Side:紫藤イリナ
……信じられなかった。
確かに、一誠君は無理に明るく振る舞っているとは思っていた。でも、まさかここまで人をやめた事に対して悩み、そして苦しんでいたなんて。そして、自分の抱えている物を全て吐き出してそのまま項垂れてしまった一誠君を見た私は、自分のさっきの言動がとても恥ずかしく思えてきた。
あの時、私は完全に自分の事しか考えていなかった。本当に考えるべきは、理不尽な運命によって人である事を無理矢理やめさせられ、今もなお失ったものに対して割り切れずに苦しんで、そして人を超えた存在としての永過ぎる生に対して心が耐えられないという恐怖に怯えている一誠君の事だった筈なのに。
……だったら、私が今なすべき事は。
私は今もなお項垂れている一誠君の頭を、自分の胸に抱き寄せた。
「イ、イリナ! 一体何を!」
私に頭を抱き寄せられた事で一誠君は困惑しているけど、私はただ静かに一誠君へ呼び掛ける。
「ねぇ、一誠君。……聞こえる?」
私の呼びかけで頭が冷えてきたのか、一誠君は目を閉じてそっと耳を澄ませる様にしてくれた。暫くすると、何が聞こえてきたのかを一誠君が答えてくれた。
「……聞こえるよ。イリナの心臓の音が」
そう。私が聞かせたかったのは私の心臓の音。生きとし生ける者なら誰もが持っている命の鼓動だった。しばらく一誠君の頭を胸に抱えている内に、今までは何処か弱々しかった一誠の雰囲気が次第に落ち着いたものへと変わっていった。そうして一誠君が十分に落ち着いた頃を見計らって、私は静かに語り始める。
「命って、不思議よね? こうやって心臓の音を聞いていると、何故か落ち着くものらしいわ。それはきっと天使様でも、悪魔でも変わらないと思うの。……世界の理から逸脱した異端の極み。自分の事をそう断言した一誠君だって、そうだったんだから」
私はただ、一誠君に伝えたかった。私が今抱いている、確かな想いを。
「アーシア・アルジェントさんが何を考えて悪魔を癒したのか、今なら解る様な気がするの。あの人は、傷ついた命を放っておけなかったのね。自分がシスターだとか、相手が悪魔だとか、そんなの関係ない。ただ目の前に傷つき苦しんでいる命を癒そうとして、そっと手を差し伸べた。ただ、それだけのこと。……今の私が、傷つき疲れてしまった一誠君を癒してあげたいって思ったみたいに」
何処までも強くて、何処までも優しくて、でもだからこそ、誰よりも弱くなってしまうこの人に。
「だから、もう一人で全てを背負おうとしないで。今までに背負ってしまった、多くの命の重さ。大切な夢を諦めなければならなくなった事への悔しさ、悲しさ。小父さまや小母さまから頂いた、とても大切な人間としての体を捨ててしまった事や、礼司小父さまや瑞貴さん達、それに孤児院の子供達を裏切る事になってしまった事への罪悪感。こんなの、一誠君が一人で背負う必要なんて絶対にないの。だって、皆、話せばきっと解ってくれるわ。それだけの絆を一誠君は作り上げているって、私は思うから」
貴方は、けして一人ぼっちなんかじゃないって事。
「それに万が一駄目だったとしても、私は一誠君の全てを受け入れるわ。どんな姿をしていても、どんな力を持っていても、世界でたった一つしかない命。世界でたった一人しかいない一誠君を、私は愛しているのだから」
そして、私自身の精一杯の愛の気持ちを。
……たとえ、その結果が私の望むものでない事が分かり切っていたとしても。
Side end
……あぁ。僕は今、間違いなく世界で一番幸せな生き物だろう。
イリナに頭を抱かれている中、第三者が知れば間違いなく呆れ返る様な事を僕は本気で思っていた。そして、僕はイリナを心から愛しているのだとハッキリと思い知らされた。このまま二人で、誰の手も届かない何処か遠くへ行ってしまおう。一瞬、そんな事を本気で考えてしまった。
……だが。
「イリナ、ありがとう。僕の事を愛してくれて」
僕はイリナの胸から頭を離すと、最初にイリナの告白に対して感謝の言葉を伝えた。……少々素っ気なくなってしまったのは、言いたい事は山ほどあったにも関わらず、その全てが蛇足になりそうで他に言葉が出てこなかったからだ。そして、僕は告白に対する答えを返す。
「でも、今の僕ではその想いには応えられない」
……だからこそ、僕はイリナから離れなければならなかった。
八重垣 正臣さん。
名うての悪魔祓いでありながら、リアス部長の前の駒王町の管理者であった女性悪魔と恋に落ち、最終的には二人一緒に粛清されてしまった悲劇の人だった。
僕が人間をやめてまもなく遭遇した時には正に怨霊そのもので辺り一面に悪影響を及ぼしていた為、フルムーンレクトで怨念を浄化した後、ゼテギネアの神聖魔術であるイクソシズムで昇天させたのだが、その際に自らの境遇を話してくれた。……恐ろしいくらいに、僕とイリナの現状に当てはまっていた。そして、昇天する直前になって、正臣さんはこう語ってくれた。
〈あの時の僕は、愛するクレーリアと離れたくない、絶対に守り切ってみせるという自分の想いに囚われ、そして酔っていた。だから、それこそが愛だと思い込んでいたけど、結局のところは自分のことしか考えていなかったんだ。……そんなものは、愛じゃなかった。本当にクレーリアの事を想うのであれば、紫藤さんの言葉を素直に聞き入れて、僕がクレーリアを説得する事で一度お互いに距離を置いてみるべきだったんだ。ただ寄り添うだけが愛じゃない、だからまずは一度、時間を置いて僕達の想いが本物かどうか確かめるべきだって、あの時に自分で気づくべきだった〉
選択を誤った結果、自分はおろか愛する女性まで死なせた事への後悔を口にした後、正臣さんは続けて僕に忠告してきた。
……愛を誤解して、僕の様な過ちだけはしないでくれ、と。
〈だから、君も僕と同じ過ちだけはしないでくれ。一度離れる事で、愛する人が側にいない事を苦痛に感じたとしても、その結果として、愛する人が別の男と結ばれてしまった事で悔しさに心を焼かれたとしても、ただ愛する人の幸せだけを願うんだ。……きっと、それこそが本物の愛だと思うから〉
今こそ、この言葉を実践する時だ。……イリナに依存しようとしている今の自分が、イリナに相応しいとはどうしても思えないから。
「イリナ。僕がイリナの好意に応えられない理由は、解るね?」
僕がイリナに問いかけると、僕が断った時点で涙が零れ始めていたイリナはただ頷くだけだった。そのイリナの涙と表情に痛々しさを感じつつ、僕は改めてその理由を口にし始める。……もう以前の様な関係には戻れないのだという事を、お互いに知らしめる為に。
「僕は悪魔に魂を売って転生し、その後の功績を認められて他の眷属達の総括を任せられる立場にまで出世した悪魔の眷属。そして、イリナは聖剣の所持を許されるという新進気鋭の悪魔祓いだ。僕達は既に、共に天を頂く事のない敵同士だ。そんな僕達が愛を交わしてしまったら、待っているのは大切な人達をも巻き込んでのお互いの破滅だけだ」
次に、僕は僕とイリナの生命としての違いについて言及する。……生きていく時間という、どうあっても超える事ができない壁を。
「それに、僕達はこれから生きていく時間が余りにも違い過ぎるんだ。僕はこれから先、人類が歴史を重ね、文明を発展させるのに費やしてきた永い時間すらも超えて生きていく事になる。そして、イリナはそんな僕の横をあっという間に駆け抜けていく事になるだろう。たとえ、イリナがどんなに僕に合わせてゆっくり歩こうとしても、逆に僕がどんなに急いでイリナと一緒に歩もうとしても、僕は必ずイリナに置いて行かれてしまう。……イリナと過ごす数十年の思い出だけで、一万年以上も生きていける自信が今の僕にはないんだ」
……そして、僕は。
「でも、そんな事以上に大切で、そして単純な理由がある」
イリナに依存しかけている、何とも情けない自分がいる事をイリナにハッキリと告げた。
「今、イリナの好意を受け入れてしまうと、僕はきっと駄目になる。イリナの愛に甘えて、イリナに依存し切って、いつかイリナが好きになってくれた僕ではなくなってしまう。……イリナの重荷になって、イリナを不幸にしてしまう。そんな事、僕は絶対に嫌だ。だから、僕はイリナの側にはいられない。属する陣営が敵同士とか、生きていく時間が違うとか、そんな事よりも、今の僕は男としてイリナに相応しくないんだ」
全てを伝え終えた僕はイリナに人として、そして幼馴染としての最後の頼み事をする。
「僕は、理由はどうあれ人間をやめた。それによって家族や孤児院の皆、そして僕自身の身の安全は保証されたけど、その代償として、僕は自分の夢と人としての生を諦めなければならなくなった。だから、イリナにはせめて自分の夢を叶えて、人としての生を全うして欲しいんだ。神や天使、悪魔からしてみれば一瞬の様に短く、だけど閃光のように激しく輝く人生を、それができなくなった僕の代わりに生きていってほしい。それが人としての、そして幼馴染としての最後の頼みだ」
僕の最後の頼み事を聞いたイリナは、涙を流したまま項垂れてしまった。そして、まるで恨み言の様に僕の頼み事への返事をし始める。
「……一誠君。その言い方は、卑怯よ」
この返答でイリナの意志を読み取れた僕は、正直にその頼み事の意図を伝える。
「自覚しているよ。ただ、こうでも言わないと、イリナは絶対に人として踏み止まってくれない。……そう思ったんだ」
すると、イリナは顔を上げると、何処かすっきりした表情で心情を語ってくれた。
「……そうね。確かに、今の言葉がトドメになっちゃった。それに、もしそれでも一誠君の言葉を無視して人をやめちゃったら、一誠君は自分を責めちゃうもの。そんな事、私にはできないわ」
……涙は未だに流し続けたままで。そして、イリナは現状に至ってしまった事について問い掛けてきた。
「ねぇ、一誠君。どうして、こんな事になっちゃったんだろうね? 私達、これからもずっと同じ道を歩いていける、一緒にいられるって、そう思っていたのに」
……それについては、もう謝るしかなかった。
「ゴメン、イリナ。でも……」
僕が言葉を続けようとすると、イリナはその前に僕が言おうとした事を先取りしてきた。
「零れた水は、もう二度と元の器には戻らない。たとえ零れた分を汲み直したとしても、それは元の水じゃないから元通りとはけして言えない。……そういう事、だよね?」
どうやら、イリナは覚悟を決められた様だ。そして、僕もまたここではっきりと覚悟を決める。……女々しくもここまで引き摺ってきた長年の夢、人としての生、そしてイリナへの未練を今、ここで断ち切ろう、と。
同時に、人でなくなった事を今度こそ受け入れて、永遠と思える永い生を僕として最期まで生きていく決意を固めた。それが、今後を共に生きていくグレモリー眷属やシトリー眷属の皆に対する礼儀であり、森沢さんを初めとする契約者の人達、ザトゥージさん、ティアマット、パンデモニウム、ライザーを初めとするフェニックス家の方たちといった、僕が人をやめてから今まで出逢ってきた方達に対して深い感謝を示す事にもなると思えるから。
過去に様々な形で背負ってきた多くの命をそのままに、今僕の周りにいる人達としっかりと向き合い、そしてまだ見ぬ未来に向かって少しずつでも歩んでいく。これこそが命という名の責任なのだと、今はっきりと理解できたのだから。
僕はその覚悟と決意を胸に秘めて、イリナへの最後の言葉を告げる。
「あぁ。イリナの言う通りだ。だから、僕達はここで別れて、お互いのいるべき場所へと戻ろう。それが、僕達にできるたった一つの事だから。……エクスカリバーの件が終わった後は、お互いに敵同士になる。そして、お互いに背負うものがある以上、妥協や馴れ合い等はけして許されない。だから、せめて戦いの場で敵として出会わない事を、そしてイリナが人として幸せに生きていく事を心から願っているよ」
僕の最後の言葉を聞いたイリナは、涙を流しつつも笑顔を作って別れの言葉を告げてきた。
「えぇ。私、もう行くね。一誠君。私、貴方と出逢って、そして好きになって本当に幸せだったよ? ……だから。だから、さよなら。一誠君」
僕は、僕の一方的な頼み事を受け入れてくれたイリナに、ただ感謝の意を表す事しかできなかった。そして、最後に決別の言葉をイリナに放つ。
「ありがとう。そして、さよなら。イリナ」
そうして、僕達はお互いの帰るべき方向へと向いて、そのまま別れた。後ろから聞こえていた足音が途中で止まり、代わりに聞こえてくるイリナの啜り泣く声をその背に受けても、僕はけして振り返る事をしなかった。
……その涙を拭うのは、もう僕以外の誰かの役目だと思うから。
イリナの側にいる事でかえってイリナを不幸にしてしまう今の僕にできる事は、イリナが人として幸せな生を全うする所をその後ろからそっと見守り続ける事。ただ、それだけだから。
Side:紫藤イリナ
どうして、こんなことになっちゃったのかな?
しばらくは歩き続けたけど、結局は堪え切れずに立ち止まってしまった。そしてそのまま座り込んでしまい、両手で顔を押さえて溢れてくる涙を堪えようとするけど、悲しみは益々募るばかり。……覚悟はしていたつもりだったけど、やっぱり「つもり」だったみたい。でも、こればっかりは仕方ないと思う。だって、私の初恋が最悪の形で終わっちゃったんだもの。
……一誠君。
私が一生支えていくと、そして一生愛していくと心に決めていた人と、これからは相容れる事のない敵同士になっちゃうなんて。もう、一緒に生きていく事ができないなんて。でも、一誠君を今更不倶戴天の仇敵だなんて到底思えない。それでも。それでも、主は私に愛する人を殺せと仰るのですか?
……こんなこと、悪魔祓いで聖剣使いの私が絶対に思っちゃいけないことなんだろうけど、今だけは失恋の憂さ晴らしの為の八つ当たりとして許して欲しい。
天にまします我等の父よ。こんな残酷過ぎる運命なんて、私は賜りたくなどありませんでした。だから、今この瞬間だけは、貴方様を心の底から恨ませて下さい。
Side end
第十一話 恋の
Overview
兵藤一誠と紫藤イリナ。
幼馴染である二人の恋は、未だ世界に燻ぶる「聖」と「魔」の対立に加えて、人と人でなき者との間にある「生きていく時間」の違いという大きな壁、そして何より未だ心の弱っている状態の一誠がイリナに溺れて堕落しかねないという致命的な状況が重なった結果、人でなくなってしまった己の代わりに人としての生を全うして欲しいと願う一誠の切なる想いに全てを悟ったイリナが応じる形で、結ばれる事無く終焉を迎えた。
どちらも自分以外の事が目に入らない「子供」ではなく、自分達の周りはもちろんお互いの事を誰よりも思いやれる「大人」であった事、そして何より、一誠がその聡明さ故に自らの現状を完全に把握してしまった上にそれを正しくイリナに伝える事ができてしまったが故の決別だった。
そして、この二人の恋が決別を以て終焉する一部始終を、図らずも見届けてしまった少女がいた。
「……私は、私は一体どうやってこの二人に償えばいいの? 私があの時、一誠君を尾行したりしなければ……!」
己の行動が切っ掛けとなり、本当なら結ばれていた筈の二人を決別させてしまった事に深い罪悪感を抱く少女の名前は、支取蒼那。真なる名をソーナ・シトリーという、一誠の悪魔としての主だった。
……その夜、ソーナは足りなくなっていた日常品を買い出しに偶々街を出歩いていた。駒王町の現状を考えるといささか軽率に思えるが、警戒が過ぎる事でコカビエル一派に「意図を悟っている」事を悟られる訳にはいかない為、こうして警戒心なく日常を過ごしている様に見せかける必要があっての行動だった。
その帰り道、ふと横に目をやると、そこには見かけた事のない少女を伴って向かいにある公園へと入っていく一誠の姿があった。ただ、一誠が無理に明るく振る舞っているのが明らかである事から、一誠の様子が少しおかしい事が気になり、やがて決心すると一誠に気づかれない様に公園へと向かった。
……本来の一誠であれば、この時点でソーナの存在に気づいていただろう。しかし、この時の一誠は武藤礼司に本心を吐露した事によって精神的な負担こそ軽減していたものの、心の準備が全く整わないままにイリナと再会した事で完全に混乱状態に陥ってしまい、意識を完全にイリナ一人に集中してしまっていた。その為、ソーナの存在を感知できなかったのである。
因みに、もしこの時にコカビエル一派から不意打ちを食らっていれば、一誠は全く対処できずに命を落としていただろう。それほどまでに、一誠の精神状態は最悪だったと言える。
……そして、ソーナは一誠とイリナのやり取りの全てを目撃してしまったのだ。
既に一誠が公園を去って十五分程経っているにも関わらず、未だに泣き続けているイリナの姿を見続けてしまったソーナは、これ以上自分はこの場にいるべきではないと判断してその場を去ろうとした。だが、激しい後悔と罪悪感に苛まれていた為か、動き出そうとした時に僅かに集中力が途切れ、一瞬であったが己の魔力とその波動を抑えるのに失敗してしまった。そして、幾ら悲しみの淵に沈んでいるとはいえ、敵対種族の悪魔から零れ落ちた魔力とその波動を見逃す程、イリナは無能ではなかった。
「……誰! そこにいるのは解っているのよ! 隠れてないで、出て来たらどうなの!」
イリナはソーナの隠れている場所をはっきりと見据えながら、出て来るように促した。一方、イリナに気取られたソーナは隠れてやり過ごすのは無理だと判断し、声に応じてその姿をイリナの前に晒す。イリナはその身を晒したソーナに問い掛ける。
「……貴女は?」
一方、ソーナは「人の名前を尋ねる時はまず自分から名乗る」という礼儀を無視したイリナに対して、あえて不問としたうえで自らの名と素性を明かした。
「……そうですね。話を盗み聞きした事でそちらの名前を知っているというのは、フェアではありません。まずは、こちらから名乗りましょう。私はソーナ・シトリー。シトリー家の次期当主であり、人間界では支取蒼那と名乗っています。そして、私の名前を聞いて解ったと思いますが、貴女の幼馴染である兵藤一誠君の主の一人です」
ソーナの名前と素性を聞いた瞬間、イリナの表情が怒りを通り越して憎悪一色に染まった。
「そう、貴女が。貴女が一誠君を……!」
イリナから激しい憎悪をぶつけられても、ソーナはそれも致し方なしとしてイリナに話を持ちかけた。
「そう言われても仕方がありませんし、私達では敵わなかった「一誠君の本音を引き出し、その心を癒す」事のできる貴女には、それを言える権利があります。でき得るなら、一誠君の心を救ってくれた謝礼として、願いを一つ叶えて差し上げたいと思うのですが……」
この時、もしイリナがソーナやシトリー眷属の力で成就可能な願い事を言えば、たとえ相手が悪魔祓いであったとしても、ソーナは願い事を叶えるつもりでいた。それが、イリナに対するせめてもの謝罪となると思っていたからだ。だが、この考え方は罪の意識からの逃げでしかなかった。
だからこそ、イリナが望むのはたった一つであり、それは到底叶えられるものではない事をソーナは察する事ができなかった。
「……だったら、返して?」
「えっ?」
イリナの端的な言葉に、ソーナは一瞬理解が及ばなかった。そこで、イリナは改めて自らの願い事をソーナに伝える。
「ねぇ、返して? ……私に返してよ。日の当たる場所にいて、皆を幸せにしてくれた筈の一誠君を。私が世界で一番大好きな一誠君を。何か一つ、願いを叶えてくれるんでしょ? だったら、他は何もいらないから、一誠君を私に返して!」
……よくよく考えれば、誰にでも解る事だった。愛する者を理不尽な形で奪われた者が望むのは、ただ愛する者が自分の元に帰ってくる事だと。しかし、シトリー眷属にとって、その願いは到底叶えられるものではない。ソーナはその事実を伝えようとするが、どうしても次の言葉が出てこなかった。
「そ、それは……」
すると、イリナは最初から期待していなかった事を言い放った後、代わりの願い事をソーナに伝える。
「……無理って、そう言いたいんでしょ? そんな事、別に最初から期待していないわよ。そっちだって、今更一誠君を手放そうなんて考えていないだろうし。ただ、それならせめて、一誠君には返してよ! 人の役に立つ物を研究開発したいっていう大きな夢を! それに向かって一生懸命頑張って来た今までの人生を! 私や礼司小父さま、孤児院の子供達と繋いできた強い絆を! ……人間でなくなった為に、一誠君が失ってしまったもの全てを!」
このイリナの一誠に対する深い想いに、ソーナはもはや絶句するしかなかった。自分の願い事に対する返事が来ない事に、やはり無理だと悟ったイリナは自分の中で燻ぶり続け、一誠の前では絶対に言えなかった事をソーナにぶつけ始める。
「何で! どうして、私達が敵同士にならなくちゃいけないの! 幼い頃に好きになって、それからずっと好きなままで、これからもっと好きになる筈だった一誠君と、どうして私が殺し合わなくちゃいけないのよ!」
……イリナは、泣いていた。瞳から溢れる涙を拭おうともしなかった。
その余りに痛々しいイリナの姿を見て、ソーナは重過ぎる罪悪感に押し潰されそうになっていた。だから、イリナに対する謝罪の言葉がつい口から零れ出てきていた。
「それについては、張本人である私にはただ謝る事しか……」
しかし、それはイリナの激情に対して更に油を注ぐ事にしかならなかった。
「ふざけないでよ! どうせ、さっきまでの事は全部見ていたんでしょう! だったら、解った筈よ! 大切な夢を諦めなければならなくなった事を、一誠君がどれだけ悲しんでいたか! 小父さまや小母さまから頂いた人としての大切な体を捨ててしまった事に、一誠君がどれだけ苦しんでいたか! 人の歴史すら超えてしまう程に余りに永い生に、一誠君がどれだけ怯えていたか! 全部。……全部! 貴女達、悪魔のせいじゃない! それを今更「ごめんなさい」?」
イリナはそこで、自分が失ったものはもう戻ってはこない事を明言した。
「今更、今更そんなこと言われたって、零れた水はもう元の器には戻ってこないわよ! それに、水を汲み直せば器はまた満たされるかもしれないけど、地面に落ちた水は染み込む形でずっと落ち続けるだけなのよ! ……どっちがどっちだなんて、私が言わなくても解るでしょう!」
こうして言いたい事を全て言い切ったイリナは、肩で大きく息をしていた。
「ハァ、ハァ、ハァ。……フゥ」
そして、呼吸を整え、流れるままにしていた涙を拭い去った上で、さっきまでとは打って変わって、非常に落ち着いた態度で頭を下げつつ、ソーナに醜態を見せた事に対して謝罪した。
「みっともない所をお見せしてしまい、申し訳ありません。明日には、この街での活動許可を始めとする申し入れをする相手に対する態度や言葉ではありませんでした。今のは、初恋に敗れた惨めな女による憂さ晴らしの為の八つ当たりと思って、見逃して下さい」
その余りの変わり身の早さにソーナは半ば呆然としつつも、どうにかイリナの謝罪に対して応える事ができた。
「い、いえ。こちらこそ、貴女に対しては本当に謝ることしかできないのです。この程度の事、むしろ気になさらなくても結構ですよ」
このソーナの謝罪を聞き入れたのか、イリナはソーナの目を真っ直ぐ見据えて語りかける。
「ただ、これだけは確認させて下さい」
そう言って右拳の親指側に左の掌を当てると、そのまま両手をゆっくりと引き離し始めた。すると、右手に光の棒が握られたかと思えば、左の掌から光が溢れ始め、まるで剣が引き抜かれる様に光が剣の形となって集束していく。やがて、イリナの右手には一本の剣が握られていた。その剣は白金の穏やかな光を淡く放っており、如何にも伝説級と思われる程の聖なるオーラを放っている。
イリナは己の中から聖なる剣を取り出した所で柄を逆手に持ち、ソーナに見せつける様にして問い掛けた。
「貴女に、この剣に触れる勇気がありますか?」
……イリナの心中には、並々ならぬ決意が秘められていた。
Overview end