翌日の九月二日、目覚めた僕は外がなんだか騒がしいことに気付いた。隣のベッドで寝ているチャコはまだ眠っている。カーテン越しに外を見ると人だかりができているようだ。
階下に降りてダイニングをのぞくと朝食の準備がまだ途中だった。マコちゃんとハルナはいない。朝食の準備の途中でどこかに行ったようだ。新聞はダイニングテーブルに置いてある。僕は一人でコーヒーを入れて新聞を読み始めた。社会面を見ると、昨日は余程平和だったのか、チャコの妊娠の記事が各紙に小さく出ていた。しばらくするとマコちゃんとハルナがダイニングに現れた。
「あっ、お兄ちゃんおはよう!」とマコちゃんが言うと続いてダイニングに入ってきたメイド服姿のハルナが「おはようございます」としおらしくお辞儀をした。
「おはよう。なんか外が騒がしいようだったけど何かあったの?」
「昨日の衝撃的なニュースの続きだよ。現職国会議員が女子高生を妊娠させたっていうね。マスコミの皆さんが取材に来てるの。で、あたしとハルナちゃんで取材には応じといたからね。『チャコちゃんはあくまでも一般の人だから取材は遠慮してください』って言っといた。『その代わりあたしとハルナちゃんがいっぱいしゃべるから』って。それでマスコミの皆さんご納得いただいたよ。」
「そうか。ありがとう。マコちゃん。」
この天真爛漫な妹もたまには僕の役に立つ。それからチャコも起きてきて朝ご飯を食べ、ハルナに見送られて双子の姉妹は学校へ、僕は永田町へ出かけていった。出掛けに玄関先でマスコミの求めに応じ、四人でワンポーズだけ撮った。
永田町では基本的に議員会館にいたのだが、既に祝電やら花やらが届けられていた。それから色々な人が尋ねてきては「おめでとう」と言ってくれた。普段は見かけないような人までやってきた。まあ現職国会議員が女子高生を妊娠させたのだから珍しくはあるのだろう。チャコからは十時頃電話があり、「午後一時に学校に来て」とのことだったので早めに昼を済ませ、運転手付の黒塗りで自由が丘に向かった。まだ二学期が始まったばかりで授業は午前中でおしまいである。学校では校長が自ら出迎えてくれてここでもビックリした。いつもの応接室に入ると既に高倉女史とチャコは僕のことを待っていた。
僕が応接室に入ると高倉女史は立ち上がり「この度はおめでとうございます」と言ってお辞儀をした。
「どうもお騒がせ致します。」
僕がそう言うと席を勧められ、僕はチャコの隣に座った。
「いいえ。いいお話じゃありませんか。本当におめでたいお話ですよ。少子化が進んでいますからね。チャコちゃんは本当に希望の星です。」
高倉女史もうれしそうだ。
「これから色々とご迷惑をお掛けするかと思います。一年生のときの個人面談のときに『妊娠だけは待ってほしい』と高倉先生がおっしゃっていたのに申し訳ありません。」
「いいえ。あの時、私、申し上げたはずです。『いざ、そうなったら全面的にバックアップします』って。ですから本当に全面的にバックアップさせていただきます。生徒達もそのつもりですし。私も最大限の協力はさせていただきますので。」
高倉女史がそう言うとチャコが「先生、ごめんなさいね。先生の先を越しちゃって」と余計な一言を付け加えた。
しかし高倉女史が、「チャコちゃん。……実はね、……別に先を越されたわけじゃないの。先生、これでも子どもを一人産んでるのよ」と言ったのでチャコは「ええっ!」と声を上げて驚いた。
僕もビックリした。高倉女史は完全貞操の行かず後家だったはずだ。
「あたし、先生は独身だと思ってましたけど、……結婚してたんですか?」
「もちろん今は独身ですよ。まあバツイチっていうのかな。結婚してたことがあったの。」
「お子ちゃまは?」
「元夫の方に引き取られたの。もう何年も会ってない。」
「なんでまた。」
「実はね、私、……子どものことを虐待してしまったの。子育てがどうしてもうまく行かなくてノイローゼみたいになってしまって。でも元夫だった人はそんな私のことをちっとも気遣ってくれなくて。気が付いたら子どもにあたってた。そんな場面を夫だった人はこっそり隠しカメラで撮ってて、裁判で証拠を突きつけられて私は惨敗したの。でも後で分った話だったんだけど夫だった人は実は浮気をしていて、私と別れたくてわざと私を陥れたようだったの。」
「え~っ、それってひどくないですかあ。先生も断固、戦うべきですよ。」
チャコが言った。
「今考えるとそうだったかもしれないけど証拠がなかったし、第一その頃の私にはとてもそんな力はなかった。教師生活はおろか、人生もおしまいにしようかと思ったくらい疲れていたから。ここまで回復できたのは本当に白石裕子のお陰なんです。」
そう言って高倉女史は僕の方をチラッと見た。そう言えばチャコが一年生だった時に高倉女史と面談した際、つらい思い出があると言っていたことを思い出した。きっとこのことだったのだろう。
「お子さんとは全然お会いになっていないんですか?」
僕が聞いた。
「はい。そういう事情で私があの子にひどいことをしたことになっているものですから。……ごめんなさい。おめでたい席なのに湿っぽい話になっちゃいましたね。だから私には出産の経験があるのでチャコちゃんのことは大丈夫ですよ。色々アドバイスできると思います。それでこれからのことなんですけど……」
それから事務的な話を二十分くらいして、面談が終わると校長にあいさつをしてチャコと僕は学園を後にした。高倉女史の衝撃の告白を聞いてチャコも僕もなんだか気が重かった。
学校を出ると二人は徒歩で自由が丘の商店街の一角にある「アスカケーキハウス自由が丘店」に入った。ここは女性限定の会員制メイド喫茶ということになっているが僕は名誉会員ということになっているのでフリーパスだ。店のレジの後ろにはチャコと僕の写真が飾ってある。
奥の方の席に案内されると頼みもしないのにメイド服姿のウェイトレスが伝説のイチゴショートセットを持ってきてケーキと一緒にチャコの前には紅茶を、僕の前にはコーヒーを置いた。妊婦のチャコは今日から紅茶だ。チャコと僕はメイド役の女の子にお礼を言った。
「さっきはビックリしたね。」
ケーキに手をつける前にチャコがまず口を開いた。
「高倉先生のことだね。」
「うん。子ども産んでるなんて思わなかったな。」
「そうだね。僕もビックリした。」
「ねえ、啓一さん。」
「ん?」
「高倉先生とお子ちゃま、会わせることできないかなあ。」
「実は僕もそれを考えていたんだけど、現実的にはかなり難しいと思うよ。」
「啓一さんの力を使っても?」
「僕の力なんて大したことないよ。先生とお子ちゃまの関係は裁判で決まってるんでしょ?それを力ずくで否定しようとすると先生にも迷惑をかけることになると思う。」
「やっぱ無理かあ。」
「まあ、可能性はなくはないけどね。」
「どうするの?」
「偶然、二人が会ったことにするのさ。神様の力ともなれば誰も文句言えないもんね。」
「そっか。さすがは啓一さん。頭いいね。じゃあそれで行こう。」
「それで行くって、どうするつもりなの?お子ちゃまがどこの誰だかも分らないんだよ。」
「そんなの調べればいいじゃない。」
「調べるってどうやって?私立探偵でも雇うの?」
「啓一さん甘いなあ。国立探偵に調べてもらうのよ。」
「国立探偵?」
「そう。ナイチョーとか言ったかな。あたし達も調べられたじゃない。」
「ああ、内閣情報調査室ね。でもどうやって?」
「永田さんに頼むのよ。永田さん総理の秘書を長年やってたからそういうところにも顔が効くでしょ?」
「それはそうかもしれないけどそういう組織を個人的なことに使うのはたとえできたとしてもどうかと思うよ。」
「まあ啓一さんはこれ以上聞かないで。あたしが勝手にやるから。ナイチョーを個人的に使ったなんていったら啓一さんにとって大スキャンダルでしょ。でも女子高生のあたしが勝手にやったことにすれば監督責任を問われるくらいで済むじゃない。」
僕が意見したところでチャコには効き目はなさそうだ。
「分った。じゃあそれ以上は聞かないけどくれぐれも無理しないでね。そうでなくてもチャコはもう無理できる身体じゃないんだから。」
「ほいほ~い。」
チャコは軽くそう返事をして伝説のイチゴショートにパクついた。
それから時間は流れ、九月の中旬に党の代表選挙が行われた、当初の予想通り、山口幹事長が新代表に選ばれ、さらに臨時国会開会直後の総理大臣指名選挙で内閣総理大臣に選出された。僕もなぜか山口新総理誕生の立役者ということでポストの打診があったが、僕はチャコの祖父の「白石権蔵参議院議員の処遇をよろしくお願いします」いうことにして逃げ切った。結果として権蔵先生は参議院議員ながら異例の官房長官として官邸に入り、僕は引き続き党の副幹事長に留まることとなった。
臨時国会開会初日、総理大臣が決まってしまえば特に異動のなかった僕は暇だ。午後五時頃、「ただいま~」と言って早めの帰宅をするとチャコがリビングのソファに腰掛け、テレビを見ていた。テレビは組閣のニュースが流れている。マコちゃんとハルナは仕事なのだろう、家にはいなかった。
「お帰りなさい。おじいちゃん、官房長官になるんだね。」
「ああ。もうニュースでやってるんだね。」
「でも、啓一さんのリモコンロボットなんでしょ?」
「そういうこと言うもんじゃないよ。本人が聞いたら激怒するよ。そうでなくても気性が荒いんだから。」
「でもさっき記者会見でおじいちゃんそういう質問受けてたよ。」
「はあ?誰がそんな質問したの?」
僕はビックリした。あの自意識過剰の政治家にそんな質問をしたら質問した記者はただではすまないだろう。
「それが質問したのは黒田アナだったの。おじいちゃんニッコリ笑って『いかにも私は白石啓一君のリモコンロボット。彼の言うとおりにしていれば間違いがないからね。それは交際のあったあなたも良く知ってるでしょ』って言ってたよ。それで記者会見場は大爆笑。おじいちゃん、昔はもっと尖ってたのにね。これも啓一さんのお陰だよ。」
僕はため息をついた。
「ゴメンなさい。疲れちゃったね。それでお疲れのところ申し訳ないんだけど、そこに座ってくださる。」
チャコは何かをたくらんでいる目で僕に椅子を勧めた。テーブルの上には湯のみが二つ置かれていて来客があったようだ。
「誰か来たの?」
「実はね、さっき永田さんが来たの。」
「永田さん?どうしたんだろう?」
「この前言ってた高倉先生のお子ちゃまの話。」
「ああ、そうか。やっぱり永田さんに頼んだんだ。永田さんそんなこと一言も言ってなかったけど。」
「啓一さんが知るともしものときに迷惑がかかると思ったんじゃないの。ご主人様にも秘密を漏らさないなんて、永田さんさすがだね。」
「しかし、永田さんもよく引き受けたなあ。」
「まあこっちには切り札があるからね。」
「切り札?」
「啓一さんの一番弟子さんだよ。これぞホントのお色気作戦。」
僕はもう一度深くため息をついた。
「で、どうだったの?」
僕が聞くとチャコはテーブルの上に紙を出し、ペラペラとめくりながら説明を始めた。
「お子ちゃまの名前は北川雄一君。今、横浜で父親と父親のご両親、まあ祖父母だね、その四人で暮らしてる。お父さんもおじいちゃんもおばあちゃんも教員。教員の家系でお父さんと高倉先生は大学の同級生なんだって。お父さんは横浜市内の県立高校に勤めてる。」
「お父さん再婚はしてないんだ。」
「もともと浮気癖のある人みたいだからもう結婚はしないんじゃないかな。自宅は東横線の大倉山が最寄り駅。雄一君は今年、小学校に入ったばかりの小学一年生。あまり友達づきあいのない暗い子なんだって。趣味は絵を描くこと。絵画教室にも通っていて絵は上手みたいだよ。」
「そうか。よく調べたね。で、どういうシナリオなの?高倉先生とお子ちゃまを会わせるのは。」
「啓一さん、全国少年少女絵画コンクールの審査副委員長をやってるよね?」
「ああ。権蔵先生に押し付けられたよ。権蔵先生は文教族だし、僕も文部科学委員会所属ということになってるからね。」
「お子ちゃまもそのコンクールに出品してるのよ。」
「へー、そうなんだ。」
「で、お子ちゃまに何か賞をあげて欲しいの。まあ文部科学大臣賞はちょっとわざとらしいから文化庁長官賞くらいをね。」
「でも僕は審査副委員長だからなあ。審査委員長がなんていうか。審査委員長は芸大の偉い先生だし。」
「でもその偉い先生はお飾りで啓一さんが事実上のトップでしょ?」
「そんなことまで調べたんだ。」
「そう。ナイチョーってすごいね。それで我らが自由が丘女子からも恵子ちゃんが出品してるの。知ってるよね?クラスメートの中本恵子ちゃん。」
「ああ。あのお嬢様ね。会ったのは随分前だけど会えば分かると思うよ。」
「恵子ちゃんも絵はお上手。美術部のキャプテンだし、美大狙ってるからね。なんてったって絵の家庭教師がいるんだから。まあその辺はお嬢様だね。で、恵子ちゃんにも賞をあげて欲しいの。恵子ちゃんは審査員特別賞くらいでいいや。」
「うん。」
「で、ここからがポイントなんだけど、授賞式が来月の十九日にあるのね。」
「ああ、それは知ってるよ。僕も出るからね。」
「それで受賞者は担任の先生が引率してくることになってるの。恵子ちゃんはあたしのクラスメートだから当然、担任は高倉先生。だから後は啓一さんが受賞者の控え室でお子ちゃまと恵子ちゃんが近くに座るように仕組んでくれればミッションコンプリートってわけ。どう?」
行き当たりばったりのチャコにしては珍しく首尾一貫したプランだ。
「なるほど。なかなかいいシナリオだね。そのくらいなら僕にもできそうだ。チャコにしちゃ上出来だね。」
「じゃあ決まりだね。色々啓一さんに面倒かけちゃうけどよろしくね。授賞式、今から楽しみだなあ。あたしも付いてっちゃおうかなあ。恵子ちゃんの友人代表として。」
「そんな枠、ないんですけど。」
「じゃあ審査副委員長夫人でもいいや。そっちの方が上座に座れるよね。」
チャコは自分のアイデアに心酔したのか、満足そうに笑った。
それからあっという間に一ヶ月が経過し、チャコのつわりがひどくなった。チャコは友人代表として授賞式に出席したいと言っていたが、このところ学校も休みがちで、授賞式当日もベッドから起きられなかった。
「こんなにつらいとは思わなかったなあ。今日は授賞式、見にいけなくて残念。」
授賞式の朝、チャコがベッドの上でポツリとつぶやいた。
「元々見に行かれるような状況じゃなかったけどね。そもそもチャコは招待されてないんだし、僕が招待できなくもなかったけど、招待したらあまりにも不自然だしね。」
「そうだね。まあ、お話聞かせてね。」
「はいはい。チャコはゆっくり休んでね。」
そう言って僕は永田町に出勤した。チャコは本当につらそうだった。今日はハルナも仕事なので日中はチャコ一人でお留守番となる。
授賞式は午後二時からで僕はお昼前には会場のホテルに到着し、受賞者控え室で受賞者の到着を待った。受賞者は次々と到着し、高倉女史のお子ちゃまも到着した。担任の先生なのだろう、五十前後の女性に引率されている。しばらくして恵子ちゃんも到着した。恵子ちゃんは僕の顔を知っているので僕のところにあいさつにきた。
「こんにちは。ご無沙汰致しております。自由が丘女子高校の中本恵子です。チャコちゃん、調子いかがですか?」
「まあ、随分、きつそうですよ。ずっと寝てます。今日はおめでとうございます。」
「ありがとうございます。とってもうれしいです。それにしてもチャコちゃんのご主人様に絵の素養がおありだったとは存じませんでした。今度、是非絵画談義をさせていただきたいです。」
僕に絵の素養などあるわけがない。押し付けられたので仕方なくやっているだけだ。僕は話題を変えた。
「高倉先生は?」
「ああ、途中まで一緒だったんですけど、急用があるとか言ってどこかに行かれました。『あなた一人で行かれるでしょ』って言われまして。」
それを聞いて僕は愕然とした。この表彰式はチャコと僕にとって高倉女史とお子ちゃまのためのものだったはずだ。その一方当事者が来なければなんの意味もない。なんとか平静を装おうとしていると携帯のバイブレーションが震えた。
「ごめん。ちょっと電話だ。」
そう言って恵子ちゃんの傍を離れ携帯のディスプレイを見ると「自宅」と表示されていた。嫌な予感がした。
「もしもし。」
「もしもし。あたし。チャコです。」
電話の向こうから不機嫌さが伝わってくる。
「あっ、チャコ。どうしたの?」
「そっちはどう?」
「それが、高倉先生が来てないんだよ。」
「そうでしょ。ミッションインコンプリートだよね。だって高倉先生、今、こっちに来てるんだもん。」
「ええっ?なんでまた?」
「あたしのお見舞いに来たんだって。まったくあの女バカだよ、バカ。」
チャコの感情が高ぶってくる。
「ねえ、先生そこにいるんじゃないの?」
「いないよ。今、スタジオにこもって裕ちゃんの遺品とにらめっこしてる。ホントにバカだよね。人の気も知らないで。」
「まあ、先生は事情を知らないんだから仕方ない面もあるんじゃない?」
「啓一さんは許せるの?あたしは嫌だ。」
「どうするの?」
「啓一さん、帰りに岩塩、買ってきてね。できるだけ大きい塊のやつを。」
「何に使うの?」
「あの女の脳みそかち割るんだよ。塩まくくらいだったらあたしの気がすまない。」
チャコは感情の起伏の激しい少女だ。怒るときは本当に感情を爆発させる。僕はヘタになぐさめるのをやめチャコの気分を害さないようにした。
「分った。なるべく早めに帰るからね。」
「ホントにそうしてね。あたしが帰れって言ったくらいじゃ帰らないと思うから。」
「はい。チャコも大変だろうけどもう少し頑張ってね。」
「はーい。じゃあね。」
そう言うと電話は「ガチャン」とすさまじい音を立てて切れた。
それから僕は恵子ちゃんと話すこともなく、表彰式は始まった。僕は上座から二番目の席で式を見守ったが、チャコのことばかりを考えていた。今回のことは成功を確信し、力を入れていただけに落ち込みも激しいだろう。だからといって怒りを高倉女史にぶつけるわけにもいかない。結局、矛先は僕に向くのだ。僕はその矛先をどうやってかわすか、そればかりを考えていた。
式は滞りなく終了し、続いて会場の隣で受賞者とのレセプションが始まった。何人もの受賞者が僕のところに来てお礼をいい、僕は一々「おめでとうございます」と言った。しかし頭の中は相変わらずチャコのことを考えていた。
受賞者との歓談も進み、そろそろお開きの時間となった頃、後ろから誰かが僕の腰の辺りを指でツンツンとつついた。振り返ると例のお子ちゃまがうらめしそうに僕を見上げていた。僕も恨めしそうにお子ちゃまを見た。そもそもこのくそガキさえいなければこんなことにはならなかったのだ。
「ねえお兄ちゃん。お兄ちゃんってマコちゃんのお兄ちゃんでしょ?」
くそガキが親しげに僕に話しかける。
「そうだよ。良く知ってるね。」
「うん。僕、マコちゃんのことが大好きだからマコちゃんのことはなんでも知ってるんだ。マコちゃんは、今日は来ないの?」
「マコちゃん、今日は学校に行ってるんだよ。」
「へ~。マコちゃんって学校に行ってるんだ。」
なんでも知ってると言う割には肝心なことは知らないようだ。僕は不機嫌そうにくそガキを見つめた。
「僕、マコちゃんに会いたいなあ~。」
くそガキは僕に構わずしゃべり続けた。僕は内心、「けっ!」と思った。が、次の瞬間、何かがひらめいた。頭の中がカチャカチャと音を立てた。
「ねえ君。マコちゃんに会いたいかい?」
僕がそう聞くとお子ちゃまは黙ったまま大きくうなずいた。そこにちょうど、担任の先生がやってきて「白石先生。担任の竹内と申します。今日はどうもありがとうございました」と言って僕に深々とお辞儀をした。
「雄一君の担任の先生ですね。今日はおめでとうございます。ちょうど良かった。実は今、雄一君から聞いたのですが、雄一君、白石真子ちゃんの大ファンだそうですね?」
「はあ。」
「僕がマコちゃんの義理の兄であることはご存知ですよね?」
「はい。承知しておりますが。」
「文化庁長官賞のご褒美に彼をマコちゃんに会わせてあげたいのですがいかがでしょう?」
「でも、そんなこと先生にご迷惑じゃ。」
「ご自宅はどちらです?」
「はい。横浜で東横線の大倉山駅の近くですが。」
そんなことは承知の上だ。
「じゃあ通り道ですね。僕の家は目黒区の碑文谷なんです。そろそろマコちゃん、帰宅する頃ですから。クルマを準備しますのでちょっと待っていてください。」
僕はそう言って二人の傍を離れ、携帯を取り出してチャコに電話した。何コールかあってチャコが出た。
「もしもし。」
相変わらず不機嫌そうな声だ。
「あっチャコ?僕だ。高倉先生まだいるよね?」
「まだスタジオにこもってるよ。だから啓一さんが早く帰ってきて岩塩の塊をぶつけないと帰らないってば。」
「よし。そのまま引き止めといてね。これからお子ちゃまをそっちに連れて行くから。」
「えっ、どういうこと?」
「内調も一つだけ調べはぐったね。お子ちゃま、マコちゃんのファンだったんだ。だから『文化庁長官賞のご褒美にマコちゃんに会わせてあげるから僕のうちにおいで』って強引に誘ったんだよ。」
「……そっか。分った。後、何分くらいで来られる?」
チャコが甦る。この少女は回復も速い。
「クルマで行くから三十分か四十分くらいかな。」
「了解。じゃあもうしばらくしたら『お茶にしましょう』って言ってリビングに引っ張り出しとくね。啓一さんありがとう。なんだか生きる希望が湧いてきた。」
「じゃあまた。よろしくね。」
そう言って僕は電話を切り、秘書に言ってクルマを回させた。
お子ちゃまはともかく、担任の先生は強く遠慮していたが僕は構わず黒塗りのクルマのリアシートに二人を押し込んだ。僕は助手席に乗り、クルマは碑文谷の自宅を目指した。
クルマが自宅前に到着すると僕は二人を下ろし、呼び鈴を鳴らして玄関を開けた。チャコが出てきてあいさつし、お子ちゃまを先頭にリビングに案内した。お子ちゃまがリビングに入った。
そして数秒後、お子ちゃまと女教師の絶叫が碑文谷の街にこだました。
それからチャコと僕はリビングを二人のために空けてやり、お子ちゃまの担任の先生と三人でダイニングテーブルを挟んで座り、お茶を飲んだ。
「白石先生。」
担任の先生が僕に話しかけた。
「はい?」
「先生はご存知だったんじゃないですか?あの二人が親子だったってことを。」
「僕が知るわけありませんよ。僕は、高倉先生はずっと独身だと思っていたんですから。僕もビックリです。」
「そうだったんですか。実は私、あの子が本当に不憫で仕方なかったんです。クラスの中でお母さんのいない子はあの子だけでしたから。……あの子、母親に虐待されたと聞いていましたけど、本当はお母さんのこと大好きなんです。二人でいるとお母さんの話をよくしてくれるんです。私が母親代わりになろうと思ってもとても無理で。……きっと神様が二人を会わせてくれたんでしょうね。」
担任の先生がそう言うと、チャコと僕は顔を合わせて微笑んだ。
「神様って案外、近くにいるものなんですね。」
チャコがそう言うと担任の先生は黙ったままハンカチを目頭に当てゆっくりうなずいた。
お子ちゃまの帰る時間となり、チャコと僕は高倉女史と一緒にお子ちゃまを学芸大学の駅まで見送りに行った。チャコは朝の気持ち悪さ、そして昼の不機嫌さが嘘のようにニコニコしていた。
駅のホームで二人の乗った下り電車を見送ると高倉女史はチャコと僕の方を振り返った。
「白石さん。白石さんはあの子のことご存知だったんですか?」
高倉女史が僕に聞いた。
「知るわけありませんよ。こんな偶然ってあるんですね。僕もビックリしました。でも高倉先生、良かったじゃないですか。」
僕がそう言うと今度はチャコが
「雄一君の担任の先生は『きっと神様が二人を会わせてくれたんでしょうね』ってさっき言ってましたよ。」
そう言った。
「そうですか。……私にはなんだか白石さんが神様に見えました。だってあの子は白石さんが連れてきて下さったんですよ。」
高倉女史がそう言うのを聞いてチャコと僕はもう一度顔を合わせて微笑んだ。
「白石さん、私、もう一度頑張ってみます。」
高倉女史が毅然とした表情で言った。
「頑張る?」
「はい。いきなりあの子と一緒に暮らすのは無理だと思いますけど、とりあえず月一回の面接交渉権を要求するところから始めたいと思います。」
高倉女史がそう言うとチャコが「先生、頑張ってくださいね」と言い、高倉女史が「チャコちゃんも赤ちゃん頑張ってね」と言った。そんな二人を見て僕はとても晴れやかな気分だった。