*
その白煙は、煙というよりは靄のようでもあった。
咳き込む臭いや刺激の類は感じず、吸い込んでも多少の湿気を感じるだけ。
とはいえ全身に叩き付けられるその勢いは凄まじく、荒れ狂う靄の奔流にただ晒される外なかった。
「ぅ、ぐ……な、なに……? 何が――」
目を閉じ、顔を覆い、耐え続ける事暫し。
少しずつ靄の勢いが落ち着き始め、恐る恐ると周囲の様子を窺った。
漂う靄は未だ濃く、数歩先すら見通せない程に真っ白だ。
橋の欄干を探して腕を振ったが何も掴めず、段々と知らない場所で迷子になったかのような不安感が滲み出す。
「……お、おい! 歪いびつ! 近くに居るんだろ!? おいって!」
それを誤魔化すように靄の向こうに居る筈の歪いびつへ呼びかけるが、返事が無い。
まさか、さっきの靄の爆発で橋の外にでも投げ出されたか――そう焦った時、微かな呻き声が耳を擽った。
咄嗟にその方向へと走れば、やがて真っ白の中から地面に倒れ伏す歪いびつが浮き上がる。
やはり吹き飛ばされていたらしく妙な姿勢で転がっていたが、少なくとも大きなケガは見当たらない。とりあえず爪先で軽く小突いて「ウッ」みれば、それで我に返ったのかよろよろと身を起こし始めた。
「う、うぅ……痛い……な、なんで、どして……?」
「なんでどうしてはこっちのセリフだっつーの! 何やらかしやがったんだ、あんた……!」
「何って……だから、おまじ……ない……、…………」
と、そこでようやく状況を把握したようだった。
濃霧に包まれた周囲をぽかんと見やり、たちまち顔色を悪くする。そしてたっぷりと黙り込んだ後、スッと立ち上がって服の汚れをぽんぽんと。
「――やっぱ、水辺が多いからかな。昼間でも随分と濃い霧が出るんだね、御魂橋って」
「んなワケねーだろおめーだボケ!! 誤魔化せっかそんなんでッ!!」
「ほぎゃーーーっ!!」
すっとぼけた事を抜かす歪いびつに飛び掛かり、胸ぐら掴んでごっつんこ。
その衝撃で再び意識をやりかけたのを締め上げて、ギリギリと睨みつけてやる。
「どうすんだよ!? よく分かんないけど、100パー何か起きてんだろこれ!?」
「そ、そんにゃ事言われても~……! ぼくはただ『いちるちゃん』チャンスがあったからぁ~……! ほんの冗談じゃあないのよさ~……!」
ひんひんとベソつくその様子に含みのようなものは無く、意図的に引き起こした状況で無いのは確かなようだ。
私は舌打ちだけして胸ぐらを離し、大きく息を吐き出しながら改めて周囲を見やった。
「くそ……じゃあその『いちるちゃん』ってのは、どんなおまじないだったんだ。コレ、聞いてたのと随分とちげー雰囲気なんだけど」
先程の歪いびつ曰く、その『いちるちゃん』とやらは『幸せが見つかるおまじない』の呼ばれ方が変わったものという話だった。
地面に小さな穴を開けてねじった袋を詰め込み、しばらくおいて「あかいと、しろいと、幸せのいと」と唱えながら引っ張り出す。
出した袋が膨らんでいれば、それがあなたの幸せのカタチ――確かそんな風だったと思うけど、だったらこれはどういう事だ。
問いかけるように睨み付ければ、歪いびつはビクビクしながら首を振る。
「い、いやぁ……? 確かに物騒な感じの派生ネタは幾つか見たけど、今やったのは元ネタまんまのやつで……え、ていうかマジなの? ホントにさっきのおまじないで何か怪異起こっちゃってるの今? あれだけで? 嘘でショ……?」
「……間違いなく何かしらは起こってんだよ。じゃなきゃさっきの袋は爆発してないし、この靄だってとっくに晴れてる」
あの爆発から結構な時間が経っているのに、靄は私達を包んだまま晴れる様子が一向に無い。
到底あんな小さなビニール袋だけに引き起こせる規模ではなく、オカルトが絡んでいる事はどうしようもなく明らかだ。
歪いびつの望んだ地元霊能力者の知見である。文句あっかコラ。
「……まさかだけどさ、あんたにとっての幸せのカタチってのがこれだったりすんのか? 靄って、何のカタチにもなってないじゃん」
「いやいやいやいやぜんぜんぜんぜん! ぼくの幸せがカタチになるとしたら、こんなモヤモヤじゃなくて、ムンムンになるからね! ぜったい!」
意味が分からん。
とはいえ現状が『幸せのカタチ』でない事は確かなようで、おまじないがキチンと成立している感じでもなさそうだ。
なら、ホントに何が起こってんだ。せめて少し先くらいは見通せないかと目を凝らすものの、しかし影の一つも見分けられない。
静まり返った真っ白の中から、ただ川の流れる音だけが響いていて……どうしてだろう、この世界にどこか懐かしさのようなものも感じてしまい、そんな自分に戸惑った。
(……くそ、インク瓶――)
思わず浸りかけるその情動から逃げるように、懐から手帳と小瓶を取り出した。
言うまでもなく、インク瓶へのヘルプコールである。
文字通りの五里霧中の現状、インクの温存だのなんだの言ってる場合じゃない。
というか今一番必要なのは私なんぞじゃなくアイツの知見である。……そこに居る都市伝説収集家? 知らんそんなの。
「スマンホホや~い……う~ん、やっぱ圏外は基本だよネ~……。あ、タマちゃんもしかしてそれ、前のインク瓶くんのやつ? 繋がるの? ねねねね」
私はいそいそと手元を覗き込んで来る
「――……」
……まだ一ページも使っていないそのまっさら加減に、ちょっとした抵抗感が湧き上がる。
紅白カラーの装丁に透き通ったガラス玉の装飾が成されたその手帳は、私にとって色々な意味で特別な代物である。
あれからインク瓶に連絡する機会が無かったため、ずっと懐で温め続けていたのだが……。
(……今、かぁ……)
いやまぁ、そもそもこの手帳はインク瓶が拵えてくれたっていうし、それはこの黒インクだっておんなじだ。
どっからどう見て考えても完全におまじない用セットなんだから、躊躇う必要なんてなんにも無いのは分かってる。分かってる……んだけれども。
「うー……」
……とはいえ、ウダウダやっててもしょうがない。
私は暫く葛藤した末に、諦めて小瓶を傾け切った。
汚れも折り目も無いピカピカの紙面に真っ黒な粘液が垂れ落ち、じわじわと広がってゆくその光景を、私は酷く複雑な気持ちで見つめ続け――。
「……ん? あれ?」
何も起きなかった。
いつもならすぐにうにょうにょ蠢きインク瓶へと繋がる黒インクが、インク溜まりのまま微動だにしないのだ。
軽く手帳を揺らしても、呼びかけても何の反応も無く、ただただページを黒く染めていくだけ。
いつまで待っても、あのイヤミな文章はたったの一文字すら浮き上がらない――インク瓶に、繋がらない。
「……う、うそだろ?」
……まさか、おまじないが失敗した?
そんな、どうして。今まで絶対繋がってたのに、なんで今に限って。
この手帳? これがなんかダメだった? どっか不具合とか、いや、もしかして、インクの方が中身取り違えてたりとか――。
「……あの、何かあった?」
「っ」
そうして冷や汗をダラダラ流していると、不穏な気配を読み取ったのか歪いびつが不安そうに呼びかけて来る。
私は咄嗟の反応も出来ないまま、もごもご小さく口籠り――その時、紙面のインクが微かに跳ねた。
「っ! お、おい! 繋がった? ねぇ、聞こえてる? ねぇって――」
『 あ ああ あいうえ お……』
「……あの?」
『ぁ ※ 123 あー そ っか な るほ ど……』
慌てて手帳に縋り付いたものの、しかし綴られた文章は要領を得ないものだった。
いや、文章どころか筆跡自体がかなりおかしい。
字の形は酷く歪で、その並び方もぐちゃぐちゃに乱れており、まるで子供の落書きのような字面である。
「……えっと、インク瓶くん、どしちゃったの?」
「わ、わかんない……」
明らかに異常な様子に、覗き込んでいた歪いびつと一緒に困惑していると、ガタガタの文章がこちらを向いた。
『――ご め※。何か、ちょうしが わるい※※い。ど※も うまく、いか※※』
「……は、え? えぇ!?」
一瞬、何が書かれているのか理解できなかった。
すぐ我に返りはしたものの、初めての事態に激しく動揺してしまう。
「調子、悪いって……な、なんか具合悪いのか? ケガとか、風邪とか……」
『いや そ※いう※じゃ……なんと※※か とても……ご※※※、いや、※況が分か りにく※て、※されている、とい うか……』
そう語る合間も、文字の形が全く安定しようとしない。
どうやらインク瓶側で何かが起こっているという訳では無く、おまじない自体が接続不良のような状態になっているようだ。
この靄のせいだろうか。スマホの電波を探すように手帳をあちこち振り回してみるけれど、しかし改善する様子は全く見られず。
『と※かく、な※をやらかした ※? これ、かなり へんな※にな ってる みた※※け ど』
「え……あ、あぁ、そうだ、うん、えっと――」
ぎこちない文章が引っ掛かってしょうがないが、ひとまず我慢し状況説明。
銭湯前で歪いびつと出会った事から靄に包まれた現状まで、つっかえながらも短く伝えると、少しの間文章が止まった。
考えを纏めているのは分かるけど、今の状態だとおまじないの繋がりが途絶えたようにも思えて気が気じゃない。
そうしてハラハラと返答を待つ事しばし、やがてインクがミミズのように這いはじめ、
『わ かった。 ※ゃあ、まず こ こから いどう し※※。なるべく ※いで』
「えっ」
声を上げたのは私じゃなかった。
隣でものすごく肩身狭そうに身を縮めていた歪いびつが、何故だか意外そうにその文章を見つめていた。
「……なんだよ?」
「あっ、あいや、何でもないヨ~。それより移動だって? え~っと……どっち?」
しかし軽く笑って誤魔化すと、わざとらしく周囲にキョロキョロ首を振る。
……気にはなったが、言ってる事は同感だった。
立ち込める靄のおかげで景色なんて見えやしないし、さっきまでのあれやこれやで方向感覚もどっかに行った。
自分達が橋のどっち側に進んでいたかも分からなくなっていて、移動しろと言われてもどうすれば良いのか分からないのだ。
『……※※か。 そ※※ね、きみたちから※て、左の※に すすん※ほし い。 そっちなら、まだ ※※い から』
「……ちょっと読めないんだけど、左行けば良いんだな? それは分かった……けど」
「右の方、何かヤバいの……?」
同じ事を思っていたのか、私の言葉を引き継いで歪いびつが手を上げた。
するとまた一瞬だけインクが止まり……しかし今度はすぐに続きを綴り出す。
『ううん、そんな※ ないよ。でも、左の※が……うん、とに※く、そっちに※※※ほしい かな』
「…………」
「…………」
……崩れた字面のせい、だろうか。
インク瓶の文章に言いようの無い違和感がある気がして、なんとなく歪いびつと目を見合わせる。
とはいえ、インク瓶の言う事だ。聞きたい事を色々呑み込み、私達はひとまずその指示に従い橋の左側へと歩き出す。
一歩一歩、慎重に。また方向を見失わないよう、橋の側溝を目印にして進んで行く――。
「――……?」
その時、背後から微かな音が鳴った。
ぽちゃん、という遠い水音。
川に何かが落ちたのだろうか。歪いびつは気が付かなかったようだが、私の耳だ。きっと聞き間違いじゃない。
……そっと、背後の様子を窺うけれど。
心なしか先程よりも濃くなった靄が視界を遮り、やはり何も見通す事は出来なかった。
*
それから暫く歩いたものの、いつまで経っても靄は途切れる事がなかった。
晴れもしなければ、抜けられもせず。ただただ真っ白な世界が続き、進んでゆく。
その間、人の気配は全く感じられなかった。真昼間の街中であればそのうち人とすれ違って然るべきだろうに、靄の向こうにはいつまで経っても人影の一つも差し込まない。
それを不安に思う一方、靄の中に何も潜んでいないという安堵のようなものもあり、どうにも不安定な心持ちだった。
「……結局さ、今どうなってんの? 絶対まともじゃないとこ居るっつーか……行先も、ホントにこっちで合ってんだよな……?」
『さ※※ あ う※ ※※だ。 ……ら このまま※ …… 』
「……わっかんないってぇ……」
頼りの綱のインク瓶も少し前から文字の乱れが酷く、何を言っているのか分からなくなっている。
何を聞いても文字化けばかりで、話が通じている気がしない。まぁなんとなくこのまま行けという雰囲気だけは伝わったので、溜息ひとつで視線を前に戻しておく。
「……インク瓶くん、まだダメっぽい?」
「ん……何書いてあるか全然。反応も鈍いし……早く、おまじない通る場所行かないと……」
たぶん、だから早く移動しろと言ってる部分もあるのだろう。
こんな状態ではまともな意思疎通も出来やしないし、もしかしたら私の言葉もインク瓶側に十分に伝わっていないのかもしれない。
だから少しでも早く、おまじないの通りが良い場所に行け――私達は、インク瓶の指示をとりあえずそういう風に解釈していた。
「う~ん……にしても、またこんな事起きるとはナ~……お、カメラは映る」
そうして歩いている最中、歪いびつが呑気にもスマホを弄り始めた。
顔色こそ悪かったが、どこか浮ついてるようにも見えるその雰囲気に、思わずギロリと振り返る。
「……起きた、じゃなくて、起こしたんだろうが、あんたがよ」
「えー、そうは言うけどさぁ……何日か前、ぼく動画回しながら『いちるちゃん』やったんだけど、その時は何も起きなかったよ? 今回はこうなったけど、起こったの元ネタと全然違うし……それでぼくのせいってなってもサァ、やっぱなんか、う~んというか、う~ん」
(ぐ……)
……そう言われると、少し詰まる。
だってどうせ今回も、十中八九私のオカルト体質が絡んでるんだ。
『いちるちゃん』とやらだって、本当なら何も起きないおまじないだったのが、私がこの場に居た事がきっかけで何らかのオカルト性を帯びてしまった……みたいな可能性だって十分にあるワケで。
無論、それをやった歪いびつが直接の原因である事に変わりは無いが、コイツは私の体質を知らなかった。全部の責任を押し付けるのも、何か違う気もしないではなく……。
(……というかよくよく考えると、むしろこっちが巻き込んだ側か……?)
……えー? いやー……いやでもさぁ、コイツが私をつれ回してたのがそもそも悪いし……ホットケーキだって食べそこなったし……なぁ?
などなど内心ブチブチ言い訳していると、気にせず周囲にスマホを向けていた歪いびつがピクリと眉を動かした。
「これ、カメラ越しだと若干周り見えるね。雰囲気的に、そろそろ橋の終わりみたいだけど……」
「え、ほ、ホント?」
反射的に歪いびつのスマホの先を見るけど、私の目には真っ白のままだ。
しかし彼の焦点は明らかにその先に向けられており、私も慌ててスマホを取り出しカメラアプリを起動する――。
「……ありゃ~」
ぴた、と。
突然、歪いびつの足が止まった。
「……どうかした?」
「いやぁ……うんとネ……」
歪いびつは歯切れ悪く言葉を濁し、その場から動こうとしない。
青く引き攣ったその表情に首を傾げながら、私もスマホを前方へ向けて、
「――何か、死体っぽいの、ある……」
――画面に広がる、靄の薄れた少し先。
そこに黒ずんだ肌色の何かが一瞬映り――直後、より深い靄の中へと引きずり込まれるように消え去った。