JK妻(シーズン3)   作:山田甲八

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十一 入試事件

 十一月の下旬から僕はずっと謹慎していて基本的に家にいた。外に出かけるといったらチャコとマコちゃんの送迎と買い物くらいのものでとにかく双子の執事役に徹したのだ。元々僕には政治的な野心などないので永田町に行かないで済む生活は好都合とさえ言える。いっそのことこの機会に僕のライバルと目されている政治家が僕のことを立ち上がれないほど叩き潰してくれたらどれほどいいだろうかと夢想したものだ。

 しかし、僕の周りの誰もがそんなことは望まないので現実はやっかいだ。永田町の政治家連中は与野党を問わず、そしてマスコミさえも僕がまったく外に出ないものだから本当に反省していると錯覚し、臨時国会が終わると色んな政治家がやってきて「もう政治活動を再開してもいいのではないか?」とおせっかいな助言をしてきた。正月もそんな感じで家にいたので年が明けると復帰要請はさらに強くなった。一部のマスコミはそんな僕の行動を「兵糧攻め」と表現していた。僕が資金提供もしなくなったので色んな人々が困っているというのだ。野心家の作戦というわけだ。

 結局、僕は通常国会の開会と同時に謹慎を解いて通常国会初日の一月二十三日、久し振りに永田町に出勤した。永田町では巨漢の官房長官とチャコとの交渉により僕のポストが決められていて僕は首相官邸の僕の執務室に入ることになった。比較的広い部屋と大きな机が与えられ、机の上には「内閣総理大臣補佐官」という僕の新しい肩書きが記載されている。首相補佐官というのが僕の新しい役回りで僕は「少子化担当」ということになった。僕が特に少子化問題の専門家というわけではない。少子化担当の大臣はいるし、僕は足手まといになるくらいなのだがとにかくポストが空いているということで官邸入りということになったのだ。掃除当番みたいなものだ。ただ掃除当番と違い特に仕事はない。

 辞令交付を受け、執務室の椅子に座ると早速、担当の内閣参事官がやってきた。

「白石補佐官。お客様です。」

「どなたですか?」

「斉藤前総理です」と参事官が言い終わらないうちに「やあ!」と言って斉藤前総理が執務室に入ってきた。昨年九月に総理大臣を退任し、現在は党の最高顧問だ。

「あっ、先生おはようございます。呼んでいただければ僕の方から伺いましたのに。まあどうぞ。」

 僕はそう言って脇にある応接に座るよう勧めた。前総理の方が明らかに格上なのだが僕の方が上座に座ってしまう。なんだか申し訳ない気がした。

「就任のお祝いをするのに呼びつけるわけにもいかないよ。臨時国会のときは変に貧乏くじを引かされたな。まあ君は若いのだからそんなに気にすることもないだろう。むしろ党に精一杯恩を売ったというところかな。」

「はあ。」

 別に僕は恩を売るつもりなどはない。やる気がないだけだ。

「で、早速なのだが相変わらず恵理香のことだ。」

「ああ、はい。いよいよ受験ですね。来月ですか。」

「そうだな。それでどうだろう?チャコちゃんには随分面倒を見てもらっているようだけど。」

「そうですね。僕の謹慎中も何度か碑文谷の僕のうちに来て勉強していたようです。」

「合格できそうかな?もちろん第一志望はチャコちゃんの自由が丘女子だが。」

「そればっかりは僕には分かりません。」

「君の力でなんとかならないかなあ?君は文教族だろ?」

「私より斉藤先生の力の方がはるかに強いのではないですか?」

「そうかもしれないのだが私は文教族ではないし、あの学校はガードが固いんだよ。それに前総理が裏口入学に関わっていたというわけにもいかないだろう。こういうことは永田にやらせていたが、その永田も君に譲ってしまったからな。とにかくよろしく頼むよ。じゃあ私はこれで。」

 前総理は余程忙しいのだろう。最後は恩着せがましくそう言うとお茶が出される前にさっさと執務室を出て行った。総理大臣まで努めたこの政治家も結局は自分の利益優先ということだろうか。親バカならぬ祖父バカといったところだ。

 

 執務室にいるのも暇なので午前中に議員会館に戻った。議員会館には永田秘書が僕のことを待っていた。

「白石先生。お帰りなさい。いかがでしたか、官邸は?」

「まあ、僕には荷が重過ぎますね。肩が凝りました。」

「お疲れ様でした。ところで先ほど斉藤前総理のお嬢様の暁子お嬢様がお見えになりました。」

「ああ、そうでしたか。実は官邸の執務室にも斉藤先生がお見えになったんですよ。」

「で、なんと?」

「まあ、恵理香ちゃんのことをよろしくと。」

「で、先生はどうされるおつもりなんですか?」

「どうするも何も僕には何もできませんよ。裏口入学させる力なんて僕にはありませんから。」

「そうですか。良かった。実は暁子お嬢様は露骨に裏口入学の工作依頼にお見えになられたのです。」

「はあ?」

「アタッシュケースに現金を詰め込んで、『もし必要ならこのお金を使ってもらっていい』とおっしゃっていました。三千万円はあったと思います。」

「それで、どうされたんですか?」

「もちろん追い返しました。白石先生はそんな不正はしないと申し上げまして。大体、あの不良少女が更生しただけでも斉藤家にとってはありがたい話のはずなのです。人間は本当に欲深いものですね。」

「随分、厳しいですね。ちょっと前までは斉藤先生の秘書をやっていたのに。」

「ええ。確かに前総理にはお世話になりましたが、斉藤家にはあまりいい印象はないのです。嫌なことばかりやらされてきましたし、それでいて最後まで公設秘書にはさせてもらえませんでしたから。それに今、私は白石先生の下で働かせていただいているわけですから、白石先生のために一生懸命やらせていただきます。」

「そうですか。対応いただきありがとうございます。」

「そもそも自由が丘女子の裏口入学は不可能です。」

「はあ。」

「あの学校、もう何十年も前になりますが裏口入学が表沙汰になって大変なことになったことがあるのです。だから今ではとても厳しく入学試験を取り仕切っています。白石先生の力でも無理ではないでしょうか。安請け合いはしない方がいいと思います。」

「はい。」

「白石先生。先生は文教族で今は受験のシーズンです。これからも裏口入学の斡旋依頼がたくさん来るかと思います。お気をつけください。それでなくても野党やマスコミは先生のスキャンダルを狙っているのですから。」

「どうすればいいのでしょう?」

「まあ、『秘書に任せている』とおっしゃっていただければ結構です。後は秘書連中でなんとかしますので。先生は自己犠牲心の強いお方ですから恵理香お嬢様が自由が丘女子に入れるなら自分の手を汚してもいいとお考えになるかもしれませんがそれはいけません。先生は良くてもスキャンダルが起きると先生の周囲に災いが降りかかりますから。」

「はあ。」

 要するに僕は良くてもこの有能な秘書が熱狂的に応援するハルナにキズがついたら困ると言いたいのだろう。この有能な秘書も結局、自分の利益が優先だ。

「それと暁子お嬢様には合格発表があるまでお会いにならない方がいいと思います。随分とおやつれですから、情が湧いてしまうといけませんので。」

 僕は初めての経験でよく分からない。今日は国会も初日で忙しくないのでとにかく任せられることは秘書に任せ、運転手付の黒塗りで午後六時頃に早めの帰宅をした。

 

 「ただいま~」と言って帰宅し、ダイニングに入ると夕食はもうできていて、ダイニングテーブルには何品かおかずがならんでいた。おいしそうなケーキも並んでいて、誰か客人が来ていたようだ。

「お帰りなさい。久し振りの政治の世界はいかがでした?」

 チャコが笑顔で僕を出迎えた。

「今日は初日なんで暇だったよ。」

「どう、新しいポストは?」

「少し肩が凝るね。忙しくはなさそうだ。」

「忙しいと困るんだな。おうちのこともやってもらわないといけないからね。」

 チャコも相変わらず自分の利益が優先だ。

「誰か来たの?」

「うん。恵理香ちゃん。晩ご飯も恵理香ちゃんとの合作だよ。恵理香ちゃんの神経質なお母さんも一緒に来た。お母さんはすぐに帰ったけど、ちょっとノイローゼ気味だった。一人娘の受験で親の方が緊張してるんだね。今日、願書出してきたんだって。いよいよだね。」

「そっか~。」

 僕はちょっとため息気味に言った。

「何かあったの?」

「うん。実は今日、官邸の方に前総理の斉藤先生が来たんだよ。議員会館の方にはお母さんが来たそうだ。僕は顔を合わせなかったけど。」

「ああ、そうだったんだ。で、裏口入学させてとか言われたの?」

「まあ、そんなもんかもしれない。お母さんは大金を持ってきたらしい。永田さんには気をつけるように言われたよ。もうスキャンダルはコリゴリだからね。」

「そっか。でも大丈夫だよ。恵理香ちゃんきっと裏口じゃなくて表から堂々と入学すると思うよ。」

「自信あるの?」

「まあ、なんとかなるかなって。一応作戦は立ててるの。」

「作戦?」

「うん。試験は英、国、数の三科目。それに保護者同伴の面接があるの。面接はなんとかなるかなって思ってる。前総理の娘さんのお母様はもちろんだけど、上場会社の役員やってるお父様も来るって言ってるから。これは親の実力勝負になるね。札としては受験生の中で最強だと思うよ。」

「チャコのときはどうだったの?」

「あたしのときはもちろんおじいちゃんだよ。遼太郎と幸子じゃいくらなんでも役不足だからね。おじいちゃん、面接のときは結構、凄みをきかせてたね。まあ、元文部科学大臣だから当たり前だけど。」

「なるほどね。」

「で、国語は作文だけだからこれもなんとかなると思う。テーマは『私の親友』、『私の中学時代』、『感動した一冊の本』から一つ選んで書くことになってるの。」

「あらかじめ題名は分かってるんだ?」

「そう。それは受験生みんな平等ね。不平等はここから。採点は自由が丘女子の国語の先生三人がやるんだけど、三年生の国語の先生が責任者で配点も一番大きいの。」

「うん。」

「で、三年の国語の先生は高倉先生だから高倉先生好みの文章を書けば合格点はいくってわけ。まあ、最高得点が取れるかもね。」

「でも受験生の名前とかはマスキングされるんでしょ?」

「マスキングって?」

「その~、名前を隠して誰がそれを書いたか分からない状態で採点するってこと。採点者が買収されると困るでしょ。」

「なるほど。でもそれは大丈夫。何を書くかはもう決めてるの。テーマは『感動した一冊の本』で行く。高倉先生の愛読書は知ってるし、本人が何度もどこがどう面白いのか解説してくれてるからそこを重点的に書けばいい。」

「でも恵理香ちゃんに書けるかな?」

「恵理香ちゃんには無理だよ。書くのは啓一さんだよ。」

「ええ!僕?」

「夏休みの読書感想文もそうだったじゃない。で、啓一さんが書いたやつをあたしが高倉先生好みに添削するからさ。それを丸暗記して試験会場で書けばOKってなわけ。恵理香ちゃんマコちゃんと同じで頭は悪いけど字はきれいだからなんとかなるよ。」

 そのようだ。天は二物を与えない。東大出身の才女、裕ちゃんは字が汚かった。

「なるほど。で、英語と数学は?」

「それが問題なんだよね。」

「本人の実力はどうなの?」

「英語は中学で習う単語のスペルは全部書けるようになってる。ただ文法がね。数学はようやく一次方程式が解けるようになったところ。まあ一年生の二学期のレベルかな。」

「夏休みには掛け算の九九、必死に覚えてたもんね。」

 僕は柏崎で恵理香ちゃんと一緒に過ごした去年の夏休みを思い出した。

「まあ面接と国語で稼げるからそんなに高得点はいらないと思う。それに方法は他にもあるかもしれないし。」

「他の方法って……まさか試験問題を事前に入手するとかじゃないよね?」

「よく分かったね。でもガードが固いんだよな~。」

「そんなの無理でしょ?」

「さあ。まあ他に方法はないと思うからとにかくチャレンジしてみます。あの神経質なお母さんのためにもね。」

 そう言ってチャコは笑ったが今回ばかりは少し自信なさ気だ。

 

 次の日、僕が官邸の執務室で暇そうにしていると僕担当の参事官が開いているドアをノックして「白石補佐官、官房長官がお見えです」と言い終わらないうちに巨漢の官房長官が執務室に入ってきた。

「やあ、啓一君!今、いいかな?」

「長官!どうされたんですか?言っていただければ僕の方から長官の執務室に出向きましたのに。」

 僕がそう言うと巨漢は「いやいいんだ」と言い、案内した参事官に人差し指を向けながら「君!お茶はいらないから」と指示を出した。参事官はその言葉を人払いと解釈したようで「はい」と返事をすると開いていたドアを閉め、密室を完成させた。

「座っていいかな?」

 巨漢が応接を指さして言った。いつになく低姿勢なのでこっちの方が恐縮する。

「どうぞどうぞ。長官、申し訳ないのですが僕の方を長官室に呼びつけていただけませんか?これじゃあべこべです。昨日も斉藤前総理がここにいらして早速、新聞に書かれてしまいました。」

「ああ、その記事なら私も読んだよ。君が前総理をいきなり呼びつけてさっそく大物振りを発揮したと書いてあったなあ。まあ愉快じゃないか。」

「愉快じゃありませんよ。僕はそんなつもりはないのですから。それで、どうかされましたか?」

「まあ、斉藤先生の件だ。昨日の夜、会合で同席してな。お孫さんのことで相談を受けたんだ。」

「恵理香ちゃんのことですか?」

「そう言ったかな。今年、受験で朝子の学校を希望しているそうじゃないか。」

「ええ。」

「で、君にお願いしているようだが、君はなかなか渋い顔をしているそうだな。」

「僕には何もできませんよ。恵理香ちゃん自身に頑張ってもらわないと。」

「それはそうだが君にも頑張ってもらいたいんだ。よろしく頼むよ。」

「何かあったんですか?斉藤先生はともかく、長官ご自身がそんなことをおっしゃるなんて。」

「娘さんがノイローゼ気味だそうなんだ。なんとかしたいと。」

「恵理香ちゃんのお母さんですね。確かに神経質な方ですが。」

「それで、ここからが大事なのだが、お孫さんが見事、自由が丘女子に入れたら次の国会で私を参議院議長に推薦してもいいと言うのだ。どうだ。すごい話じゃないか。三権の長だぞ。」

「はあ。」

 やはりこの政治家も自分の利益優先にしか考えられない傾向にある。

「だから君にはぜひ頑張ってもらいたい。官房長官になれたのも言ってみれば君のお陰だ。今度は議長だよ。よろしく頼むよ。じゃあ。」

 そう言って巨漢は軽い身のこなしで颯爽と僕の執務室から消えて行った。

 

 通常国会二日目は施政方針演説があるがまだ国会は始まったばかりでそれほど忙しくはない。それでも僕は忙しそうに議事堂と議員会館と官邸を行ったり来たりしたが夕方の六時頃には運転手付の黒塗りで帰宅した。「ただいま~」と玄関を開けるとチャコが出迎えた。

「お帰りなさい。お疲れ様でした。」

 チャコにいつもの元気がない。チャコの方が疲れているようだ。

「なんか元気ないね。どうかしたの?」

「うん。今日は残念なお知らせがあるの。」

「何?」

「残念ながら試験問題の入手は無理だった。まあ無理すればゲットできなくはないけど意味のある結果は出せない。」

 チャコが本当に残念そうに言った。

「どういうこと?」

「試験問題は二十種類くらい作るんだって。それを別々の印刷業者に刷ってもらって、それが試験当日の朝、納品されて、くじでどれを使うのか決めるんだって。だから印刷業者から漏れてもあまり意味はないということになってるの。校長先生も試験当日まではホテルを転々として部外の人には会わないみたいだよ。」

 なるほど、本当にガードは固いようだ。

「へー。大変だね。」

「だから保護者同伴の面接も含めて真の実力が問われるかもしれないね。残念だけど仕切りなおしだ。まあ結果が出なければ出ないで仕方ないけど、とにかく後数日、あたしなりにベストを尽くします。」

 チャコは毅然とそう言った。どうベストを尽くすのか僕には分からなかったが。

 

 それから一週間ほどが過ぎ、二月最初の日を迎えた。チャコの学校では入学試験が行われる。チャコは珍しく、マコちゃんよりも先に起きてきた。既にセーラー服に着替えている。お腹が出てきて、制服も特注品になっている。

「おはよう。今朝は早いね。制服着てるけど今日は学校お休みじゃないの?入学試験でしょ?」

「おはようございます。授業はないけどあたしは行くんだな。入試のお手伝い。」

「お手伝い?」

「そう。良妻賢母組の名誉ある仕事なの。」

「チャコは妊婦なんだから免除してもらえばよかったのに。無理する場面じゃないと思うけど。」

「そうだけど、あたしはリーダー格だからあたしがいないと良妻賢母組の仕切りが難しいのよ。まあ、みんな、先生もね、あたしには気を使ってくれるから大丈夫だって。」

 チャコはニッコリ笑ってそう言った。それからマコちゃんも起きてきて僕の作った朝食を食べ、いつも通り、永田秘書の運転するワンボックスでチャコとマコちゃん、僕は出かけた。いつもと少し違ったのはチャコが学校の少し手前でワンボックスを降りたことだ。「今日は受験生がたくさん来るので裏口から入る」ということだった。僕は特に気に止めなかった。

 

 永田町では通常国会が本格化し、僕は議事堂、議員会館、官邸、党本部を慌しく移動するようになっている。この日は官邸執務室がスタートだ。執務室にいるとしばらくして机の上の電話が鳴ったので受話器を取った。

「はい。白石です。」

「永田です。」

「ああ永田さん。どうされました?」

「実は議員会館の方に暁子お嬢様がお見えになっているのです。」

「はあ?恵理香ちゃんの入学試験の付き添いに行っているんじゃないんですか?」

「送りには行ったようなのですがその後、こちらにいらしたそうです。随分とお疲れのようです。と言うよりあまり眠れていないようです。」

「はあ。」

「先生。率直に申し上げまして、今、暁子お嬢様にお会いになるのは危険だと思います。白石先生におかれましては私がご連絡差し上げるまではこちらにお越しにならないでいただきたいのですがよろしいでしょうか?」

「はあ。でもそちらは大丈夫ですか?」

「はい。私の方で対応させていただきます。暁子お嬢様は学生でいらした頃から存じていますから。しばらくこちらにいらして白石先生がお見えにならないと分かったら諦めてお帰りになるかもしれませんが、またお戻りになられたりしたらいけませんので。とにかく、しばらく先生は暁子お嬢様と顔を合わせない方がよろしいかと存じます。」

「はい。ではよろしくお願い致します。失礼します。」

 そう言って僕は受話器を置いた。もし合格できなかったとしたら恵理香ちゃんはともかく、母親の落胆はすさまじいだろう。でも今の僕にできることは何もない。僕は永田秘書の指示通り、首相官邸と議事堂を往復しながらこの日を過ごし、やはり国会開会中にしては少し早めの帰宅をした。

「ただいま~。」

 玄関を開けてそう言うと見慣れない女性の靴があったので僕はビックリした。しまったと思った。招かれざる客がやってきたのだ。奥からチャコが現れた。

「お帰りなさ~い。お疲れ様でした。啓一さんにお客さんだよ。」

 僕の渋い表情をよそにチャコはニコニコだ。

「恵理香ちゃんのお母さんだね?」

「うん。随分、お疲れのようだよ。」

 チャコはそう言って僕の鞄を取り上げた。僕は観念してリビングへと向かった。リビングのドアを開けると、中には疲れた表情のご婦人が一人、長い方のソファに座っていた。テーブルの上にはお茶が置いてあるが、まったく手はつけられていないようだ。僕が会うのは夏休み以来だが、そのときに比べると十歳くらい老け込んでしまったように見える。やはりノイローゼなのだろう。家の跡継ぎを育てなければならないというプレッシャーは相当なものなのかもしれない。母親はしばらくたってようやく僕に気付いたが、立ち上がることはできず、座って黙ったままお辞儀をした。

「お待たせしました。永田さんから議員会館の方にいらっしゃったと聞きました。お会いできず申し訳ありませんでした。」

 僕はそう言って一礼し、母親の対面に座った。

「先生、恵理香は、……恵理香は大丈夫なんでしょうか?」

 母親は「こんばんは」も言わずにそう言った。僕は往生した。しばらくもじもじしていると「お母さんそれは無理ですよ」とチャコの声がした。いつの間にかチャコがリビングに入ってきていて母親と僕の前にお茶を置いた。確かにチャコの言うとおり合格は無理かもしれないが、たとえ無理だったとしてもあまりにもストレートだ。今、この母親には到底受け止められないだろう。

「・・・・・・駄目なんですか?恵理香は合格できないんですね?」

 母親は構わず、僕に詰問する。チャコが続ける。

「そうじゃありませんよ。啓一さんの口から言うのが無理だってことです。啓一さん、首相補佐官という立場上、何か言うと色々と難しい問題を抱えてしまいますから。だからあたしの口から言いますね。大丈夫ですよ。恵理香ちゃん合格しますよ。どうしようもなくなったら啓一さんがなんとかしますから。」

 チャコがあまりにも自信たっぷりに言ったので僕の方がビックリした。母親は一瞬、身震いし、表情がミルミルうちに明るくなっていく。

「第一、恵理香ちゃんは啓一さんのお弟子さんなんですよ。弟子のために頑張らない師匠がいると思います?」

「ありがとうございます。それを聞いて安心しました。本当に白石先生にはご迷惑ばかりお掛けします。どうぞよろしくお願いします。」

 母親はそれで満足したのか、立ち上がって「どうもお邪魔しました。失礼します」と言って一礼すると、さっさとリビングを出て行った。チャコが急いで後を追い、玄関まで見送ったようだった。僕は不意打ちにどっと疲れが出てソファにそのまま座っていた。そのうちチャコがリビングに戻ってきた。

「あんないい加減なこと言って。もし合格できなかったらどうするんだよ。」

 僕はチャコをなじった。

「それは大丈夫。恵理香ちゃん合格するよ。」

 チャコは僕の隣に座ると自身満々の笑顔でそう言った。

「はあ?なんで分かるの?」

「まあ、作戦が成功したのよ。」

「作戦って?」

「あたし、今日、試験官だったの。それで恵理香ちゃんと同じ教室になって、ミッションコンプリートってわけ。」

「よく分かんないんだけど。どういう作戦だったの?」

「今日、試験官やることは分かってたの。先生だけじゃ足りないんで良妻賢母組の生徒がヘルプするのね。で、あたしは良妻賢母組のリーダー格だからあたしが張り付けをして、恵理香ちゃんの受験番号は分かってたから恵理香ちゃんの教室に張り付いたの。」

「しかしチャコだったら有名人だし、顔が割れてるんじゃないの?他の受験生にも。チャコのことは知らなくても瓜二つのマコちゃんのことは知ってるだろうし。」

「みんなが知ってるチャコちゃんは一昨年、『恋の進行形』のDVDに出てた頃のチャコちゃんだよ。今日はマスクしてだてメガネかけてたし、お腹も出てるからまるで別人。まさか妊婦がセーラー服着てるとは思わないもんね。」

「うん。」

「で、恵理香ちゃんには『三十分考えて分からなかったら手を上げてトイレに行きたいって言いなさい』って言ってたの。分かるわけないから当然、手を上げるよね。それで、トイレに行くときは試験官が一人ついて行かないといけないの。不正が行われるといけないからね。あたしがペアを組んだ試験官の先生は男の先生だったから女子トイレにはついて行かれない。当然あたしがついて行ったってわけ。試験官っていっても問題は見えるのね。入学試験の問題も所詮は中学校レベル。しかもあたしの得意な英語と数学。あたしが三十分で解いてトイレで恵理香ちゃんに正解を伝授。後は帰ってきた恵理香ちゃんがそれを書いておしまいってわけ。」

 僕は深呼吸した。鮮やかな逆転劇だ。

「でも、英語と数学、両方ともトイレ行ったんでしょ?怪しまれなかった?」

「試験官の先生は『あの子大丈夫か?』って心配してたけど『緊張してるんですね』って言ったらそんなもんかと思ってたよ。まさかこんなことするなんて思いもしないだろうし。」

「そっか~。」

 僕は複雑な気持ちだった、がとにかくホッとした。

 

 それから一週間が過ぎ、合格発表の日を迎えた。平日なのでチャコは学校に行くし、僕も永田町に行く。午前十時頃、僕が官邸の執務室にいると携帯のバイブレーションが震えた。ディスプレイには「公衆電話」と表示してある。

「もしもし。」

「あっ、啓一さん?あたし。チャコです。恵理香ちゃん合格したよ。」

「そうか。」

「別に裏口入学なんかしなくても表から堂々と合格したね。なんか言われても本人直筆の合格答案があるんだから誰も文句言えないよね。試験問題の漏洩もなかったんだし。」

「そうだね。ありがとう。」

「いいえ。啓一さんの力だよ。じゃあ、お仕事頑張ってね。」

 そう言って電話は切れた。一時間ほどするとまた携帯のバイブレーションが震えた。ディスプレイには「議員会館」と表示してある。

「もしもし。」

「あっ、白石先生。秘書の永田です。今、お忙しいですか?」

「いいえ。むしろ暇です。」

「では議員会館にいらしていただいてもよろしいでしょうか?お客様です。」

 客人が誰かは予想がついたので誰かとは聞かず、「はい、今行きます」とだけ言って電話を切り、徒歩で議員会館に向かった。首相官邸と議員会館は目と鼻の先だ。五分くらいで僕の部屋に到着した。

 僕の部屋に入ると予想された客人が応接に座って僕を待っていた。客人は僕に気付くと立ち上がり、しなやかな身のこなしで深々と頭を下げた。一週間前より十歳ほど若返ったようだ。

「白石先生。恵理香、合格しました。ありがとうございました。」

 そう言って恵理香ちゃんの母親はもう一度深々と頭を下げた。

「そうですか。よかったですね。おめでとうございます。」

 僕は手のひらを返して席を勧め、僕は母親の対面に座った。

「なんとお礼を申し上げたらいいか。本当に夢見たいです。」

 母親は泣いている。

「いいえ。僕に何ができたか。恵理香ちゃんの努力の結果ですよ。恵理香ちゃん、自分で答案を書いて合格したんですから。」

「いいえ。恵理香の本当の実力は母親の私が一番よく知っています。ほんの一年前まで私は死んでしまいたい気持ちでした。なんでこんな子を産んでしまったんだろうって。本当に先生のお陰です。これからも恵理香のことどうぞご指導よろしくお願い致します。」

 母親がそう言うとちょうど、永田秘書がお茶を入れてきて応接テーブルに置きながら「暁子お嬢様。大丈夫ですよ。恵理香お嬢様は鈴木春菜さんの妹弟子、白石先生の二番弟子なのですから。いずれは白石総理大臣の側近にお成りになるのではないでしょうか」と余計なことを言い、僕は苦笑した。

 母親は泣きながら小さくうなずき「これ、本当に些少ですがほんの気持ちです」と言って応接テーブルの上に一枚の封筒を置いた。今までのように厚みのある封筒ではない。中には一枚ペラの紙が入っているようだ。恐らく中身は小切手で八桁の数字が書かれているのだろう。

 

 この日の午後は特に忙しくはなく、僕は早めの帰宅をした。「ただいま~」と僕が帰宅するとチャコはリビングでソファに腰掛け、お菓子を食べながらテレビを見ていた。僕はチャコの隣に座った。

「お帰りなさい。よかったね。恵理香ちゃん。」

「チャコの力だよ。で、お昼前に議員会館の方にお母さんがお礼に見えたよ。泣いてたよ。僕は何もしていないのに。」

「そう。で、何かもらった?」

「うん。」

 僕はそう言って上着の内ポケットから小切手の入った封筒を取り出し、チャコに渡した。チャコは封筒から小切手を出し、しげしげと見つめた。

「さすがにこの桁数になると小切手なんだ。」

 チャコがポツリと言った。

「今回のことはチャコの力なんだからその小切手は本来、チャコが受け取るべきものだよね。でもチャコには興味ないかな?」

「そうだね。使い道もないしね。どうする?」

「じゃあ、その小切手は恵理香ちゃんの名前で学園に寄付しておくよ。もう、入学が決まってる話だし、問題ないよね。」

「そっか~。啓一さん、恵理香ちゃんの後見人として名乗りを上げちゃうんだ?」

「別に後見人じゃないよ。」

「でも師匠筋ではあるでしょ?」

「まあそういうことにはなってるけど。」

「そしたら高倉先生が恵理香ちゃんの担任を取りに行くと思うよ。」

「えっ?」

「今度の新入生の担任は今の三年生の先生がなるからね。高倉先生、あたしが卒業しちゃうと啓一さんとの、いや裕ちゃんとのつながりがなくなっちゃうんでどうするか今、悩んでるの。お弟子さん第二号が入ってくるとなったらこれを取りに行かない手はないからね。あたしも出産があるんで高倉先生なんだかんだ理由をつけては見に来ると思うし。まあ啓一さんも覚悟しといてね。」

 チャコはそう言って小切手を封筒に戻し、ニッコリ笑って僕に渡した。

 

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