僕はこの年、夏休みの始まる一週間くらい前に少し早い御国入りをした。通常ならばチャコの学校が夏休みに入るのを待ち、チャコと一緒に御国入りするところだ。僕が地元の柏崎に少し早い御国入りをしたのには訳がある。東京が少し騒がしくなったのだ。
国会が終わってしまうと政治ニュースも暇だ。それでマスコミとしては無理矢理ニュースを作りたくなる。夏休み前に二つの政治ニュースが永田町を越えて少し話題になった。一つは国会議員の長者番付が発表されたのだ。僕は二位以下を大きく引き離し、断トツの一位を飾った。その後で発表された資産公開でも上位に食い込み、マスコミの注目を浴びることになった。これはまあ裕ちゃんの残してきたものの上にのっかっている結果だからどうしようもない。もう一つのニュースの方がむしろ問題だった。現役国会議員の中から選ぶ総理大臣にしたい政治家ランキングに一年生の僕がランクインしてしまったのだ。もちろんランキングは下の方だったが、二十七歳の一年生議員に過ぎない僕がランキング入りすること自体、異常なことだ。
それ以来、あちこちから色々な声がかかるようになったが、そもそも政治的な野心のない僕にとっては興味のない話ばかりだ。幸い、チャコはもう政治家の妻にも慣れてきて、一人で柏崎にも来られるようになっている。僕はチャコを碑文谷に置いたまま、一人、柏崎に疎開することにしたのだ。代議士になってからというものの、いや、その前から忙しい毎日を送ってきたのでそれは本当にくつろぎの時間だ。なんと言ってもここにはあのうるさい姉妹がいないのだ。
そんなのんびりした生活を満喫しているうちに一週間が過ぎ、学校も夏休みに入った。チャコは夏休みに入ってすぐ、「良妻賢母組」の合宿が二泊三日であるのですぐには来ない。チャコが来たらまた振り回されるだろうからそれまでにせいぜい命の洗濯をしておかなければと考えていた夏休み初日の午後、「ピンポーン」と玄関のチャイムが鳴った。
玄関に行き、ドアを開けると「こんにちは。どうもご無沙汰致しております」と意外な人物が顔を出した。
「永田さん。どうしたんですが。随分、早い柏崎入りですね。八月のお盆の頃かと思っていましたが。」
内閣総理大臣私設秘書の永田氏だ。大きな荷物を持っている。永田氏は総理大臣私設秘書から僕の公設秘書に転身することが予定されている。正式な転身は九月の総理大臣退任後となるが、既に僕の仕事も色々とやってもらっている。
後ろに母子のような女性の連れが二人立っていてそのうち若い方の一人には確かに見覚えがあった。
「恵理香お嬢様をお連れしました。今日からこちらでお世話になります。どうぞよろしくお願い致します。」
「はあ。夏休みに来るという話は聞いていましたが、随分、急ですね。」
確かに夏休みに来るという話は訪中のとき聞かされていたが、今日、来るとは聞いていない。かなり不意打ちだ。
「昨日、碑文谷のご自宅にお邪魔して奥様にお話しましたが、お聞きになっていませんか?」
永田氏にそう言われて僕は少し理解した。チャコは高校の終業式終了後、直接、合宿に行っていて、自宅にいるはずはない。恐らくチャコと瓜二つの双子の妹が応対したのだろう。そして多忙なスーパーアイドルのマコちゃんは僕にとっては重大だが自分にとってはどうでもいいことを僕に伝えることなど忘れているのだろう。とにかく追い返すわけにもいかないので家の中に入れることにした。
「スミマセン。今日、いらっしゃることはチャコからは聞いてはいませんでした。本人が伝えるのを忘れたのでしょう。まあ、夏休み中にいらっしゃることは分かっていましたのでどうぞ上がってください。」
僕はそう言って三人を家の中に入れ、リビングに案内し、応接に座らせた。秘書はいない時間だったので僕が麦茶を入れた。三人が恐縮した。
「奥様はご不在なのですか?」
永田氏は僕がチャコの祖父、白石権蔵参議院議員のコネなしで初めて雇う人であり、僕が直接の主人ということになる。だからチャコのことを「若奥様」と呼ばない数少ない人のうちの一人だ。
「ええ。チャコは学校の夏合宿に行っていて明後日か、しあさって来る予定です。」
「そうでしたか。申し遅れましたが、白石先生。ご紹介します。こちらが斉藤総理の娘さんで恵理香お嬢様のお母様にあたる若奥様です。」
永田秘書が初対面の女性を僕に紹介した。本当に品のいい、「お嬢様として育てられたのだろう」といった感じの人だ。
「斉藤孝明の娘の暁子と申します。いつも父がお世話になっております。」
「お世話なんてとんでもないです。こちらの方こそご迷惑をお掛けするばっかりで。」
僕はとても恐縮した。
「父は本当に白石先生には期待しているようです。また、恵理香のことではなんとお礼を申し上げていいか。」
「いえいえ。お礼なんて、僕は何も……」
「白石先生、申し訳ないのですが、先生と二人だけでお話をしたいのですが。」
母親はそう言って、恵理香ちゃんの方をチラッと見た後、永田秘書に目配せした。
「では、私は恵理香お嬢様と少し散歩でもしてきます。」
永田秘書はそう言って恵理香ちゃんを促し、恵理香ちゃんはペコリと頭を下げて僕の視界から消えていった。ドアの閉まる音がして恵理香ちゃんが完全にいなくなったことを確認してから母親は続けた。
「白石先生。恵理香のことではなんとお礼を申し上げていいか。本当に言葉が思いつきません。」
僕は何もしていないのにこの母親は真剣だ。あまりにも真剣なので思わず笑ってしまいそうになるがそこはぐっとこらえて僕も真剣を装った。
「いいえ。僕は何も。」
「恵理香は甘やかしすぎてしまったのでしょう。本当にどうしようもなく育ってしまいました。悪い遊びばかり覚えてしまって。本当に頭痛の種でした。でも、白石先生に出会ってから本当に変わったんです。学校にも遅刻せずに毎日行くようになりました。それだけでもお礼のしようもないくらいです。」
「はあ。でも、恵理香ちゃん高校を受験するんですよね。こんなところに夏休み中いて大丈夫なんですか?」
「永田からお聞きになっているかと思いますが、大切な夏休みだからなのです。白石先生なら間違いなく、恵理香を正しい方向に導いてくださると思いますから。」
「しかし僕は勉強なんて教えられませんし、僕自身、政治活動で忙しいかもしれませんよ。」
「ご迷惑お掛けして申し訳ありません。でも、傍においていただけるだけでいいんです。あの子、自分からやる気になっているんです。今までは何を言っても聞く耳を持ってくれなかったのですが、今回は自分から『白石先生のところでだったら勉強できるかもしれない』と言っているのです。」
「はあ。」
「白石先生は斉藤家にとって最後の望みなのです。どうか恵理香のことを見捨てないでください。」
もう過剰評価には随分慣れたがそれにしてもこの母親は持ち上げすぎだ。ここまで言われてしまうと引き下がることもできない。そもそも僕は断れない性格なのだ。
「分りました。でも恵理香ちゃんの成績を上げられるかどうかは自信がありません。」
「はい。恵理香が悪い遊びから離れてくれるだけでも十分です。それと、これ、恵理香の成績です。」
そう言って母親は僕に紙を見せた。手に取ってみると中学二年のときの通知表だった。成績はほぼオール一。体育だけがかろうじて二だった。先生としてもオール一は避けたのだろう。僕はため息をついた。
「分りました。できるだけ頑張ります。それと一つご承知いただきたいのですが恵理香ちゃんは僕の弟子ということになっています。それはご理解いただいていますね?」
「はい。恵理香から聞いています。ご迷惑をお掛けします。」
「ですからこの家で客人扱いをすることはできません。恵理香ちゃんには使用人部屋で寝てもらいますのでご承知おき下さい。」
「使用人部屋ですか?」
「ええ。一番弟子の鈴木春菜ですらこの家では使用人部屋で寝るんです。ですからハルナの妹弟子にあたる恵理香ちゃんも使用人部屋で寝てもらいます。総理大臣の孫だからといっても特別扱いはできません。」
「恵理香に我慢できますでしょうか?」
「我慢できなければお帰りいただくだけです。」
「分りました。どうか恵理香のことよろしくお願い致します。……それからこれを。」
母親はそう言ってハンドバックの中から封筒を出した。僕は一目でその中身が何かが分かった。福沢諭吉先生のブロマイドが三百枚入っている厚さだ。きっと立てることもできるだろう。この品のいいご婦人が野口英世先生のブロマイド三百枚を差し出すとも思えない。
「こんなものではすまないとは思っています。でもせめてもの気持ちです。」
母親はそう言って頭を下げた。まあ手ぶらではないだろうとは思ってはいたが。
「お母さん。申し訳ありませんがこれは受け取れませんよ。別にそういうつもりはありませんから。」
「もちろんです。白石先生がとてもお稼ぎになっていることは重々承知しています。でもせめてもの気持ちです。今の私たちにはこれくらいのことしかできないんです。どうかお受取ください。」
そう言って母親はもう一度深々と頭を下げた。
それから母親は僕に案内されて家の中を見て周り、ちょうどいいタイミングで恵理香ちゃんと永田秘書が戻ってきて母親と永田氏は東京に帰っていった。結局、福沢諭吉先生のブロマイドは受け取った。
僕は恵理香ちゃんを預かることになったが、ここ柏崎の白石本宅は当直の秘書さんが誰かしら常駐していて、食事の準備や掃除、洗濯などはすべてやってくれる。だから恵理香ちゃんと二人きりというわけではない。僕の普段の生活に客人が一人来たというだけのことだ。恵理香ちゃんは師匠であるはずの僕には一応気を使うし、妻や妹のようにわがままも言わない。
次の日、僕は恵理香ちゃんをこの夏休みの間中、通うことになる地元の塾に徒歩で送っていった。塾長先生とも面談した。「ほとんど基礎から始めなければなりませんがとにかく頑張ります」と塾長は言っていた。塾長も大金を握らされているのだろう。
それから白石本宅に戻った僕はしばらく普段の退屈な生活に戻った。去年までは選挙を控えていたこともあり、夏休みは後援者周りなど大変だった。しかし選挙も終わり、僕も議員バッチをつけるようになったのであいさつ回りはあるにはあるがのんびりしたものだ。なんにもしなくてもいい、二階のルーフバルコニーにあるビーチチェアに寝そべりながら本を読むような時間だ。そのうち夕方になり、そろそろ恵理香ちゃんが帰ってくる時間になった。僕は相変わらずバルコニーのビーチチェアに寝そべりながらボーっとしていると午後六時頃、当直の秘書さんが二階に上がってきた。
「若先生。警察署長からお電話です。」
「はい。今、行きま~す。」
僕は軽く返事をしてチェアから起き上がった。警察署長は普段から色々とお世話になっていて直接、電話がかかってくること自体は別に珍しいことではない。そのままリビングに向かい、受話器を握った。
「お待たせしました。白石です。」
「ああ、若先生。お忙しいところ申し訳ございません。警察署長の安藤です。いつもお世話になっております。」
「いえ、こちらこそいつもお世話になっております。」
「急にお電話を差し上げて恐縮なのですが、若先生はエリカという女の子をご存知ですか?」
「はあ。恵理香ちゃんに何かあったんですか?」
僕は緊張した。事故にでも巻き込まれたのなら僕にも責任がある。
「お知り合いなんですね。実はさっき生活安全課が補導してきたんですが、親の名前とか聞いても言わないんです。それで『とにかく白石先生に連絡してくれ』の一点張りで。」
僕は目を閉じた。もっと注意すべきだった。塾まで迎えに行くべきだったのだ。
「どうして補導なんかされたんですか?」
「繁華街を一人でうろついていたものですから。その、地元でも見かけない顔でしたので。」
「彼女は斉藤総理のお孫さんなんですよ。夏休み中、僕が柏崎でお預かりすることになったんです。」
「ええっ!それは申し訳ありません。そんなことまったく存じなかったものですから。」
「正当な職務の執行なのですから警察署長さんには何も問題ないと思いますけど。とにかくここでは僕が親代わりですのでこれから署に迎えに行きますね。」
「とんでもございません。これからご自宅の方にお送り致します。どうも失礼致しました。」
そう言って電話が一方的に切れると十五分くらいして黒塗りのクルマがパトカーの先導で白石本宅前に到着した。クルマの後部座席には警察署長と恵理香ちゃんが座っていた。クルマから降りた警察署長は平謝りに謝り、今後は一人警備の警察官をつけると言って帰っていった。SPが一人ついてくれるのは僕にとってもありがたい。まあ監視係と言ったところだ。
恵理香ちゃんは補導されたというのに何事もなかったかのようにケロッとしている。こういうことには慣れているのかもしれない。恵理香ちゃんと僕はリビングで向かい合って座った。
「恵理香ちゃん。どうしたの?補導されたっていうんでビックリしたよ。」
「お騒がせしてスミマセン。私もビックリしました。」
「繁華街をうろついてたって聞いたけど。」
「あたしとしてはただ帰る途中にゲーセンに寄っただけなんですけど。こっちにはどういうマシンがあるのかなあとか興味あったもんですから。」
まあ運が悪かっただけで恵理香ちゃんには悪気はないようだ。
「とにかくここでは僕が親代わりだから頼りにしてもらうのは構わないけど、勉強するために柏崎に来てるんだからそのことは理解してね。」
「はい。ところで勉強のし過ぎで疲れちゃったんですけど、少し横になってもいいですか?」
「そうだね。まあ少し休みなよ。晩御飯ができたら声をかけるから。」
「ありがとうございます。では少しお休みしま~す。」
そう言って恵理香ちゃんはリビングから出て行った。大きな荷物を抱えてしまったことを実感した。疲れがどっと出た。
次の日も同じように恵理香ちゃんは塾に出かけていき、僕はバルコニーでまどろんだ。夕方になると、昨日、警察署長から電話があったくらいのタイミングでまた電話がかかってきた。嫌な予感がした。当直の秘書さんは出かけている時間だったので直接僕がリビングまで降りていって受話器を握った。
「はい。白石です。」
「あっ、啓一さん?あたし。チャコです。」
「ああ。お久しぶり。もう合宿は終わったのかな?」
「うん。今、碑文谷のおうちに帰ってきたところ。」
「どうだった?」
「とってもハードでしたよ。もう嫌って感じ。早くそっちにいって羽根伸ばしたいなあ。」
「それはお疲れさまでした。でもこっちにきても羽根伸ばせるかどうか分らないよ。」
「そう?恵理香ちゃん来てるんだって?」
「ああ、知ってたのか。」
「今、知ったところ。マコちゃんの置き手紙があってさ。」
「そっか。」
「ねえ、啓一さん。」
「ん?」
「奥さんより若い女の子を連れ込んじゃったね。」
「どうしてそういうこと言うのかなあ。」
「まあいいでないの。恵理香ちゃんとはおんなじ部屋で寝てるの?まさかおんなじベッドとか?」
「何言ってんだよ。ハルナと同じだよ。一階の使用人部屋だよ。」
「え~。総理大臣のお孫さんだっていうのに?」
「そうかもしれないけど僕にとってはハルナの妹弟子だからね。ハルナより厚遇するわけにはいかないよ。」
「とか言って結構、嫉妬深い奥さんに気を使ってたりして。」
「まあ、それもあるけど。」
「恵理香ちゃんどう?」
「昨日、警察に補導されたよ。」
「なんでまた?」
「繁華街をうろついてたんだって。」
「そっか。恵理香ちゃんらしいね。で、勉強はしてるの?」
「集中できてるとは言えないようだね。」
「成績はどうなのかな?聞くだけ野暮かもしれないけど。」
「お母さんに中二の通知表見せてもらったけど体育以外は全部一だった。」
「そっか。育て甲斐がありそうだね。」
「まあ、なんでもいいけど早めにこっち来てね。」
「おお。啓一さんにしては珍しく弱気だね。今日はこれから片付けとか準備とかあるから今日の移動は無理だけど、あしたには移動するからね。まあ、朝は寝坊しちゃうだろうから到着は早くても夕方になっちゃうだろうけど。」
「はい。気をつけてね。それともう知ってると思うけど、明後日、党の役員会があって僕はチャコと交代で東京に戻らないといけない。恵理香ちゃんのことチャコに押し付けちゃうことになるけどよろしくね。」
「ほいほ~い。じゃああしたね。ばいば~い。」
そう言って電話は切れた。僕たち夫婦にしては珍しく僕がチャコを頼っている。チャコにとっては快哉なことだろう。
次の日の夕方頃、チャコは一人で大きなスーツケースを引きながら柏崎の白石本宅にやってきた。恵理香ちゃんは塾にいっている時間で不在だった。
「いらっしゃい。」
僕は力なくそう言ってチャコを迎え入れた。チャコは僕がチャコのことを頼っていることを肌で感じてか自信満々だ。僕たちは久し振りにリビングのソファに座って向き合った。
「お久しぶり。なんか元気なさそうだね。」
チャコは笑顔で僕にそう言った。
「まあね。こんなことなら東京にいれば良かった。」
「東京は東京で大変なことになってると思うけど。で、あしたからまた東京だよね?」
「まあ、一応、副幹事長だし、党の役員会とかに出ないといけないからね。そのほかにも雑用がたまってるだろうし、一週間くらいは柏崎に帰れないかもしれない。恵理香ちゃんのことチャコに押し付けちゃうけどよろしくね。なるべく早く帰ってくるようにするから。ゴメンね。せっかくの夏休みなのに。」
「ごゆっくりどうぞ。大丈夫。あたしは楽しむつもりでいるから。で、これ、マコちゃんからのお土産です。」
そう言ってチャコは時刻表ほどの大きさの梱包物を僕に渡した。
「何これ。」
「見れば分るでしょ?」
僕は嫌な予感がした。
「夏休みの宿題だね。」
「そう。あたしのもあるからよろしくね。それときっと恵理香ちゃんのもあるよね。」
「ああ。まだ確認はしてないけど、同じくらいの量があるんだろうね。」
「じゃあ、ちょうどいいじゃない。読書感想文なんて一つ書けば三人で使いまわしできるね。」
チャコに恵理香ちゃんを押し付ける以上、僕としてはチャコの要求をはねつけることはできない。そんな風に夫婦で今後の対応を協議していると恵理香ちゃんが帰ってきた。
「ただいま~」
恵理香ちゃんも元気がない。慣れない大嫌いな勉強をやらされていてへとへとなのだろう。
「恵理香ちゃんお久し振り~!」
チャコが恵理香ちゃんに元気に手を振った。
「チャコちゃん!来てくれたんだ!」
師匠の奥さんでも恵理香ちゃんは「ちゃん」づけだ。
「今、着いたところ。恵理香ちゃん頑張ってるみたいだね。」
「頑張ってなんかないよ。もうあたしやだ。こんな生活。パティシエなんかなれなくてもいいや。」
恵理香ちゃんはそう言ってリビングの応接の僕の隣にドスっと座った。チャコはニッコリ恵理香ちゃんに微笑みかけると
「そうだよね。嫌だよね。それでね、恵理香ちゃんがへたれてるって聞いたんでね、いいもの持ってきちゃった。あたしの中二のときの通知表。ちょっと見る?」
そう言ってチャコは持ってきたスーツケースから通知表のような紙を取り出し、応接のテーブルの上に広げて見せた。チャコの対面に座っている僕も覗き込んだが成績はほぼオール一。美術だけが三だった。見せたのはほんの一瞬で、チャコは「恥ずかしいからそんなに見ちゃ駄目」といってすぐに自分の背中に通知表を隠した。
「チャコちゃんの成績って一ばっかりだったんだ。あたしとあんまり変わらないね。そんな成績でよく自由が丘女子に入れたね。」
あっけにとられた恵理香ちゃんが言った。
「これは中二の成績。中三になって猛勉強したんだから。今の恵理香ちゃんの頃は本当に必死こいてたよ。」
「どうしてそんなに勉強する気になれたの?」
「それは目標ができたからよ。」
「目標?」
「そう。目標。啓一さんのお嫁さんになるっていうね。……恵理香ちゃん、裕ちゃん、白石裕子を知ってるよね?」
「うん。」
「裕ちゃんが亡くなる直前に裕ちゃんから『啓一さんのお嫁さんになる権利を譲る』って言われたんだけど一つ条件を付けられたの。自由が丘女子に入るっていうね。啓一さん将来総理大臣になるかもしれないからお嫁さんにもそれなりの学識がないと駄目だって言われたの。それで頑張ったの。『啓一さんと結婚すると絶対に幸せになれる』って言われたから。実際にそうなったし。」
「そっか。」
「だから恵理香ちゃんもまだ間に合うよ。今、恵理香ちゃんは辛いだろうけど一緒に頑張ろう!」
チャコが笑顔でそう言うと恵理香ちゃんも素直に「はい」と言って少し笑顔が出た。
「じゃあ、あたしは恵理香ちゃんと二階のあたしの部屋にしばらく缶詰になりますね。ご飯ができたら呼んでね。」
チャコはそう言って僕に持ってきた通知表を渡し、恵理香ちゃんを連れて二階へと消えていった。渡された通知表をチラッと見ると名前の欄には「白石真子」と書いてあった。
次の日の早朝、僕はタクシーで長岡に出て、朝一番の新幹線で上京した。朝から朝食会だの研修会だの党本部の役員会だのスケジュールがびっしり詰まっている。二週間ほど東京を空けてしまったつけもたまっていた。
党本部の退屈な役員会が終わる頃には時計は正午をまわっていた。次は総理大臣の派閥である斉藤派の昼食会に招かれている。なぜ僕が呼ばれているのかは分らない。秘書に「行け」と言われたので行くだけだ。
昼食会の会場に移動しようと党本部一階のロビーを歩いていると
「石水君!」
そう僕の旧姓を呼んで手を振る女性がいた。旧知の黒田聡美アナウンサーだ。
「ああ、聡美さん。お久しぶりです。こないだのパーティー以来かな?」
「そうだね。ねえ、ちょっと時間あるかな?聞きたいことがあるんだけど。」
「まあ次の予定があるにはあるけど、十分か十五分ぐらいだったらいいよ。」
「じゃあそこで缶コーヒーでもいかが?」
そう言って聡美さんは今まで自分が座っていたロビーの長椅子を指さした。僕のことを待っていたようだ。聡美さんと僕はロビーの自動販売機で缶コーヒーを買い、ロビーに並べられている椅子に並んで座った。
「アナウンサーが自ら取材なんて珍しいね。」
プルタブを開けながら僕が言った。
「うん。報道から石水君に突撃取材するように頼まれちゃってさ。マコちゃんは元気かな?」
「チームのコンサートツアーで頑張ってるんじゃないかな。しばらく会ってない。まあメールはちょくちょくくるけど。で、何?聞きたいことって。」
「うん。今、柏崎の石水君のところに総理のお孫さんがいるよね?」
「ああ、恵理香ちゃんね。」
「どういういきさつなの?」
「まあ、事情は色々あるんだけど恵理香ちゃん、来年が高校受験なんだよ。でも東京じゃ誘惑が多くて勉強に集中できないってことで柏崎の僕のところに来ることになったんだよ。まあ疎開みたいなもんだね。」
「ねえ、それって九月の党の代表選と何か関係あるの?」
「はあ?なんで代表選が出てくるの?」
「その……九月の代表選で斉藤派が寝返るのを阻止するために石水君が総理のお孫さんを人質に取ってるって噂があるんだけど。」
「はあ?……なんでそんな話になるの?ちょっとというか随分人聞きが悪いんだけど。」
「ゴメンなさい。でもそういう噂があるのは事実なの。石水君は知らないの?」
「初めて聞いたよ。どういうことなの?」
「石水君、今度の代表選は誰が勝つと思う?」
「そりゃ、山口幹事長じゃないの?最大派閥のボスだし、今まで斉藤総理を支えてきたんだから斉藤派も支持しないわけにはいかないでしょ?主流派連合で過半数はいくし、非主流派は群雄割拠で候補者の一本化は難しいよね。一回目の投票で決まるんじゃないかな?」
「でも、山口幹事長、人気ないよね?国民的人気はもちろんだけど永田町でも。」
「まあ守銭奴だからね。」
「だからとにかく山口総理の誕生だけは阻止しようという動きが去年の十二月頃からあったの。非主流派の候補者を一本化しようとね。」
「でも非主流派を束ねたところで数の上では主流派連合には勝てないと思うけど。」
「そう。だから非主流派は斉藤派の切り崩しにかかったの。斉藤総理も本心では山口幹事長を嫌ってるからね。」
「へえ、そうだったんだ。」
「ねえ、石水君ホントに知らないの?とぼけてない?まあいいや。それで非主流派は水面下で斉藤派の切り崩し工作にかかったのね。山口派には気付かれないように。」
「うん。」
「工作は順調で、山口派には気付かれずに進んだんだけど山口派で一人だけ斉藤派の切り崩しに気付いた人がいたの。それが石水君。」
「ええ、僕?」
「そう。まだ当選前だったけどね。石水君は斉藤総理の弱点を調べ上げて、それがお孫さんの恵理香さんだと知るとあっという間に恵理香さんを篭絡したの。それで代表選の直前の今、恵理香さんを人質に取ってるの。恵理香さんを人質に取られているので斉藤派の先生達は身動きが取れず、非主流派の切り崩し工作も失敗に終わったってわけ。」
「待ってよ。それは言いがかりだよ。確かに恵理香ちゃんが今、柏崎の僕のところにいるのは事実だけど、恵理香ちゃんと僕は極めてプライベートな関係なんだ。恵理香ちゃんがどうしても芸能人になりたいって言うから、芸能人になるのは無理だけど形の上だけでも芸能人になれたら満足してもらえるんじゃないかなと思ってマコちゃんの事務所に入れたのがそもそものきっかけだよ。嘘だと思ったら日本タレント名鑑を見てよ。恵理香ちゃん、ガーネット、マコちゃんの事務所ね、ガーネットにまだ所属してることになってるはずだから。」
「それは知ってる。タレント名鑑は見たし、ガーネットの社長さんのところにも取材に行ったから。」
「ああ、そうなんだ。社長さん何か言ってた?」
「うん。自分は恵理香さんを事務所に入れる気なんてさらさらなかったけどマコちゃんのお兄さんの強い推薦があるっていうんで仕方なく入れたって言ってた。」
「……」
僕は絶句した。客観的な事実はその通りだ。
「ガーネットは小さい事務所でマコちゃんが稼ぎ頭、というよりほとんどマコちゃんの個人事務所と言ってもいいくらい。そのマコちゃんをプロデュースしたのは石水君。だから社長さんとしては石水君には逆らえないよね。社長さん、所属してるのは本当に形だけで恵理香さんがタレント活動をしたことはないし、する予定もないって言ってたよ。」
僕はため息をついた。
「斉藤派の先生方にも取材したんだね?」
「うん。でもみんな石水君のこと誉めてたよ。」
「誉める?」
「うん。総理のお孫さんを人質に取るなんてものすごい政治手腕だって。自分達にはとても真似できないって言ってた。」
「だから人質じゃないんだってば。」
「それに石水君、もう一つすごいことやってるよね?斉藤派の先生方が石水君に足を向けて寝られないようなことを。」
「何?」
「総理の私設第一秘書を引き抜いたでしょ?」
「ああ、永田さんね。」
「そう。永田秘書は総理の裏番頭で斉藤派の先生方の弱点はなんでも知ってる。そんな人が公設秘書になったりしたら斉藤派の先生方は石水君に逆らえっこない。」
「……」
僕は再び絶句した。僕に政治的な意思が何かあったわけではない。恵理香ちゃんも永田秘書もハルナの異常なファンだったというだけのことだ。
「まあ、私もお兄ちゃんも石水君にはお世話になってるし、石水君の言うことは信じてあげたいけど報道は客観的にやらないといけないの。石水君が恵理香さんを無理矢理マコちゃんの事務所に入れたこと、今現在、石水君が恵理香さんの身柄を預かっていること、そのために斉藤派の議員が身動き取れないでいることはみんな事実なの。だから、分かってね。」
「……まあ仕方ないね。」
僕は右手で頭を抱え、ため息混じりにそう言った。
「石水君は山口総理が誕生することはどう思ってるの?あれだけ国民に不人気な政治家もいないと思うけど。」
「まあ、守銭奴であることは認めるよ。」
「あんな人が総理大臣になったら政治にひずみが生じるんじゃない?」
「どうだろう。総理大臣にしない方が、ひずみができるんじゃないかな?あの人、総理大臣になりたくてここまできたんでしょ。それなのに彼だけ総理大臣にしないってことになったらそれまで蓄積してきたエネルギーが変な方向に爆発する危険があるよね。そっちの方が問題だと思うけど。」
「なるほどね。そうとも言えるか。」
「それに政治は総理大臣一人でやるんじゃないんだし、山口幹事長が駄目でも取り巻きがしっかりしていれば政権は運営できると思うよ。」
「そうか。山口総理が駄目でも白石官房長官が裏から仕切るという作戦ね?あっ官房長官だったら裏じゃなくて表か。」
「そこまでは言ってないよ。」
「ありがとう。なんだかいい記事ができそうな気がしてきた。石水君、本当にいつもありがとう。私は石水君のために何もしてあげられないけど、もし私に何かできることがあったらなんでも言ってね。できる限りのことはさせていただきますので。」
聡美さんはそう言うと飲みかけの缶コーヒーをぐいっと一息で飲み干し「じゃあ、また」と言って颯爽と僕の前から消えていった。
僕はあっけにとられてベンチに座ったまま聡美さんの後姿を追った。とても立ち上がる気分ではなかった。
一体、どうしてこんな話になってしまったのだろうかと考えていると次の瞬間、「啓一君!」という図太い声がしたので声の方向を見るとチャコの祖父の巨漢の参議院議員が立っていた。僕を見つけてとてもうれしそうだ。僕はさっきのショックを振り切り、頑張って立ち上がった。
「あっ、先生。お久しぶりです。スミマセン。柏崎から戻ったのにご挨拶にも伺いませんで。」
「いや、挨拶に行かなければならないのは私の方かもしれないよ。最近、色々と君の噂を聞くよ。本当に君が敵でなくて良かった。」
「はあ。」
僕はため息が出そうになるのを必死にこらえた。永田町にいてもろくなことはなさそうだ。早く柏崎に帰りたい。
「私は、君が私の衣を借る狐になると思っていたが、最初から逆だったな。君のお陰で私も随分と威張らしてもらっている。私はともかく、山口はもう君には逆らえないんじゃないかな。失いかけた総理の椅子を君がたった一人で取り返してみせたんだからな。」
そこまで言うのを聞いて僕はハッと思った。この巨漢をうまく言いくるめれば柏崎に帰ることができるのではないかと思ったのだ。
「そうですか。ところで先生、そういう事情ですので早めに柏崎に帰りたいのですが。後のことは先生に色々とお願いできるとありがたいのですが。」
僕がそういうと巨漢の顔色がパッと明るくなった。まあ、もともと上機嫌ではあったが。
「ああ、それは構わないよ。雑用は秘書に任せればいいし、秘書では駄目なことでも私が代われるものなら代わってもいいよ。」
僕の代わりに威張り散らすつもりなのだろう。巨漢の参議院議員はうれしそうだ。
「ありがとうございます。早速ですが、今日、これから斉藤派の昼食会に呼ばれているのですが代わりに出ていただいてもよろしいでしょうか?」
「ああ。お昼ご飯を食べればいいんだな。いいよ。私が出れば斉藤派の連中も面食らうだろうな。私の代わりに君が出るならともかく、君の代わりに私が出るのだからな。せいぜい威張ってくるよ。まあ、夏休み中はこっちにいなくてもずっと柏崎にいてもらっても構わない。どうせ世間は夏休みだし、その方がむしろ不気味かもしれないな。まあその辺は計算づくなんだろうが。」
僕はただ柏崎に帰りたいだけだったが、巨漢がいい方に勘違いしてくれたので助かった。僕は昼食会の案内状を渡し、「ではよろしくお願いします」と言って巨漢と別れ、それから議員会館に行き、東京滞在中の予定はすべてキャンセルすることを秘書に告げた。そして柏崎に帰ろうとすると永田秘書が尋ねてきた。随分と慌てているようだ。
「白石先生。こちらにいらしたんですね。昼食会に権蔵先生がいらしたのでビックリしました。」
「ああ、永田さん。この前はどうも。権蔵先生、何か言ってましたか?」
「ええ。『自分は白石啓一の名代だ』とおっしゃっていました。派閥の先生方はみんなビックリしていました。あの大物が名代なのですから。先生はどうされたのですか?」
「それはそうと変な噂を耳にしたのですが永田さんはお聞きになってますか?僕が恵理香ちゃんを総理の人質として預かっているというんですけど。」
「はい。というより私が言い出しっぺです。」
「はあ?なんでまたそんなことを。」
こんなに近くに発信源がいたとは僕はビックリした。どおりで噂にしては話がリアルなはずだ。
「いや、なんでと言われましても、恵理香お嬢様が柏崎の先生のお宅にいらっしゃることは事実ではないですか。」
「そうですけど別に人質ではありませんよ。」
「まあ、いいではないですか。総理のお孫さんがいらっしゃるのですよ。これを政治利用しない手はないと思いますけど。」
「あまりにも人聞きが悪いと思いますが。」
「そんなこともありませんよ。そもそも先生はイメージがクリーンすぎますから少しダーティーな面も見せておいた方がいいと思います。もちろん噂は永田町だけのことですし。」
「しかしそれにしても人質は行き過ぎじゃないですか?」
「そんなことはありません。徳川家康も上洛の時、豊臣秀吉の母親の大政所を人質に取ったじゃないですか。」
何を言っても論破されそうだ。そもそもこの有能な秘書は政治歴二十年であり、所詮、僕がかなう相手ではない。
「分りました。……僕は柏崎に帰ることにしました。その~、恵理香ちゃんのことが心配ですので。夏休み中はずっと地元にいると思います。後のことはよろしくお願いします。」
「はい。私もお盆の頃にはもう一度、柏崎にお邪魔させていただきますのでよろしくお願い致します。」
そう言って永田秘書は頭を下げた。この秘書にとっては僕の心配事などはどうでもいいことなのだろう。ハルナと一緒に過ごす夏休みの方がはるかに重要なのだ。僕はそそくさと議員会館を出て東京駅に向かい、長岡経由で柏崎に帰った。結局、日帰りだった。
白石本宅に戻ったのは夕方でもう恵理香ちゃんは帰っている時間だった。一階に二人の姿は見えず、当直の秘書が「バルコニーにいらっしゃいます」というのでバルコニーに行った。二人はテーブルを挟んでビーチチェアを並べ、おしゃべりをしているようだった。テーブルにはストローのささった飲み物がおかれている。僕は「ただいま~」と声をかけようとしたが二人の雰囲気がとても良かったので声をかけるのを少しためらった。二人の会話が聞こえてきた。
「ねえ、チャコちゃん、一つ聞いてもいい?」
「ん?」
「白石先生、ハルナちゃんのことは『ハルナ』って呼び捨てにしてるよね。」
「うん。」
「なんであたしのことは呼び捨てにしてくれないんだろう?いつまでも『ちゃん』づけで。」
「それは恵理香ちゃんのことをまだ正式にお弟子さんとして認めてないからだよ。」
「やっぱりそうだよね。」
恵理香ちゃんがトーンダウンする。
「呼び捨てにされたい?」
「うん。てか、先生に認められたいなあ。」
「ハルナちゃんもお弟子さんになる話が出てから半年くらいは『ちゃん』づけだったよ。」
「へ~。なんで『ちゃん』がとれたの?」
「さあ。啓一さん本人に聞いても分らないんじゃないかな。何か基準があるんだよ。この人はもう正式に弟子にしてもいいかなっていう。あたしも最初は『ちゃん』づけだったよ。そのうち自然に『チャコ』って呼んでくれるようになった。」
「そうだったんだ。」
「大丈夫だよ。恵理香ちゃん頑張ってるし、そのまま頑張っていけばその頑張りをいつかは認めてくれるんじゃないかな。」
「そうかなあ。」
「うん。あたしも恵理香ちゃんのこと応援してるから。」
そんな会話を聞いて、僕は二人に声をかけるのをやめ、事務所に行くと秘書に言って白石本宅を出た。僕があれこれ動くよりも恵理香ちゃんのことはチャコに任せておく方が良さそうだ。
それから恵理香ちゃんは一生懸命勉強し、チャコも恵理香ちゃんに付き合った。そのうちお盆がやってきて永田秘書、ハルナ、マコちゃんの順に白石本宅の客人が増えていった。僕はハルナを連れて永田秘書と支援者を回り、支援者に新しい公設秘書を紹介した。お盆が過ぎると客人はそれぞれ持ち場に戻り、チャコは相変わらず恵理香ちゃんの勉強を見た。成績は着実にアップし、夏休み終了の二日前、母親が迎えに来る頃には塾長先生からお誉めの言葉をいただけるようになるまで成長していた。
母親はチャコと僕に何度もお礼を言い、ここに来たときに持ってきたのと同じ厚さの封筒を僕に渡して待たせてあるハイヤーで恵理香ちゃんと共に東京に帰っていった。チャコと僕は玄関先で見送った。
二人を見送った後、チャコと僕は二階のバルコニーのビーチチェアに並んで横になった。一仕事終わったという気分だ。チャコが未成年でなかったらビールで乾杯をしているところだろう。
「行っちゃったね。」
チャコがポツリと言った。ちょっと寂しそうだ。
「そうだね。どうもお疲れさまでした。ゴメンね。チャコに色々押し付けちゃって。」
「いいえ。あたしは楽しかったなあ。母親になる練習したみたいだった。」
「なんか、二人でいい雰囲気だったね。」
「本当の親子みたいに見えた?」
「それはないよ。年が近すぎるもん。」
「そっか。じゃあやっぱり姉と妹?」
「そうでもないなあ。妹と言ったらマコちゃんの印象が強すぎるからね。……これは僕の勝手な想像なんだけど、裕ちゃんとチャコがこんな感じだったのかなって思ったよ。」
「裕ちゃんかあ……確かにそうかもね。あたしは裕ちゃんとこんなに充実した夏休みを送ったことはなかったけど。でももし、啓一さんの言うとおりなら恵理香ちゃん、自由が丘女子に入れるんじゃないかな。あたしも裕ちゃんに憧れて、裕ちゃんみたいになりたくて頑張ったんだもん。」
「うまく行くといいね。」
「うまく行くよ。あたしは裕ちゃんにしてもらうばかりだったけど、今度はあたしが恵理香ちゃんのために何かしてあげる番だね。で、啓一さんはどうだった?父親になる練習?」
「まあ、疲れたね。」
「でも、いい父親になれそうだよ。」
「まあ、それはまだ先の話だから。」
「そうでもないんだな。」
チャコの声がいたずらっぽいトーンに変わった。
「えっ?」
「このところセーラームーンがご無沙汰なのよ。」
「セーラームーンって?」
「やだなあ。そんなことまであたしに言わせるの?啓一さん本当に鈍感だね。女の子が月の話をするとしたらあれしかないでしょ?」
「そういうこと?」
「そういうこと。」
チャコはニタニタしている。
「お医者さんには行ったの?」
「柏崎じゃ無理だよ。薬局にも行かれないもん。妊娠検査薬なんて恥ずかしくて買えないからね。東京に帰ったらハルナちゃんのマネージャーさんにでも買ってきてもらうから。すべて順調だね。予定通り。でも啓一さんには一難去ってまた一難かな?」
ニッコリ笑ってそう言うチャコに僕は苦笑いで応えるしかなかった。