昨晩の喧騒が嘘のように、朝のダイニングには静かな光が差し込んでいた。キッチンからは、山崎家特有のゆったりとした時間が流れる音が聞こえる。母さんが淹れたコーヒーの香りが漂う中、トーストを口に運んでいた父さんが、ふと思い出したように僕を見た。
「そういえば、彗太。君ももうすぐ、進路を本格的に決める時期だろう?」
その言葉に、僕の手が止まった。
「……進路?」
「ええ。大学に進学してもいいし、もし興味があるなら、僕たちと一緒に海外へ来て、家業を手伝いながら学ぶ道もある。無理に答えを出す必要はないけれど、選択肢として持っておいてほしいんだ」
「私たちと一緒に来れば、寂しくないわよ?」とお母様が柔らかく笑う。僕は「……考えておくよ」とだけ答えたが、胸の奥に小さな、けれど無視できない「重り」が落ちたような感覚がした。
これまで、僕は過去の償いと、目の前の日常をこなすことに精一杯だった。自分が将来、何をしたいのか。どこへ行きたいのか。そんな「未来」への意識が、驚くほど欠落していたことに気づかされたのだ。
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その日の放課後。バイト先の『CIRCLE』のロビーで、僕は備品の整理をしながら、偶然居合わせた松原花音に自分から声をかけた。
「……松原。ちょっと、相談というか、聞きたいことがあるんだ」
「あ、山崎くん。どうしたの? なんだか難しい顔して」
僕は彼女に、朝の出来事を打ち明けた。
「進路のことなんだけど……親から、一緒に海外に来ないかって言われてるんだ。家業を継ぐという道もある。……正直、自分でもどうすべきか迷ってる。松原は……卒業後のこと、もう考えてるのか?」
花音は持っていた楽譜を抱きしめるようにして、少しの間、考え込んだ。
「……そうだね。私は、大学進学を考えてるかな。音楽も続けたいし、もっと色んなことを知りたいから。……でも、山崎くんがいなくなっちゃうかもしれないなんて、全然考えてなかった」
僕の中にあった「海外へ行く」という選択肢。それは、かつて自分が壊してしまった世界から、誰も僕を知らない場所へと「逃げる」ための、甘美な誘惑でもあった。
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「えっ! 彗太くん、いなくなっちゃうの……!?」
ロビーの奥から、聞き捨てならないといった様子で飛び出してきたのは丸山彩だった。その後ろには、練習中だったパスパレのメンバーと、なぜか通りすがりの瀬田薫まで加わっている。
「いや、まだ決まったわけじゃ――」
「家業を継ぐために海外へ……。それはまた、シェイクスピアの悲劇のような別れだね。儚い……あまりに儚いよ、山崎くん」
薫が芝居がかった仕草で嘆くが、彩の表情は真剣そのものだった。彼女は僕の腕を掴み、今にも泣き出しそうな瞳で僕を見つめる。
「嫌だよ、そんなの……。せっかく、せっかく新曲を書いてくれたばっかりなのに……。彗太くんがいないCIRCLEなんて、私、想像できない」
「……彩ちゃんの言う通りね」
千聖が、いつになく寂しげな色を瞳に宿して僕を見た。
「貴方の自由なのは分かっているわ。でも、貴方がいなくなることで、私たちの日常からどれほどの大切なピースが欠けてしまうか、自覚はあるのかしら?」
「彗太君、行っちゃうの……? るんってしなくなっちゃうよ……」
日菜も、いつもの明るさを失い、麻弥もメガネの奥の瞳を伏せている。
「進学するにしても、ここからなら慶鵬大学あたりが現実的かと思っているけれど……。もし親について行くなら、日本を離れることになる」
「慶鵬なら、四ツ葉からも近いけれど……」
彩の声が震える。
「それでも、やっぱり寂しいよ。彗太くんは、私たちの『光』を見つけてくれた人なんだもん。……どこにも、行かないでほしいな」
彼女たちの、剥き出しの「寂しさ」。それは僕にとって、これまでのどんな称賛よりも重く、温かく、そして苦しいものだった。
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その夜、僕は一人で自室のベッドに横たわり、天井を見つめていた。
(僕は、何がしたいんだ?)
親について行けば、安定した未来と「忘却」が手に入るだろう。けれど、脳裏に浮かぶのは、必死に前を向こうとする白金や紗夜の顔、夕暮れの海で僕を繋ぎ止めてくれた彼女たちの叫び、そして、不器用に料理を練習したあの時間のことだった。
僕は、この街で「自分」を取り戻し始めていた。音楽を捨て、名前を捨てて逃げていた僕を、彼女たちが一人の「山崎彗太」として繋ぎ止めてくれたのだ。
(逃げるのは、もう終わりだ)
あいつとの過去を背負ったまま、それでも新しい音を紡ぎたいと願う自分がいる。彼女たちの成長を、その音の行き着く先を、一番近くで見届けたいと願う僕がいる。
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翌朝。玄関で大きなスーツケースを持った両親が、僕に向き合った。
「彗太、どうだい。少しは考えられたかな?」
父さんの問いに、僕は真っ直ぐに二人の瞳を見て、答えた。
「……父さん、母さん。俺、ここに残るよ」
二人は少しだけ驚いたように目を見開いたが、僕は言葉を続けた。
「ここで、もっと探したいんだ。自分が本当にやりたいこと。……今までは、何からも逃げることしか考えてなかったけど。……この街には、俺を必要としてくれる奴らがいる。俺も、あいつらと一緒にいたいんだ」
少しの沈黙の後、母さんがふふっ、と優しく笑った。
「そう。……あのお嬢さんたちのことかしら?」
「……それだけじゃない。でも、あいつらが教えてくれたんだ。俺の居場所は、ここにあるって」
父さんは満足そうに頷き、僕の肩を力強く叩いた。
「いい顔になったね、彗太。自分の意志で道を選ぶなら、僕たちは何も言わない。……頑張りなさい。君の人生だ」
「たまには連絡してね? お義母さん候補が増えたら、すぐに教えてちょうだい」
母さんの最後の一言に、「それはない」と苦笑いしながら、僕は二人を送り出した。閉まったドアの向こう側、朝日が降り注ぐ廊下で、僕は大きく深呼吸をした。
進路。未来。まだ具体的な職業や形は見えていない。けれど、僕の足はしっかりとこの地面を捉えていた。カバンを手に取り、僕は家を出る。向かうのは、騒がしくて、愛おしい旋律が待つ『CIRCLE』だ。
「……さて。今日は、どの曲から始めようか」
空はどこまでも高く、澄み渡っていた。 僕の物語は、ここからまた、新しく動き出す。