青年と少女たちの日常   作:柊真夜

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28 お兄ちゃん

 騒がしい日常が戻ってきた『CIRCLE』のロビー。僕は納品されたばかりのドリンクケースを台車に乗せて運んでいた。新学期が始まり、ライブのスケジュールも埋まり始めている。かつての沈黙が嘘のように、僕の周りには常に誰かの気配と、絶え間ない音楽の予感があった。

 ふと、入り口の自動ドアが開く音がして、控えめな足音が近づいてきた。顔を上げると、そこには月ノ森女子学園の制服に身を包んだ、銀髪の少女が立っていた。彼女は不安げに周囲を見渡していたが、僕と目が合った瞬間、その瞳にパッと光が灯った。

 

「あ……! 彗太お兄ちゃん!」

 

 少女——倉田ましろは、周囲の目も憚らずに僕の方へ駆け寄ってきた。

 

「……ましろか。久しぶりだな」

 

 ましろとは、彼女が中学生の頃からの付き合いだ。僕があいつと活動していた頃、金補に住んでいたから面識があった。当時の彼女は今よりもずっと自分に自信がなくて、いつも何かの影に隠れているような子だった。僕が曲を作っていることは知っていたが、あの「ノクターン」の正体だということや、あいつがどうなったかという深い事情までは話していない。

 

「ううん、全然久しぶりじゃないよ……。私、ずっとお兄ちゃんに会いたくて。でも、なかなか勇気が出なくて……」

 

 ましろは僕の腕を少しだけ掴み、上目遣いで僕を見つめる。その仕草には、親愛以上の、どこか熱を帯びた感情が混じっていた。

 

「……背、伸びたな。高校、合格おめでとう。月ノ森に通ってるんだってな」

「えへへ、ありがとう。……お兄ちゃんに、一番に報告したかったんだよ?」

 

 そんな風に二人で話していると、背後から賑やかな足音と、鋭い視線が突き刺さった。

 

「ちょっとちょっと、シロ!誰、そのイケメン!隠し持ってたの!?」

 

 飛び込んできたのは、桐ヶ谷透子だった。その後ろから、八潮瑠唯、広町七深、二葉つくしが続いて入ってくる。

 

「あ、みんな……! 違うの、これは……」

 

 ましろが慌てて手を離すが、時すでに遅し。透子と七深はニヤニヤしながら僕の周りを取り囲み、つくしは「リーダー」としての威厳を保とうと背伸びをしながら僕を凝視している。

 

「ふむ……月ノ森の生徒ではないようね。ましろさん、紹介をお願いできるかしら?」

 

瑠唯が冷静に、けれどどこか探るようなトーンで言った。

 

「えっと……この人は、山崎彗太さん。私の、大事なお兄ちゃんなの。彗太お兄ちゃん、こっちは私のバンド『Morfonica』のみんなだよ」

「お兄ちゃん!?」

「えっ、ましろちゃんにお兄さんなんていたっけ? 苗字違うし、もしかして……実の兄じゃないパターン?」

 

 七深が「むふふ」と怪しげな笑みを浮かべ、つくしは「ええっ!?」と声を裏返した。

 

「ま、ましろちゃん! お兄ちゃんって……そういうこと!?」

「違うよ、つくしちゃん! 昔から仲良くしてもらってて、私が勝手にそう呼んでるだけで……っ」

 

 顔を真っ赤にして否定するましろだったが、透子は僕の腕を軽く小突いた。

 

「へぇー、やるじゃんお兄さん。シロってば、練習中もたまに遠くを見てボーッとしてたけど、正体はアンタだったわけね?」

「……勘弁してくれ。ただの昔馴染みだ。俺はここでバイトしてるスタッフだよ。……山崎だ、よろしく」

 

 僕が淡々と自己紹介を済ませると、瑠唯が僕の手元にある台車と、僕の立ち振る舞いをじっと観察していた。

 

「……山崎さん。以前、どこかでお名前を拝見した気がするのですが」

「……気のせいだろ。俺はどこにでもいるただの裏方だ」

 

 瑠唯の鋭い観察眼に、僕は僅かに冷や汗をかいた。彼女なら、僕の隠している「音」の正体に気づきかねない。

 

「ましろ。練習に来たんだろ? 早く行かないと、スタジオの時間がもったいないぞ」

 

 僕が話を切り上げようとすると、ましろは名残惜しそうに僕のシャツの袖をきゅっと握りしめた。

 

「……お兄ちゃん。今日の練習、終わったら……少しだけ、お話しできるかな? 聞いてもらいたいことが、たくさんあるの」

 

 その潤んだ瞳は、かつてのあいつが僕に向けていた信頼とは、全く別の色をしていた。  拒絶できない。この純粋な好意に、僕はどう応えればいいのか。

 

「……ああ。ロビーにいるから、終わったら声をかけろ」

「本当!? やった……! 頑張るね、お兄ちゃん!」

 

 ましろは一転して明るい笑顔を見せると、メンバーたちに急かされるようにスタジオへと向かっていった。

 

「ましろちゃん、やる気出しすぎー!」

「広町さん、茶化さないで。……山崎さん、また後で」

 

 瑠唯が最後にもう一度、僕の深淵を覗き込むような視線を残して去っていく。自動ドアが閉まり、ロビーに再び静寂が訪れる。

 僕は台車を押し進めながら、深く溜息をついた。燐子、沙綾、そしてましろ。止まっていたはずの僕の時間は、今や溢れんばかりの音と、少女たちの複雑な想いに揉みくちゃにされていた。

 

「……お兄ちゃん、か」

 

 かつてあいつにそう呼ばれることはなかった。新しく書き始めた楽譜の一小節目。まだ音にはなっていないけれど、そこにはましろの純粋な「青」が混じり始めているような気がした。

 

「……早く練習を始めましょう。時間が惜しいわ」

 

 スタジオの奥から聞こえてくる瑠唯の厳しい声と、それに負けじと鳴り響くバイオリンの音が、僕の背中を静かに押していた。

 

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