異女子   作:変わり身

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「水族館」の話(中①)

 

 

 

「……あ、あれ……えっと……」

 

 

ふらふらと彷徨う足音が、しんと静まり返った空間によく響く。

 

大きな水槽から蒼暗い光が床を照らし、ゆっくりと妖しく揺らめいている。

どこか神秘的にも感じていたそれも、今の私にとっては足元から孤独感を煽る靄のよう。

 

おーい、と周囲に声をかけ、足フェチの名前を呼んで。しかしやっぱり反応は無く、水槽に声が返るだけ。

……正真正銘、私一人っきりだった。

 

 

(ウソだろ。こんなになるまで気付かない程、ぼーっとしてたつもりねーぞ……!)

 

 

ついさっきまで私の周りにはたくさんの観覧者が居たのだ。

一人二人ならともかく、全員が一斉に移動して分からない訳がない。

 

それに何より、あの足フェチが私を置いてさっさと行くとは思えない。

もしも本当に私が周囲の状況が分からないほど呆けていたのなら、その隙を狙って絶対に私の足を撫で上げてくる筈だ。賭けたって良い。

 

 

(……オカルト、か? いやでも、こんないきなり――え)

 

 

――そうしてまた水槽に目を戻せば、そこに居た全ての魚が消えていた。

 

つい数秒前まで確かに泳いでいたのに、眺めてもいたのに。

大きな魚も小さな魚も全て消え、がらんどうの水中が広がっている――。

 

 

「え、な、何で……!?」

 

 

慌てて他の水槽を見ても、全て同じだ。

ただ空の水槽だけが並んでいて、生き物の姿は一つもない。

 

何が起きている。私は混乱のまま、更に忙しなく首を振り――やがて、とある水槽横のパネルに目が留まった。

 

 

「あ……?」

 

 

それはどの水槽にもある、入れらた生き物についての解説を載せた小さなパネルだった。

 

しかし私の目に入ったそれは大部分が真っ白で、何の解説も書かれていない。

ただ一つ、本来であれば生き物の名前が記されているだろう場所に、ひらがなが数文字だけ並んでいた。

 

――『ほこりっぽい』

 

 

「……?」

 

 

幼児が書いたかのような、ぐちゃぐちゃの字だ。

その意味の分からなさに逆に少しだけ冷静になり、自然とパネルの示す水槽に目が行った。

 

 

「…………」

 

 

やはり、空っぽの水槽だ。

 

もしかしたら、そのどこかに『埃』か……もしかしたら『誇り』が浮いているのかもしれないが、どっちにしろ肉眼で見えるようなものでもない。

私はすぐに視線を外し、別の水槽のパネルに目を向ける。

 

 

「……『すなもどき』……『たべかす』……『まだに』……?」

 

 

それらに書かれているのも、『ほこりっぽい』と同じくヘタクソなひらがなだった。

一応水槽の中も見てみるけど、こちらもパッと見では何も見つけられず、ただただ薄気味悪さが募るだけ――と。

 

 

「……あっ!? こ、これか、アイツの言ってたヤツ……!?」

 

 

――知らない水槽を見たら、名前を見ないようにしなさい。

 

ようやっと『親』の言葉が蘇り、慌てて視線を剥がす。

まずい、モロに何個も見てしまった――そんな不安を誤魔化すように、通路の前後へ目を振った。

 

 

(もうちょっと分かりやすい見知らなさであれよ、くそ……!)

 

 

『親』は妙と思った水槽には近寄るなとも言っていた。なら、今すぐここから離れるべきだろう。

全身を這いまわる薄ら寒さに追い立てられるようにそう決めて、水槽から逃げるように入口の方へと逆走する。

 

この展示エリアに入ってから、感覚的にはそんなに長い時間歩いていない。

この場所の実際の広さは把握していないけど、このまま進むよりは戻った方が早い気がしたのだ。

 

……した、んだけれども。

 

 

(――この通路、こんな長かったか!?)

 

 

走っても走っても、入口に戻る事が出来なかった。

 

通路は全力で走ったし、私の記憶にあるよりも多くの角を曲がった。

なのに見えるのは水槽の並ぶ光景ばっかりで、展示エリアに入ってから通り過ぎた筈の場所が見えてこない。

 

まるで、延々と同じ場所を走らされているようだ。

体力的にはまだ余裕だが、このまま走っていてもキリがない。一旦立ち止まり、深呼吸して頭を冷やす。

 

 

「……落ち着け、まだ直接何もされてないだろ。冷静になれ、冷静に……!」

 

 

そう自分に言い聞かせながら改めて通路の先を眺めるけど、やはり入口に繋がっている気がしない。

なら反対に出口側へ……とも思ったものの、戻ってこれなら進んでも同じ気もする。

 

 

(……こうなったの、さっきの『ほこりっぽい』とかを見ちゃったからか? 水槽見るなってのは、見たら閉じ込められるとか、そういう……いや、でも、一人ぼっちになったのはアレ見る前だったよな……?)

 

 

考えるけど、確かな答えは出せそうになかった。

 

だが何であれ、既に『親』の言っていた見知らぬ水槽とやらを目撃してしまったのは間違いない。

何が起きてもすぐ逃げ出せるよう腰を落とし、周囲を警戒――しようとして、慌てて床に目を落とす。

 

もし本当に水槽を見る事自体がアウトなら、下手に周囲を見回す事も出来やしない。

 

 

(……というか、ここまで走って来た途中にも、かなりの数の水槽見ちゃったよな……?)

 

 

……幾ら逃げるためだったとはいえ、ちょっと迂闊だったかも。

じっくりとは見ていないし、あの中に見知らぬ水槽が混じっていたかどうかは知らないが、かなり不安になってきた。

 

もう何を警戒しようが手遅れな気がして来たけれど、だからって開き直る気にもなれず。

そうしてアレコレと悩む内、手が自然と懐の小瓶とメモ帳へと伸びていた。

 

 

(インク瓶……ひとりっきりにされた時点で呼んどくべきだったな……)

 

 

そう後悔するが、今更言っても仕方ない。

まだ間に合うと信じ、取り出したメモ紙に蓋を開けた小瓶を傾けて、

 

――ごぽ。

 

 

「っ」

 

 

背後で妙な音がした。

 

水の中で気泡が弾けたような音。

何かを思う前に身体が勝手に振り向いて、その正体を捉えてしまった。

 

 

「――は、い、犬……?」

 

 

さっき私が走って来た方角にある水槽の一つに、犬が一匹浮いていた。

 

見覚えがある。午前中の広場での生き物探しの時に捕まえて、スタッフさんに預けた迷い犬だ。

 

その姿は真っ白な泡に包まれ、水中で逆さまになっている。

当の犬自身も混乱しているのか、泡の絡みつく四肢をじたばたと振り回していて……。

 

――は?

 

 

「っ、おい、嘘だろ!?」

 

 

犬が生きたまま水槽に放り込まれている――その悪趣味な光景がようやく呑み込め、慌てて水槽に駆け寄った。

 

 

「お、お前大丈夫か!? 早く上に……いや上開いてないのかこれ!?」

 

 

そしてガラスに顔をくっつけ上の方を覗き込むが、水槽の天井が広がるだけで、水面やその外側の景色は見る事が出来なかった。

完全に、密閉されている。

 

 

「どうやって入ったんだよ!? えっと、どうしたら……!」

 

 

水槽を見るだの見ないだの言っている状況ではなく、必死に水槽周辺を見て回る。

 

しかし見える範囲には、ヘタクソな字で『いまはいぬ』と書かれたパネルしか無い。

バックヤードへ繋がる扉も見当たらず、直接水槽の中に行く事は無理そうだった。

 

そうこうしている間にも水中の犬は暴れ回り、大量の泡を吐き出しながらもがき苦しみ続けている。

歯茎を根元まで剥き出し、千切れんばかりに舌を伸ばし、血管の浮き出た眼球が裏返る。溺れ死ぬのも、最早時間の問題だろう。

 

 

「こんのッ――んぐぁ!?」

 

 

もう見ていられなくて全力でガラスを蹴りつけるけど、ビクともしない。

流石に水族館の水槽だけあって、単純に頑丈らしい。堪らず弾かれ、たたらを踏んで。

 

 

「……っ」

 

 

ぴちゃり、と。手に冷たいものが降りかかった。

咄嗟に目を落とせば、蓋をしてない小瓶から零れたインクが私の手指を濡らしていた。

 

どうやら動揺したまま閉め忘れていたらしい。

しかも決して少なくない量を零してしまっており、血の気が引いて――ハッと顔を上げ、水槽横のパネルを見た。

 

 

(……知らない水槽の名前を見るな……名前、名前が……!)

 

 

それはただの思い付きで、浅慮なこじつけだった。

だけど犬の抵抗が段々と弱まっていくその様に、気付けば身体が動き出していた。

 

 

「このっ――!」

 

 

頭の中にあったのは、以前遭遇した張り紙のオカルトの一幕。

あの時の成功体験が鮮烈に蘇り――真っ黒なインクまみれの手を、パネルの文字を塗り潰すように引きずった。

 

 

「――うわっ!?」

 

 

瞬間、水飛沫が顔に跳ね、思わず目を瞑る。

 

同時にべちゃりと濡れたものが転がる音が聞こえ、目を開くと水槽の前にびしょ濡れの犬が横たわっていた。

ぐったりと倒れ伏すその姿にイヤな予感が浮かぶけど、犬は何度か大きく水を吐き出した後、やがて荒い呼吸を繰り返す。

 

……死な、ない。死んでない。

それを見届けた私も大きく息を吐き、ぐったりとその場にしゃがみ込む。

 

 

「…………」

 

 

……恐る恐ると、水槽を見上げる。

 

水中に弾ける泡は既に消え、凪の静けさを取り戻していた。

暫く観察していたが、新しく動物が入れられる気配も無い。

 

ゆるゆると視線を真横にずらせば、真っ黒に汚れたパネルが目に映る。

『いまはいぬ』――よく分からないその名前は完全にインクに沈み、判別不能となっていた。そうして垂れたインクがパネルを伝い、蒼暗い床を汚してゆく。

 

 

「……や、やっちゃった……」

 

 

小さくか細い、情けない声音でぽつりと呟き、片手の小瓶に目を落とす。

半分ほどが減った黒インクが、とろとろと頼りなく揺れていた。

 

 

 

 

 

 

インク瓶から貰った、緊急連絡用の黒インク。

いつでもどこでも彼とのやり取りを可能にする、私にとっての命綱のようなおまじないだ。

 

厄介なオカルトに巻き込まれる度に縋りついているものだけど、実はその使用にあたっては幾つかの制限がある。

 

紙とくくられるものに垂らさなければ使えないし、その紙に何かあればおまじないも消えてしまう。妙なところでは、インク瓶側が何らかの理由で意識がハッキリしていない状態だと、かわりに何か別の変なヤツに繋がる事もある。いやほんと誰だったんだアレ。

ともあれ確実に繋がる分、スマホで連絡するよりは信頼しているものの……使い勝手として見ると、あんまり良い方でもないのだ。

 

……そしてその制限の一つに、量の問題がある。

おまじないを発動させるには、インクが多すぎても少なすぎてもいけないらしい。

 

なんでも、一定より量が多ければ意識が散逸し、逆に少なければそもそも文章を組み上げられなくなるそうな。

詳しい理屈はよく分からなかったけど、用法用量は正確に、という事だろう。

 

で、その適量こそが、私がいつも持っている小瓶ぴったり一個分。

そう、つまり――現状のようにインクが半分も減ってしまうと、おまじないが成立しなくなってしまう訳である。

 

 

 

 

「くそ、やっぱダメか……」

 

 

開いたメモ帳、その一ページ。

真っ白な紙の中で不定形に蠢く黒インクの姿に、私はがっくりと肩を落とした。

 

……紙に垂らしたインクが、文章どころか一文字すらも形成しない。

おまじないが正常に作用していない証拠であり、インク瓶とも繋がっていないのだ。

 

いや、インクが蠢いている以上は辛うじて繋がっているのかもしれないが、意思疎通が出来ないのであれば意味がない。

一縷の望みをかけて片手にかかっているインクを擦り付けても変化はなく、また項垂れた。

 

 

「ちくしょー……お前のせいだからなぁ……」

 

「……ゥゥ……」

 

 

呟きながら顔を上げ、近くの水槽のガラスにぐったり寄り掛かる犬をじっとり睨む。

 

ついさっき、インクと引き換えに水槽から助けた迷い犬だ。

あれから少し経ち呼吸が整いはしたものの、元気は無い。逃げ出す事も襲い掛かってくる事もなく、ただただしんどそうに呻いていた。

 

 

「……なぁ、大丈夫か? そんな水飲んでない……よな?」

 

「ゥ……ゥゥ」

 

 

とりあえず声をかけてみるけど、一瞬だけこっちに目を向け、すぐに閉じる。

どうやら何かしら反応するだけの余裕は戻っているようで、軽く息を吐いた。

 

 

(……つーか、ほんとにどっから入って来たんだコイツ)

 

 

私がここに来た時には居なかった筈だし、水槽が密閉されている以上自分で入ったとも考え難い。

まるで、突然水槽の中に現れたようで……まぁオカルトのやる事だし、そういうのもあるのか?

そのあたりを真面目に考えても無駄な気がして、ひとまず疑問を打ち切った。

 

 

「どうすんだよ、こっから……」

 

 

敢えて口に出し、通路の前後を窺う。

 

どこまでも続く廊下と、どこまでも並ぶ水槽。

犬一匹助けたところで事態は変わらず、むしろインクを失っただけマイナスだ。

 

だからってほっとけば良かったとは思いたくはなく、頭をぐしゃぐしゃかき回す。

 

 

「くっそぉ……繋がんないのかよほんとにぃ……!」

 

 

もう一度メモ紙を見るけど、やっぱりうにょうにょしたままだ。

私は紙をシワが寄るほど握り締め、頭の血管が切れんばかりにインク瓶への念を込め、

 

 

「……ゥゥ」

 

「!」

 

 

物音がした。

顔を上げれば、いつの間にか犬が水槽のガラスを支えとして立ち上がっていた。

 

その足元は多少震えていたものの、倒れ込むような気配は無かった。

むしろ意外としっかりとした足取りで、通路の先へと進んで行く。

 

 

「え、おい、ちょっと……」

 

「……ゥ」

 

 

思わず呼び止めると、犬はぴたりと立ち止まり、のろのろとこちらに目を向けた。

そして何度か尻尾を振って……やがて小さく鼻を鳴らし、また前を向き歩き出す。

 

 

「……えぇ……」

 

 

何だあの犬。

なんだかついて来いと言ってるようにも見えて困惑するものの、犬はそんな私を放置したまま奥へ奥へと進んで行く。

 

 

(……ど、どうしよう)

 

 

正直ここから動きたくはないけれど、このまま立ち往生していてもどうにもならない事は確かだ。

それに助けた犬をこんな場所でほっとくのも……でも行ったら水槽見ちゃうし……いやもう今更そんなの気にしたって……。

 

 

「……………………うぐぐ」

 

 

……そうして一人残されると、館内の蒼暗い静寂が身体の芯に染み入って来るようで。

私は犬と反対側の通路を交互に見比べ、暫く唸り――「ああくそっ」舌打ちと共に、遠くで揺れる犬の尻尾を追いかけた。

 

 

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