異女子   作:変わり身

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「怪談」の話(中⑦)

 

 

 

――ンドゴォ!!!!

男の脇腹あたりにめり込んだ足の先から、決して人体が発しちゃいけない音がした。

 

 

「お、ごぉッ――!?」

 

 

同時に苦悶の声がその口から飛び出し、唾液が散る。

 

とはいえ、浅い。片目が塞がれているせいで目算が狂ったのだ。

私は苛立ちのままに歯を食いしばり、中途半端に折り曲げた状態となっている膝を思いっきり伸ばし切る。

 

跳び蹴りの衝撃に続けての蹴り出しに、当然男が耐え切れる訳が無い。汚い呻き声と共にその身体は勢いよく吹き飛び、ごろごろと廊下の奥へと転がってゆく。

私も私で蹴りの反動で後方に投げ出され、肩口から廊下の床へと叩き付けられ――その時、近くに居たもう一人の男とぱっちり目が合った。

 

 

「は……っひ、ば、ばけもっ――!」

 

 

途端に男は錯乱し、足元に転がる私のおなかに足を振る。

 

反射的な行動だったんだろうが、しかし私も咄嗟にその爪先を受け止めた。

そしてそのまま強引に立ち上がり、足を掴まれたまま体勢を崩す男を膂力任せに振り回し「ああああああがぁッ!?」先程転がって行った男の方向へとぶん投げてやる。

 

その先で衝突でもしたのか、鈍い音と二人分の男の悲鳴が上がったが、そんなのはどうだっていい。

私は彼らの惨状を見届ける事無く振り返り、未だ倒れたままのインク瓶へと駆け寄った。

 

 

「ね、ねぇ! 大丈夫か!? 起きてよ、ねぇ、ねぇって……!!」

 

「ぅ……おき、てるよ……」

 

 

傷に障らないよう小さく揺すれば呻き混じりの返事があり、うっすらと目が開かれる。

その瞳は少しの揺らめきの後にしっかりと定まり、それに酷く安心した。

 

 

「あはぁ、よかった……! へ、平気か? これケガ、つーか腕、うあぁ……!」

 

「……君か。これくらい、何てこと無い。それより、ごほっ、君の方こそ――」

 

 

インク瓶が蹴られたおなかを庇いながらも身を起こした直後、廊下の先でバタバタと物音がした。

 

見れば、さっきの男たち二人組の内、私が投げ飛ばした方が消えていた。

代わりに近くの防火扉のくぐり戸が軋みながら揺れていて、そこから逃げ出した事が窺える。もう一人の蹴り飛ばした方はぐったりと床で伸びており、どうやら見捨てられたようだ。

 

 

「あんのやろッ、逃げやがった……!」

 

「……大の男二人を追っ払うのか。凄いな、君……」

 

 

音のする方角へ目を細め、インク瓶は溜息ひとつ。

 

そしてどうにか立ち上がろうとするものの、その動作はぎこちなく、頼りない。

受けた暴行の痛みが邪魔をしているのか……それとも、右腕が無いせいでバランスが取れないのか。あまりにも見ていられなくて、すぐに肩を貸して支えてやる。

 

 

「……すまない、助かるよ。とりあえず、そこの病室まで運んでくれないかい」

 

「え? わ、私達もこのまま逃げるとかじゃないの……?」

 

「ああ、ちょっと隠してるものがあってね……頼むよ」

 

 

そう苦痛を堪えながら言われてしまうと断れもせず、示された病室に引きずって行く。

 

もっとも、背もあまり高くなく、身体つきもひょろっちぃインク瓶だ。体重も驚くほどに軽く、一瞬「コイツ風船か?」とすっとぼけた疑問すら抱いたほどだ。

……腕一本がないから、こんなにも軽いのだろうか。ふとそんな事も思ってしまい、唇をきつく噛む。

 

 

「……え、えっと、この部屋でいいの?」

 

「そう。僕の言いつけを守ってくれていればの話だけどね」

 

「言いつけ……?」

 

 

辿り着いた病室の前で首を傾げた私をよそに、インク瓶は残った左手で扉を引いた。

そこには何の躊躇も警戒も無く、私は反射的に身を固くして――そして開かれた病室を目にした瞬間、ぱちくりと左眼を瞬かせた。

 

 

「え……ひ、人?」

 

「ひっ……、へ? ぁ……インク瓶、さん……」

 

 

室内には、ボサボサ頭の少年が一人隠れていた。

 

私達と同じ立場の一人だろう。先の私と同じくベッドの下に隠れていて、突然開かれた扉に怯えていたようだった。

しかし私とインク瓶の姿を認めると、おずおずと這い出して来る。

 

 

「は、はは……な、何とかなったんすね……? その、白いキミも、あー……はは」

 

 

そう引き攣り笑いをする少年には左腕が無く、這いずるのにも苦労しているようだった。

 

なもんで、ひとまずインク瓶を椅子に座らせ少年を引っ張り上げてやろうとしたのだが……近づいた途端、何故か小さく悲鳴を上げて再びベッドの下に引っ込んでしまった。なんだコイツ。

 

 

「……まずは、無事でよかったと言っておくよ」

 

 

ベッドの下を覗き込んで首を傾げていると、インク瓶の呟きが落ちた。

 

しかし振り向いてみれば、言葉とは真逆のキツい目つきが飛び込んだ。

それはもはや睨みつけていると言ってもいい形相で、私は酷く動揺してしまう。

 

 

「ぁ……え? な、なに、どうしたの……?」

 

「は? ……ああ、すまない。眼鏡が無いと碌に物が見えなくてね」

 

 

インク瓶はそんな私に怪訝な顔をすると、すぐにその理由に気が付いたのか目元から力を抜いた。

 

……そういえば、確かにいつもかけてるゴツい丸眼鏡が無い。

アレはどうやら伊達ではなかったらしく、さっきの顔も単に目を眇めていただけらしい。心底ホッとし、震える吐息を吐き出した。

 

 

「な、なんだよ紛らわしいな……てか、無事でも何でもないし、よくもないだろ。私もそうだけど、あ、あんただって、腕……」

 

「こんな状況なら、動ける状態なのは一応喜んでいいと思うけどね。……ところで、『私も』って事は、やはり君も身体を……? 視界がぼやけてよく分からないんだ」

 

「…………右の目ん玉、なくなった」

 

「そう、か……痛みとかは、平気かい」

 

「ん……」

 

 

色々なものを我慢して短く頷けば、インク瓶は「僕もだ」と右腕のあった部分に手を添え溜息を吐く。

 

その表情は苦み切ったものだったが、それ以上には変わらなかった。

彼自身も腕一本を失い、おまけに何でか暴行まで受けてのズタボロ状態だというのに、取り乱した様子はあまり無い。

 

それはいつもの通りの冷静さで、いつもの通りに頼もしかったけど……今は少しだけ、落ち着かなかった。

 

 

「……ねぇ、今、どうなってんの」

 

 

その気持ちを誤魔化すように、インク瓶へと一歩近寄る。

 

 

「私、あの会場でオカルト話聞いててさ、そしたら、いきなりこんなとこで目が覚めて……眼も、こんなで」

 

「……ああ」

 

「ぜったい、あのオカルト話と同じのだよな。それに何か、肌色の変なヤツ居るし、外にも変なの居て出らんないし……あ、あんたも腕っ、それに蹴られててっ。わけわかんない……何が、なん、なんなんだよぉ……!」

 

 

しかし言葉は途中でとっ散らかって、すぐに弱音が口を突いた。

 

病室で目覚めた時のような癇癪とまではいかない。だけど気付けば片手がインク瓶の患者衣の端を握り締めていて、離れなかった。

インク瓶はそんな私の姿にどうしてか苦しそうに顔をしかめ、眉間に深い溝を作って目を閉じる。そしてそのまま少し経ち、やがて深い溜息が病室の中に落とされた。

 

 

「……悪いけど、今の僕じゃ確かな事は何も言えない。持ってるものは何も無いし、視界も霞んでまともに周囲を把握出来ていないんだ。ここまで脱落しないでいられているのが奇跡みたいなものなんだから、その辺りを理解して欲しいものだね」

 

「なんでそんなんで上から目線になれんの……?」

 

「とにかく現状は僕も文字通りの手探りって事さ。何を話すにしても曖昧で、『かもしれない』と『だと思う』が満遍なく付いて来る。……それでも、」

 

 

最後まで聞く事なく、一も二も無く頷いた。

その躊躇の無さにインク瓶は一瞬視線を揺らし、やがて「……ああそう」と小さく鼻を鳴らした。

 

 

「今の僕の推測としては、おそらく君の考えているものとほとんど同じさ。ひゅどろんチの連中が語っていた廃病院の怪談――僕達はどういう訳か、あの話を実体験させられているんだと思う」

 

「うん……」

 

「……正直、それ以上何かを話すのも難しいんだが……そうだね、とりあえず、僕がここに至る経緯でも話そうか」

 

 

そこの彼についてもそろそろ説明しておきたいしね。

そう言ってインク瓶がベッドの下の少年へと目をやった。忘れてた。

 

 

「君もここで目が覚めたような事を言っていたけど、僕も似たようなものだよ。会場に居た筈なのに、気付いた時にはこの階の病室に居た。ご覧の通り、右腕を失った状態でね」

 

「…………」

 

「眼鏡も相棒の手帳も無かったから、状況把握に非常に時間がかかった。そしてひゅどろんチの怪談に巻き込まれているとアタリを付けた僕は、君を探しがてらに彼らも探し出そうと病院内の探索を行う事にした訳だ。ステージの端でぶつくさ言ってただけの僕がここに居るのなら、あの場に居たほとんどが巻き込まれていると見たからね」

 

「……えっと、アイツらが前にこのオカルトに巻き込まれた時、どうやって助かったのか聞くため、だよな?」

 

 

そう、さっき遭遇したエレベーターと歪いびつの事を考えれば、ひゅどろんチのヤツらも同じく過去本当にこの廃病院のオカルトと遭遇し、そして生還していた事となる。

会場での話のうち、どこまでが事実でどこまでが創作なのかは分からないが、やっぱり話を聞いておくに越した事は無いだろう。

 

というか歪いびつもそうだが、霊視できないのによく無事でいられたよな。ひっそり感心していると、インク瓶は怪訝な顔して首を傾げ……しかしすぐに何かを察したように頷いた。なんだよ。

 

 

「ああ、そうか。君はこの廃病院の怪談……このオカルトが以前から実在していて、今日この日に出現したとか引き寄せられたとか、そんな風に考えているのかな」

 

「え? いや……そういう感じ、でしょ? さっきのエレベーターと歪いびつだって、たぶんそんなアレで……」

 

「……いびつ君と会ったのか? いや、それよりエレベーター? どういう事だい?」

 

 

ポロッと零せば、インク瓶が私の方に身を乗り出した。

 

またキツくなった目つきに気圧されながらも先のエレベーターでの一幕を話せば、彼は眉間のシワを深め、暫く黙考。

私もなんとなく声を掛けるのが憚られ、チラチラとベッドの下に意識を向けつつじっと待ち、

 

 

「……なるほど。なら、このまま進んで良さそうだ」

 

「っ……な、何が?」

 

 

そして何某かの推察でもついたのか、鼻を鳴らしてじろりとこちらを睨めつける。

……いや、視界がぼやけてるからってのは分かるけど、やっぱその度ビクッとなる。

 

 

「……ビルの休憩室で言ったと思うが、今回のイベント出演者に霊能力者は居ない。そして当然霊視持ちも居ないから、オカルト体験記を事細かに残せる訳もないんだ。分かるだろ?」

 

「で、でもさ、実際にこうなってて……」

 

「そう、事実として現状がある。ならそれは――今回のオカルトは、創作から発生したものだって事さ」

 

 

……よく分かんないこと言うなよぉ。

そんな内心がしおしおと顔に出ていたのか、インク瓶が苦笑した。

 

 

「おそらく君の考えとは因果が逆なんだよ。過去に出遭ったオカルトをネタに怪談を作ったのではなく、怪談を創ったからこそ、そのオカルトが生まれてしまった」

 

「……えっと……」

 

「ざっくり言えば、今この場では作り話が本当の事になっている――いや、厳密には違うのかもしれないが、ひとまずはそんな認識で不都合はないと思うよ」

 

 

その要約でやっと何が言いたいのかは分かったけれど……いや、納得できんわ。

 

今回のオカルトがほんとは単なる作り話だったって、おかしいだろ。

実際に今酷い目に遭ってんだぞ。噓から出た実とか、そういう次元じゃないだろ……?

 

 

「例えば、言霊という考え方がある。口にした言葉には霊が宿り、現実化するという信仰だ。君に馴染みのある言い方だと、おまじないの一つって事になるんだろうが……」

 

「……や、あの、おまじないったって無理あんでしょ。作り話喋っただけで、こんなとかさ……」

 

「勿論、他にも要因はあるとみているが、起こっている事だけを見るならほぼ相違ない。ひゅどろんチの怪談だけでなく、会場で語ったいびつ君の怪談も現状に混じっているようだし……彼も、だからこその行動だったんだろうしね」

 

「行動?」

 

 

ぽつりと首を傾げれば、インク瓶は左手の人差し指で虚空をつつく。エレベーターのボタンを押すジェスチャーだ。

 

 

「君がこの階に来る時、いびつ君が案内してくれたって話じゃないか。つまり彼は、そのオカルトエレベーターがどうボタンを押せばどう動くか、正確に知っていた訳だ」

 

「……アイツがあの怪談の作者で、そういう『設定』にした張本人だった、から?」

 

 

これまでの話の流れを思い出しつつ相槌を打てば、インク瓶は同意するように眼鏡の位置を直す動作をした。今眼鏡ないけど。

 

 

「……彼の作風は明確な答えを提示しない曖昧模糊なものが主だが、それはそれとして設定自体は作り込むタイプではある。だからきっと、あのエレベーターの怪談にも色々と裏設定があった筈だ。例えば……ボタンの押し順である程度どんな階に着くかを指定できる、とかね」

 

 

単なる想像だけど、とインク瓶は左肩をすくめるけれど……たぶん正解なんだろう。

 

エレベーターの中で見た歪いびつのボタン捌きに澱みは無く、明らかに分かっているヤツの動きだった。

だからこそ私は彼が一度エレベーターのオカルトを切り抜けているものと思った訳だが、今思えばそれにしたって詳しすぎる。そもそもあのオカルトの作者で、根っこから全部知っていたのだとすれば、あそこに籠城を選んだ事含め納得がいった。

 

 

「そしてこの廃病院も、間違いなくひゅどろんチの創作だ。彼らとはあまり交流が無いから詳しい手癖までは把握できていないが……院内を徘徊している何かの存在を見るに、何の『設定』も考えていないという事は無いだろう。僕が彼らを探すと決めたのは、それを事細かに知るためだ」

 

「……歪いびつみたいに、助かるための裏設定を作ってるかもしれないって?」

 

 

……まぁ無くはないかもしれないが、どうだぁ?

ひゅどろんチの軽い語り口を思い出すと、そんなに細かく設定作ってる感じには思えないのだけれども……。

 

 

「……君の言いたい事は察するが、可能性自体はあるからね。とにかく、そうして非常に苦労して病院内を探索していたんだが――無事に彼らの一人と遭遇出来たのは、本当に幸運以外の何物でもなかったよ」

 

「……えっ、もう会ってんの!?」

 

 

言葉の意味を理解した瞬間、思わず大声を上げてしまった。

我に返って慌てて口を抑える最中、インク瓶の目線がベッドの方へと向いた。

 

 

「そこに隠れているだろ。スミト君――確か、ひゅどろんチの末っ子担当だったっけ?」

 

「……ひゅ、ひゅ~どろ~……」

 

 

するとベッドの下から、蚊の鳴くような声でどっかで聞いた挨拶が流れて来た。

イベントが始まる前、関係者休憩室でナンパしてきた黒キノコの声音だった。お前だったんかい!

 

 

「彼は同じ病室で目覚めたという男性二人……さっき僕をボコボコにしてた二人なんだが、彼らと行動していてね。僕も合流させてもらった訳だ」

 

「は……な、仲間だったの、アイツら……」

 

 

ただの暴漢と思ってかなりガチ目にぶっ飛ばしてしまったんだが。

未だ廊下で気絶している筈の男の方をおろおろ見やるが、インク瓶はただ首を振るだけだった。

 

 

「仲間……というほど仲良くはなれなかったけどね。彼ら、スミト君にやたらと当たりが強くて、冷静じゃなかったから」

 

「……やっぱ、取られた身体の事で錯乱してたの?」

 

「それもあるが、スミト君を事の元凶とまで思い込んでいたみたいでね……まぁ、後は想像できるだろ」

 

 

そこで一旦話は区切られたが、なんとなくの察しは付いた。

たぶん黒キノコへの暴行にインク瓶が割って入って、そのまま彼にも矛先が向いたのだ。

 

……この廃病院の怪談をしたのはひゅどろんチだ。ソイツらが何かやったと考えてどうこうってのは理解できるけど、ただの解説だったインク瓶にまで行くのか。

 

自然と眉間に力が入るものの、とはいえ私も目覚めた直後は暫く癇癪が止まらなかったし、気持ちとしては分からなくも無いのがすごくイヤだった。

同時に歪いびつの怪我とあの怯えようの理由もうっすら察して、溜息が出た。

 

 

「そうしてスミト君を逃がして、代わりに文字通りの踏んだり蹴ったりにされてる内、君に助けて貰ったという流れだ。改めて感謝しておくよ、ありがとう」

 

「……ん」

 

 

……そう直球で言われると、なんか困る。

なんとなくモゴモゴとしていると、インク瓶は「さて」とまたベッドの下の黒キノコへと向き直り、穏やかさを意識したような声音で話しかけた。

 

 

「これまでの話、君もそこで聞いていただろう? その上でこっちも改めて聞きたいんだけど――この廃病院の『設定』について、何か知っている事は無いかな」

 

 

どうやら暴行のゴタゴタでまだちゃんと聞けていなかったらしい。

 

その静かな問いかけに黒キノコはすぐには返さず、ベッドの下で黙り込む。

そしてやがてボサボサ頭の半分だけ出すと、震える瞳でインク瓶と私とを交互に見比べた。

 

 

「……す、すいません、詳しくは、知らないです……。そういうの、あ、兄貴がみんな決めてるんで……」

 

「……ふぅん。お兄さんというのは確か、赤いマスクの?」

 

「は、はい、YOTO(ヨート)……アイツ、全部、アイツなんで……っ」

 

 

最後にそう吐き捨てると、黒キノコはまたベッドの下に引っ込み出て来なくなった。

 

……どうなんだ、これ。

縋るようにインク瓶へ目を向ければ、彼は感情の読めない顔で考え込んでおり、それ以上の追及は無いようだった。

 

そうなると私もどうすれば良いのか分からず、病室の中に気まずい沈黙が横たわり、

 

 

――その時、遠くで誰かの悲鳴が轟いた。

 

 

「っ!?」

 

「ひぃっ!?」

 

 

自信はないが、さっき逃げていった男の声のようにも思えた。

 

この病室からかなり離れた場所で上がっているらしく、くぐもっていてハッキリとはしない。

しかし、声の主がとても苦しんでいる事はこれ以上なく伝わって――突然ぷつりと途切れ、それっきり。

 

……誰も、何も言わない。身じろぎの一つもしないまま、ただただじっと耳を澄ませ――。

 

 

「――、」

 

 

ぺたり。

私の鼓膜を、小さな物音が揺らした。

 

これまで何度も聞いた、肉が床を叩く音――肌色の何かの、足音。

ともすれば聞き逃しそうなほどに幽かなそれは、少しずつ、少しずつ、大きく、そしてその間隔を狭くする。

 

――走って、こっちに近付いて来ている。

 

 

「っ、まずい、早くどっか隠れ――」

 

 

咄嗟にインク瓶へと駆け寄ろうとして、はたと気付いて振り返る。

 

そうだ、病室前の廊下――そこには、さっき蹴飛ばした男が転がっているままだ。

放っておけば、まず確実に肌色のヤツと鉢合わせる事だろう。思わず大きな舌打ちが漏れる中、私はひとまずインク瓶をベッドの端へと運んだ後、慌てて病室の外に出た。

 

 

「っ……君、何を――」

 

「先隠れてなよ! ベッドの下もう一人くらいいけんだろ!」

 

 

病室の中に吐き捨てつつ見回せば、件の男はまだ床で伸びていた。

 

……死んでないよな?

少し不安に思ったものの、ぴくぴく痙攣してるしまだ生きているようで一安心。その片足をひっ掴み、ずるずると急ぎ病室に引きずり戻る。

 

――ぺたたたたたたたたたたたたた。

 

 

「っ、やべ……!」

 

 

足音が突然速度を上げた。

 

見るとやはりと言うべきか、足音はさっき男が逃げた防火扉の奥から響き、すぐそこにまで迫っている。

隠れる時間あるかこれ。私は焦燥に駆られるまま、全力で病室に飛び込んで、

 

 

『――憤ッッッ!!!』

 

 

――寸前。防火扉の向こうから突如轟いたその声に、思わず足が止まってしまった。

 

 

『憤ッ! 憤ッッ!! 憤ンンンッッッ!!!』

 

「……は、え?」

 

 

……どっしりと気合の入った、濃ゆい男の声だった。

 

それが一つ響く度に何かを打ち据えるような音も聞こえ、何度も何度も繰り返される。

肌色の足音は気付けば聞こえなくなっていて、野太い喝声だけがよく響き……じゃなくって。

 

 

(……え、これ、向こうで誰か戦って、る? は? マジ……?)

 

 

ウソだろ、と思えど、そうとしか思えず。

あまりにも唐突に過ぎる展開に、状況も忘れて呆然とする。

 

 

『――ぐうぅ! 救出は無理か……ッ!!』

 

「!」

 

 

しかし、向こうの状況もあまり良くないようだ。

喝声の合間にそのような呻きが混じり、ぺたぺたという足音も少しずつ戻って来る。

 

……私はほんの僅かに迷った後、掴んでいた男を放り投げ、防火扉へと駆け寄った。

 

 

「――おい! 誰か知んねーけど、こっち!!」

 

『むッ!?』

 

 

そしてくぐり戸の向こうへそう声を掛け、近くに落ちていた小さな瓦礫を手に取った。

 

すると一際大きな轟音が響いた後、防火扉の先から誰かが走って来る。

そしてソイツがくぐり戸を抜けたのを確認した瞬間、瓦礫を戸の隙間に挟み、力任せに閉じ込んだ。

 

 

「おらっ――!!」

 

 

けたたましい音と共に、金属のひん曲がる異音が響く。

引っ掛かりのあるまま強引に閉じ切られた戸が歪み、開閉機構がイカレたのだ。

 

こっち側から閉められる鍵が無かった故の緊急措置だが、これでちょっとやそっとじゃ開かなくなった筈だ。

軽く戸を押し、ビクともしない事を確かめて――直後、ガタガタと激しく戸が揺れた。

 

 

「っ……」

 

 

向こう側から、何かがくぐり戸を開けようとしている。

しかし幾らドアノブを引っ張ったところで、歪んだ戸は決して開く事はない。そうしてガチャガチャやる内に、やがて諦めたのか静かになった。

 

……ここで体当たりとかしないあたり、やっぱり変に理性を感じて気持ち悪い。

薄気味悪さが背筋を撫で上げる中、ぺたりぺたりと防火扉から足音が離れていくのを確認し、震える息を吐き出して……そこでやっと、さっき飛び込んで来た男の方へ目が向いた。

 

 

「――やれ、助かったよお嬢さん。君の導きが無ければ、流石の私も多少は危ない所だったかもしれんな」

 

 

そこに居たのは、ガッチリとした体型の壮年男性だった。

私達と同じく患者衣一枚なのに頼りなさはまるで無く、自信満々に腕を組んでの仁王立ち。

 

――霊侭坊巖常。

 

イベント出演者の一人であるエセ霊能力者。

自称・剛拳の除霊師の剛拳おじさんが、右耳の欠けた顔にこってりと黒光りする笑みを浮かべていた。

 

 

 

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