あの日、夕暮れの海で魂を削り出すような告白をしてから、幾日かが過ぎた。自分の部屋のベッドで目を覚ますと、真っ先に視界に入ったのは天井の木目だった。あの時、彼女たちの温もりに触れていなければ、今頃僕はどこか知らない街で、また影のように生きていたのだろう。
「……そういえば。白金に、告白されたんだったな」
口に出すと、急に顔が熱くなる。あんな極限状態での言葉だったが、彼女の瞳は本気だった。僕は重い腰を上げ、部屋を出た。
まずは、自分がぶち壊そうとした日常の修復から始めた。学校に提出した転学届は、紗夜が副会長の権限(と、おそらくはかなりの気迫)で受理を保留させていたらしく、平謝りして取り下げた。バイト先のCIRCLEの店長にも、数日間の欠勤を土下座する勢いで謝罪し、なんとかクビを繋いでもらった。
そうして身の回りの整理を終えた僕が次に向かったのは、あの高層マンションのスタジオ——チュチュの元だった。
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「……何よ、また怒鳴られに来たわけ?」
スタジオのソファでジャーキーを齧りながら、チュチュが不機嫌そうに僕を睨む。僕は彼女の正面に立ち、深く頭を下げた。
「この前は、すまなかった。……強い口調で追い払うような真似をして。あんたは、純粋に俺の音を評価してくれていたんだよな」
「ふんっ、今更ね。……で、気が変わったのかしら? 私のRASのために、最高の音を書く準備はできた?」
僕は顔を上げ、静かに首を振った。
「悪いが、RASのために専属で働くことはできない。……俺はまだ、自分の過去と向き合っている最中なんだ。誰かの人生を丸ごと背負うような書き方は、今の俺にはできない」
「……ちっ、相変わらず頑固ね」
「ただ」と、僕は言葉を繋いだ。
「たまに、アドバイスや機材の調整を手伝うくらいならできる。あんたの作る音には、俺にはない爆発力がある。……それは、嫌いじゃないんだ」
チュチュは意外そうに目を丸くし、それからふいと顔を背けた。
「……勝手にしなさい。でも、気が向いた時は最高のアナライズを期待してるわよ。山崎彗太」
不器用な和解だったが、彼女の瞳から棘が消えたのを見て、僕は一つ、過去の因縁にケリをつけた実感を得た。
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夕方のCIRCLE。 ロビーで一人、機材の整理をしていた燐子の姿を見つけ、僕は声をかけた。
「……燐子」
「あ……彗太さん。……お仕事、戻られたんですね」
燐子は少しだけ照れたように、けれど嬉しそうに微笑む。あの日、海で彼女がくれた言葉を思い出し、僕は居住まいを正した。
「燐子。あの日、言ってくれたこと……本当に嬉しかった。ありがとう」
「い、いえ……私、あんなこと、勢いで……」
「でも、今の俺には、その気持ちにすぐに応えることはできない」
燐子の動きが止まる。僕は彼女の真っ直ぐな瞳から目を逸らさずに続けた。
「俺はまだ、相方のことや、自分の音楽との向き合い方に答えを出せていないんだ。……そんな中途半端な状態で、燐子の隣に立つことは、君に対して失礼だと思う。……だから、勝手だけど、返事は保留にさせてほしい。もっとちゃんと、自分に自信が持てるようになったら……その時は、俺から言わせてもらいたいんだ」
燐子は一瞬だけ寂しそうな顔をしたが、すぐに強く首を振った。
「……はい。待っています。……彗太さんが、自分の音を好きになれる日まで。私、ずっと側にいますから」
その光景を、ロビーの隅でドリンクの補充をしていたリサと、資料を届けに来た紗夜が、物陰からじっと見つめていた。
(……保留、ね。ってことは、まだ燐子の一人勝ちじゃないってことだよね)
リサが口角を上げ、赤い爪を唇に当てる。
(……白金さんの勇気には敬意を表しますが、私も引くつもりはありません。彼を支えるのは、生徒会の副会長としての私の務めでもありますから)
紗夜は手元の書類をきゅっと握りしめ、静かに闘志を燃やしていた。
そんな視線に気づくこともなく、僕は機材ケースを抱え直した。まだ心の中に澱はある。あいつの命の重さは、一生消えないだろう。けれど、それを「呪い」としてではなく、背負うべき「記憶」として持っていてもいいのだと、彼女たちが教えてくれた。
「……さて。また、頑張るか」
僕は自分に言い聞かせるように呟くと、騒がしい音が待つライブハウスの奥へと、一歩踏み出した。