*
――おなか すいた。
『それ』がはじめに抱いたのは、そんな小さな飢餓感だった。
『――――』
『それ』は白の身体と、赤い八つの眼を持っていた。
口は無く、腹部からは八つの肢が突き出し、全身を白く流れ揺らめく靄の質感が覆っている。
一見すると昆虫の一種にも見えたが、間違いなくそのどれにも該当しないであろう、風変りな形貌。
そんな路傍の石ころ程度の小さな白が、とある小道の隅で靄を燻らせ、ただただ腹を鳴らしていた。
『――……?』
……何故、己はここにいるのだろう?
そもそも、己は何者なのだろう?
ほんの一瞬、ぼんやりと首を傾げた小さな白だったが、しかし深く思考するだけの知能が無く、すぐに忘れた。
おなか すいた――頭の中にあるのは、ただそれだけ。
小さな白は光の加減でうっすら青みの差す靄を揺らめかせ、腹を満たすものを求めて八つ肢を動かしてゆく。
『――、――』
ふわり、ふわり。
小さな白が肢を地面に突き立てる度、その周囲に靄が散る。
そうして地面を滑るように這い進み、やがて行き当たった道の塀に脚をかけ、同じようにして登る。
途中で止まる事も惑う事もなく、一直線にするする登って頂上へ。すぐにそこにかかる木の葉の陰に身を隠し、静かに獲物となるものを待つ。
それは思考の必要すら無い、魂に刻まれた本能だった。
呼吸と同じく、半ば自動的に身体が動作し――故にこそ、漂う靄もまた動く。
『――……!』
小道の先に生物の気配を感じ取ったその瞬間、小さな白の背後に靄が集い、細く長く伸びてゆく。
糸とも触手ともつかないそれは侍るように宙へ留まると、それぞれが八つの赤い眼の先に先端を向ける。
小さな白は、それが口の無い己の捕食方法である事も知っていた。
そしてじっと息を潜めて機を待てば、やがて道先から大きな影が姿を現した。
二本の足で地を歩く、小さな白の何十倍もの背丈の生物――人間だ。
成人男性たるそれは獲物にしては大きすぎ、むしろ容易く返り討ちにされるであろうサイズ差ではあったが、しかし小さな白にとっては関係のない事だった。
たとえ相手がどのような存在であっても、変わらず己の血肉へと変えられる。一切の理解なく、ただそう確信していた。
『――――』
獲物の人間はもう近い。
もうあと数秒もすれば、道なりに小さな白の目前を通り過ぎてゆくだろう。
その瞬間に靄の糸で絡め捕り、取り込む――小さな白が身動ぎし、それに合わせて靄の糸が柔らかに広がる。
獲物の人間はそんなすぐそこに潜む危機に全く気付かないまま、自ら捕食者の間合いへと踏み込んだ。
今。小さな白の体表に細波が走り、靄の糸が勢いよく飛び出して――。
『――……、?』
……否、飛び出さなかった。
靄の糸は柔らかに広がったまま留まり続け、ただゆらゆらと揺れている。
小さな白は八つの眼をぱちくりとして、靄の糸を軽く振る。上下左右に前後ろ、全ての糸の動きに問題はなく……しかし獲物の人間に向けた途端、やはり全ての糸が停止する。
まるで、人間を襲う事を嫌がっているかのように。
『――――』
そうこうしている内に、機は完全に逸してしまった。
獲物の人間は遠く離れて行ってしまい、やがて道の向こうへ消えてゆく。
小さな白は何も出来ないまま、ただただそれを見送るしか無く……。
『――……、』
――おなか すいた。
静電気の弾ける音、或いは小雨の降る音のようなささやかな鳴き声が、口の無い頭部から物悲しげに零れ落ちた。
*
とはいえ、小さな白に失敗を引きずれる知能など無い。
悔しさはすぐに忘れ、反省だってする事も無く、けろりと次の獲物を探し始めた。
壁の上を歩き、木々の葉を跳び移り、時には靄の糸で宙を渡って。それにとっては非常に巨大な街の中を無軌道に進む。
当然ながら道中には幾度となく人間の姿を見かけ、小さな白はその度に捕食を試みた。
しかし靄の糸を人間に向け放とうとするとどうしてもブレーキがかかり、それを繰り返すうちに渋々人間を獲物と見る事を諦めた。
流石の小さな白にも、最低限の学習能力はあったようだ。
そして他の種類の獲物を求め、八つ眼をぎょるぎょるさせつつ街を巡り――やがて、見つけた。
「あはは、そーら取ってこーい!」
「ワン! ワン!」
とある公園の広場。
休日という事もあり多くの人間が集まっているその場所で、それが走り回っていた。
尻尾の生えた四本足、人間の子供と戯れている喧しい生物――つまりは、犬。
アレであればいいだろう。小さな白は気負いなくそう決めると、その近くに忍び寄り、先ほどの要領で靄の糸を伸ばし……。
『――??』
が、これも停止した。
糸の先端を犬に向けた瞬間に制御を失い、動かせなくなってしまう。
結局今回も獲物を血肉にする事は出来ないまま、小さな白は泣く泣くその場を後にした。
そしてその後も野良猫、ネズミ、野鳥と八つの眼に付いた端からターゲットにしたものの、全て失敗。靄は言う事を聞かず、腹は情けなく鳴り続けるばかり。
果ては己よりも小さな昆虫相手ですら同じ事が起こり、そこでようやく自身に何某かの問題が起こっている事を自覚した。
『――……』
八つ眼の前に靄を伸ばし、もやもやと形を弄ぶ。
しかしそれで小さな白に分かる事など何も無く、解決方法などもっての外。
その内に飽きたのか、あっさりと靄を散らしてしまった。
――おなか すいた。
けど、どうしたら良いのだろう。
どことも知れぬ狭い道の赤信号。そこで無意識にピタリと止まり、小さな白はそのままぼんやり途方に暮れて――。
『非ず ひとでなし 己は 煙蟹 に在り』
……最中、とある看板に眼が止まる。
とある塀にかけられた、古びた看板。
当然、小さな白には書かれている内容など理解出来る筈も無い。
にもかかわらず、それを見る小さな白の体表にはざらりとした細波が立っていた。
『――……、』
じり、じり。
靄を広げながら、少しずつ距離を取る。
そして立ち止まった信号が青になった瞬間、弾かれたように逃げ出した。
己の内の何かが、明確に警鐘を鳴らしていたのだ。
靄の糸を電柱に絡め、己の身を引き寄せるようにして空中を駆ける。それを繰り返せば件の看板はあっという間に見えなくなり、己が内の警鐘も段々と小さく薄くなってゆく。
とある民家の上に差し掛かった時にようやくそれが消え、小さな白はホッとしながらその庭先に降り……。
『――……』
なんとなく、気が引けて。
靄の糸を一回余分に伸ばし、道端の塀にひっそりと着地した。
……なぜ?
一拍置いて自身の行動に首を傾げるが、思考は纏まる事は無く。
代わりに、小さな白の体表がぐるりとひとつ渦を巻いた。
『……、……』
身体が、内側から縛られている。そう感じた。
人間は食べてはいけません。
犬や、他の生き物も殺してはいけません。
赤信号では止まりましょう。
勝手に人の家の敷地に入ってはいけません――。
そのような奇妙なルールが内にあり、本能のままに振る舞う事を阻害しているのだ。
小さな白の内で感覚としてそれを捉えてしまい、靄の身体を大きく波打たせた。
『――――』
……なぜだろう。
どうして己は、こんな風になっているのだろう。
こんなにもおなかがすいているのに、血肉になるものなど周りに幾らでもあるというのに。
肢を出す事も糸を伸ばす事も許されず、延々と空腹に喘ぐだけ。
そして解決法を出せる程の知能も無ければ、嘆き散らせる情動も無い。
今感じている疑問や思いも、おそらく少しもすれば気にもしなくなっている。
――もどかしい。八本の肢が、地面に靄の線を引いた。
『――、……、……、』
何かがおかしい。
何かが今、間違いなく間違っている。
微かな知性がそう訴えるが、その先を考える事が出来ない。頭が回らない。
靄の内側で渦のような流れが生まれ、靄を突き破るが如く急速に膨れ上がってゆく。
それが不安や焦燥感であるという事すら理解出来ないまま、小さな白は内なる激流に翻弄されるしか無かった。
『――ッ』
なぜ分からない。
なぜ考えられない。
なぜ理解が出来ない。
なぜ、なんで、どうして――私が、こんな、虫なんかに、
『――ッ――!? ――! ――ッ!』
気付けば、靄の奥より啼いていた。
泡立つように体表が弾け、八本の肢でがむしゃらに地を掻き、激しく身悶える。
苦しみ、悲しんで、怒り、嘆いて、誰かを求めて泣き叫んだ。
けれど確かにあったその名も姿も形にならず、逆に一層酷く取り乱す。
意識は裂かれ、思考は飛び散り、器に罅が入っていく。
そうして何もかもが訳の分からないまま、ただ啼き声だけを張り上げ続け――だからこそ、己に近付くその気配を見逃した。
「お、また見―っけ」
『!』
突然、至近距離から人間の鳴き声がした。
反射的に八つ眼を向ければ、そこには塀に手をかけこちらを覗き込む人影があった。
柔和な雰囲気の少年だ。少年は何やら嬉しそうに声音を弾ませながら、醜く蠢く小さな白へと穏やかな微笑みをひとつ。
――そして極彩色の双眸を輝かせ、大きな石のブロックを振り下ろした。