*
ぽちゃん。
また、遠くで水の音がした。
「…………」
誰も何も言わず、動かない。
真っ白な靄の中、正面に構えたスマホの画面を注視したまま、じっとその場に立ち竦む。
カメラアプリを通して靄の薄れた景色には何の異変も無く、周囲からも川の流れる微かな音しか聞こえて来ない。
ただ、肌に纏わりつく靄の重たさがやけにハッキリと感じられていて……そろりと、私と歪いびつはどちらからともなく視線だけを見合わせた。
「……どっか行った、か?」
「君に分かんない事がぼくに分かる訳ないでしょ……!」
とはいえ、声を出しても何が起こる訳でも無く。
私達はゆっくりと身体の強張りを解きながら、細長い吐息を吐き出した。
……先の一瞬、私はスマホ越しに黒ずんだ肌色の何かを見た。
それが何かは分からなかった。私がその姿をしっかり認識する前に、靄の中へと引きずり込まれてしまったためだ。
つまり――靄の中に、何か居る。
……これだけ待って出て来ない以上、今すぐにどうこうという事は無いのだろう。
しかし、この見渡す限り真っ白な視界のどこかに正体不明の何かが潜んでいるという事実は、より具体的な危機感として私達の精神を削っていた。
「インク瓶、さっきのって……」
『 …… ※ ※※※ん 、 …… …… 』
「……ダメか」
何か分かった事が無いかと手帳に目を落とすも、字崩れが更に酷くなっていて、もはや判読不能に近い有様だった。
仕方なく暫く時間を置く事として、とりあえず歪いびつに目をやった。
「なぁ、あんたさっき死体がどうのって言ってたよな。私チラッとしか見えなかったんだけど……あんたには、何が見えてたんだ?」
コイツに霊感の類は無いようだが、さっきの発言からして何某かは視えていたのだろう。
そして最後の一瞬しか見えなかった私と違い、余裕を持って何が起きていたのか一部始終を目撃している筈だった。
「あー……う~ん、女の子に直はどうかなって気もするけど……君なら平気か。ほらこれ、録画したやつ」
すると歪いびつは何やら躊躇う様子を見せつつも、やがておずおずとスマホの画面を差し向けた。
流石は動画投稿者というべきか、さっきの一瞬で録画ボタンを押していたらしい。
そして再生されたその動画には、当然真っ白な靄ばかりが漂っていて――それに埋もれるように、人の形をした何かが横たわっていた。
「……男、の人?」
靄が邪魔しているのか、ピントが定まらず全体的にぼやけていたが、それは一見して大柄な男性のようにも見えた。
腐敗しているのか黒ずんだ肌に、ボロキレのような衣服。おそらく、私が一瞬だけ見たものと同じものだろう。
まともに映ってなくとも生きているようには到底見えず、私も間違いなく死体だと察したけれど……同時に奇妙な点に気が付き眉が寄る。
「これ、おなかのとこ……どうなってんだ……?」
「あぁ……やっぱタマちゃんも思う?」
そう、その死体のおなか部分が、異常なほどに膨れているように見えたのだ。
これもやっぱりぼやけていて正確な判別は難しかったが、ただ太っているだけというには、おなか部分以外の全身バランスがおかしすぎるようにも思えた。
私は少しでもピンボケ画面を見通そうと、スマホに顔寄せ目を眇め――するといきなり死体が靄の中へと引きずり込まれ、思わずビックリ跳び退る。
「うわぁっ!? ……そ、そうだった、そうなるんだった……」
「これも何が起こったんだろうねぇ。やっぱり引っ張り込まれたみたいに見えるけど……なーんも映って無いよネ? う~ん……」
酷いピンボケなので断言とまでは行かないが、歪いびつの言う通り映像には死体以外の存在は見当たらず、靄の中から腕か何かが伸びていたという事も無かった。
まさか、死体が自分から靄の中に飛び込んだなんて事は無いだろうが……二人して暫く唸るも、こんなとこで幾ら考えたって詮無い事ではある。
半ば強引に思考を打ち切り、改めて前方へと向き直った。
「……とりあえず、先行こ。靄ん中に何か居るにしろ居ないにしろ、今は出ては来なさそうだし」
「えぇ……いや、そりゃまぁさぁ、他にどうしようも無いとはぼくも思うんだけどもサァ~……おーんおーん」
歪いびつはかなり渋っていたものの、私が歩き出せば意外と素直について来た。
そのかわり私の背中にぴったり縋り付いて来て大変に鬱陶しかったが、まぁ変にゴネられるよりはだいぶマシだろう。
ひとまず背後の警戒を任しつつ慎重に歩みを進め……そう時間もかからず、欄干の終わり、橋の出口に辿り着く。
(結局、進んでたのか戻ってたのか……)
橋のどっちに進んでいたのかはハッキリしないままだったが、どちらにせよ住宅街に繋がっている事には変わりない。
運が良ければ、『親』の一人にでも遭遇出来るかもしれない。そう期待しつつ踏み出せば、足裏に草を踏む感触が伝わった。
「……ん?」
……道路の、アスファルトじゃなくて?
はてと疑問に思った瞬間、周囲の靄が波のように引いてゆく。
完全に晴れた訳では無く周囲の一部くらいだったけど、それでも数メートル先くらいは見通せるようになり――そうして現れた景色に、私は思わずぽかんと口を開けた。
「――い、家?」
そこにあったのは、一軒の平屋だった。
かなり年季の入った和風の屋敷で、瓦屋根は多くが剥がれ、壁や閉じた雨戸もボロボロのヒビだらけ。既に空き家となって久しい事が見て分かる、文字通りお化け屋敷のような廃屋だ。
そして何故か、私達はその庭先に立っている。
「……ん? え?」
咄嗟に振り返れば、そこにはさっきまで歩んで来た橋の道。
そう、橋の出口が、そのまま直接、オンボロ屋敷の敷地内へと繋がっている――。
「……? ……??」
「……んー? やっぱりこれ……」
その意味不明な事態に静かに混乱していると、オンボロ屋敷にスマホを向けていた歪いびつが前に出た。
そして私と同じように首を傾げながら、しかしどこか慣れた様子で屋敷を眺め回し始めたかと思うと、やがて小さく頷きひとつ。
「――■■県、S屋敷」
「……なんて?」
「ここ、結構有名な心霊スポットのお屋敷だよ。ぼくここ来た事あるから、間違いない」
また何か変な事言い出したぞ。
歪いびつへの視線が胡乱なものとなったが、戻って来て差し出されたスマホに流れ始めた動画に目を瞠る。
それは彼自身による心霊スポット探索動画のようだった。
どこぞの廃屋へと入っていく場面らしく、そのロケーションをじっくりと映し出しているのだが――どこからどう見ても、目の前にあるオンボロ屋敷としか思えなかった。
屋敷の形は勿論、瓦屋根や壁の崩れ具合、庭先の様相などまで全部が同じで、差異と言えば時間帯と靄の有無くらい。
私は何度も目の前の屋敷と動画の屋敷を見比べたものの、結局否定できる要素は何一つとして見つからず……おずおずと、歪いびつへ目を戻した。
「え……っと……この動画の家が、ここって? この……ボロボロの」
「いやどう見たってそうでしょ。この動画撮ったの結構前だけど、そのまんまだよこれ」
「……■■県? って、言ってたよな? こっからどんだけ離れてると……」
「そうだけど、でも、あれでしょ? 前の廃病院みたいな異界がどうのって感じだったら、何でもアリなんでしょ? だったらこういうのもサ」
「……異界……」
……やっぱり、今のこれってそういう事なんだろうか。
私は改めてオンボロ屋敷――S屋敷とやらと、さっき渡って来た橋を見やり、再び手帳のインク瓶へと目を落とす。
相変わらずおまじないの通りが不安ではあったが、多少は調子が戻って来ていたようだ。そして私が何かを問いかける前にインクがぎこちなく動き、短い文章を組み上げる。
『 きいて たよ。※ーん、そ※か、※界ってな※の※ぁ……まぁ色々と ※※ ※ は、あるけど……あと回し※※よう。今は※ず、そのおやしき※※にすすんで※※ 』
「え……は、入んの? この中に……?」
見間違いかと目を擦ったが、書いてある事に変わりは無かった。
字崩れのせいで意図を読み間違えているという事も無さそうで、眉が自然とハの字を書く。
「や、なんで? ここ、何かの心霊スポットなんだろ……? しかもいきなり出て来た得体のしれないとこだし、中とか絶対ヤバいんじゃ……」
『 だいじょう※。ここ、言うほど※※じゃなかっ※か※。むしろ※はここに※る方が……※※、とにかく、早く行こう 』
「…………わ、わかったよぉ」
正直なんにも納得してないけど、インク瓶が言うならその方が良いのだろう。
それにいつおまじないが切れるか分からない今の状態じゃ、悠長に話してられないのもまた確か。私は尽きない疑問文句その他諸々まるっと呑み込み、渋々S屋敷へと向き直った。
すると屋敷の玄関先を覗き込んでいた歪いびつが横につき、
「インク瓶くん、何だって? ……もしかして、ここ入る感じ?」
「そうっぽい……マジで意味分かんないけど……」
……たぶん、この屋敷が生えて来た原因自体は十中八九コイツだろう。
この屋敷に縁があって、オカルトに遭遇するのに期待している、おまじないの実行犯。
だからコイツの幸せのカタチとして、異界が広がりホラースポットが湧いて来た――なんて。結構スジが通ってるんじゃなかろうか。
で……そこに踏み込まなきゃならんスジは、どこに……?
「う~ん、何でだろネ。中にエレベーターでもあるのかな? この前来た時には無かったけど」
「まだこだわってんのかよ……つか、エレベーターあったってどうにもなんねーだろ。前ん時と違うんだぞ……」
「いやぁ突然お屋敷がポップするなら、エレベーターだって突然開通したっていいじゃあないのさ。まままさておき、この家の間取りならぼく分かってるからネ~」
ホラースポットという自分のテリトリーだからだろうか。
歪いびつはこれまでより若干リラックスした様子でS屋敷へと歩み寄り、迷いなく玄関扉に手をかけた。
「ここ基本的に鍵かかってないんだよね。管理してる方の話だと、内鍵はとっくに壊れてるし、新しく鍵つけてもマナー悪いヒトに外されちゃうから諦めたんだって。ある意味有名税ってやつ?」
「しらねー……」
そうしてガタガタと開かれた屋敷の中は、思ったよりは綺麗だった。
一応荒れている事は荒れているのだが、玄関が瓦礫で埋まっているという事は無く、奥に続く長い廊下も穴ぼこだらけって訳でもない。
外観から想像していたほどおどろおどろしい場所でもなさそうで、安堵とも拍子抜けともつかない息が抜けてゆく。
「……なんか、そんなでもないな。や、古いし暗いし、雰囲気はあるけど……」
「まぁスポット売りしてるとこだし。最低限ヒトが泊まれるくらいの環境には整備してくれてるよ」
「泊まる……? わざわざこんなとこに……?」
「そうだよ~。めっちゃ怖かったヨ~」
あんたも泊まったんかい。
ドン引きする私をよそに、歪いびつは遠慮くなく玄関へと足を踏み入れ、こっちを向いてちょいちょい手招き。
……私は暫くそれを睨んだ末、どんよりとした溜息ひとつ。重たい足をずるずる引きずり、屋敷の敷居を雑に跨いで、
――カラリ、パタン。
「……、え?」
完全に屋敷の中に入った途端、玄関扉がひとりでに閉まった。
それはやたらとスムーズな動きで、開ける時のような異音や引っ掛かりも一切無かった。
静かに、流れるような自然さで行われたその戸締りに、私と歪いびつは揃ってぱちくり目を瞬かせ――すぐ我に返って、玄関扉に飛びついた。
しかし引き戸は固く閉じられたまま何をやってもビクともせず、軋む音の一つすら上がらない。
「あ、あれぇ……? さっき鍵壊れてるの確認したんだけどなぁ!? なんでぇ!?」
「くそ、完全に固められてる……! こうなるともう蹴っ飛ばしても無理だ、あんた間取り知ってんなら、どっか別の――、……?」
……その時、ふと扉の向こうで何か聞こえた気がした。
かなり遠い場所から響く、小さな物音。
扉が板戸のため外の景色は見えなかったが、耳を当てれば確かに聞こえた。
――……た たた たたた……。
「……ど、どしたの? 何かあった……?」
「いや、なんか……足音か……?」
「え?」
……足音。そう、これは足音だ。聞いてる内に確信する。
遠く、たぶん橋の方角から、走って来ている。
靄の中を突っ切って、近づいている。
たたたた たたたたた たたたたたた。
「……ホントだ聞こえる。何だろ、インク瓶くん……な訳ないか」
「…………」
かなりの速度で走っているのだろうに、足音に乱れは一切ない。
一定のリズムを保ち続けたままどんどんと大きくなり、やがてアスファルトから草土を踏む音へと変わった。……屋敷の庭を、駆ける音。
たたたたたたた たたたただだだだ だだだだだだだだだ――。
「……………………」
玄関扉から距離を取る。
足音はもうすぐそこだった。
土の跳ね音まで明確に聞こえる距離。
けれど、減速する気配も無く。どこまでも同じ速度で、それは――。
だだだだだだだだだ――ドダァン!!
「ひっ……!」
玄関扉の裏で、足音が激突した。
周囲の壁がビリビリと揺れ、天井から細かな埃が降り落ちる。
普通なら扉ごと破られていてもおかしくないくらいの轟音に感じたが、今この扉は普通じゃない。
一切の衝撃が伝わらなかった玄関扉に、私はさっきとは一転して妙な頼もしささえ感じてしまい、
――かかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかか。
「っ、な、なんだ……!?」
続いて、玄関扉の向こうから爪で引っ掻くような音が立った。
いや、実際に扉を引っ掻いているのだろう。
細かく、忙しなく続く乾いたそれはいつまで経っても止む事は無く……やがて焦れたのか、徐々に横へと移動し始めた。
かかかかガガかガガガガゴガかかかギギギギギギギギ――。
扉から壁、壁から閉じた雨戸の上。
どこか入って来られる隙間を探しているかのように、引っ掻き音は屋敷の外壁を這い回り――そしてまた、突然ピタリと途切れてしまった。
……無音。
「……、……っ」
……ぎぎ、ぎり、ぎち、ぎり……。
……ず、 ずず……ずる、ずる…… ……。
張り詰めた空気の中、小さく聞こえて来たのは、何か柔らかいものを締め上げ引きずるような音。
それはゆっくり、ゆっくりと、屋敷の傍から離れていき――。
ぽちゃん。
どこか遠くで、また微かな水音がひとつ。
それきり、続く音は無かった。
「…………」
「…………」
私も歪いびつも、今度は目を見合わせてる余裕も無かった。
ただただじっと扉を睨み、息を殺して乱れる動悸を抑えつける。
(……外。なに、が……?)
……なんとなく、もう扉は開くような気がした。
しかしとてもじゃないけどその気になれず……私は無意識のうち、手帳に目を落としていた。
だって、インク瓶なら。
インク瓶なら、いつもみたいに、何かを――。
『 おく へ 』
「っ……」
けれどそこにあったのは、崩れかけのたった数文字。
イヤミも、心配も、回りくどい励ましも。いつもインクの裏にあった筈のそれらが、今は何も読み取れない。
(……仕方ないって、分かってる。けどさ……)
――ぱたん。
それ以上を考えてしまうのがなんかイヤで、手帳を閉じる。
いや、いいけど。屋敷の奥に行けというなら、今はその通りにするけど。
さっきの事とか外の事とか、ぜんぶ後。それでいいんだろ、それで。
私は軽く頭を振って気を取り直し……隣で突っ立ったままの歪いびつを、ヤケクソ気味に奥の廊下に蹴飛ばした。
……閉じた手帳の、表紙の角。
本来透き通っている装飾のガラス玉が、真っ赤に染まっていたのを見逃して。