ライブハウス『CIRCLE』のロビー。機材の搬入が一段落し、僕はカウンターの隅で一息ついていた。そこに、長身でどこか落ち着いた雰囲気を纏う少女——和奏レイが静かに現れた。RAISE A SUILENのボーカル兼ベーシスト。その圧倒的な実力とは裏腹に、彼女の振る舞いはいつも丁寧で、周囲を気遣う優しさがある。
「お疲れ様です、山崎さん」
レイが穏やかに声をかけてくる。僕は手元の資料を置き、彼女に向き直った。
「ああ、和奏か。……そういえば、そっちはどうだ? チュチュのやつ、相変わらず無茶な要求をしてきてるんじゃないか?」
この前の「和解」以来、僕はRASの機材調整や技術的なアドバイスを時折引き受けている。レイはふふ、と少し困ったように微笑んだ。
「相変わらずですよ。でも、彼女は彼女なりに最強の音楽を目指して、誰よりも必死に頑張っています。私たちはそれに応えるだけ。……山崎さんがアドバイスをくださるようになってから、現場の効率がすごく良くなりました。ありがとうございます」
「ならいいが。……あいつの熱量に当てられすぎて、バテるなよ」
僕はふと思ったことを口にした。
「……そういえば、和奏って、俺より年下なんだよな。月ノ森じゃないってことは、中学を卒業したばかりか?」
「ええ、そうです。あまりそうは見えないって、よく言われますけど」
彼女の落ち着き払った態度は、とても年下には見えない。僕はつい、「親戚の集まりに一人はいそうな、しっかりした従姉妹」みたいな感覚を彼女に抱いていた。
「なんだか、和奏は親戚にいそうなタイプだよな。落ち着いてて、安心感があるというか」
僕がそう言うと、レイは意外そうに目を丸くし、それから少しだけ遠くを見るような目をした。
「そうですか? 私は、山崎さんみたいな同級生が欲しかったかな……って思います。……音楽の話も深くできて、対等に隣を歩いてくれるような、そんな友達」
彼女の言葉には、幼い頃から音楽のプロの世界で大人たちに囲まれてきた孤独が、ほんの少しだけ滲んでいた。僕は彼女の隣に並び、ロビーの窓の外に見える夜の街灯を眺めた。
「同級生か。……まあ、学年は違うが、そんなに気にするな。俺に対しては敬語じゃなくていいし、タメ口で構わない。……何か話したいことや、溜まってるものがあったら、いつでも何でも言えよ。俺でよければ聞くからさ」
レイは驚いたように僕を見つめ、それから春の夜風に揺れる花のような、晴れやかな笑顔を見せた。
「……本当? じゃあ、お言葉に甘えて……少しだけ、頼っちゃおうかな」
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その日の深夜。リハーサルを終えたレイが、再び僕のところにやってきた。他のメンバーは既に引き上げ、ロビーには僕と彼女の二人きりだった。
「ねえ、彗太。……本当に、タメ口でいいんだよね?」
初めて名前を呼び捨てにされ、少し新鮮な響きを感じた。僕は頷く。
「ああ。そっちの方が話しやすいだろ」
「……不思議。名前で呼ぶだけで、なんだか少し、距離が近くなった気がする。……ありがとう」
レイはベースケースを足元に置き、僕の隣の丸椅子に座った。そして、少し躊躇いながらも、音楽に対する自分なりの「こだわり」を話し始めた。
「……チュチュの求める音に応えるのは、私の誇り。でも、時々……譜面に書いていない、自分だけの小さなニュアンスをどう表現すればいいか迷うことがある。そういう時、誰かに相談できたらいいなって思ってた」
それは、実力者だからこそ抱える、繊細で真摯な悩みだった。僕は彼女の手元、ベースを弾くために短く切り揃えられた爪を見つめた。
「迷うのは、和奏が自分の音を大事にしてる証拠だろ。……もしよかったら、今ここで弾いてみればいい。俺が聴くから」
「ここで?」
「ああ。……ちょっと来い」
僕は彼女を連れて、空いているスタジオに入った。僕はアコースティックギターを手に取り、彼女にベースを持たせた。
「コードは単純だ。俺の音に合わせて、気楽に弾いてみて。仕事じゃなくて、ただの遊びだと思ってさ」
僕が静かにアルペジオを刻み始めると、レイは最初、慎重に弦に指を触れた。だが、数小節経つ頃には、彼女の表情が柔らかくなった。重厚で温かい低音が、僕のギターと重なっていく。
セッションが深まるにつれ、僕と彼女の呼吸が、音が、自然と溶け合っていくのが分かった。レイの弾く音は、次第に伸びやかになり、心の底から楽しんでいるような躍動感を見せ始めた。
演奏が終わると、スタジオには心地よい余韻が残った。レイは少しだけ上気した顔で、僕を見た。
「……すごい。誰かのためじゃなく、自分のために弾くのがこんなに楽しいなんて。彗太、付き合ってくれてありがとう」
「いい音だったぞ。和奏、やっぱり天才だな」
「天才だなんて……。でも、彗太とこうして音を重ねると、すごく落ち着く。……なんだか、本当にずっと前から友達だったみたい」
レイは立ち上がり、ベースをケースに仕舞いながら、僕に真っ直ぐな視線を向けた。
「彗太。これからも、こうしてたまに、ただの『友達』として音楽の話を聞いてくれるかな。……プロとしての私じゃなくて、ただの和奏レイとして」
「ああ、もちろんだ。いつでも歓迎するよ」
「よかった。……ふふ、彗太がいてくれて、私、ラッキーだったかも」
彼女は少し照れくさそうに笑いながら、ベースを背負った。過度な甘さはないけれど、そこには確かな信頼と、新しい友情の芽生えがあった。
「……じゃあ、帰るね。また明日、練習の時に」
レイは軽やかな足取りでロビーへと消えていった。僕は、彼女が残した音楽の余韻に浸りながら、静かになったスタジオでギターを置いた。
止まっていたはずの譜面に、また一つ、新しい旋律が書き込まれていく。それは、夜の湖のように深く、けれど確かな温もりを持つ、穏やかな音色だった。