■
その少年は、虫がすこぶる苦手であった。
空を飛び回る羽虫は勿論、地を這う芋虫。美しく輝く蛍や、子供の憧れカブトムシでさえも全て同じ。
昆虫というだけで等しく怖気が走り、羽音を聞くだけでも反射的に飛び跳ねてしまう程だった。
その苦手意識は幼少の頃よりずっと変わらず、少年も自身の特徴のひとつとして付き合い続けて来たのだが――最近になって、少し意識に変化があった。
以前の出来事によりチャレンジ精神に満ち溢れるようになった彼は、これまで禁止されて来た様々な事柄に挑戦する傍ら、虫への苦手意識を克服してみようとも思い立ったのだ。
そしてどうすれば虫が平気になるのか、アレコレと頭を悩ませ……やがて自身のとある傾向に気付くと、ポンと明るく手を打った。即ち、
――そうだ! いける虫から潰していこう!
*
『――ッ!?』
それに反応出来たのは、ただの幸運でしかなかった。
咄嗟に飛び退いた小さな白の真横に大きな石が叩きつけられ、鈍い音を響かせる。
人間にとっては大した事の無い物音でも、小石の如く小さな白にとっては文字通りスケールが違う。小さな体躯はその衝撃によっていとも容易く吹き飛ばされ、塀の上から放り出されてしまった。
『――!? ッ……!』
慌てて靄の糸を塀の側面に伸ばし、身を引き寄せ――直後、その真後ろを石ブロックが通過した。正確無比な投擲だ。
その軌跡に巻き起こった風圧にまた煽られ、小さな白は悲鳴と共にあらぬ方へと飛んでゆく――。
「おー……意外とすばしっこいなぁ、あの虫」
それを成した少年はどこか感心したような鳴き声を落とすと、道に落ちた石ブロックを拾いに向かう。
しかしその極彩色の双眸は宙を舞う小さな白を捉え離さず、常にその所在を追っている。
そしてどうにか姿勢を立て直し、立ち並ぶ電柱のひとつに着地した小さな白は、その極彩色の視線に気づくなり体表をぶわりと膨張させた。
即座に付近の街路樹に靄の糸を放ち、緑に紛れて一目散に逃げだした。
『――……!』
アレは獲物では無い、己を脅かすものだ……!
恐怖から来る混乱が狭い意識を埋め尽くすものの、しかしおかげでさっきまでの絶望感も綺麗さっぱり吹き飛んでいた。
単純な生命への危機感だけが靄の身体を追い立て、ただただ必死に糸を飛ばす。
今はとにかく、あの人間から離れなければ――何度も背後を振り返り、数多の木々を飛び移り。そうして、十分に離れた所で目に付いた小さな木の洞へと滑り込み、
「――はいこんにちはー」
その寸前、洞を塞ぐように巨大な肌色の壁が現れた。
それが人間の掌であると理解する前に、小さな白は瞬間的に靄を手繰って進路変更。
握り込まれる手指の隙間をすり抜け、別の木の枝へと着地する。
――見下ろせば、忘れようのない極彩色がしっかりと小さな白を捉えていた。
「うわやっぱ糸でやってる? 虫のくせに器用な事するなぁ……」
……今、アレは、どうやって現れた?
追って来ていた様子は無かった。かと言って、あの極彩色で別人である訳が無い。
中途半端な知性が動転し、八本の肢がそれぞれ震え――その内数本を木肌のヒビに引っかけ、よろめいた。
「そりゃ」
『――ッ』
その隙を見逃さず、また投石。
今度は石ブロックでは無くただの小石であったが、小さな白にとっては大砲の玉にも等しい。咄嗟に飛び跳ね回避したものの、跳んだ先にも連続で小石を投げられ、堪らず木の枝から飛び降りて――。
『――!?』
――真下に、極彩色が『居た』。
小さな白は反射的に小石の飛んで来ていた方角に眼をやるも、当然そこには誰も居ない。
いつの間に移動したのか、全く察知出来なかった。大きく石ブロックを振りかぶっている極彩色の笑顔に小さな白の体表がゾワリと波立ち、すぐに靄の糸を塀に放って回避した。
「あーまた……色変だけどやっぱ蜘蛛か、あんな風に動けんだ……」
しかし急な制動で目測を誤り、塀に飛びつき損ねて地面に落下。
靄を操りクッションにしてどうにか無傷で着地するも、直後頭上に大きな影が差し掛かる。
見上げれば、またもいつの間にか『居た』極彩色が今まさに石ブロックを振り下ろした所だった。
瞬間的に小さな白の肢が跳ね、付近の地面に開いた穴――側溝の手掛け穴へと転がり込んだ。穴の向こうで石とコンクリートが激突し、衝撃が側溝の浅い内部を跳ね回る。
『――、……、――……!』
その喧ましい残響に小さな白の意識が飛びかけるも、必死に堪えてよろよろとその場を移動する。
側溝の中は暗く、狭く、そして長い。つい数日前まで雨続きだった影響が残っているのか、結構な水浸しにもなっていた。
下方には浅く溜まる水が川のように流れており、小さな白の体躯では容易く流されてしまうだろう。落ちないように靄を纏い、逆さまとなって側溝蓋の裏を這う。
側溝蓋の手掛け穴から点々と差し込む僅かな光が、酷い恐怖を煽っていた。
『――……ッ』
……小さな白は、これで隠れ切れたとは考えていなかった。
何故ならば、靄の内の警鐘は未だ激しく続いている。
故にまだ、逃げ切れていないのだ。この重たく分厚いコンクリートは、あの極彩色の視線を全く遮ってくれてはいない。
――そうだ、きっと、まだそこに『居る』。
「――よっこらせ」
『――、ッ!?』
ズ、と。
予感を裏付けるように鳴き声がして、手掛け穴から人間の指が飛び出した。
それも、ちょうど小さな白の這っている蓋のもの。
至近距離に出現したそれに躊躇なく靄の糸を差し向けるも、放たれる事無くまた止まる。
否、今回のそれにおいては、何故か強い躊躇いの感情すら靄の奥より湧き上がり――その一瞬の硬直のうちに、逃げ損ねた。
側溝蓋は小さな白を張り付けたまま軽々と持ち上げられ、強制的に青空の下へと戻される。
そしてひっくり返された蓋の上方から、笑みに細まる極彩色が覗き込み、
「お、やっぱ居た居、」
――瞬間、その表情が固まった。
頬が引き攣り、見る見るうちに青くなり、極彩色の双眸に恐怖の色が混じり込む。
そのただならぬ様子に小さな白は体表をじわりと渦巻かせ……ふと、その視線が己ではなく、別の部分を向いている事に気が付いた。
決して警戒を逸らさぬまま八つ眼の半分をさっと向けると、そこには小さな影が一つ。名も知らぬ小さな羽虫が、ゴソゴソと蠢いていた。
小さな白は気付かなかったが、この側溝蓋に先客がいたらしい。
羽虫は急に開けた視界に驚いたのか、羽を広げて飛び去って「~~~~ッ!!」それと同時、浮遊感が小さな白を襲った。
どういう訳か、極彩色が側溝蓋を取り落としたのだ。
『――!』
その隙を見逃さず、小さな白も蓋の裏から飛び出した。
極彩色の双眸は怯えによって閉じられたまま。
小さな白は即座に手近な草陰に飛び込み、極彩色の視線を完全に断ち切った。
*
それから小さな白は必死になって気配を殺し、他の人間の気配がある方へと移動した。
他の人の居る場所で暴れてはいけません――本能を縛り付ける奇妙なルールのひとつが、無意識に働いていたためだ。
人間の多い場所であれば、もし極彩色が追って来てもさっきのような大暴れは出来ないだろう。
明確にそう考えていた訳では無かったが、それに近い感覚が靄の奥に強くあった。
そしてそれに従い、人間の鳴き声が多い場所へと、街の中心部へと寄ってゆく。
警戒に警戒を重ね、物陰に潜んでの移動を徹底していたため、その進みは非常に遅いものだった。
時には他の昆虫や野鳥に狙われる事もあったが、大きく靄を広げて威嚇すれば容易く追い払えた。
……しかしその度、やたらとしつこかった極彩色の双眸が際立つ訳で。
『…………』
あの人間は何だったのだろう。
なぜ襲いかかって来たのか。なぜ正確に己の居場所を捉えられていたのか。
そして嬉々として己を追いかけながら、より小さな羽虫に怯えた様子を見せたのはなぜなのか。
多くの疑念疑問が内に生まれ、しかし深く考えられないまま燻り続ける。
やはりもどかしくはあったが、同時にそれが救いでもあった。その空転を続ける無為な思考が、己への不安と焦燥を思い出させる暇を与えなかったのだから。
或いは、それが小さな白の自覚なき自己防衛だったのかもしれない。
『――、』
そうする内、やがて大通りの入口付近にまで辿り着く。
道端の草むらからこっそり頭を出して窺えば、大小様々多くの人間達が行き交っている。
これだけの群れの中でなら、あの極彩色が追って来ても大丈夫だろう――そのように体表を揺らめかせた時、ちょうどすぐ近くに荷物を背負った人間が一人通過する。
小さな白はこれ幸いとその衣服に飛びつき、そのまま人間の群れの中へと混じり込んだ。
そうして人々の目に触れないよう背中の荷物の陰に隠れ、大通りの中を運ばれてゆく。
「次どうする? あそうだ駅前に気になってるショップあんだけど――」
「ああはい、その件につきましては只今そちらに――」
「……ちぇ、反応無いや。忙しいんかなタマ吉――」
早く流れる風景の中、あちらこちらから人間の鳴き声がひっきりなしに響き続ける。
小さな生物にとっては非常に落ち着かない環境である事は明らかだったが、しかし小さな白は逆に妙な居心地の良さを感じていた。
しっくりと馴染むような、人間の中こそが己の居場所であるかのような。
己の中の何かがぐらつき、しかし決して不快ではない、妙な感慨。
特に、今しがたすれ違った
「非ず ひとでなし 己は 煙蟹 に在り」
『――……ッ』
……ぴたり。
己と少女との間にまた例の看板を見つけてしまい、伸ばしかけた糸が止まる。
小さな白の体表が細波立ち、靄の内では警鐘が鳴る。
そうして動けないでいる間に少女はスタスタ歩いて行ってしまい、すぐに人混みの中へと消え去った。
『……! ……!!』
小さな白は、物悲しげな鳴き声と共にその背を見送る事しか出来ず……やがてギロリと看板を睨み付けると、靄の糸で地面の小石を絡め捕る。
そして「なんでそこにあんだよボケクソバカアホ!!!」と罵るかのように体表をバチンバチンと跳ねさせて、思い切り看板にそれを投げつけた。
怒りに任せての癇癪だ。狙いなど上手く定まる筈も無く、小石はあさっての方向に飛んで行き、そこに『居た』人間の後頭部にコツンと着弾。
その人間は突然の衝撃に大げさな程に驚き、何故か悲鳴を上げてキョロキョロと周囲を見回した。
――そう、あの極彩色の双眸で。
『――ッ!?』
それが完全に振り返る前に、荷物の奥に身体を押し込んだ。
……なぜ、どうしてアイツがあそこに『居る』。
移動に時間をかけている内、いつの間にか追い抜かれていたのだろうか。いや、だとしても、なぜこんなにも都合よく……!
動揺のあまり体表が幾何学模様に渦巻く中、決して動かず身を潜める。
幸い極彩色は未だこちらに気付いておらず、小さな白が足として使っている人間の進路も真逆。このままじっとしているだけで、自動的に距離は離れてゆくだろう。
『――、――』
もとより呼吸など行っていないにもかかわらず息を詰め、じっと時が過ぎるのを待つ。
人間の中に混じる安心感など、どこかへと消えていた。
じりじりと身を炙るような緊張感に耐え続け……そして頃合いを見計らい、恐る恐ると荷物の陰から頭を出した。
『――……』
……後方に極彩色の気配は無し。
どうやら気付かれてはいなかったようだと、小さな白は縮こめていた八つ肢をそっと緩めた。
そうして脱力したまま暫くぼうっとしていると、流れる景色のとある一点に意識が止まる。
「非ず ひとでなし 己は 煙蟹 に在り」――また例の看板だ。
小さな白は舌打ちするように靄の奥から音を鳴らし、目を背け……その先にもまた同じ看板があり、うんざりと靄を波打たせた。
「非ず ひとでなし 己は 煙蟹 に在り」
「非ず ひとでなし 己は 煙蟹 に在り」
「非ず ひとでなし 己は 煙蟹 に在り」
何度も、何度も、何度も。
小さな白の視界にはその看板が度々現れ、内なる警鐘を鳴らして去ってを繰り返す。
そこには何が書かれているのか、やはり小さな白には分からない。
分からないが、しかし……それを目にする度、少しずつ靄の奥から何かが薄れていくような感覚があった。
「非ず ひとでなし」
『…………』
人間の中に紛れる事への居心地の良さ。
看板へ感じる不快感。
己を縛る奇妙なルール。
そういったものが溶け落ち、崩れ、次第に思考そのものが緩慢になってゆく。
「非ず ひとでなし」
「非ず ひとでなし」
「非ず ひとでなし」
もとより中途半端な知性。小さな白も疑問に思う事も無く、ただとろけるに任せるだけ。
忘れてしまう。消えてしまう。失われてしまう。
靄の塊、その奥に辛うじて残っていた大切なものが全て、もうひとつの在り方へ傾いてゆく。その自覚すら、無いままに――。
「――己は 煙蟹 に在り――」
『――――』
――おなか すいた。
くぅ、と腹が鳴った。
靄の糸が滑らかに揺れ、小さな白を運ぶ人間に伸ばされる。
先程までは差し向けただけで動かなくなっていたそれも、最早止めるものは無い。
本能のまま、己の飢えを満たすために。
そこに在る全てを己が内に取り込み、血肉と変えるために。
靄はゆるりと人間の腕に絡みつくと、柔らかく包み込むように広がり、そして、
「すいませーん、そこの人ー」
――ぎしり。
背後から聞き覚えのある人間の鳴き声が落ち、とろけていた思考が音を立てて凝固した。
『……、……、……、』
……小さな白の全身から水滴が浮きあがり、脂汗の如く次々と滑り落ちてゆく。
そうやって動けないでいる間にあっさりと摘まみ上げられ、足としていた人間から引き離された。
そして暴れる事すら許されないまま、そのまま高く掲げられ――八つ眼全てに、朗らかとした笑顔が映る。即ち、
「――虫、くっついてましたよ」
『――ピェ』
――超至近距離でにっこり細まる、ギラギラ輝く極彩色。
小さな白の内で凄まじい恐怖が弾け、意識を染める本能と飢餓感を跡形も無く吹き飛ばした。