異女子   作:変わり身

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「卵」の話(下)

 

 

 

二つの橋の終着点が程近いという事は、橋同士が途中から少しずつ接近していく事を意味している。

したがって橋を進むごとに、膨らみ続ける卵との距離も縮まる訳で、十分な距離を取っているといえど気が気でならなかった。

 

特に私は目だけでは無く耳も良い。

隣の橋で騒ぐ犬山くん達の声も微かに聞こえ始めており、自然と身体が硬くなる。

 

 

「――らさ、犬山くんももっと……休みも一緒に……、……」

 

 

そうしてまず聞こえたのは、興奮した様子の百田くんの声だった。

どうやら犬山くんに何某かを要求しているらしく、甘えたような声音になっている。

 

 

「……みたいなね? ダメかな。それならお金とかかけずに遊べると思うんだけど。そうしようよ」

 

「い、いやぁ……その、俺も連休ずっとお前と一緒っていうのはさ……ねぇ?」

 

 

漏れ聞こえる会話の流れを合わせると、百田くんが今後の休日全てを犬山くんと過ごしたいと提案し、それを断られたところらしい。

 

……やっぱ重すぎるよなぁ。

髭擦くん曰く虐められてた所を助けられたとは言っても、これはちょっと……。

そう犬山くんを気の毒に思っていると、百田くんの声音が一段ほど低くなる。

 

 

「なんで? 別にいいじゃない、幼馴染なんだから。ずっと一緒に居たって誰も文句言わないよ」

 

「……誰が文句とじゃなくて、俺が……えっと、息詰まるっていうか……」

 

 

見ている内、また卵が膨れる。

最早犬山くんの頭よりも数倍大きくなっていて、橋の塀から完全に出てしまっていた。

どこまで大きくなるんだ、あれ。

 

 

「大丈夫だよ、いつも一緒で楽しいんだ。ずっと一緒でも絶対楽しいよ。息詰まる事なんて無いって」

 

「……ははは……」

 

「じゃあそういう事で良いよね。これからは週末の朝も迎え行くから、楽しみだね」

 

「…………」

 

 

百田くんが話す度、どんどんと卵が膨れていく。

 

それでなんとなく察した。

あの卵、たぶん犬山くんのストレスに反応して大きくなってる。そうとしか思えなかった。

 

 

(……じゃあ、あの卵の中身って……)

 

 

犬山くんが溜め込んだ負の感情か、それともそれを糧としているオカルトか。

どちらにせよロクでも無いものが詰まっていそうで、知らずぶるりと身が震えた。

 

 

「あとさ、もう髭擦とかと絡むのやめなよ。あんないっつも白目剥いてるような奴と話してると、犬山くんまで変な風に見られちゃうよ」

 

「え~……それは言いすぎでしょ。普通に良い奴だよ、ヒゲの奴――」

 

「ほら、それ。あだ名で呼んだりしてさ、ちょっと変だよ。幼馴染の僕だって苗字呼びなのに。そう呼べって言われたの? 気持ち悪いね」

 

「……や~、そのさ~……、……はは……」

 

 

――ピキリ。

どこからか、乾いた音が聞こえた気がした。

 

 

「……?」

 

 

とても小さく、出所も分からないような、些細な音。

でもどうしてか、私はそれが気になった。

 

 

「それに彼、例の真っ白女と仲良さげだったじゃん。見た目はともかく性格アレって噂だし、そんなのと仲良しなんてよくない。よくないんだよ、やっぱり」

 

「……いや、あの子もノリよくて、そんな別に」

 

「もう騙されてるじゃん。そういうのが手なんだよああいう女って。ああいうのに虐められてたから分かるんだ、僕。髭擦と一緒で近づかないようにね、はい決まり」

 

 

ぶん殴ったろか。そう拳を強く握っている時にも、その音は続いている。

 

――ピキ、ピキリ。ピキピキ、ピキリ。

 

それは何かにヒビが入る音のようにも、捉え方によっては青筋が入る音のようにも聞こえる不穏なものだ。

 

一体どこから鳴っている。私は犬山くん達の様子を気にかけながらも、その音の正体を探り――

 

 

(……あ)

 

 

気付いた。

それは今まさに私が気にかけている場所――犬山くん達の居る場所から聞こえていて、

 

――ピキリ。一層大きなその音と共に、膨れ切った卵に一筋の亀裂が走った。

 

 

「大体さ、みんな犬山くんが優しいからって馴れ馴れしすぎだよね。いいように利用するために近づいてるんだよ。気を付けなきゃ」

 

「……そうかな。俺は、そんな感じしないけど」

 

「ほら優しい。そういうところ僕好きだよ。でもばら撒くのもよくないんだ。選ばないと、しっかり」

 

「……、……」

 

 

ピキピキ、ピキリ。

卵の亀裂はどんどんと広がって行き、やがて殻の欠片がポロポロと零れ落ちてくる。

 

――明らかに限界だ。

割れる。絶対もう少しでアレ割れる……!

私の血の気がさぁと引き、焦りのあまり無意味にキョロキョロ首を振る。

 

 

「どっ、どど、どうし……ッ!?」

 

 

橋はもうすぐ終着点。

今すぐ走って橋を降りれば、この先の展開を見る事なくここから離れられる。私は無関係のまま、逃げ切る事が出来るだろう。

 

……だが、それで良いのだろうか。

私には関係ない。それは確かで絶対だ。けど……このまま逃げたら、犬山くん達は――?

 

そんな疑問と罪悪感が、私の足を引き止めるのだ。

 

 

「……あの、さ。お前も色々あったし、俺にべったりなのも分かるけど……もうそろそろ、いいんじゃね?」

 

「何が?」

 

「だから……交友関係広げようっていうか、その……人の話とかもさ、ちゃんと聞いたりとか――」

 

「あはは、それ自虐ネタ? 面白いな、犬山くんは」

 

 

――ピキ、パキリ。

卵の亀裂がその表面全てを覆い、砕けた殻の粉を吹く。

 

少し振動を与えれば全て崩れてしまいそうな、あまりにも心許ないその光景に、私も釣られて動きが止まり――。

 

 

「大丈夫。すぐダメな人のところ行っちゃう君に代わって、関わっちゃいけない人、した方が良い事、全部これからもずっと僕が選んであげるからね。だからちゃんと人のお話、聞かなきゃダメだよ? まったくもう」

 

 

――パキン。

まるで、もう耐え切れないとでも言うかのように、卵が砕けた。

 

 

「あ、ちょ――」

 

 

白い欠片が宙を舞い、殻の中身を外気に晒す。

 

そうして殻の中から現れたのは、生物とはとても思えないような、極彩色の粘液に見えた。

一目で善くないものだと察せられるそれは、当然ながら真下にある筈の犬山くんの頭部へ降り落ちて、

 

――べちゃり。

 

 

「……………………」

 

 

沈黙。

私は橋の向こうへ手を伸ばした姿勢のまま、一歩も動く事が出来なかった。

 

……どうなった?

分からない。向こうの橋の様子は植え込みに遮られ、こっちからじゃ視認できない。

 

だが、卵の中身は視えた。

分かりやすい化物とかじゃなくって、何か、粘液で……黄身? 下に落ちた、よな?

 

それを頭からひっかぶったっぽい犬山くんは?

近くに居た筈の百田くんは……?

 

彼らの側から何も反応も無く、何が起こっているのかも分からない。

何だ、どうすれば良いんだ、これ。

私は激しく脈動する自分の鼓動を聞きながら、浅い呼吸を繰り返し――。

 

 

「……? あれ、どうしたの、犬山くん」

 

「ッ!!」

 

 

その時、向こうの橋から百田くんの声が流れた。

 

そこに混乱や恐怖の類は無く、極々自然体に聞こえる声色だ。

……何も、起こっていないのか?

私は煩い鼓動を抑え込みつつ、必死に耳を澄ませた。

 

 

「……いや、別に、何でも」

 

「そう? じゃあさっきの話だけど、犬山くんはもっと周りと距離置いて――」

 

「ああ、ごめん。俺ちょっとゴミ捨て場に寄ってくから、ここで待ってて」

 

 

そして犬山くんにもそうと分かる異常は起きていなさそうだ。

少なくとも、その声音は柔らかく穏やかなものだ。苦しんでいる様子も、無い。

 

 

「え? それなら僕も一緒に……」

 

「いやすぐ済むから。すぐ戻るから、すぐ、すぐ」

 

「あ……」

 

 

そう言い終えるや否や、誰かの走り去る音が聞こえた。犬山くんのものだろう。

そしてその少し後、悩んだ末に私も彼の後を追った。

 

この近くにあるゴミ捨て場は、橋を渡ったすぐ先に一つあるだけだ。

何をするつもりかは分からんが、犬山くんの行き先はまず間違いなくそこの筈。

 

本当はこのまま帰りたかった。帰ってシャワー浴びて寝たかった。

だがせめて犬山くんの状態だけでも確認しなければ、私はきっと気になって一睡もできないに違いない。

 

 

「何も起きてませんように、無事でありますように……!」

 

 

私はロクに信仰してない神に祈りつつ橋を渡り終え、程近くにある小路へと到着。

塀の影に隠れつつ、その先にあるゴミ捨て場を覗き込み――。

 

 

「――……」

 

 

息を呑んだ。

 

道の塀沿い。電柱横に設置された、ちゃちな作りのゴミ捨て場。

私の予想通り、こちらに背を向けた犬山くんが、そこに居た。

 

いや、正直なところ、私にはそれが本当に犬山くんかどうか自信が無かった。

 

何せ、彼の頭から胸元までが極彩色の粘液に――おそらく卵の黄身に覆い隠されていたのだから。

 

 

「……、……」

 

 

その異常な立ち姿に数瞬呆け、立ち竦む。

するとそんな私の気配を感じたのか、犬山くんらしき人物がゆっくりこちらを振り返った。

 

 

「……あれ? きみ、なんで……」

 

 

その声は確かに犬山くんのものだった。

 

変にくぐもってもおらず、異常を孕んでもいない、普段の声。

この状況においてはそれがとても気持ち悪く、一歩と少し足を引く。

 

 

「う、ん。偶然、だね、こんなとこで。帰り道、なんだ……」

 

「あ、そうなんだ。俺も家こっちなんだよね」

 

 

……必死に平静を装ったが、ちゃんと出来ていただろうか。

犬山くんの様子から判断しようとも、彼の表情が分からない以上はそれも難しい。

 

私は収縮を繰り返す瞳を必死にいなし、ウロウロと視線を彷徨わせ……。

 

………………………………、

 

 

「……ねぇ」

 

「え?」

 

「それ、どうすんの」

 

 

私が目を向けた先。

犬山くんの振る舞いが自然すぎて分からなかったが、彼の右手に妙なものが握られていた。

 

ゴミ袋に集るカラス避けネットの重し――コンクリートブロック。

間違いなく十キロ近くはあるだろうそれを、犬山くんは片手で持ち上げていた。

 

 

「ああ、これ? 蠅叩き」

 

「……は?」

 

「纏わり付いて鬱陶しい、でかい蠅がいてさ。これで、こう」

 

 

犬山くんは暢気にそう告げると、何の気なしにブロックを振った。

同時に彼の右腕からブチブチと音がして、そのままだらんと垂れ下がる。

 

重いブロックの急激な挙動に筋肉が耐え切れず、脱臼を起こしたのだ。

 

きっと、相当な激痛が走っている筈だ。

なのに犬山くんは悲鳴の一つも上げず、穏やかなまま。

 

 

「ぇ……」

 

「あれ、落っことしちゃった。よっと……」

 

 

犬山くんは暢気な声と共に、転がったブロックをまた右手で拾い上げようとする。

 

勿論上手くなんて行く訳がない。

更に筋が伸び、引っかけた爪が剥がれ、右腕がもっと酷い事になっていく。

 

私はただ、それを眺め続ける事しか出来なかった。

 

 

「…………」

 

 

この極彩色の黄身が、何かをしているのだろうか。

それとも、あの卵が割れた事にこそ原因があるのだろうか。

 

分からない。

私には何も分からない。けれど。

 

――このまま犬山くんを放っておけば、彼は彼が『蠅』と呼ぶ何かを叩いて殺す。

 

それだけは、分かった。

 

 

「……ねぇ」

 

「ん~?」

 

「あんたってさ、虫嫌いなんだよね?」

 

 

だから、私はそう聞いた。

 

 

「ああ、そうなんだよね。触るのは勿論、見るのも無理」

 

「そんなんで叩けんの、蠅」

 

「……あ~」

 

 

ぴたり。健が伸び切り、ボロボロになった右腕が止まる。

爪の剥げた指先から血が滴り落ち、地面に鉄臭い水玉を描いた。

 

 

「それに、もし叩けてもグチャッてなるじゃん。飛び散ったのとか、見ても平気? そんなデカいの」

 

「あぁ~……無理、無理、かも……?」

 

 

犬山くんの身体がぎしりと傾ぎ、流れる黄身の隙間からその瞳が垣間見える。

粘ついた極彩色に穢された、酷い色だ。

 

 

「じゃあやめといた方が良いんじゃない、叩くの」

 

「……そう、そうだね。そっ、か……でも、どうしようかな、蠅……」

 

「さぁ」

 

 

私は素っ気なく返すと、それきり口を閉じた。

対する犬山くんは、黄身の垂れる身体を揺らしながら、暫く困ったように細く唸り――。

 

 

「……あぁ」

 

 

やがて何を思い付いたのか、明るい声が聞こえた。

そして私に向き直ると、外れた右腕を僅かに揺らす。手を振った、のだろうか。

 

 

「俺、もう行くね。ありがと、ええっと……」

 

「名前嫌いだからタマでいいよ。じゃーね」

 

 

震えかける声音を悟られぬよう手早く話を打ち切り、塀に身を寄せ道を譲る。

犬山くんもそれ以上は話しかけてくる事も無く、血と極彩色の黄身とを垂らしながら去っていった。

 

 

「…………」

 

 

……………………。

 

………………………………、

 

……じっと。じっと小路の入り口を見つめ続ける。

犬山くんが戻って来る様子は無く、やがて足音も完全に消えた。

 

それを確認した私は、塀にぐったりともたれ――ズルズルと腰を下ろした。

下がゴミ捨て場だろうが、気にもならない。激しい動悸が身体の内側をただ揺らす。

 

 

「……きっつ」

 

 

少し後、小路の外から誰かの叫び声が聞こえた気がしたが、流石にこれ以上はもう知らん。

 

何をされたにしろ、叩き殺されるよりはマシでしょうよ。

私は大きく息を吐き、五分の魂の冥福を静かに祈ったのであった。

 

 

 

 

 

 

『文字通り、殻を破ったってところかもね』

 

 

翌日の朝。

登校途中にようやっと電話が繋がったインク瓶が、私の話にそう呟いた。

 

 

「……なにそれオヤジギャグ? クソつまんな」

 

『話を聞きたくないなら別に切ってもいいんだぞ。君については危険な状況ではないんだからね』

 

「ごめんて」

 

 

話題は勿論、昨日にあった卵の件だ。

 

何もかもが意味不明だったあの出来事。

あの後慌てふためき『親』に報告はしたものの、やはり何も動いてはくれなかった。

なのでインク瓶に頼ってみれば、何ともつまらん話を聞かされる始末。どうなってんだ。

 

しかし彼的には真面目に答えたつもりだったようで、その声音に苛立ちが混じった。

 

 

『殻を破るというのは、時間をかけて積み上げてきたものを壊すという事だ。話を聞く限り、その犬山くんとやらは凄く嫌な友達と長く一緒に居たらしいじゃないか。なら時間をかけて積み上げたものが沢山あった筈だ』

 

「……鬱憤とか、ストレスとか?」

 

『それもあるし、責任感や義務感といったものもあっただろうね。彼がその嫌な友達を虐めから助けたという話が本当なら、その後も面倒を見てやろうという気持ちは絶対に湧く』

 

 

……そういうものなんだろうか。

私も過去を振り返って考えてみるが、イマイチよく分からなかった。

 

 

『件の卵は、君の言うオカルトによってそれらが形になってしまったんじゃないか。そしてそれが割れ、中身が流れて様々なタガが外れてしまった。僕としては、そんな説を唱えてみるよ』

 

「それで、あんな風になるの?」

 

『僕は直接見てないから「あんな風」がどんな風かは知らないけど、少なくともそうなる土壌はあったんじゃない? 最初から大きかったんだろ、その卵』

 

「うん、まぁ……」

 

 

インク瓶の言葉に、昨日の犬山くんと百田くんのやり取りを思い出す。

確かに、あんな噛み合わない会話が何年も続いていたとしたら、溜め込むものもさぞかしあった事だろう。

なんというか、ほんと気の毒。

 

 

「……これからどうなるのかな、犬山くん」

 

『さぁね。その子が何をやらかしたかにもよるだろうけど……もしまた会えても、近づかない事を勧めるよ。たぶん、もう元には戻らないだろうから』

 

「…………」

 

『ああそれと一応言っておくけど、今までのはあくまで僕の推測だから――』

 

「これこそが真実なんだと決めつけるのはよしてくれ……だろ」

 

『ふふ、分かってるじゃないか』

 

 

インク瓶は微かに笑うと、「頑張りなよ、色々」とだけ残して通話を切った。

 

 

「頑張れ、ねぇ……」

 

 

私はスマホに映るインク瓶の番号を暫く眺め、やがて溜息と共にポケットにしまい込み――丁度その時、背後から声をかけられた。

振り向けばそこには髭擦くん。いつかと同じく、またかち合ったようだ。

 

そのまま自然と歩調を合わせ、同じ通学路を一緒に歩く。

 

 

「おはよう。偶々だな、タマだけに」

 

「つまんねーオヤジギャグ言うの流行ってんの?」

 

 

ともあれ。そうして話している内、私の疲れた顔に気付いたらしい。白目の中にこちらを案ずる色が混じった。

 

 

「寝不足か? なんかパッとしない顔だが」

 

「……こんなにも美少女な顔になんて事言うんだ。普通気遣うもんなんじゃないの。私美少女、あんた思春期男子」

 

「いや、俺の中だとお前のデフォルトって顔崩れてた時のアレだから、美少女だ何だと言われても正直しっくりこな――ぐォッ」

 

「美少女キック!!!」

 

 

思い切り髭擦くんの尻を蹴っ飛ばし、歩調を速めて置いて行く。ダメだコイツは。

 

すぐに後ろから謝罪の言葉が飛んで来るが、それも無視。

プンスコプンスコ蒸気を上げつつ、さっさと学校への道を行き――。

 

 

「――お、タマさんじゃん。おっすー」

 

 

――突然横合いからかけられたその声に、思わず足を止めていた。

 

 

「いやすまん! 今のは流石にデリカシーが無かった! 悪かっ――あれ、犬山?」

 

「あ、ヒゲも居たんだ。ほんとに仲いいんだな」

 

 

そう――そこに居たのは、紛う事なき犬山くんだった。

 

頭から被っていた極彩色の黄身は完全に消えており、ごく普通の風体をしていた。

やはり昨日の怪我が酷かったのか右腕を三角巾で釣ってはいたが、それ以外は昨日の彼と同じに見えた。

 

外見は勿論、その地味な雰囲気も、安心するような笑顔も、優しい性格も。

何も、何も『異常』は無かった。

 

……ただ、一箇所を除いては。

 

 

「あ、あれ……お前、卵どうし……じゃない! それよりどうしたんだその腕!?」

 

「ちょっとな。自分では全然平気のつもりだったんだけど、なんか結構ダメだったみたい、はは」

 

「笑ってる場合じゃないだろ……。というか学校に来てよかったの、か――……、……」

 

 

途中で髭擦くんの言葉が止まる。どうやら彼も気付いたようだ。

 

――犬山くんの瞳。黒かった筈のそれに極彩色が溶け合い、おぞましい光を湛えていた。

 

 

「……え、お前、それ……、っ?」

 

 

問いかけようとした髭擦くんの服裾を抓み、小さく首を振る。

 

言葉はなくとも、それで何某かを察してくれたらしい。

髭擦くんは少しの間言い淀み、すぐ取り繕うように話題を変えた。

 

 

「あー、その……そういえば百田はどうした? 確か朝も一緒なんだろ?」

 

「…………」

 

 

犬山くんは答えなかった。

ニコニコと朗らかな笑みを浮かべたまま、何も言わない。

 

 

「……? 犬山?」

 

「ん? なに?」

 

「いや、だから、百田は……」

 

「…………」

 

 

やはり、答えない。

それは敢えてそうしているというより、その質問自体を認識できていないようにも見えた。

 

明らかにおかしいその様子に、怪訝に眉を顰めた髭擦くんが更に問い重ね――それより先に、私の声が滑り込む。

 

 

「――蠅、どうしたの?」

 

「飛ばなくした」

 

 

すぐに、そう一言だけ返った。

 

それがどういう意味かは分からない。詳しく聞く気も無い。

ただ、もう元には戻らないというインク瓶の言葉が胸をよぎり、目を伏せる。

 

 

「あ、そうだ俺ゆっくりしてる暇ないんだった。早めに行って、先生に怪我の事話して来ないと」

 

「は、え? お、おい、ちょっと」

 

「タマさん、昨日はありがとね。おかげで嫌なもん見ずに済んだよ。それじゃお先~」

 

 

犬山くんは極彩色の瞳で朗らかに笑い、困惑する髭擦くんを置いて走り去る。

 

――それは本当に何一つの陰りもない、心の底から沸き上がるような笑顔だった。

 

 

 

……反対に二人残された私達と言えば、互いに無言。

その何とも言えない空気の中で、ただただ静かな時が過ぎ、

 

 

「……昨日、何があったんだ」

 

 

ぽつり。

犬山くんの去って行った方角を眺めながら、髭擦くんは絞り出すようにそう呟いた。至極真っ当な疑問である。

 

とはいえ、なんと説明したものか。

私は小さく唸って少しの間悩み――しかし言葉を纏める前に、髭擦くんが言葉を続けた。

 

 

「正直、問い詰めたいところではある。だがそれよりも、もっと気になる事がある」

 

「……なによ」

 

 

とりあえず先を促せば、髭擦くんは青い顔をして私を見る。

そして、一言。

 

 

「――俺、これからアレと一緒の教室で過ごすのか……?」

 

 

……昨日、まだ犬山くんの頭に卵が乗っていた時にも聞いた、その言葉。

だけどそれに籠った感情は、昨日のそれの比ではなく。

 

 

「…………」

 

「…………」

 

「髭擦くん」

 

「ああ」

 

「頑張りなよ、色々」

 

「……………………………………」

 

 

さっき貰った激励をそっくりそのまま差し上げれば、髭擦くんはガックリと膝をつき、動かなくなった。

 

やっぱり哀れに思ったのでこの美少女が励ましてやろうと思ったけれど、私は彼にとって美少女ではないそうなので、残念ながら励ませなかった。

あーかわいそ。

 

 




主人公:髭擦くんに「パッとしない顔」と言われた時、正直ちょっと嬉しかったようだ。
髭擦くん:気の休まらない学校生活には三日で慣れて全く気にならなくなったようだ。
犬山くん:解放感の中に居る。もう戻る事は無い。

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