異女子   作:変わり身

114 / 117
「蟲」の話(中①)

 

 

――おなか すいた。

 

『それ』がはじめに抱いたのは、そんな小さな飢餓感だった。

 

 

『――――』

 

 

『それ』は白の身体と、赤い八つの眼を持っていた。

 

口は無く、腹部からは八つの肢が突き出し、全身を白く流れ揺らめく靄の質感が覆っている。

一見すると昆虫の一種にも見えたが、間違いなくそのどれにも該当しないであろう、風変りな形貌。

 

そんな路傍の石ころ程度の小さな白が、とある小道の隅で靄を燻らせ、ただただ腹を鳴らしていた。

 

 

『――……?』

 

 

……何故、己はここにいるのだろう?

そもそも、己は何者なのだろう?

 

ほんの一瞬、ぼんやりと首を傾げた小さな白だったが、しかし深く思考するだけの知能が無く、すぐに忘れた。

 

おなか すいた――頭の中にあるのは、ただそれだけ。

小さな白は光の加減でうっすら青みの差す靄を揺らめかせ、腹を満たすものを求めて八つ肢を動かしてゆく。

 

 

『――、――』

 

 

ふわり、ふわり。

小さな白が肢を地面に突き立てる度、その周囲に靄が散る。

 

そうして地面を滑るように這い進み、やがて行き当たった道の塀に脚をかけ、同じようにして登る。

途中で止まる事も惑う事もなく、一直線にするする登って頂上へ。すぐにそこにかかる木の葉の陰に身を隠し、静かに獲物となるものを待つ。

 

それは思考の必要すら無い、魂に刻まれた本能だった。

呼吸と同じく、半ば自動的に身体が動作し――故にこそ、漂う靄もまた動く。

 

 

『――……!』

 

 

小道の先に生物の気配を感じ取ったその瞬間、小さな白の背後に靄が集い、細く長く伸びてゆく。

 

糸とも触手ともつかないそれは侍るように宙へ留まると、それぞれが八つの赤い眼の先に先端を向ける。

小さな白は、それが口の無い己の捕食方法である事も知っていた。

 

そしてじっと息を潜めて機を待てば、やがて道先から大きな影が姿を現した。

 

二本の足で地を歩く、小さな白の何十倍もの背丈の生物――人間だ。

 

成人男性たるそれは獲物にしては大きすぎ、むしろ容易く返り討ちにされるであろうサイズ差ではあったが、しかし小さな白にとっては関係のない事だった。

たとえ相手がどのような存在であっても、変わらず己の血肉へと変えられる。一切の理解なく、ただそう確信していた。

 

 

『――――』

 

 

獲物の人間はもう近い。

もうあと数秒もすれば、道なりに小さな白の目前を通り過ぎてゆくだろう。

 

その瞬間に靄の糸で絡め捕り、取り込む――小さな白が身動ぎし、それに合わせて靄の糸が柔らかに広がる。

獲物の人間はそんなすぐそこに潜む危機に全く気付かないまま、自ら捕食者の間合いへと踏み込んだ。

 

今。小さな白の体表に細波が走り、靄の糸が勢いよく飛び出して――。

 

 

『――……、?』

 

 

……否、飛び出さなかった。

 

靄の糸は柔らかに広がったまま留まり続け、ただゆらゆらと揺れている。

小さな白は八つの眼をぱちくりとして、靄の糸を軽く振る。上下左右に前後ろ、全ての糸の動きに問題はなく……しかし獲物の人間に向けた途端、やはり全ての糸が停止する。

 

まるで、人間を襲う事を嫌がっているかのように。

 

 

『――――』

 

 

そうこうしている内に、機は完全に逸してしまった。

 

獲物の人間は遠く離れて行ってしまい、やがて道の向こうへ消えてゆく。

小さな白は何も出来ないまま、ただただそれを見送るしか無く……。

 

 

『――……、』

 

 

――おなか すいた。

静電気の弾ける音、或いは小雨の降る音のようなささやかな鳴き声が、口の無い頭部から物悲しげに零れ落ちた。

 

 

 

 

 

 

とはいえ、小さな白に失敗を引きずれる知能など無い。

悔しさはすぐに忘れ、反省だってする事も無く、けろりと次の獲物を探し始めた。

 

壁の上を歩き、木々の葉を跳び移り、時には靄の糸で宙を渡って。それにとっては非常に巨大な街の中を無軌道に進む。

 

当然ながら道中には幾度となく人間の姿を見かけ、小さな白はその度に捕食を試みた。

しかし靄の糸を人間に向け放とうとするとどうしてもブレーキがかかり、それを繰り返すうちに渋々人間を獲物と見る事を諦めた。

流石の小さな白にも、最低限の学習能力はあったようだ。

 

そして他の種類の獲物を求め、八つ眼をぎょるぎょるさせつつ街を巡り――やがて、見つけた。

 

 

「あはは、そーら取ってこーい!」

 

「ワン! ワン!」

 

 

とある公園の広場。

休日という事もあり多くの人間が集まっているその場所で、それが走り回っていた。

 

尻尾の生えた四本足、人間の子供と戯れている喧しい生物――つまりは、犬。

アレであればいいだろう。小さな白は気負いなくそう決めると、その近くに忍び寄り、先ほどの要領で靄の糸を伸ばし……。

 

 

『――??』

 

 

が、これも停止した。

糸の先端を犬に向けた瞬間に制御を失い、動かせなくなってしまう。

 

結局今回も獲物を血肉にする事は出来ないまま、小さな白は泣く泣くその場を後にした。

 

 

そしてその後も野良猫、ネズミ、野鳥と八つの眼に付いた端からターゲットにしたものの、全て失敗。靄は言う事を聞かず、腹は情けなく鳴り続けるばかり。

果ては己よりも小さな昆虫相手ですら同じ事が起こり、そこでようやく自身に何某かの問題が起こっている事を自覚した。

 

 

『――……』

 

 

八つ眼の前に靄を伸ばし、もやもやと形を弄ぶ。

 

しかしそれで小さな白に分かる事など何も無く、解決方法などもっての外。

その内に飽きたのか、あっさりと靄を散らしてしまった。

 

――おなか すいた。

 

けど、どうしたら良いのだろう。

どことも知れぬ狭い道の赤信号。そこで無意識にピタリと止まり、小さな白はそのままぼんやり途方に暮れて――。

 

 

非ず ひとでなし 己は 煙蟹 に在り

 

 

……最中、とある看板に眼が止まる。

 

とある塀にかけられた、古びた看板。

当然、小さな白には書かれている内容など理解出来る筈も無い。

 

にもかかわらず、それを見る小さな白の体表にはざらりとした細波が立っていた。

 

 

『――……、』

 

 

じり、じり。

靄を広げながら、少しずつ距離を取る。

 

そして立ち止まった信号が青になった瞬間、弾かれたように逃げ出した。

己の内の何かが、明確に警鐘を鳴らしていたのだ。

 

靄の糸を電柱に絡め、己の身を引き寄せるようにして空中を駆ける。それを繰り返せば件の看板はあっという間に見えなくなり、己が内の警鐘も段々と小さく薄くなってゆく。

とある民家の上に差し掛かった時にようやくそれが消え、小さな白はホッとしながらその庭先に降り……。

 

 

『――……』

 

 

なんとなく、気が引けて。

靄の糸を一回余分に伸ばし、道端の塀にひっそりと着地した。

 

……なぜ?

 

一拍置いて自身の行動に首を傾げるが、思考は纏まる事は無く。

代わりに、小さな白の体表がぐるりとひとつ渦を巻いた。

 

 

『……、……』

 

 

身体が、内側から縛られている。そう感じた。

 

人間は食べてはいけません。

犬や、他の生き物も殺してはいけません。

赤信号では止まりましょう。

勝手に人の家の敷地に入ってはいけません――。

 

そのような奇妙なルールが内にあり、本能のままに振る舞う事を阻害しているのだ。

小さな白の内で感覚としてそれを捉えてしまい、靄の身体を大きく波打たせた。

 

 

『――――』

 

 

……なぜだろう。

どうして己は、こんな風になっているのだろう。

 

こんなにもおなかがすいているのに、血肉になるものなど周りに幾らでもあるというのに。

肢を出す事も糸を伸ばす事も許されず、延々と空腹に喘ぐだけ。

 

そして解決法を出せる程の知能も無ければ、嘆き散らせる情動も無い。

今感じている疑問や思いも、おそらく少しもすれば気にもしなくなっている。

 

――もどかしい。八本の肢が、地面に靄の線を引いた。

 

 

『――、……、……、』

 

 

何かがおかしい。

何かが今、間違いなく間違っている。

 

微かな知性がそう訴えるが、その先を考える事が出来ない。頭が回らない。

 

靄の内側で渦のような流れが生まれ、靄を突き破るが如く急速に膨れ上がってゆく。

それが不安や焦燥感であるという事すら理解出来ないまま、小さな白は内なる激流に翻弄されるしか無かった。

 

 

『――ッ』

 

 

なぜ分からない。

 

なぜ考えられない。

 

なぜ理解が出来ない。

 

なぜ、なんで、どうして――私が、こんな、虫なんかに、

 

 

『――ッ――!? ――! ――ッ!』

 

 

気付けば、靄の奥より啼いていた。

泡立つように体表が弾け、八本の肢でがむしゃらに地を掻き、激しく身悶える。

 

苦しみ、悲しんで、怒り、嘆いて、誰かを求めて泣き叫んだ。

けれど確かにあったその名も姿も形にならず、逆に一層酷く取り乱す。

 

意識は裂かれ、思考は飛び散り、器に罅が入っていく。

そうして何もかもが訳の分からないまま、ただ啼き声だけを張り上げ続け――だからこそ、己に近付くその気配を見逃した。

 

 

お、また見―っけ

 

『!』

 

 

突然、至近距離から人間の鳴き声がした。

 

反射的に八つ眼を向ければ、そこには塀に手をかけこちらを覗き込む人影があった。

柔和な雰囲気の少年だ。少年は何やら嬉しそうに声音を弾ませながら、醜く蠢く小さな白へと穏やかな微笑みをひとつ。

 

 

――そして極彩色の双眸を輝かせ、大きな石のブロックを振り下ろした。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。