やはり俺たちのバレンタインデーは間違いだらけである。 作:kuronekoteru
昼休みも半分が過ぎたであろう頃、俺は嵐が去った後の静けさを一人味わっていた。口の中には未だに甘い余韻が残り続けている。
食べ終わった包みは綺麗に折り畳み、制服のポケットへ。別に残す訳でも無いのに、無造作にするのは憚られてしまった。何もかも思い通りに動けない様は、まさに完敗であろう。
ぼんやりと白い息を吐いているのは、何かを考える余裕があるからではなく、ただ何も考えないように見つめる先を作っていたからに違いなかった。
冬空の空気で乾いた口内を潤すために、無糖の紅茶の入った容器の蓋を開けていく。誰かによって制限されている糖分も、先程のチョコレートでプラマイで言うとちょいプラスな気がする。これは今日もマッカンはお預けでしょうかね。
漸く思考の戻ってきた頭で健康問題について考えていると、後方からパタパタとまた別の足音。それは活発で優しい音。こう何回も聞いていると、誰が来たのかも自ずと分かってしまうようになっていた。
「ヒッキー、やっはろー」
「……ん、どうかしたか由比ヶ浜?」
相も変わらずアホっぽい挨拶をぶら下げて来たのは由比ヶ浜結衣。桃色風の明るい茶髪をした彼女は、後ろ手に紙袋を垂らしている。
「いやー、悩んだんだけどさ、ヒッキーにも友チョコ渡しとこうかなって」
「えっ、なに、……配り歩いてんの?」
「うん、優美子と姫菜には渡して来たよ」
確かに女子にはそういう風習があったりなかったりするらしい。ってことは、友達が多ければ多いほど支出は増えるし、摂取カロリーもバカにならなくなるのでは? 本当に聖人だったらしいのに、バレンタイン司教もとんでもない業を背負わされたものだ。
呆けることに慣れていた俺は、由比ヶ浜を立たせ続けていることに気付くのが遅れてしまっていた。急ぎ、座り易いよう横へとずれると、彼女は小さく感謝の言葉を口にする。そして、拳一つ分も置けない距離に腰掛けた。
……えっ、普通そんなに近くに座らなくないですかね。というか本当に近い、良い匂い、あとマジで近い。もう、こっちにスペースねぇから!
「あはは、ヒッキーはあんまり変わらないね。ゆきのんのことはあんなに変えちゃったのに」
「……人聞きの悪いことを言うな、実際あいつも面倒臭いところは変わってない」
眼前に浮かぶは、そういうところだとでも言いたげな表情。由比ヶ浜はそのまま盛大に溜息を吐くと、改めてこちらに視線を向け直した。
「きっと、あたしもいろはちゃんも、他の人だってヒッキーにだいぶ歪められちゃったよ?」
「歪むって……」
指折りしながら話す彼女に、挟みたくもない相槌を入れてしまう。もしかしなくても、知っていて使っていますよね。あの、雪ノ下さん、ちょっとガハマさんにお口緩くないですか?
「あーあ、あたしも責任取って欲しいなぁー」
誰に聞かれても誤解されるであろう危険な言葉と共に、湿度高めな下半月状の目が俺を襲っていた。由比ヶ浜さん、絶対に俺よりも一色さんに歪められてますよ。一色ならまだしも、君にやられると無下にし辛いから本当にやめて欲しい。
俺は無言での抵抗を続ける。こんなハンター試験並に沈黙しか許されない状況で他に何をしろと言うのだろうか。
「……まぁ、いいや」
必死の抵抗の甲斐があったのか、遂には由比ヶ浜からお許しの言葉を賜る。止まっていた自身の息を吹き返していると、彼女は反対側に置かれた紙袋にガサゴソと手を突っ込んだ。
取り出されたのは、俺の手よりも大きなハート型のチョコレート。無色透明な包装に入ったそれは、色鮮やかなシュガーハートで装飾がされており、ハート要素のみで構成された外形は女子受けは良さそうにも見える、のだが……。
「えっ、なに、……これなの?」
「うん、そうだけど」
俺の戸惑いなど気にもせず、由比ヶ浜はあっけらかんと言葉を返す。そして、何も隠す気のない無色透明な袋を、堂々と目の前に差し出した。
────受け取れる筈がない。
この大層な手造りチョコレートも、明らかに込められていそうな彼女の気持ちも。幾ら由比ヶ浜でも、流石にこんな物を皆に配っているとは微塵も思えなかった。
「ヒッキーとゆきのんには特別に用意したんだよ。……だって、特別だもん」
「おい、お前まで自然と俺の心を読むな」
「あははっ、だってヒッキー全部顔に書いてあるもん」
由比ヶ浜に笑われ、釣られて俺も自然と笑ってしまう。思えば、随分一緒に居るようになったものだ。歪な出来事で出会い、関わり始めてからは罵り合って。やがて多くの依頼に共に挑み、その度に彼女に助けられ、……そして何度も俺の手で傷付けてしまった。
しかし、その悠久にも思えた掛け替えのない時間もあとひと月程度のこと。こんな肩が触れ合う距離でなくとも、彼女にずっと関わることなんて、俺に赦されはしないだろうから。
だから、俺は言葉を口にしようとした。
また傷付けてしまうであろう、酷い言葉を。
しかし、俺の唇が音を発するよりも先に、目の前の大切な女の子が口を開いて、凍えてしまいそうな空気を震わせてくれた。
「……あのね、ヒッキーにはこの先ずっと仲良くして欲しい。ここまで言わないと、ヒッキーは勝手に勘違いして逃げて行っちゃうって、あたしも分かってるんだから」
きっと、由比ヶ浜には全部バレていたのだろう。俺には彼女を突き放せる自信がないから、逃げてしまおうとしていたことを。その癖、雪ノ下とは仲良くし続けて欲しいと自分勝手な願いを持っていることさえも。
だから彼女は言葉を続ける。俺たち奉仕部を繋ぎ続けてくれた、彼女だけの明るい笑顔のままで。
「もちろん、ゆきのんにも渡すよ。だって、この先ずっと親友のままでいて欲しいもん!」
この先に関わり続けたい、その決意表明としての特別な友チョコ。これを受け取らない理由は俺にはもう無いだろう。そう思わされ、彼女が差し出し続けてくれたハートを、俺は漸く手渡してもらうことが出来た。
「……ありがとな、大事に食べさせてもらうわ」
想いが詰まった重いチョコレートを手に、俺は感謝の言葉を口にする。由比ヶ浜を傷付けずに済んだ安心感と、手に持ってみた実際の重さに笑みを浮かべながら。
「うん、……あっ、でもゆきのんには見せないでね」
「確かに、あいつ早とちりして不機嫌になりそうだもんな」
明日の分を考えても糖分過剰な上、ハート形のチョコレート何ぞ持っていたら千葉に雪が降ってしまうこと間違いなし。まぁ、あいつも由比ヶ浜から同じ物を貰うのだから形状については不問にしてくれるだろう。
そんな俺の甘い考えを打ち砕くように、由比ヶ浜は再び紙袋に手を入れながら笑った。
「違うよ、だってゆきのんにはこれあげるから!」
取り出された手には猫の顔の形をした小さなチョコレート。丁寧に髭の形まで綺麗に装飾されているが、何処にもハートマークすら見当たらなかった。
「ヒッキー、お返し期待してるからね!」
取り出していた猫チョコをささっと紙袋へと仕舞い、由比ヶ浜は立ち上がって特別棟の方へと走り去っていく。これだから、優しい女の子も、ズルい女の子も苦手なのだ。
それでも、昔のように嫌いになれないのは、きっと彼女たちのせい。俺もまた、随分と彼女たちに歪められてしまっている。
またしても一人残された俺は、先刻のように息を吐くしか出来なかった。目の前に発生する水蒸気由来の靄は、より白く、より大きく浮かび上がっている。それはきっと、触れていた肩から伝わった彼女の温度の仕業で。
その熱はやがて顔にまで伝搬していく。
そして、心に燻る想いのように長らく消えることはなかった──。
ハッピーバレンタインってことで、初めて八結を書かせてもらいました。
是非ともご感想を頂けると嬉しいです(二回目)。