青年と少女たちの日常   作:柊真夜

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27 お姉ちゃん

 新緑が目に眩しい、穏やかな昼下がり。騒動が一段落し、僕の日常には以前のような、けれど少しだけ色彩の増した時間が戻ってきていた。

 昼休みの屋上へ続く階段の踊り場。僕は開いた窓から差し込む風を感じながら、一人でぼんやりと外を眺めていた。あの海での出来事、そして白金への返事。一つひとつを反芻していると、不意に背後から「あ、いた……!」という控えめな声が聞こえた。

 

「山崎くん。……ここなら静かだと思って、探しに来ちゃった」

 

 そこに立っていたのは、ふわふわとした水色の髪を揺らした松原花音だった。彼女は僕の隣まで歩み寄ると、手すりにそっと手をかけて、僕と同じように外の景色を見つめた。

 

「……松原。どうした、こんなところまで。また道に迷ったのか?」

「もう、失礼だなあ。……今日はちゃんと、山崎くんの顔を見に来たんだよ。その……色々、大変だったみたいだね」

 

 花音の言葉には、深い慈愛が含まれていた。彼女はあの時、チュチュとのやり取りを目の当たりにし、真っ先にハロハピのメンバーに相談してくれた張本人だ。

 

「……ああ。色々と迷惑をかけた。……松原も、ありがとうな」

「えっ、私!? 私は何も……ただ、みんなに相談しただけで……」

 

 彼女は慌てて手を横に振った。

 

「山崎くんを助けたのは、こころちゃんや、Roseliaのみんなだよ。私は、オロオロしてただけだもん。お礼なんて、そんな……」

「いや。松原がみんなに伝えてくれたから、俺は今ここにいられるんだ。お前が勇気を出してくれなきゃ、俺は今頃、この街にはいなかった」

 

 僕が真っ直ぐに彼女を見つめてそう言うと、花音は恥ずかしそうに視線を泳がせた。その仕草はどこか小動物のようで、見ているこちらの毒気を抜いてしまう。

 

「……松原は、本当に優しいな。なんていうか、すごく安心する。……俺も、お前みたいな姉貴がいたら、もっと楽だったのかもな」

 

 ふと漏れた本音だった。ストイックな紗夜や、危うい熱量を持つ白金、包容力はあるがどこか強引な沙綾。彼女たちも魅力的だが、松原のような、ただそこにいるだけで周囲を穏やかにする「癒やし」のオーラは、今の僕にはひどく心地よかった。

 

「ええっ!? お、お姉ちゃん……?」

 

 花音は顔を真っ赤にして、驚いたように僕を見上げた。

 

「そ、そんな風に思ってくれてたんだ……。山崎くんと同い年なんだけどね。……えへへ、なんだか、照れちゃうな」

 

 彼女は自分の頬を指先でつつきながら、どこか嬉しそうに、けれど少しだけ悪戯っぽい光を瞳に宿した。

 

「……じゃあさ。そんな風に思ってくれるなら、これからは私のことも『松原』じゃなくて、下の名前で呼ばなきゃだね」

「え……? いや、それは……」

「白金さんたちのことは、もう名前で呼んでるんでしょ?お姉ちゃん扱いするなら、私も『花音』って呼んでほしいな」

 

 花音が少しだけ僕に歩み寄る。甘いシャンプーの香りが鼻をくすぐり、僕は思わず一歩後退りした。いつもは「ふえぇ」と困っている彼女が、年上としての余裕(のようなもの)を見せてくると、妙な破壊力がある。

 

「あ、あの……それは、そのうち……」

「ダメだよ。今、呼んでみて? ……あ、そうだ!」

 

 花音は何かを思いついたように、パッと表情を輝かせた。

 

「ねえ、山崎くん。一回……一回だけでいいから、私のこと『お姉ちゃん』って呼んでもらってもいいかな?」

「……は!? 何言ってるんだ、お前」

「だって、山崎くんが『お姉ちゃんにしたい』って言ったんだよ? 一度くらい、呼んでもらいたいなあ……なんて。だめ、かな?」

 

 上目遣いで、少しだけ小首を傾げる花音。その姿は、普段の彼女からは想像できないほど「お姉さん」然としていて、けれど同時にたまらなく危うかった。ここで彼女のペースに乗せられたら、何かが取り返しのつかないことになる——本能がそう告げていた。

 

「……悪い、やっぱり昼飯のパンを買うのを忘れてた」

「えっ、あ、待ってよ山崎くん!」

 僕は逃げるように階段を駆け下りた。

 校舎の廊下へ出ると、春の温かな風が僕の火照った顔を冷ましてくれた。屋上の方を振り返り、僕は小さく溜息をつく。

 

「……呼べるわけないだろ、あんなの」

 

 一方、踊り場に残された花音は、誰もいなくなった階段を見つめながら、ぽつりと呟いた。

 

「……呼んでほしかったなあ、『花音お姉ちゃん』って。……ふふ、でも、あんなに慌てる山崎くん、初めて見たかも」

 

 彼女は窓の外、青空に広がる白い雲を見つめながら、幸せそうに微笑んだ。彼女の中の「山崎くん」への想いは、頼りになる後輩へのそれから、もっと別の、温かな何かへと形を変え始めていた。

 

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