*
みち、と。
靄の腹部に、巨大な指先がめり込んだ。
『――ぎゃぁぁぁぁぁぁぁ!?』
その圧に明確な命の危機を感じ、小さな白は堪らず絶叫。
全身から大量の靄を噴き上げ、煙幕の如く激しく周囲へ撒き散らした。
「え、うわぁっ!」
突然の出来事に、流石の極彩色も動揺したようだ。
ほんの一瞬、小さな白を摘まむ指が僅かに緩み――その隙にジタバタ暴れてなんとか脱出。そして即座に手近な街路樹に靄の糸を巻き付け、引っ張られる形でその場を緊急離脱した。
『なんなんだ、マジでなんなんだアイツ……!』
そうして宙を駆ける間にも、極彩色の視線がこちらを捉え続けているのが分かってしまう。
小さな白は粘つくそれに総毛立ちつつ、また別の場所へと糸を放ち、遠く遠くへ身体を運ぶ。
動転の影響か、頭を覆う靄が薄れ、多少は深く考えられるようになっていた。しかしだからこそ、極彩色への恐怖もより色濃く像を結んでいる。
小さな白は酷いパニック状態となり、先ほどよりも必死になって逃げ続け――。
「――さっきの白いモヤモヤってタコ墨的なやつ?」
『わぁー!?』
しかし、その先にもまた極彩色。
通りがかった分岐路の先から何の前触れも無く現れたかと思えば、小さな白へと手を伸ばした。
咄嗟にまた靄の糸を伸ばし、文字通りの魔手から逃れたものの、小さな白の内で更に混乱が加速する。
『――何で居んだよ! どうやって追って来たんだ、コイツ……!?』
逃げる最中、小さな白は何度も背後を確認していた。
遠ざかってゆく極彩色の姿も覚えており、追いかけて来ている姿も見えなかった。
なのに何故、どうしてここに『居る』――小さな白は体表を細かく震わせ、また距離を取る。
今度は決して目を離さないよう八つ眼をしっかりと向けながら、また次の分岐路を曲がった。
「よっ」
が、『居た』。路地の先にはまた極彩色が待ち構え、石ブロックを振り下ろしていた。
『いっ!?』咄嗟に回避しすれ違い、どうにかそのまま遁走を続けたものの……まるで意味が分からない。
今、極彩色は間違いなく追って来てはいなかった。八つ眼で確かにその姿を注視していた。
だが、角を曲がる際、視線が切れたその一瞬で、どういう訳か先回りをされていた。いつのまにやら、そこに『居た』――。
『だ、ダメだアレ。どこまでも、ずっとついて来る……!』
その理屈は何ひとつとして説明付けられなかったが、それだけは確信出来ていた。
そして靄の糸を上方に放ち、電柱の上に絡めて進路変更。
街路樹の頂や民家の屋根などを跳び越え、半ば空路を渡り始める。
極彩色も翼を持たない人間である以上、空まで追っては来られまい。
事実、眼下を流れる景色の中に極彩色の姿は無く、空中にも『居る』様子は無かった。あのケバケバしい色合いの無い視界に、小さな白も少しずつ平静を取り戻してゆく。
しかしここで地上に戻っても、そこにはおそらく極彩色が『居る』筈だ。
これまでの事からそれが容易く予想でき、小さな白はひとまず目に付いた手近なビルに狙いを定めた。
極彩色も異常ではあるが、身分としてはただの中学生に過ぎない。どこかの会社の敷地内などであれば、おいそれと『居る』事など……。
『……? 中学生? 会社……?』
ごく自然に思考に紛れ込んだ情報に首を傾げつつも、小さな白はとあるオフィスビルの壁面に着地した。
何やら外資系の会社らしく、窓から中を覗けば、多くの大人の人間があくせくと動き回っている。
小さな白はそこに極彩色の姿が無い事にホッと体表を揺らめかせ、窓伝いにコソコソと人目に付かない死角へと移動して、
「タバコ臭いなー、ここ」
『――ぴっ!?』
ガチャ。
すぐ目前にあった窓が突然開き、当然のように極彩色が現れた。
そこはどうやら男子トイレのようで、彼の他に人影は無し。
煙草の残り香と芳香剤の混ざった独特な香りが漂う中、極彩色は流れるように窓際の芳香剤を手に取ると、そのまま小さな白の居場所へと叩きつける。
不意を突かれた形ではあったが、小さな白は反射的にビルから飛び降りこれを回避。
すぐに靄の糸を近くの電線に絡めて距離を取り……振り返れば、先ほどの窓から極彩色がのんびりと手を振っていた。
その普通さお気楽さがまた恐怖を煽り、糸を手繰る速度も速くなる。
『く、くそっ! ああいうとこもダメなら、ええと……』
と、その時、小さな白の目に眼下の線路を走る電車の姿が見えた。
アレならば――小さな白はすぐさま靄の糸を伸ばし、その電車へと急降下。車体に糸を絡み付け、速度を合わせて屋根の上へと降り立った。
電車の速度から来る風圧は凄まじく、ともすれば小さな白の体躯などバラバラに吹き飛ばされかねない程だったが、集めた靄を盾としてどうにか凌ぎ、八つ肢でしっかり屋根を噛む。
『へ、へへ……ここなら流石にどうにもなんないだろ……! 走る電車の上とか、人間なんかじゃ――……』
……ふと見れば、前方にトンネルの入り口が見えていた。
小さな丘をくり貫いた短いもの。そしてその上に立つ人影が一つ。
言うまでも無く極彩色の双眸を持つ彼は、腕を大きく振ってタイミングを計る素振りを見せたかと思うと、躊躇なく電車の上へと飛び移り――それを最後まで見届ける事無く、小さな白は八つ肢を離し風圧へと身を任せた。
『バカか!? マジでバカなんかアイツ!?』
そうして空中をくるくると吹き飛びながら、小さな白は罵倒する。
普通の人間であれば死んでもおかしくない蛮行だったが、あの極彩色の事だ。
どうせケロッとしているのだろうし、気にかけるだけきっと無駄。
小さな白はすぐにそう割り切って、また別の逃げ場を探して糸を伸ばした。
……しかし、どこへ逃げたとしても、極彩色はそこに『居た』。
ある時は、とあるスーパーの商品棚。
ここなら乱暴な事は出来まいと陳列された商品の隙間に紛れ隠れる中、極彩色にその列丸ごと籠に入れられ、商品と一緒に買われかけた。
ある時は、とあるマンションの屋上。
立ち入り禁止としっかり施錠されたそこに逃げ込めば、何故か貯水タンクの中から極彩色が這い出して来た。
そして極めつけは空の上。
もうどこへ行ってもダメだと悟った小さな白が、靄を纏って飛び上がった先。遥かなる上空から、太陽を背負い大の字になって墜落して来る極彩色の姿が――。
『ワケ分かんねー事してくんのも限度ってのがあんだろバーーーーーーカ!!!』
とにかく、逃げても逃げても小さな白の視界から極彩色が消えてくれない。
極彩色の苦手な虫を利用しようにも、先に一度撒かれた事で警戒しているようだった。
林や山などの虫の屯する場所は勿論、側溝やマンホールなどの地下にも近寄らせない徹底ぶり。
結果として小さな白は街中を逃げ回る事を強いられ続け、再びの焦燥と混乱に呑まれてゆく。
『く、くそぉ……! ホントどうすりゃいいんだ、これ……!?』
「――……ず……――煙――」
『どこ行ったらアレから逃げ切れる? どうやったら諦めてくれんだ……?』
「――……非ず……――煙蟹――……に……――」
『つーか……なんで、こんなんなってんだっけ……えっと、何で、私、これ――』
「――ひとでなし……は――……煙蟹 に、」
『――鬱陶しいなぁコレもさぁ!!』
それに加え、逃げる最中にも例の看板がビルの壁面などあちらこちらに頻出し、小さな白の集中を削り続けていた。
「非ず ひとでなし 己は 煙蟹 に在り」――そのぼやけた看板を見る度、小さな白の意識が揺らされる。また思考が縛られ、飢餓感も少しずつ戻ってゆく。
今は極彩色への恐怖で紛れているが、このまま看板を認め続けて行けば、いずれまた本能と飢餓感の塊に戻ってしまう事だろう。小さな白の内で騒ぐ何かが、そう叫んでいた。
『何書いてっか分かんないけどグチグチグチグチ……! 今構ってやってる暇ねーんだよ! すっこんでろボケ!』
「非ず ひとでなし 己は――」
『こ、この……! 言ってる傍から――、っ!?』
――そうして、看板により継続的に意識を揺らされていたのが悪かったのだろう。
無意識に高度が下がっていたのか、とある小道の中に入ったその折、八つ眼のいずれかが極彩色の輝きを捉えた。
しかしそれに反応するよりも早く、気付けば横合いに幾度となく見た石ブロックが迫っていた。
最早回避も儘ならない距離。
咄嗟に靄の盾を作ったものの、受け止め切れるサイズ差では無く。尋常でない衝撃が靄を貫通し、小さな白はあまりにも呆気なく吹き飛ばされた。
『――ッガ、ぁ』
靄の全身が大きく乱され、無数の千切れ雲と流れかける。
しかし薄れゆく意識共々必死になって繋ぎ止め、己の形をどうにか保ち――そして、激突。
小さな白は小路の壁に強く叩きつけられ、そこを中心として靄が砂煙のように広がった。
「お、やったかな? ……やってないかー」
……のんびりとした声が、朦朧とする小さな白の靄の中に響く。
震える八つ眼を向ければ予想通り、大きな石ブロックを肩に乗せた極彩色がそこに『居た』。
『ぐ、ぅ、ぎ……!』
どうにか逃げ出そうとする小さな白だが、その動きはぎこちない。
逃げるどころか落下してゆく身体を立て直す事も出来ず、咄嗟に身体を靄で包んで壁に張り付けた。
極彩色はそれをしげしげ眺めつつ、ゆっくりと近付いてゆく。
「やっぱそれ糸っていうか煙だよなぁ……いやー、色々変なのだったな、こいつ」
あとで図鑑で調べてやるかー。
その気負いない呟きを最後に極彩色は小さな白の目前に立ち、何の躊躇も無く石ブロックを振りかぶり――ふと、動きを止めた。
「ははは、めっちゃぴったりのとこじゃん」
『……?』
そして小さな白の背後に意識を向けると、小さく笑う。
その妙な様子に釣られ、小さな白も反射的に背後を見やり、
――煙蟹。
『ッぐ……!?』
瞬間、その巨大な文字が八つ眼全てに捻じ込まれた。
「非ず ひとでなし 己は 煙蟹 に在り」
『っあ、ぅ……!?』
そこでようやく、小さな白は己の張り付いている場所が例の看板の上である事に気が付いた。
どうやら、極彩色に吹き飛ばされた先にもひとつ張られていたようだ。
超至近距離で認めてしまったそれに、小さな白の意識は一層激しく揺さぶられ、思考の靄も加速度的に濃くなってゆく。
ただでさえ動かなかった身体も完全に弛緩し、身体に纏う靄の隙間から八つ肢がだらんと垂れ下がった。
「お、静かになった。よーし」
その姿に極彩色は改めて石ブロックを両手で抱え直すと、先ほどよりも大きく振りかぶる。
確実に当たるように。先程と違って、きちんと潰してあげられるように。
『……ぅあ、に、げ……!』
薄らぎ、溶けゆく意識の中。
小さな白は微かに身動ぎしたものの、それだけで終わった。
『わ……私……あ、たし……われ、わ、れ、』
何も出来ない。許されない。
最早その時を待つしか無く――そして、すぐに訪れた。
「よっ」
あまりにも軽い掛け声とともに、致死の塊が振り下ろされる。
靄の内側で、何かが悲鳴を上げている。誰かを求め、縋っている。
しかしその叫びに意味は無く、風を巻き上げ迫り来る己の死を、小さな白は八つの虚ろな瞳で眺め続け――。
ふつり。その時、何かが途切れる音がした。
「あ」
同時に小さな白を浮遊感が襲い、視界が上方に流れてゆく。
意識が大きく乱れた事で靄の制御も甘くなり、壁への張り付きが維持出来なくなったのだ。
小さな白は動けないまま、ゆっくりと看板の外へと落下する。
極彩色の瞳もそれを追っていたが、既に狙いを修正できる段階に無く。
振り下ろされた大きな石ブロックは、一瞬前まで小さな白の張り付いていた場所へと、『煙蟹』の部分へと寸分違わず吸い込まれ、
――古びた金属が軋み、そして砕け散る甲高い音が、晴れた空によく響いた。
■
――気が付けば。
私は地面に寝転んでいて、鋭い金属片が顔の上に降り注いでいるとこだった。
「――ぬおおおぉぉぉぉッ!?」
咄嗟に横へ転がりそれを避ければ、けたたましい音を立てて金属片が地面に広がる。
その中には地面に突き立っている破片も幾つかあり、私はゾッとしながら顔に手をやり――五本揃った自分の指に、目を見開いた。
そしてすぐに身を起こし、自分の身体を隅から隅まで確認し――。
「……タマさん? え、どっから出て来たの?」
「ひっ!?」
途中、急に横合いから声を掛けられ、その場から飛び退いた。
目を向ければ、そこに居たのは当然ながら極彩色――もとい、犬山くん。
何故か大きな石ブロックを壁に叩きつけた姿勢で立つ彼は、キョトンとした顔を私の事を見つめており、その双眸にまた恐怖を煽られる。
「なっ……バ、おまっ、んぐっ、お゛ッ……!」
「え何、しゃっくり? ゆっくり水飲むと良いらしいよ」
色々な感情が渋滞し、ろくすっぽ言葉が出ない私に、犬山くんは素っ頓狂な返しをひとつ。
こちらから意識を外すと、のんびりと石ブロックを下ろし周囲をキョロキョロとし始めた。
「まぁそれはそれとしてさ、ここらへんで虫見なかった? 真っ白で、真っ赤な眼だったんだけど……」
「え、えぇ……?」
どう反応しろってんだ。
とはいえ襲ってくるような気配は無く、私は犬山くんからじりじり距離を取りつつ、ひとまず自身の状態確認を再開。
どこもかしこも人間の形である事を確かめて……そこでやっと、途轍もない安堵と共に息を吐いた。
(……なってたよな? い、今、何か……なってたよな私。虫かなんか、小さいの……!)
……正直、今まで何が起こっていたのかほとんど何も覚えていない。
その時の事を思い出そうとしても頭が靄がかったようになり、記憶も感情も、何を思ってどう動いたのかすら全て曖昧で、何か悪い夢を見ていたようでもあった。
残っているのは、私が小さな虫か何かになって逃げ回っていたという感覚と――追いかけてたのが犬山くんで、その極彩色がめちゃくちゃ怖かったという事だけ。
向こうも何一つ分かっていない、気づいていないような素振りだが……何気なくしゃがみ込むその動作一つにすら、小さくない恐怖を煽られてしまう。
(いや、つか、何なんだ。何が起きて、どうなって、何されて、えっと、えっと……!?)
分からん。何も分からん。
気になる事は多々あれど、ワケ分からんし何か怖いし全部知らんしぐっちゃぐちゃ。
いっそ全部ぶん投げてトンズラしてしまおうかと、私はひっそり足を引き……。
「――
「っ、んぇ!?」
しかしそれを留めるように声を掛けられ、思わずストップ。
恐る恐ると犬山くんの様子を窺えば、さっき地面に散らばった金属片を弄っているようだった。
「非ず ひとでなし~」から始まる、例の看板の破片。
これもどんな流れでこんな風になっているのか、今となっては全く覚えていないが……まぁコレがオカルトで色んな元凶だったんだろうなとは、うすらぼんやり察せていた。
「蜘蛛の古い呼び方。小さな蟹に見えたから、細かい蟹で細蟹だって。なんか蟹食べにくくなるよなぁ」
「……へ、へぇ。詳しい、んだね……?」
「まぁ苦手克服って事で虫関連を色々チャレンジしててさ、それで調べてたら見かけたトリビア」
「……、……え、えと、あの、何で今……?」
「ん? いやほら」
ビクビクしながら問い返せば、にこやかに地面の破片を指差した。
どうやら分かる範囲で大雑把に修復をしていたらしく、大体半分くらい元の形に戻っていた。
「非 と なし 己は 蟹 在り」……ややシュール。
「この看板、書いてあったの別の字の蟹だったけどさ。たぶん細蟹の亜種みたいな感じで、蜘蛛の事を言ってたとは思うんだよね」
「…………」
「でも初めて見た字面だったんだよなぁ……なんだろ、昔にしか居なかった種類とかなのかな」
「……………………」
……「■蟹」。
破片が細かく修復できなかったのか、穴抜け状態のその単語。
その穴抜けにどんな漢字が収まっていたのかも、私の記憶に残っていない。
何度も、何度も見た筈なのに。ろくに働かなかった思考の中、それだけはハッキリと認識出来ていた筈なのに、それでも全く思い出せないでいる。
けど……だからと言って、犬山くんに詳しく聞こうという気にもなれなかった。
なんでかは分からない。ただ、聞きたくない、知りたくないと、心の底から強く思ってしまっている。
「――くも……」
視界の端を、白い靄が掠めた気がした。
視線を落とせば、私の指先がほんの一瞬煙のように揺らめいて――。
「――それじゃ俺そろそろ行こうかな」
「!」
ハッと我に返る。
顔を上げれば、犬山くんはいつの間にか立ち上がり、石ブロックを抱え直している所だった。怖い。
「さっきの白い虫、何かどっか行っちゃったみたいだし。しょうがないから、次のやつ探しに行こうかなって」
「……や、あの、っていうか、犬山くんはそもそも何を……?」
なんとなく流れでこうしているが、コイツたぶん虫になってた私を追いかけ回してたんだよな……?
ここまでの会話で多少緊張もほどけていたのか、何が目的でそんな事やってたのか今更ながらに気になってきた。
すると犬山くんは照れ臭そうに頬を掻き、
「あー……さっき俺、虫の苦手克服で~みたいな話したじゃん? その一環って言うか……」
「はぁ……」
「俺さ、虫は一切合切もう全部苦手なんだってずっと思ってたんだけど、違ったんだよね。最近になって、虫の中にも平気なやつが居るっぽいって気付いたんだ」
なんでも、普段はどんなに小さな虫でもビビり散らかす犬山くんだが、キチンと向き合ってみれば全ての虫がそうではなく、全く嫌悪感を抱かずに済む虫もちらほら居たらしい。それも、種類や大きさなどに関係なく。
そして自らのその隠された傾向に気付いた時、犬山くんは良い事思い付いたと手を打ったそうな。即ち、
「――思ったんだよね。平気な虫を潰していけば、虫自体に爆速で慣れて苦手じゃ無くなるんじゃね!? って」
「…………」
……さて、どうしたもんだろか。
腕を組み、眉間にシワ寄せ、空を仰いで考える事、暫し。
「……えっと……その、潰して慣れるってのは、どういう……?」
「ほら、感触とかグチャってなったやつとか、たぶん俺がダメな方の虫と同じようになるでしょ? なら平気な方の虫でそれに慣れとけば、ダメな方も大丈夫になるかなって」
「……う、ううん……」
いや、まぁ、理屈は分からなくも無い。
いわゆる本番に備えた練習というか、そういうアレなのだろう。ちょっと色々おかしいが、やりたい事は分かる。分かるんだけれども……。
「……あの、犬山くんは、ダメな虫は本気でダメなんだよね……?」
「うん、マジで無理。近寄れない」
「でも、平気な虫は近寄れるし、元から触れもする」
「うん、実際さっきの白い虫もつまめたよ」
こうやって。彼の指がつまむ形を取れば、何故かおなかに圧迫感。ぐえ。
まぁそれはさておき、であるならば。
「それ、犬山くんの理屈だと、ダメな方の虫もとっくにだいぶ慣れてなきゃおかしくない……?」
そう、既に平気な方の虫を難なく弄り回せるというのであれば、苦手な方の虫にも今の時点で同じ事が出来てなきゃダメなんじゃなかろうか。
それが潰すだの何だのよりも先に来る話のような気がするのだが……。
そう伝えれば、犬山くんは雷が落ちたかのように硬直した。
「……あー……」
あれ程お喋りな犬山くんが、気まずそうに呻いたっきり何も言わない。
私も私で特に何も言わず、なんとなく無言の時が通り過ぎ……。
(……あ)
すると、やがてトンボが一匹飛んできた。
そしてソイツは固まっている犬山くんを案山子とでも思ったのか、その鼻先に止まろうと近寄って、
「――ひぃッ!?」
瞬間、犬山くんは大声を上げ、さっきの私のように飛び跳ねた。
そのまま後方に大きく距離を取り、トンボも驚いて何処かへと飛び去ってゆく。
……弄り回せるほど虫に慣れているようには、到底見えず。
「……あんま意味無いんじゃない? その克服の仕方」
「……うん、今俺もそう思った」
犬山くんはガックリと肩を落とし、溜息ひとつ。
持っていた石ブロックを気恥ずかしさを誤魔化すように軽く振り、愛想笑いをヘラヘラと。
「いやぁ、いい事思い付いたと思ったんだけどなぁ……」
「……まぁ、全然平気な方で幾らやっても苦手意識の克服にはならんよね、そもそも」
「ぐ、そ、そうね、そうだね……ははは、はは、はぁ」
そうしてまた溜息を吐き、手を振ってとぼとぼと歩き出す。
大好きなお喋りを引き延ばさず、さっさと切り上げる程度にはショックだったようだ。
「とりあえず俺、このブロック元のとこに返して来なきゃだから……それじゃね、タマさん」
「ん。じゃーね」
私もパタパタ手を振り返し、その背中を見送って……。
「…………」
……犬山くんが平気な虫。
彼に追われた虫の私。
私を虫の姿にしたオカルト看板。
「うーん」
何か。
何か、とっても余計な事を思い付いてしまいそうな気がした。
けどまぁ、たった今犬山くんの思い付きを否定したばかりである。
なのに私が「思い付いた!」と手を打つのもスジが悪かろう。何がどう悪いのかは知らんけど、とにかくそういう事にした。
「……あ、何か来てら」
そうして目を逸らすようにスマホを取り出すと、足フェチからのメッセージが入っていた。
何でも急なトラブルで今日の部活が潰れたので、暇なら一緒に遊ばないかとの事だった。
私も特に目的無くぶらぶらしている最中だったので、遅ればせながらそれを了承。即席で決めた待ち合わせにてくてく歩き、
「…………」
とある小道の隅に、潰れた虫の死骸を見つけてしまった。
車か自転車か、相当激しく潰されたのだろう。
元々の虫のサイズよりだいぶ広範囲に散らばっており、最早何の虫だったのかすら……。
『――には、ならないようにねー』
「………………」
頭の中に、自分自身で靄をかけ。
私は足早に潰れた虫を通り過ぎていった。
主人公:この後足フェチと楽しく遊んだ。どうしてか殺虫剤など見る度渋い顔をするようになったそうな。
犬山くん:チャレンジ精神が溢れて止まらず、色々な事にチャレンジしているようだ。やってみるぞ、やれたぞ!(限度ナシ)
足フェチ:急に部活が潰れてしょんぼりしたが、主人公と遊べて結果オーライ。節足動物も嫌いでは無いが、何かしらの軸からは少し外れるらしい。
細蟹:実は分類的に昆虫では無い。でも益虫と呼ばれてたりもする。君はどっちだ。