異女子   作:変わり身

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「怪談」の話(中⑬)

 

 

 

気絶中の金髪男は、そのまま寝かせておく事にした。

 

さっきの錯乱具合を見るに精神的に相当キているようだったし、起こしても面倒な事態になるのは目に見えている。

身内の筈の黒キノコも、彼からの暴行を受けたばかりのせいか非常によそよそしく、むしろ率先して置いていく事を提案していた。というか金髪男と一緒に居たくないから私に着いて来る部分もあるらしい。そりゃそうだ。

 

まぁ、あの隠し部屋なら『何か』に襲われる事も無いようなので、下手に連れ歩くより安全である事に間違いは無い。

置き去りにすると言えば聞こえは悪いが、実質的には安全圏への避難措置。私としても反対する理由は無く、話はスムーズに纏まった。

 

そうして元のマップを知っているという黒キノコを先頭に、暗闇の中を歩いてゆく。

彼の話の通り、天井裏の隠し通路と比べて分岐は少なめに思えた。私の首も勝手に回る事は無く、ただ黒キノコの背を追った。

 

 

「……ひゅどろんチってさ、元は兄貴一人でやってたんだ」

 

「……?」

 

 

するとその最中、懐中電灯で前方を照らしていた黒キノコがぽつりと零した。

 

いきなり何だよと思ったが、狭くて暗い中を黙々と行くのも気が滅入るものがある。

気を紛らわせるにはいいかと、ぼんやり耳を傾けてやる。

 

 

「今みたいな心霊系じゃなくて……突撃系っていうの? 話題の人とか場所に突撃して、取材やらなんやらするっていう……」

 

「……それ迷惑系って言うんじゃねーの」

 

 

少なくとも、あの金髪男が真っ当な取材とかするとは到底思えないんだが。

胡乱な視線を向けてやれば、愛想笑いで誤魔化された。おいコラ。

 

 

「まぁでも、あんまり数字伸びなかったみたいでさ。あれこれ色んな方向に手ぇ出して……一番上手くハマったのが、心霊スポット凸配信。それで勢い付いて、ジャンル定まった」

 

「ふーん……」

――やっぱり人気出るよねぇ、そういうの。

 

「後は元々心霊スポット配信者だった他の二人……青いマスクと白いマスクの人ね、を巻き込んで、ようやく今のグループになった感じ」

 

「へー」

 

 

コイツらにも色々と歴史があった、というところだろうか。あんまり興味湧かないけど。

そんな風になんとなく生返事を返していたが、話の中に黒キノコの存在が出てない事にふと気付く。

 

 

「あんたは何なの。今の話だと三人グループって感じだけど」

 

「あー、オレは兄貴が心霊路線入った頃にホラー系のネタ書けって言われて、そっからなぁなぁで。その時友達だった女の子が呪いとかオカルト系のやつに詳しかったから、付き合いでそこそこ知識あっ――……ぁっぐ、ぅぅ……!」

 

「……お、おい?」

 

 

話している途中、黒キノコが突然おなかを抑えて苦しそうに蹲った。

 

その顔色は青白く、脂汗すら流している。慌てて介抱するものの、ただ背中に触れる事しか出来ず――しかしその内に収まったのか、少しずつ顔色が元の色に戻ってゆく。

 

 

「ぅう……も、う、大丈夫……おち、落ち着いた、んで……はは、は……」

 

「……もしかしてさ、あんた最初にボコボコにされた時、おなか強く蹴られたりとかしたか……?」

 

 

黒キノコと遭遇してからこちら、私はコイツがおなかを抑えて顔色を悪くしている姿をちょくちょく目にしている。

こんな状況だし、ストレスで胃がおかしくなっているのかとも思っていたが……この苦しみ様と先に暴行を受けている事を踏まえると、嫌な想像が頭に浮かぶ。

 

しかし黒キノコはゆるゆると首を振りつつ、細長い息を吐き出した。

 

 

「いや、なんか……ボコられる前、ここで目が覚めた時からずっとこんな感じで……。こう、腹の真ん中あたりがズキッとすげぇ痛くなって……あー、どう言えばいいんだ……」

 

 

本人も苦痛の原因が分からないのか、その言葉はあやふやなものだった。

そして言い淀む内に諦めたようで、よろめきながらも歩き出す。

 

 

「少し耐えてれば収まるから、どうにかなってるけど……な、何なんだろうな……」

 

「…………」

 

「……これもインク瓶さんに話せば、何か教えてくれたり? ……なんて、はは」

 

 

その乾いた笑いに、私は何も返す事が出来なかった。

それきり会話も止まり、沈黙が広がる。ぺたぺたという私達の足音だけが、暗闇にやたらと大きく木霊した。

 

 

「……あの、キミの方は、何なの」

 

 

するとその息苦しさを嫌ったのか、黒キノコが若干上ずった声で問いかけて来る。

 

 

「……何って、何が」

 

「ほ、ほら、インク瓶さんとはどういう……的な。霊侭坊さんのとこでなんとなくは聞いたけど、やっぱよく分かんないとこもあったし……」

 

「……んー」

 

 

……私とインク瓶の関係ねぇ。

少し考えてみるけど、私的にストンと落ちる表現が出て来ない。

 

とはいえ何も言えないのもシャクな気がするので、とりあえず客観的な関係性だけ切り取っておく。

 

 

「……私の『親』がアイツと友達なんだよ。その縁で色々あるといつも助けてくれてる感じ」

 

「へぇ……あー、ええとその、色々あるとってのは……ひょっとして今みたいな?」

 

 

今。

つまりはオカルト関係のトラブル。

 

渋い顔して頷けば、黒キノコの瞳にどこか期待の色が見えた。

 

 

「そ、そうなんだ……じゃあ、キミも慣れてんだね、こういうの――」

 

「言っとくけど、経験あってもどうにか出来るってんじゃないんだからな。あんま面倒みてらんねーぞ」

 

「……別に、何も言ってないじゃん……」

 

 

なんとなく流れを察したので先んじて釘を刺すと、気まずそうに唇を尖らせる。

図星だったらしい。年上の癖に女子中学生に寄っかかろうとしてくんなや。

 

 

「……つーか、こういうのでいつも助けてくれるとかさ、ほんとにガチ霊能者なの? インク瓶さん」

 

「は? 今更? 私よりずっと前に合流してたんだろ?」

 

「いや……すげぇ場慣れしてんな、冷静だな、とかは思ってたけど……」

 

 

……まぁ、インク瓶は霊能力者なのは確かだけど、火とか煙とかを吹ける訳でも無い。

今まで見て来た限りでは、彼が発動できる不思議パワーは黒インクを用いたおまじないや、手帳を意味深に展開するといったもの。傍目に分かりやすいものじゃないし、どちらも無い今の状況じゃ発動も出来なかった。

 

たぶん黒キノコの中では、インク瓶は霊能者ではなくオカルトに精通した専門家のジャンルだったんだろう。考えると霊能者枠って剛拳おじさんとかだしな……。

 

 

「じゃあもしかして、キミも……霊能者、みたいな?」

 

「…………」

 

 

ハイそうでーすと頷きたくは無いが、イイエちがいまーすと首を振れる訳も無く。

 

さっき以上の渋い顔でダンマリを決め込めば、黒キノコは何かしら勝手に察したようで、納得と感嘆の混じった息を吐いた。

 

 

「……なるほど、キミの見た目とかヤバい馬鹿力とか、霊能力的なあれなんだ」

 

「ちげー……、……」

 

 

否定しようとして、ふと止まる。

 

……いや、でも、その可能性もあるのか?

私が霊視なり何なりの明確なオカルト能力を得たのは、御魂雲の血に目覚めさせられてからだ。それは間違いないのだが……それ以前の私だって、御魂雲の血を引いていたのには変わらない。

 

だったら――自覚してないだけで、昔から何かしら影響が出ていた部分もあったのでは?

それがこの真っ白けな色合いであり、バカ高身体能力とかだったりしたのでは……?

 

あと数日もすれば十四年目の付き合いに突入する私の肉体。そこに思っても無い新説が湧き、若干動揺してしまう。

 

 

(……う、ううん……けど『親』には他に私みたいの居ないんだよな……やっぱ違うか……?)

 

「……え、な、何? もしかして何か感じ取ってたりする……?」

 

 

そうして考え込んでいると、その沈黙が別の意味に取られたようだ。

慌てた黒キノコが忙しなく懐中電灯を振り回し始め、視界がチカチカ鬱陶しい。

 

……正直ちょっとじっくり考えたい疑惑だったが、今はそんな場合じゃないか。

思考にこびり付くものをひとまず奥に押しやって、通路の先へと意識を戻し、

 

――ガン、ゴン。

 

 

「ひっ……!?」

 

「っ……」

 

 

その時、暗闇に騒音が木霊した。

 

前に聞いた悲鳴のような、壁の外側からのものじゃない。

間違いなく通路の先から響いて来たその音に、私達はそれぞれ身構えて――しかしそれが上の方から下に流れて行く事に気付いた瞬間、黒キノコがハッとして駆け出した。

 

 

「あっ、おい!?」

 

「ち、近く! たぶん近くにある! 地下の道!」

 

 

そして短くそう返し、音のした方へと向かってゆく。

私は引き留めようか一瞬迷ったものの、すぐに伸ばしかけていた手を引っ込めて追いかけた。

 

 

 

 

 

「やっぱりあった……!」

 

 

そうして幾度か分かれ道を曲がって辿り着いた行き止まりに、通路の幅いっぱいの大きな穴が広がっていた。

 

いや、穴というより、そういう経路なのだろう。

その真上には同じような穴が開いており、奥の壁側には昇り降り用の凹凸が刻まれ、上下両方の穴の先へずっと続いている。私が最初に入った、多目的トイレからの隠し通路と似た造りのようだった。

 

 

「……これがダストシュート? ゴミ捨て場に続いてんの?」

 

「うん……ああほら、あれ」

 

 

底の見えない穴を覗き込みつつ問いかけると、穴の中壁の一点にライトの光が向けられる。

 

そこにはまるで擦ったような赤黒い筋があり、よく見れば同じものがそこかしこに残っていた。

続いて向けられた上の穴も似たような状態で、中には溶いていない絵の具がこびり付くように、うっすら盛り上がっている部分もある。……なんとなく、イヤな感じ。

 

 

「上から投げ入れられた人のパーツが、落ちてく途中で壁にぶつかってるんだ。さっきの音も、たぶんそれ」

 

「うげ、じゃあこれ全部血とか肉とかか……いくらなんでも捨て方雑過ぎ――」

 

 

――と、顔を顰めて穴の中を眺めていると、とあるものが視界をよぎった。

呼吸が一拍止まる。咄嗟に黒キノコの手から懐中電灯を奪い、その一点に光を向けた。

 

 

「うわっ!? な、なに、いきなり、」

 

「――インクだ……」

 

 

照らし出された壁の一部。

赤黒い血肉の筋に混じり、真っ黒な線がくっきりと刻まれていた。

 

その色合い。光を照り返す質感。

いつも手に取って眺めている私が間違える訳が無い――あれはインク瓶の、黒インクだ。

 

 

(は……な、なんで……!?)

 

 

ライトを振れば、他にも幾つかインクの痕が確認できた。

どうやらこの穴の下に落ちて行ったようだが――でも、何が?

 

私のインク? 没収されてたのがここに捨てられた? ゴミ捨て場だから?

何か変だ。どこから、でもインクが。違うなら何が。落ちてってるじゃん。下に、インクが――。

 

 

「……ど、どした? 何か見つけた? ……行かないの?」

 

「!」

 

 

おずおずとかけられた黒キノコの言葉に、とっ散らかっていた思考がぎゅっと固まった。

 

……そうだ。何が落ちてったのかは分からないけど、黒インクに纏わる何かという事だけは間違いないのだ。

なら行動は変わらないし、行った先で答えも分かる。私は鼻息吹いて残った混乱を追い出すと、懐中電灯を黒キノコへと投げ返し、

 

 

「――ごめん黒キノコ、ちょっと先行ってる」

 

「え? あ、あぁうん……? ……えちょ黒キノコって何、」

 

 

 

そして右眼をひとつ擦り、穴の中へと飛び込んだ。

 

 

 

 

 

 

とん、とん。

壁の凹凸と反対の壁を蹴り伝い、文字通り落ちるように降りてゆく。

 

穴は思ったよりも深く、思った通りに真っ暗だ。

ライトも無く、先も周囲も全く見通せない状況だったが、どうしてかそこまで恐怖は無かった。

壁と凹凸の間隔もまるで手に取るように把握でき、危なげなくタイミングを合わせてゆく。

 

――こっちで見てあげられるからって、無茶するよねぇ。

 

 

(……ん? 光?)

 

 

そうしてハイペースで降りて行くと、程なくして下方が明るくなって来た。

 

見れば先が光の形に四角く切り取られていて、この通路の終わりが近い事が窺える。

階層ぐちゃぐちゃ状態の割に意外と短かったな……とも思ったが、それも黒キノコの設定のおかげという事なのだろう。

 

ともかく壁を小刻みに蹴って降りるスピードを緩め、出口の近くあたりで凹凸を掴んで身体をストップ。

そのまま気配や『何か』の足音がしないか警戒しつつ、慎重に下の様子を窺った。

 

 

(……何だ? 地面が流れてる……?)

 

 

すると、見える範囲の床がゆっくりと動いている事に気が付いた。

 

どうも穴の真下がベルトコンベアー……というより、平面エスカレーターのようなものになっているらしい。

微かな駆動音と共に赤黒いシミが延々と右から左に流れ続けていて、それが妙に不気味さを煽る。

 

 

(『何か』は……居なさそう)

 

 

そして穴の外に例の足音や声が無い事を確認。

壁の凹凸を掴んだままゆっくりと部屋の中へとぶら下がり、上方からそこの様子を見まわした

 

 

「ここがゴミ捨て場……?」

 

 

大きいというより、長い部屋だった。

天井は低めだったが奥行きはあり、点々と設置された簡素な裸電球が室内をまばらに照らし出していた。見た感じ、『何か』はもちろん人の気配も感じられない。

 

……そう、当然、インク瓶の姿も――無くて。

 

 

「――……」

 

 

少しずつ、少しずつ指先が冷たくなっていくのが分かる。

そのまま身体の力が全部抜けそうになって――だけど、さっき見た黒インクの筋の事を思い出し、ちょっと無理して顔を上げた。

 

――まだ、決まってない。滲む視界を振り払い、口の中で呟いた。

 

 

(……インクの何か、あるとすればこの先か……)

 

 

おそらく、このエスカレーターの先で落ちて来た『ゴミ』の処分か何かをしているんだろう。

だったら穴の壁にインクの筋を作った何かも、当然そっちの方に運ばれていった筈。

 

私はぶら下がったまま、エスカレーターの流れを追って部屋の奥側へと目をやり――途中、飛び込んで来た光景に息を呑んだ。

 

 

「う……」

 

 

エスカレーターの途中に、幾つもの人間のパーツが引っ掛かっていた。

 

私達から抜き取られたものだろうか。

腕や脚、耳や鼻、目玉や性器に、そして内臓。堰き止められた様々な人体パーツが積み重なり、悪趣味な小山を成しているのだ。

 

……以前、蜘蛛の地下で見た『親』の腐乱死体の山よりは色々とマシだけど、だからって好んで見たいもんでもない。

認識した途端に感じ始めたイヤな臭いに、私は片手で口を抑えて目を逸らし、

 

 

「――、?」

 

 

その寸前、『それ』の存在に気が付いた。

 

一瞬普通に流しかけ、遅れて理解し慌てて人体パーツの小山に目を戻す。

正確には、それらをエスカレーターの途中で堰き止めているもの。壁と機構の隙間に上手い事ひっかかりつっかえ棒となっている、パーツにしては大きな影――()()()()()人間の形。

 

――誰かが、あのパーツの小山に埋まってる。

 

 

「っ、ま、まさか、まさか――!」

 

 

私の心が期待に跳ね、即座に部屋の中へと降り立った。

 

 

(い、言った通り、ほんとに――じゃない、今は早く……!)

 

 

あんな風になるまで動いてないって事は、意識を失っているのかもしれない。

早く、早く助けなきゃ――私は全速力で駆け寄って、血や内臓が肌にこびり付く事も厭わず、その人影の右腕を掴み力任せに引っ張り出して、

 

 

(――右腕?)

 

 

……インク瓶、なくなってんの右腕じゃなかったっけ。

 

違和感。

しかし身体は最早止められず、勢いのままその人の身体が宙を舞う――。

 

 

「……あ?」

 

 

現れたのは、細身の体型。

崩れの無い変なポーズ。

剥き出しの歯茎と白目。

包帯グルグル巻きの頭。

 

――それはどうしようもなく、センシティヴ邦だった。

 

 

「――おわあああああああああああああああ!?」

 

 

あまりの事に反射的に腕を放してしまい、投げ出されたセンシティヴ邦が頭から墜落。

コン、と妙に軽い音がして彼の身体がエスカレーターの上を転がった。変なポーズを決めたまま。

 

 

「あっ!? なん、え? ぉあ、ご、ごめっ……!?」

 

 

混乱が抜けきらないまま駆け寄り、抱き起す。

 

何でこんなとこに居るのかは一切分からんものの、包帯巻いた頭を強く打ち付けて良い訳が無い事は分かる。

そうして意味不明のままセンシティヴ邦を介抱しようとして――ふと、抱えた頭がやたらと軽い事に気が付いた。

 

何というか、空洞というか、中身が入ってないような――。

 

 

(……あ、頭、包帯、で、ゴミ捨て場……?)

 

 

……状況と場所の連想ゲームでイヤな想像が瞬時に浮かび、恐る恐ると頭の包帯を外した。

すると額の辺りをぐるりと一周するように縫合痕が回っており、彼が何を抜き取られたのか瞬時に察する。

 

 

「――こ、コイツ脳みそ取られてやがる……!」

 

 

普通、人間は脳を取られたら生きていけない。

そして如何に怪人と呼ばれようがコイツも人である訳で、つまりコイツは今間違いなく死んでいるという訳で……。

 

 

「……え? 死ん、は?」

 

 

思わず彼を抱える手から力が抜け、その頭がまた強かに打ち付けられる。

しかしやっぱり何の反応も無く、変なポーズのままごろりと転がった。死後硬直。

 

 

「え……えぇ? ……えぇぇぇ……?」

 

 

立て続けに襲い来る出来事に、上手く頭が回らなくなっていた。

 

目前の死を受け入れられず、理解も出来ない。

ゆっくりと流れるエスカレーターの上、センシティヴ邦の死体の前で私はただただ茫然として……。

 

 

「……?」

 

 

視線の先、センシティヴ邦の死体の指が、何かを指差すように伸ばされているのが目に留まった。

そういうポーズと言われればそれまでなのだが、なんとなくそれを目で追ってしまい……その先に一本の腕が転がっているのを見つけ、目を見張る。

 

 

(――イン、ク)

 

 

それは男性の右腕のようだった。

 

しかしなぜか、その手首から真っ黒な粘液が流れ出ていた。

 

最初は単に汚れているだけだと思ったが、そうじゃない。

どろどろ、どろどろ。次から次に際限なく粘液が湧き出し、エレベーターの上に黒く粘性のある水溜まりを作ってゆく。

 

 

「……、……」

 

 

……私はそれに、これ以上ない見覚えがあった。

そう、間違える筈が無い。間違える筈が無いんだ。

 

私は上手くものを考えられないまま、ふらふらと辺りを見回して――少し離れたところに、赤い革手帳を見つけた。

たぶん、いつもインク瓶が持ってる、愛用のヤツ。私はそれを拾って、その粘液を流し続ける腕の下へと近寄った。

 

 

「……はっ……はっ……」

 

 

そして震える手で手帳を開き、その上に掌で掬った黒い粘液を――黒インクを、そっと落とした。

 

 

「……っ」

 

 

十秒、三十秒、或いは数分。

長く長く引き伸ばされた時の中、私は紙上のインクから目を離せなかった。

 

目が乾く、息が苦しい。心臓が破けるんじゃなかってくらい暴れて、その内潰れてしまいそうだった。

だけどみんな我慢して、黒く流れるインクをひたすらに見つめる。

 

そうして、ずっと、ずっとずっと、ずっとずっとずっと見つめ続けて――ぴくりと、黒、が、

 

 

『――ほらね、合流できたろ』

 

 

――見つめ続けた黒インクが、その一文を作った瞬間。

 

私はインクを流す右腕に飛びついて、手帳と一緒に強く強く抱きしめた。

 

 

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