(……うわ、なんか潰れてら)
休日の朝。そろそろ十月の背中が見え始め、少しずつ秋の色が滲み始めた街の中。
特に目的も無くぶらぶらと散歩している最中、とある小道の隅に潰れた虫の死骸を見つけてしまった。
車か自転車か、相当激しく潰されたのだろう。
元々の虫のサイズよりだいぶ広範囲に散らばっており、最早何の虫だったのかすら分からないほどぐっちゃぐちゃ。これまた結構な惨殺死体である。
「げー、ヤダヤダ」
別に虫が苦手って訳でも無いし、外を歩いていればそこそこ見慣れる光景でもあるけど、だからって見つけて愉快なもんでもない。
私はうげぇと舌を出し、飛び散った死骸を踏まないように注意しながら迂回した。
(……改めて見ると、まぁまぁ居んのな)
そして一度そういった意識が生まれると、周囲を飛び回る虫の気配に敏感になるから不思議なものだ。
トンボやら蚊やら、名前の知らない羽虫やら。元からそこに飛んでいたんだろうが、急に視界に虫の姿が増えたようにも錯覚する。
(いや、実際増えてんだっけ?)
夏の間は暑すぎて虫が湧かず、気温が落ち着き始めた今になって逆に動きが活発になっている……とか。
いつかニュースでやってたような、なかったような。
なんにせよ温暖化って怖いわねぇ、なんて嘯いてみたりなどしつつ。私は視界を次々横切る虫達をなんとなしに目で追って――。
「……ん?」
とある塀の一角に、変な看板がある事に気が付いた。
薄く細長い長方形の、錆の目立つ古びた金属板。
それがちょうど木陰に隠れるような場所にひっそりと打ち付けられていて、よく分からない問いかけのような一文だけが記されている。
――『己はひとか?』
(……あー、アレかな、何たらと和解せよ的なヤツ)
街中を歩いていると、時たまそういったどこかの宗教を啓蒙する感じの小看板を見かける事がままある。これもアレの一種だろうか。
にしてはどことなく雰囲気が違うような気もするけど……まぁ、詳しく分かる事も無し。
私の興味もすぐに視界を横切った虫の方へと移り、そのままてくてく小道を抜けた。ら、
「――お、タマさんだ。おっすー」
「ア゜ッ……」
曲がり角の先、知った顔とばったり出くわし変な声が出た。
温厚さの滲むのほほんとした顔つきに、不穏さがこれでもかと溢れ出ている極彩色の双眸。
「いつかやると思ってました」をその内使うだろう系男子筆頭の犬山くんだ。勘弁して。
「いやー、なんか久しぶりだね。ヒゲとはよく喋ってんだけど、タマさんとは全然だもんなぁ」
「は、はは……そうかな、そうかも……」
「いやそうだって。ひょっとしたら顔見るのも何か月ぶりとかじゃない?」
向けられる親しみの笑顔に引き攣り笑いを返しつつ、じりじりと足を引く。
かつて卵の形をしたオカルトに絡まれ、その中身を浴び変質してしまった犬山くん。
決して悪いヤツでは無い事は分かっているし、私も嫌っている訳では無いのだが……やっぱり目の前にするとどうしても危機感を抱いてしまう。
……今の状況なんて、特にそう。
ゆっくりと、彼の片手に視線が向かった。
「……あ、あのさ。それ、どしたん……?」
「え? あぁ、これ?」
そしておずおずと震える声で問いかければ、犬山くんはどこか照れ臭そうに頬を掻く。
――片手に掴んだ、重たそうな石のブロックを持ち上げて。
「そこの空き地で良い感じの拾ったんだけど……やっぱ目についちゃうよなー。これまでもじろじろ見られててさぁ、俺もちょっと恥ずかしいんだよね」
「や、そうじゃなくって……それで何すんのっていう……」
「あー……なんだろ、特訓? いや克服? みたいな。今ね、なんか苦手なのやれそうな感じしてて……だから、ね」
そう言って軽く石ブロックを揺らす犬山くんだが、一体何が「ね」なのか。
あからさまに不穏な感じがするものの、さりとてハッキリと問い質すのもまた怖く。
「……えっと、なんて言うか……警察沙汰になる感じのは、よしといた方が良いんじゃないかなーって……」
「えっ、いやいやいやんな訳無いでしょ。俺の事何だと思ってんの」
オカルトのせいで変な風になっちゃった人ですかね……。
無論口にはしなかったものの、視線の方に何かしら乗ってしまったようだ。犬山くんはバツの悪そうな顔になり、無意識にか右肩に視線を振った。
……かつて強引にコンクリートブロックを振って、脱臼していた筈の箇所。
「まぁ、タマさんには一回変なとこ見せちゃってるからあれだけどさ……でもほんと、物騒な話じゃないから。人に言うほどのもんでもないってだけで。マジマジ」
「………そかー」
正直、片手に石ブロックなんて持ってる時点でなんにも響かんのだが、本人がそう言っている以上何かを言い募るのも角が立つ。
私自身あんまり彼に深入りはしたくなかった事もあり、それ以上の深掘りはしなかった。
そうしてその後は犬山くんお得意の切れ間の無い雑談に移行し、なんとなく立ち去り難い空気。
以前と同様どうにも上手く口が挟めないまま、私はただ適当な相槌を繰り返し――「うわっ」その最中、眼前を横切った虫に犬山くんが大げさに飛び退り、会話の流れが一瞬途切れた。
「――あっ! ごめん犬山くん。私これからちょっと行くとこあっからそろそろ行くわ!」
「あーもーしっしっ――え、あ、そうなの?」
そこにすかさず言葉を差し込み、雑談チェインを中断。
それを聞いた犬山くんは一瞬ぱちくりとした後、あちゃーといって苦笑した。
「いやーごめんね、つい話し込んじゃったな。なんか蠅消えてから俺お喋り楽しくって……」
「は、はは。まぁ、そういう事なんで、そんじゃね!」
ごめんと言いつつまた話が始まりそうな気配を察し、短く切ってスタコラその場を後にした。
犬山くんがあの石ブロックで何をする気なのか一抹の不安は残るけど……まぁ、今の今まで『親』にも警察にも捕まっていないんだから、今回もきっと平気だ。問題なし。うむ。
彼が『蠅』と呼んだ誰かさんの事を努めて忘れつつ、私は足早に道先の角を曲がって、
「――には、ならないようにねー」
その間際、背後からそんな呼びかけが飛んできた。
振り向けば、さっきと同じ場所で犬山くんが私にのんびり手を振っている。
何と言ったかは聞き取り損ねたが、足を止めて問い返す訳も無く。
ぴらぴらと手だけ小さく振り返し、笑みに細まる極彩色を塀の向こうに隠してやった。
*
犬山くんには行くところがあると言ったものの、実際そんなもんは無い。咄嗟に口から飛び出ただけである。
なので彼と別れた後もあてどなく街をぶらぶら。まぁ犬山くんへああ言った以上、それっぽく近くのデパートに行ってみたりもしたけれど、各地のおいしいもの展みたいなイベントも無く一通り巡ってすぐに退店。
それからは最初と同じく、目についた道や公園などを適当にほっつき歩いた。
「…………」
……のだが、やはりふとした時に気が散ってしまう。
犬山くんの持っていた石ブロックが頭から離れず、いずれ街のどこかで何らかのサイレンが聞こえてきやしないかと、どうにもハラハラしてしまうのだ。
(……つっても、犬山くんなら何やってもバレなさそうではあるけども)
アイツ見てないとこで絶対とんでもない事やってんだろうに、これまで何ひとつ騒ぎになってないの何なんだろうな……。
なんか気を揉んでるのも疲れて来た。私は諸々籠る溜息をひとつ吐き、また適当な公園のベンチに腰掛け一休み。
近くに草むらがあるせいか羽虫がブンブンうるさかったが、それも景色の内だろう。
指先に止まった一匹をふっと吹いて追い払いつつ、ぼんやり園内を見回して……やがて端っこの一点に目が留まる。
そこに並んだ木々の隙間から、『己はひとか』の文字が覗いていた。
(……ここにもあんのか、あの看板)
雰囲気的にどっかの宗教のヤツだと思われる、件の古びた金属板。
実は犬山くんと別れた後も、街中で何個か同じ文言の物を見つけたりしていた。
潰れた虫を見て、他の虫も意識し始めたのと同じ事だろう。
自分では特に探したりはしていなかったと思うのに、何気ない風景の中に紛れ込むそれらは度々私の目に付いて、『己はひとか』と問いかけて来るのだ。
別にそれで何を思うってんじゃないけれど……繰り返される分だけ積み重なるものもある訳で。私はなんとなしにベンチを立ち、看板へと近づいてみる。と、
「……お?」
木々の陰。ベンチの位置からでは隠れて見えなかった部分に、まだ文字が続いている事に気が付いた。
これまでの看板には無かった加筆。
頭の文が他と同じだったから分からなかったが、どうやらそれらと別バージョンのものだったらしい
「えーと……『己はひとか ぽぽ様でなし』……んん?」
……とはいえ、意味はやっぱり分からなかった。
むしろ変な単語が足された事でより意味不明になった気がして、なんだか力が抜けてしまう。
(んー、ぽぽ様ってのが神様の名前とかかね)
そしてそのまま散歩を再開しがてら考えるけど、『ぽぽ様』なんて今まで聞いた事も無い。
それとも、私が知らないだけで有名な宗教だったりするのだろうか。そう思ってスマホで調べてみるも、特にそれっぽい宗教団体は見当たらなかった。
ただ単語としてはちゃんと辞書にも載っているもののようで、なんでもカイコガの幼虫、いわゆる蚕の古い呼び方という事らしい。
「……、で?」
『ぽぽ様』が蚕の事だと分かっても、看板の意味は通りませんけど……?
まぁ一応宗教の広告だし、そういうもんと考えた方がいいんだろうか。
やっぱよく分からん世界だなーと適当に流しつつ、気を取り直してまた街をぶらぶら。お昼ごはん何にしようか、自分のおなかと相談しながら飲食店の看板をきょろきょろ探し――。
『己はひとか かわひらこでなし』
「うーん看板違い」
何気なく目を向けた路地の先に、またぞろ例の看板を見つけてしまった。
しかも『ぽぽ様』ではない新バージョン。
『かわひらこ』って誰だよ……と、これもスマホで検索すれば、どうも人名では無く蝶の古い呼び方であるようだった。あの加筆された部分は、信仰対象についての文脈ではなかったようだ。
(蚕にちょうちょ……虫関係の何かなのかな)
もしかしたら宗教ではなく、虫の研究機関とかの看板なのかもしれない。
いや、それはそれで意味不明なのには変わらんけども。
私は小首を傾げながら路地を通り過ぎ、お昼ごはん選びに戻り――そこから幾らもしない内に、また件の看板が目に付いた。
とある電柱の陰、道の塀との狭い隙間。なんで目に付いたんだこんなとこ。
『己はひとか すがるでなし』
「すがる……虻、ハチ、鹿……鹿?」
これもとりあえずスマホで調べてみると、複数の虫の呼び方であると同時に、動物の鹿の別称でもあるようだった。
でもまぁ流れからして虫の方だろうな。そう決めつけて、先へ。
『己はひとか 腐草でなし』
「えー……え? これホタル? なんで……?」
とある橋の横に、また看板。
『腐草』の字面的にゴキとかミミズとか想像していたのに、まさかのホタルの別称で驚いた。
『己はひとか 蜻蛉でなし』
「トンボな、これは分かるわ」
その次は民家の塀。
今回は私でも少しは見た事のある文字で、何故か勝った気になった。
『己はひとか 金鐘児でなし』
「……読めねー」
次は線路沿い。
これで鈴虫の事を指すらしい。
『己はひとか 法師蝉でなし』
「……んー……」
廃屋の壁。蝉のツクツクボウシ。
『己はひとか ――――』
「…………」
今度は……。
『己はひとか ――――』
『己はひとか ――――』
『己は――』
『己――』
『――』
…………。
……。
…。
・
・
・
『己はひとか』
「…………」
……いつの間にか、看板は元の一文きりのものに戻っていた。
途中からロクに読まずにスルーしていたから、もしかしたらもっと前から戻っていたのかもしれない。
そして、どうしてだろう。そのたったの五文字が、はじめに見た時よりもずっと圧が強くなっているように感じ、胸がざわついた。
(……くそ、いい加減うぜーって……)
引き剥がすように視線を外し、速足で離れる。
こっちが多少意識しているとは言っても、流石に数が多すぎる気がした。
決して密集している訳じゃ無いし、それぞれの間隔も結構離れてはいる。しかしふと向けた視線の先で延々と見つかり続けるため、意識的な切れ間が訪れない。
『己はひとか』――その問いかけが、ずっと視界にへばり付いている。
『己はひとか』
「……っ」
そうこうする内、道の先にまた看板。
即行で視線をずらし、通りがかった小道へ曲がった。意味は、無かったけれど。
『己はひとか』
……最初は、見ても何とも思ってなかったのに。
でも、こう何度も何度も繰り返されると情緒がおかしくなって来る。
『己はひとか』
まるで、私が人ではないと言われているかのような。
自分が人であるという自覚が揺らぐ気がして、落ち着かない。
『己はひとか』
勿論、ただの勘違いでしかない。
確かにちょーっと過剰にプリティでパワフルなとこはあるかもしれんが、私は正真正銘間違いなく人間である。それ以外の何者でもない。あってたまるか。
『己はひとか』
そうだよ、人だよ。
もう我慢できず、返事するように口の中で吐き捨てた。
『己はひとか』
人だって。
『己はひとか』
人です。
『己はひとか』
ああもう、だから――。
『非ず ひとでなし 己は 』
「――あ?」
立ち止まる。
……今、通り過ぎた看板。他と違う事書いてなかったか?
流れのままスルーしてたからよく見てなかった。私は咄嗟に確かめようと振り返り、
『――己は 煙蟹に在り』
…………それを。
それを認識した瞬間。私は、私の全てを見失った。