まり木

 山吹家の風呂は、僕の冷え切った芯までを解きほぐすような熱さに満ちていた。貸してもらったジャージの袖を捲り、浴室を出ると、廊下で沙綾の父親が待っていた。

 

「山崎くん、少し時間いいかな。男同士、一杯どうだい」

 

 差し出されたのはキンキンに冷えた麦茶だったが、その誘いを断る理由はなかった。

 導かれたのは、パンの香りが微かに残る作業場の裏にある小さな談話スペースだった。  沙綾の父――山吹亘史さんは、穏やかな笑みを浮かべながら、僕の向かいに腰を下ろした。

 

「……沙綾から聞いているよ。君はライブハウスで働いているんだってね。音楽に詳しいんだろう?」

「いえ、僕はただの裏方ですから」

「はは、謙遜しなくていい。あの子が『彗太くん』なんて下の名前で呼ぶ男の子を連れてきたのは、初めてなんだ。……あの子、自分の苦労を人に見せたがらない子だろう?」

 

 亘史さんは遠くを見るような目で、静かに語り始めた。

「……知っているかもしれないが、あの子は一度、音楽を捨てようとしたんだ」

 

 それは、沙綾がかつて所属していたバンド『CHiSPA』を抜けた時の話だった。沙綾の母親が突然倒れ、家業のパン屋と二人の弟妹の世話、そして母の看病。そのすべてが、当時まだ中学生だった沙綾の肩にのしかかった。

 

「あの子はね、泣き言ひとつ言わずに『パン屋を手伝うから、バンドはやめる』って言ったんだ。自分の夢よりも、家族の笑顔を選んだ。……私は情けない父親だよ。あの子にどれだけの犠牲を強いたか」

 

 僕は黙って話を聞いていた。僕が過去の傷から逃げるために音楽を捨てたのに対し、彼女は「誰かを守るため」に一度音楽を置いたのだ。その覚悟の重さに、胸の奥が痛む。

 

「今のあの子が、ポピパの仲間たちとまた笑って音楽をやれているのは、本当に奇跡みたいなものだ。……山崎くん」

 

亘史さんが、僕の目をまっすぐに見つめた。

 

「……あの子を頼むよ。あの子は強いけど、その分、折れやすいところもある。君のような落ち着いた子がそばにいてくれるなら、私は安心だ。……なんなら、君がこのパン屋を継いでくれてもいいんだよ?」

「……っ、それは流石に、話が飛びすぎです」

 

僕は慌てて麦茶を飲み込み、視線を逸らした。

 

「ははは!照れなくていい。うちのパンは美味いだろ?将来の選択肢に入れておいてくれ」  

 

茶化すような口調だったが、その大きな手で肩を叩かれた時、家族を背負う男の重みを分けてもらったような気がした。

________________________________________

 談話スペースを後にし、リビングに戻ると、純くんと沙南ちゃんが「お兄ちゃん、最後にもう一回だけ戦いごっこ!」と突撃してきた。僕は二人の無邪気な攻撃をいなし、時には「やられたー」と大げさに倒れ込んでみせる。そのたびに二人は大はしゃぎで、最後には遊び疲れたのか、僕の左右の膝を枕にするようにして眠りについてしまった。

 

 沙綾がそっと毛布を持ってきて、二人を抱きかかえて寝室へと運んでいく。嵐が去った後のような静寂が、リビングを支配した。

 

「……彗太、お疲れ様。あの子たち、すっかり彗太になついちゃって」

 

沙綾が戻ってきて、僕の隣に座った。少しだけ開いた窓から、雨上がりの夜の匂いが入り込んでくる。

 

「……あいつら、元気すぎるだろ」

「ふふ、ごめんね。……でも、本当にありがとう。泊まってくれて」

 

沙綾は僕の顔をじっと見つめ、優しく微笑んだ。

 

「彗太、本当は断ることもできたでしょ?無理やり泊まらせるようなことしちゃったのに、嫌な顔一つしないで……。……彗太は、やっぱり優しいね」

「……優しくなんてない。ただ、帰るのが面倒だっただけだ」

「嘘ばっかり。……お父さんと、何をお話ししてたの?」

「……別に。パンの捏ね方のコツでも教わろうかと思ってただけだよ」

 

 僕がとぼけると、沙綾は「あはは、絶対嘘だ」と笑った。

 

「……あのね、彗太。私、今の時間がすごく幸せ。……家族がいて、大好きな音楽ができて、……そして、彗太がここにいてくれる。一度は全部諦めなきゃいけないって思ってたから、余計にそう思うの」

「……忘れないでね、彗太。私のことも……ポピパのみんなのことも」

「……ああ」

 

 僕は沙綾の柔らかな髪の香りに包まれていた。過去に縛られ、泥の中に沈んでいた僕を、この温かなパン屋の灯りが引き上げてくれたような、そんな気がした。

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 結局、その夜は沙綾の父に案内された客間――沙綾の部屋とは別の、至極真っ当な布団――で眠りについた。沙綾が最後に「本当に寂しくなったら、来てもいいんだよ?」と耳元で囁いたのは、きっと彼女なりの精一杯の冗談(あるいは本気)だったのだろうが、僕は理性を総動員して眠りに落ちることに成功した。

 翌朝。眩しい朝日と共に目が覚めた僕を待っていたのは、僕の布団に潜り込み、「お兄ちゃん行かないで!」「うちの子になって!」と泣きつかんばかりに縋り付いてくる純くんと沙南ちゃんの猛攻だった。それを「こらこら、彗太が困ってるでしょ!」と言いながら、どこか嬉しそうに眺めている沙綾に救出されるまで、さらに一時間を要したのは……また別の、少しだけ賑やかすぎるお話だ。

 

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