異女子   作:変わり身

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【私】の話(中⑪)

 

 

 

小さい頃、私は足を滑らせて崖から落ちた事がある。

 

低めのビルの二階程度の何てことない高さだったけど、ちっこい私にとっては相当だった。

結局たんこぶ一つで済んだとはいえ本気で死ぬかと思ったし、落下中は感じる時間が永遠かってくらいに引き延ばされた。

 

一秒が十秒に。十秒が百秒に。

そうして景色も身体も全部がゆっくりになって、ぐるぐる動く頭の中だけで焦りと恐怖が暴走する――。

あれはもう本当に怖い感覚で、それからちょっとの間は高い所に寄り付けなくなったほどだった。

 

――そして今、私はそれ以上の恐怖を味わっていた。

 

 

 

 

 

「――~~~~っ!?」

 

 

言葉にならない絶叫が私の喉奥から絞り出される。

 

本当に切羽詰まった時は声なんて出ないっていうけど、この状況がまさにそれだ。

ただ喉で跳ねまわる呼気の痛みだけを感じながら――私はどこまでも落ちていた。

 

 

(く、くそっ、んだよこれぇっ!?)

 

 

蜘蛛の穴。暗い昏い闇の中――。

辿り着くのだと願い、そして覚悟だってしていた筈だというのに、湧き上がる恐怖はそれらの支柱を容易く揺さぶった。

 

視界が利かないし、どこまで落ちるのか、どんな所を落ちているのかすらも分からない。

どれも大概致命的に恐ろしい事柄ではあったけど、今最も恐怖を煽っているのは別のもの。

 

 

(あ、れが、蜘蛛――)

 

 

遥か眼下の闇底に、大きな白い塊が沈んでいた。

 

頭上に開いている穴からの光で辛うじて視認できるそれは、靄のように柔らかな質感を持ち、所々に真っ赤な斑点が浮いていた。

潰れたような形の赤が八つと、整った形の赤が一つ。感じる視線はそこから注がれていて、それが眼だってハッキリ分かる。

 

……私はその姿に小さくない違和感を覚えたものの、そんなのはすぐに恐怖で圧し流された。

 

あの真っ赤な眼を向けられるだけで血が冷たくなって、きっと魂と呼ぶべき部分が激しい拒絶反応を示している。

全身を走る怖気に際限は無く、このまま視線を受け続けてたら気がヘンになりそうだった。

 

 

(……っ! ちが、と、とにかく、今は……ッ!)

 

 

引き伸ばされた世界。落下によりゆっくりと大きくなっていく蜘蛛の姿で我に返り、私はがむしゃらに手足を振り回す。

 

そうだ、今は呑気に蜘蛛を眺めている場合じゃない。

地下というから狭い洞窟のような所を想像していたのに、思っていたよりだいぶ広大だ。

幾ら私でも、このまま地の底に叩きつけられて無事でいられる自信は無かった。

 

どうにかして勢いを殺さなきゃ、あかねちゃんを助ける前に終わってしまう。今になってようやく、遠くの蜘蛛より落下死への恐怖が上回る。

 

 

(くそ、壁とか引っ掛かりとか、どっかに――、っ!?)

 

 

そうして見苦しく藻掻いていると、視界の端を白い何か擽った。

 

視線だけでそちらを見やれば、うっすらと浮かぶ白い帯が見えた。

靄、だろうか。眼下の蜘蛛と同じ質感のそれは不定形に曲がりくねり、闇に紛れてこっちに向かって流れて来る。

 

明らかに蜘蛛の何かだ。走る怖気に瞬時にそう察した私は、何とか逃れようと身をよじる――けれど。

 

 

「く、のっ……ぁぐっ!?」

 

 

当然、こんな状態で何が出来る訳もない。

 

白い靄はろくに動けない私へあっという間に流れ寄り、きつく胴体に巻き付いた。

内臓が軋みを上げるほど強い圧迫に一瞬視界が明滅し、直後に勢いよく身体を下方に引っ張られた。

 

 

「ぐぅ、うっ――!」

 

 

強引に落下速度を上げられ、身体がくの字に折れ曲がる。

苦痛をこらえて上半身を起こせば、白い靄が伸びる先にはやはり蜘蛛の頭があった。

 

 

(この靄が、アレの糸って……!?)

 

 

どちらかというと触手のようにも思えるが、今はそんなのどうでもいい。

 

私は必死になって腹部に巻き付く靄へと手を伸ばし――しかし掴めず、突き抜ける。

すぐに腕を引こうとしたものの、その時には靄に埋まった手首から先がガッチリと固定され、動かなくなっていた。

 

靄自体が強烈な粘性を帯びているようで、私の膂力であっても力任せじゃ引き抜けない。鼓膜の内側で、既に下がり切っている筈の血の気が更に引く。

 

 

「や、ばっ……!」

 

 

まずい。逃げられない。

唯一自由な足を振り回したって、ただ無意味に暗闇をかき回すだけだった。

 

ああ、ダメだ。このまま地面に叩きつけられて殺される。

それを何とか耐えてたって、きっとすぐ蜘蛛に食われてやっぱり死ぬ。

 

……どうしようも、ない。

 

 

「っ……や、だ……やだ、やだやだやだ……!」

 

 

まだ何もしてないじゃんか。

ただ穴に入っただけで、まだあかねちゃんを探す一歩目すら踏んでないんだぞ。

 

なのに、死ねって?

 

こんな暗くて寂しいとこで。一人きりで。ぐちゃぐちゃになって。

そうして、もう一度あかねちゃんの顔を見る事も出来ないまま、終われって――?

 

 

「――やだぁっ! ぃ、いや、だぁぁぁああああ……ッ!!」

 

 

ギチ、ギチ。

無理やり靄から引き抜こうする両手が異音を立てる。

 

引き攣った肌が激痛を訴えるけど、全部無視。

不安定な体勢の中、限界まで力を込めて両腕を引っ張り上げた。

 

 

「んっぐ、ぁあ、あぁぁぁあああああッ!!」

 

 

例え両腕が自由になった所で、大して状況が変わる訳じゃない。

そんなの分かってる。それでも。

 

 

(痛い、痛い痛い痛いぃっ! 痛い――けどぉ……!!)

 

 

手首、そして指の関節からイヤな感覚がする。

 

引っ張る力に耐えきれず、外れかけているんだろう。

少しだけ怯むが、悲鳴も泣き言も飲み込んで更に力を籠め続けた。

 

 

「ぅあっ、ぁぎ、ぃ、ぃっ……!!」

 

 

靄の中で爪がズレるように剥がれ始め、手の甲のあちこちに小さな裂け目が生まれていく。

ぷくりぷくりと幾つもの血玉が膨れては、靄の中に溶けていった。

 

……このまま続ければ、私の手の関節は伸び切り、皮は肉ごとこそぎ落とされる。

 

きっとすごく痛くて、すごく酷い事になる。

けどそんな手でも、頭と地面の間に差し込められれば、生き残れる確率は少し上がる筈だ。

 

どうせそうなってる時点で、死ぬまでの時間が少し伸びるだけにしかならない。

でも、何も足搔かずただ終わりを受け入れるなんて、私には無理だった。

 

 

「ぅぐ、く……ぁぁぁあぁああああああああッ――!!」

 

 

指先の感覚が消え、大きく開いた肉の裂け目から血が噴き出す。

我慢しきれなくなった痛みに上げてしまった大声が、すぐに上方へと流れて消えた。

 

あとどれくらいで闇の底に着く。

見ても真っ暗で分からないけど、もう結構な時間落ちている。たぶん、猶予はあまり無い。

 

 

(くそ……くそぉ……ッ!!)

 

 

めり、めり、と感覚が伝わる。

 

きっと、致命的なやつ。

力が抜けそうになる。尋常じゃない吐き気がせり上がり、眼の端に涙が滲むのが分かった。

 

……だが。だが、構うもんか。

 

私は強引に肺を膨らませると、頭の中をあかねちゃんの事でいっぱいにして恐怖を潰し――ずるりと、手を、

 

 

 

 

『 きれ のに、 だめ   』

 

 

 

 

「――ぁ?」

 

 

瞬間、手の方から音が鳴った。

 

それは私の血肉がこそげ落ちる音じゃない。

何かを啜り上げるような、汚らしい音。最初は何なのか分からなかったが、すぐにその原因が目に入る。

 

――靄が、私の手の中に吸い込まれていた。

 

 

「――は」

 

 

ズレた爪の隙間。ぱっくりと開いた肉の裂け目。

それら傷口の周囲、血が溶け薄く色づいた部分の靄が流動し、幾つもの小さな渦潮のような流れが生まれている。傷口の中に吸われているのだ。

 

じゅるじゅるという音が聞こえるのに何の感覚も無く、だからこそ現実感が伴わない。

これまで以上に全く意味の分からない光景に状況も忘れてただ呆け、次の瞬間理解が及び、情けない悲鳴を張り上げた。

 

 

「やぁっ、は、入るなぁ!! このっ、やめろ、やめてよぉ!!」

 

 

今、何をされている――?

明らかな異物が体内に入り込む光景に、度を越した嫌悪感が湧き上がり、構えた強がりにヒビが入る。

 

そうして先ほど以上の勢いでもって、靄から腕を引き抜こうとして――「っぐ!?」身体が突然真横に弾かれ、強制的に中断させられた。

 

 

(な、にが……!?)

 

 

首が折れ曲がり、脳が揺れる。

視界の片隅に激しく流動する白い靄がよぎり、そこでようやく自分が靄に振り回されている事を自覚した。

 

 

「ぐっ、ぅ……ぁぐぅ……っ!」

 

 

右に左に、上に下に。その動きは乱雑で、自分がどの方向に振られているのかも分からない。

滅茶苦茶な慣性の圧で内臓がぐちゃぐちゃになりそうだ。

 

当然ながら疑問を挟んでいる余裕なんてある筈もなく、私は身を襲う強烈な負荷をただただ耐えるしかなくて、

 

 

「――がっ!?」

 

 

衝撃。

背中から何か硬いものに激突し、息が詰まった。

 

きっと岩だか壁だかに叩きつけられたのだろう。地面でなかった分まだマシとはいえ、受けた衝撃と痛みは相当なものだった。

幸いこの頑丈な身体の骨が砕ける事は無かったものの、全身が痺れて動けなくなり、そのまま自由落下を再開する。

 

――落下を、再開?

 

 

(――! 靄、が……!)

 

 

見れば、腕と上半身にくっついていた白い靄が消えていた。

 

どうやら振り回されている間に拘束が解かれ、その勢いのまま吹っ飛ばされたらしい。

その理由とかさっきの事とか、色々な疑問が浮かんでくるけど、今は全部忘れておく。

 

だって、手が自由に動くようになって壁っぽいのが近くにあるんだ。

他の人らにとっては知らんが、私にとっては好機以外の何物でもなかった。

 

 

「んのっ――!」

 

 

血だらけの両手を振り回し、壁のある方向を探る。

するとすぐに岩肌の感覚が指先に当たり、剥がれかけの爪から激痛が走った。思わず引っ込めそうになった手を我慢して押し込み、上に流れるその岩の壁へと全身でしがみ付いた。

 

 

「ぃぎ、ぁ、ぁぁぁああああああああ……!!」

 

 

しかし当然、すぐに落下の勢いを殺し切れる筈も無い。もともと血で濡れていたせいもあり、余計に。

 

しがみついた姿勢のまま下方へと滑り落ち、岩肌に触れている部分が金おろしにかけられるかの如く削れていく。

特に体重のかかる両手は酷い有様で、むき出しになった肉が摩り下ろされる激痛は、意志だけで我慢出来るものじゃなかった。

 

絶叫し、涙や涎を撒き散らし、それでも絶対に手を放さないまま、私は徐々に落下速度を落とし続け――完全に止まるより先に岩壁が途切れた。

 

 

「あ――、うぁっ!?」

 

 

終わった――と絶望するよりも早く、強かに尻を打ち付け倒れ込む。

 

……真っ暗で周囲の様子は見えなかったが、感覚的に地面の底まで降りられた感じはしない。

たぶん、岩壁から突き出た段差部分にでも引っかかったんだろう。

 

何にせよ幸運である事には変わりなく、背中に感じる硬く大きな床の感触に少しずつ安堵が湧き上がり――すぐに、ぎゅっと身体を縮こませる。

 

 

「……っぁ……ひ、ぎぃっ……!」

 

 

痛い。痛い。痛い――。

 

強く打ち付け、軋む背中が。

大きく裂け、血を流す皮膚が。

根元から剥がれかけ、浮き上がった爪が。

荒々しく削られ、骨の表面が浮き出た手の肉が。

 

全身どこもかしこも痛くて気持ち悪くて、私は脂汗を流しながら荒い呼吸を繰り返す。

 

少し気を緩めてしまったせいなのか、これまでどうにか堪えられていた痛みと恐怖がぶり返し、溢れて止まらない状態になっていた。

 

それでも意識を失わないでいられるのは、あかねちゃんのおまじないによる経験があったからだろう。

身体の内側から痛めつけられたあの時に比べれば、全然何てことない。

 

まだ動けるし、頑張れる。

まだ死んでないし、生きられる。

まだ探せるし――絶対に、逢えるんだ。

 

 

「っ……っ……!!」

 

 

何も見えない闇の中。そう言い聞かせながら、ズタボロの両手を抱え込み。

私は暫くの間、身を丸めて呻き声を殺し続けていた。

 

 

 

 

 

 

身体を起こせるようになったのは、それから少し経っての事だった。

 

痛みは変わらず収まらないし、息だってまだ整ってない。傷だらけの状態に少しだけ慣れたって感じだ。

まぁ動けるようになったのなら何でもいい。暗闇の中、比較的まともに動かせる小指と親指を使ってポケットの中をまさぐった。衣服と露出した肉が擦れ激痛が走るが、我慢する。

 

 

「……あ、あった……!」

 

 

そうしてなんとか引き抜いたのは、電源の切れた私のスマホだ。

 

さっきの一幕でどっかに飛んでったかと不安だったけど、ちゃんと持ってて一安心。

画面こそバキバキになっているようだが辛うじて故障はしていなかったらしく、電源を入れれば光が灯る。

 

……圏外。

その表示を見た瞬間に連絡手段としての期待を捨て、即座にライトを起動し周囲の様子を照らしあげた。

 

 

(……やっぱ、こういうとこか)

 

 

私が落ちた場所は、予想通り岩壁から突き出した段差部分のようだった。

 

見る限りでは普通の岩と土で出来ていて、左を照らせば深い断崖。

反対に右を照らせば闇しかなく、先を見通す事も出来ない。

少なくとも、ライトの光では全景を把握できない程度には広い崖上ではあるみたいだ。

 

続いて、滑り落ちてきた岩壁を伝って上方を照らし――岩壁にべっとりと刻まれた血肉の筋が目に飛び込み、咄嗟にそこから光を外す。

 

 

「ぅぐ……そ、そうだ、穴……」

 

 

またこみ上げる吐き気を誤魔化しがてら、虚空にライトを滑らせる。

 

しかしどれだけ目を凝らしても、私が落ちた穴の姿は見当たらない。

見えなくなるほど深い場所に居るのか、それとも何かの陰になっているのか。暫く探せど変わりは無く、溜息と共にライトを下げた。

 

「……どうやって、帰――」呟きかけ、打ち切る。

そういうのは全部、あかねちゃんを見つけてから。そう言い訳して、思考停止。

 

 

(……そういえば、あの靄どこ行った……?)

 

 

頭の切り替えついでに靄の姿も探してみたが、全く見当たらない。

まぁ、今追って来られたら逃げるどころの話じゃないし、助かると言えば助かるのだが……。

 

私は首を傾げつつも、次に崖側まで這いずって、恐る恐るとその下を照らす。

 

 

「……くそ、こっちもか」

 

 

穴が見つからなかった時点で予想していたが、そこにも何もなかった。

 

闇の底で揺らめいていた真っ白な身体も、私を捉える真っ赤な眼も。

落ちる最中に見たあのおぞましい蜘蛛の頭は、いつのまにやら何処かへと消えていた。

 

 

「どこまで飛んだんだ、私……」

 

 

探さなきゃ。

 

もしあかねちゃんが私と同じようにして落ちたのであれば、同様に靄に捕まった筈だ。

私は何故か逃れる事が出来たけど、あかねちゃんもそうなったとは限らない。そのまま蜘蛛の下に運ばれた可能性はある。

 

どこに行ったか予想もつかないが、とにかく見つけなければ。

私はひとまずズタボロで穴だらけの靴下を脱ぎ、ズタボロで血だらけの手に被せるようにしてスマホを固定。空いた穴からライト部分を露出させ、即席の懐中電灯とした。

 

靴下を被せた手が激痛を訴えるけど、これならスマホを落っことす心配もない。

私は再び乱れ始めた息を抑えてどうにか立ち上がり、片っぽ裸足の足をよたよた引きずって……その際、偶然ライトの光が岩壁を掠り、また血肉の筋を照らし出す。

 

 

「ぅ……、……」

 

 

……私でさえ、こうなった。

だったら、あかねちゃんなんて、

 

 

「……っあ、あかねちゃーん!! 居るなら返事してよぉっ!!」

 

 

イヤな想像を振り払うように、大声で名前を呼ぶ。

しかし木霊すらも返らずに、私の声は闇の中へと呑まれていった。

 

 

 




あけましておめでとうございます(激遅)。
今年もまったりよろしくお願いいたします。
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