異女子   作:変わり身

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「怪談」の話(中⑳)

5

 

 

 

『――走れ!!』

 

「!」

 

 

手帳が震え、我に返った。

 

中身を見ないままに地を蹴れば、寸前まで立っていた場所を肉の津波が押し流す。

今まさにその中に消えていったスミトの泣き笑いが鮮やかに蘇り、彼が投げ渡してくれたインク瓶に走りながら縋りついた。

 

 

「――い、生きてんだろ!? 帰れればまだ生きてんだろ、アイツ!?」

 

『スミト君は、おそらくまだね。だからこそ、彼は君にこの手帳を託すという選択を受け入れてくれたんだ。……勇気を振り絞って、僕の言葉を信じてくれた』

 

「……っ」

 

 

硬く静かな筆跡のその一文で、スミトの最期の行動はインク瓶の指示だった事を察した。

さっきの今だ。反射的に強い言葉が口をつきかけたけれど、寸前に舌を噛んで抑え込む。

 

……今回、私はインク瓶の判断した『最善』を信じるのだと、剛拳おじさんの拠点での時に決めている。

一度だけぎゅっと目を瞑り、すぐに開いて走る速度を一段上げた。

 

 

「そんで、どうすんだ! こっからどうすれば何とかなるんだこれ!?」

 

 

もうとっくに手術室から飛び出して、薄暗い通路の真っただ中。

肉の溢れ出す大本である水槽からもだいぶ離れているというのに、津波の勢いが弱まる気配が無かった。

 

むしろ少しずつ勢いが増しており、振り返れば通路の奥側は肉で一杯になっている。

たぶんもう手術室はパンパンになっていて、通路入口からところてんのように押し出されて来ているのだろう。ここまで来ると、このまま逃げ続けていて沈静化するイメージが全く湧かない。

 

するとインク瓶は一瞬の間を置いた後、素早くインクを滑らせた。

 

 

『もう何かを迷うべき段階じゃなくなった。このままオカルトの核まで突っ走り、その干渉と破壊を決行する。成功すれば、リタイアした人達含め全員でこの異界を脱出できる筈だ。いや、僕が絶対にそうさせる』

 

「だからどうやって!? 核ったって、何も……!」

 

『君達、さっきあの怪人と接触できたんだろう? なら、既にその道筋は分かっているんじゃないのかな。……ねぇ?』

 

「は? 何の――」

 

 

――しゅるり。

その問いかけを見た途端、()()()の方からそんな小さな音がした。

 

反射的に手をやれば、指先に糸くずが引っ掛かった。

鉄錆臭い赤に塗れた、細い糸。つまんで少し指を引けばしゅるしゅると伸び、瞼へ微かな疼痛が走った。

 

なんだ、これ。

首を傾げかけ、こんなとこから伸びる糸なんて今は一つしか無い事にすぐ気付く。

 

そう、右眼を取られてしまった後、その瞼を縫い付けていた、縫合糸――。

 

 

「――あはぁ

 

 

ぴん、と。

糸が最後まで引き抜かれ、()()()が、ゆっくりと瞼を上げた。

 

 

 

 

 

 

半分に削られていた私の視界が戻り、通路前方から差し込み始めた夕陽が()()()を撫で上げる。

 

光が強く染みる事は無く、チラつきや眩暈の類も感じないし、頭の中もいい感じ。

……うん、もう少しかな。ぎょろりと、私の中で()()()が回った。

 

 

『……さて、状況が状況だからね。さっきと同じく、お互い詮索と無駄話は省いて行こう。あのケバケバしい脳髄から、君は何を押し付けられたんだい?』

 

 

何を、と言われても困ってしまう。

 

痛みというか、洪水というか。

強いて言葉にするならば、ちょっとだけの『わかる』を視せて貰えた、という感じかなぁ。ううん、自分でもよく分からない表現だけど……。

 

 

『あぁ、なるほど……災難だったね。だがそうなると話はシンプルだ。君はこの子にその道を示し続けるだけでいい』

 

 

道?

……これ、かなぁ?

 

 

『あの怪人は意味の無い事はしない。彼から「わかる」を視たのであれば、それがどれだけ僅かであっても間違いなく正しい「わかる」だよ。まぁあんなキテレツな奴だ、胡散臭く思うのもしょうがないが……』

 

 

あっ、そこは大丈夫です。

ちゃんと知ってるっていうか、()()()、ちょっぴりファンだから。いいよね、あの人。

 

 

『は????? ……いや、いい。アレの力が正確なものだと理解しているのであれば、まぁ、うん……僕の方はさっぱり理解しかねるけれど……』

 

 

何やら失礼な事を思われた気がするが、()()()としてはこの人の方があんまり分からなかったりする。

とっくに()()()に気付いておきながら、私から排除しようとして来なかった事が不思議でならないのだ。

 

たぶんその内、そのインクで目薬されるのかな~とか思ってたのに、特に何もされなかった上、まさかお手伝いまで頼まれるとは思わなかった。

 

 

『……道中に害意を感じなかったというのもあるが、この異界で君の助けを失うのは、この子にとって大きすぎるデメリットだったからね。そして何より……君もこの子と同じく僕が巻き込んでしまった一人なんだ。弁えるさ』

 

 

……呼んでくれたおかげで、なんだけどなぁ。

なんとなく収まりが悪くなった気がして、私の()()()がぎょるぎょるとする。ぎょるぎょる。

 

 

『だが、そうだね。一言だけ綴らせて貰えるのなら……思い留まってくれないかな』

 

 

…………。

読めなかった、フリをした。

 

 

『徹底してこの子に自覚させていないあたり、そう悪い混ざり方にならないとは察する。けれど推測では、君の方は……』

 

 

……うーん。

でも、もう、それが良いと思うんだけどなぁ。()()()も、私も……。

 

 

『……長くなりそうだ。これ以上は言わないが……ただ、僕自身はオススメしないとだけ伝えておく。そして、一番の損失だとも』

 

 

損失? ……一番?

 

 

『ああ――曲がりなりにも査山として、嘘偽りなく』

 

「――――」

 

 

()()()が、小さく震えたのが分かった。

 

しかし同時に通路の天井裏から……いや、床下からも何かが流れて行くような振動と音がして、あっという間に私達を追い抜いていった。

たぶん、肉の津波が手術室のダストシュートから逆流し、隠し通路内に押し寄せているのだろう。

 

……蜘蛛の巣のように広がる隠し通路、全部へ。上も下も肉で埋め尽くされつつある事実に、私の全身が総毛立つ。

 

 

『……そろそろ本格的にまずいかな。とにかく、君が道を選び、この子が走る。それを通し切るんだ。――頼んだよ、ほんとの後継さん』

 

――……。「分かった!」

 

 

()()()が俯くように引っ込んだ。なので私が大きく頷き、深く踏み込む。

 

ぶれていた爪先がしっかりと定まり、もう迷わなくなっていた。

なんか妙にぎょるぎょるしている()()()が、私の辿るべき道筋をハッキリ照らし出してくれている――。

 

 

『これは……君の方か。念のために聞くが、やる事は理解しているかい?』

 

「え? よく分かんないけど、走ってけばいいんだろ……?」

 

『……うーん、彼女が巧みなのか、この子が精神の干渉に弱すぎるのか……』

 

 

何やらブツブツ呟くように小さな文字を並べているが、何のこっちゃ。

 

 

――気にしなくていいの。もっと速く速く。

(あ、うん)

 

 

首を捻りつつ、とりあえず()()()のお願い通りに走るスピードを上げていると、やがて長い一本道の終わりが見えた。

よかった、これで分岐路が増えれば、肉の津波も分かれて少しは勢いも――そう思って十字の廊下に飛び出せば、ちょうど右の廊下から肉の津波が押し寄せて来たところで、

 

 

「……え? は、ちょおっ!?」

 

 

若干気を抜いていたせいで足が縺れかけたが、気合で踏ん張り前へ飛ぶ。

直後に肉の津波が背後を通ったかと思えば、すぐに今まで逃げていた方の流れと合流。さっき以上の勢いを持って私達を追いかけて来た。ウソだろ。

 

 

『……隠し通路の出入口から、だろうね。閉まっていればもう少しは保ったんだろうが、この階は多くが地圀さんによって開け放たれているようだから……』

 

「もおおおおおおおマジであんのクソババァはさああああぁぁぁぁ……!!」

 

 

ホントいつまでも地獄のように迷惑をかけ続けて来るババァに、いっそ尊敬すらしてしまいそう。んなワケねぇだろふざけんなボケ。

 

耳をすませばあちこちで肉の津波による破壊音や、『何か』の悲鳴がひっきりなしに響いていて、この階自体がとんでもない事になっているようだった。

 

いや、下手したら他の階層もヤバいかもしれない。

スミトの設定では、隠し通路というかダストシュートは各階層のとある部屋と繋がっている筈だ。そこから辿って肉が他の階にまで行ってしまえば、そう遠くない内にこの階と同じ状況になるだろう。

 

というかこれ、もし肉の津波が止まらなければ廃病院そのものが――。

 

 

『まぁ、肉の重量に負けて倒壊して呑み込まれるか、そのまま呑み込まれるかだろうね。……いびつ君や他の生き残りの人達の事を考えると、そうなる前にどうにかしたいが』

 

「そ、それもそうだけど、目的のとこが肉で埋まってたらどうすんだよ……!」

 

 

私の思考を読んだようなその文章に、おなかの底が焦燥に炙られる。

しかし彼に焦った様子は無く、『落ち着いて』とカサリとページを揺らし、

 

 

『それに関しては心配はない。おそらく、君が今辿っている道筋は廃病院の外に続いている。正確には、敷地の外の森の中に』

 

「へ、森……? 何で……?」

 

 

思いもしていなかった答えにぽかんとするが、確かに()()()は階の端っこ、窓の方に導いてくれているように思えた。

 

 

『……この異界は、複数の怪談が混じり合って創られている。そしてそれは今の所イベント会場で披露された怪談が軸だ』

 

 

すると突然、インク瓶がそんなもう分かり切ってる事を並べ始めた。

今更何だよ。そう返す前に、続けて文字が浮き上がる。

 

 

『この廃病院に纏わるものが、ひゅどろんチの怪談とスミト君の設定。エレベーターに纏わるものが、いびつ君の怪談。……だが会場では、もう一つだけ怪談が披露されていた筈だよ』

 

「え? ……霊侭坊のおじさんのヤツ?」

 

『そう。除霊の依頼を受けて何故か森に行って散策し始め、後乗せCGの化物相手に奮闘していた手に汗握るオカルトアドベンチャーだ』

 

 

ああ、やっぱりインク瓶的にも怪談の枠じゃないんだ、アレ。

 

ともあれ、言われてみれば確かに剛拳おじさんの話に纏わるオカルトだけは、今まで遭遇していなかった。

流れからすると、外の森がそれという事なんだろう。実際、森の中に変なのが居るのは見ているし、ストンと落ちる話ではあるのだが……。

 

 

「でもそれで、何でそこに行く話になるんだよ……! 廃病院と関係ないだろ!?」

 

『それなら例のエレベーターだって元は無関係さ。大切なのは――解決法がはっきりしているか否か』

 

 

解決法……?

何を言いたいのか分からず首を傾げれば、やれやれという風に文字が小さく左右に揺れた。

 

 

『忘れたのかい? 他の二つの怪談と違って、霊侭坊さんの話だけ明確に解決を見ていただろう。靄の立ち込める森の奥で見つけたという呪物……型落ちパソコンを破壊するという形で』

 

「あ」

 

 

言われて完全に思い出した。

 

そうだ。剛拳おじさんのあの話、最後は依頼の元凶だっていうパソコンを会場で殴り壊して、しっかりと除霊完了の宣言まで上げていた。

……で、その上で、今回のオカルトがイベント会場で話された怪談が混ざったものなら、それは――。

 

 

「――も、森じゃん……! 森のどっかに落っこちてるパソコンが核で、それぶっ壊せば……!」

 

『このオカルトも「除霊」される可能性は高いね』

 

 

――なんで視えるの森の中なのかなーって思ってたけど、だからかぁ。

森に向かうべき理由に、私達は揃ってこれ以上なく納得した。

 

 

『……これまでは、その具体的な位置が分からなかった上、こっちとしても探しに行けるような状況じゃなかったけど……今の今なら、』

 

 

そこで一度文章が途切れ、前方を指差すように文字が動く。

視線を上げれば、通路の先に窓際廊下が見えていた。どうやら、いつの間にか建物の端にまで辿り着いていたらしい。

 

そしてその窓の多くには多種多様の『何か』達が群がり、外へと逃げだそうとしていた。

……スミトの話では、外に出ようとすれば妨害してくる筈の彼ら自体が、肉の津波を怖がって。

 

 

『森の地理については、残念ながら霊侭坊さんから聞き出す前にああなった。だから完全に君達頼りになる。……ごめんね』

 

「ん。分かっから、へーき……!」

 

 

()()()の『わかる』は、まっすぐまっすぐ伸びている。

私はそれを信じて走る速度をもっともっと速め、ふくらはぎへと力を籠めて――全身全霊の跳び蹴りを、窓辺に群れる『何か』に叩き込んだ。

 

 

「――おらああああああああああああッ!!」

 

 

轟音。

ここに来てから幾度となく繰り出した蹴りの中でも、とびぬけて渾身の一撃だった。

 

受けた『何か』は悲鳴すら発せずに、近くの『何か』や窓枠周りの壁を巻き込み外へと吹き飛んだ。

私もその背に足先を突き刺したまま、勢いに乗って脱出。夕焼け空にガラス片や瓦礫が撒き散らされる中、振り返った私の目に遠ざかる廃病院の全景が映り、

 

 

「!」

 

 

少し遅れて破壊音。四階部分の窓一面を破って溢れる肉の津波が見えた。

 

窓際の『何か』全部を呑み込んだそれは、どうやら『何か』自体を積極的に求めているらしい。

津波の一部が明確にこちらに伸びて来ていて、私は慌てて足蹴にしていた『何か』からジャンプ。一足早く前に出て、そのまま地面に着地した。

 

 

「い゛っ……くそっ!!」

 

 

勢いを殺し切れずに砂利が足の裏を擦り下ろすが、泣き言を言ってる場合でもなく。

 

即座に走り出せば背後で大きな物音がして、見れば落ちる肉の津波がさっきの『何か』をも呑み込んでこっちに迫って来ていた。

廃病院も変わらず肉の津波を垂れ流しており、やっぱり止まる様子はまるで無し。せっかく院内から脱出できたのに感慨に浸る暇も無いと、舌打ちを残して森へと走った。

 

 

(まだ、まっすぐ……このまま中に入るまで――、ん?)

 

 

そうして()()()の道筋を走る内、近づく木々の隙間に何か赤いものが見えた気がした。

目を細めれば、光のダマを作る細い線がキラリと視界に浮き上がる。

 

 

(……糸?)

 

 

そう、夕陽の橙に混じり酷く分かり難かったが、あちこちの木と木の間に真っ赤な糸のようなものが張られているようだった。

 

一瞬進入禁止のロープかとも思ったが、そのような雰囲気でもない。

意味が分からなかったものの、しかし無駄に気を割く余裕もなく、ひとまず無視して通り過ぎた。

 

 

――みえない、みえない……。

『…………』

 

 

駆けこんだ森の中は、聞いていた通り真っ白な靄で覆われていた。

 

一歩先すら見えないという程では無かったが、夕陽は届かず足元も白く濁り、脚運びも慎重にならざるを得なかった。

この中から落ちてるパソコン一台を探し出すなんて、本当なら()()()だってかなり厳しかった事だろう。

 

けど、センシティヴに触れた今の()()()なら『わかる』。

流石に平地よりスピードは落ちるけど、迷いない足取りで森の中を進んで行く……のはいいのだが。

 

 

(……出て来ないな、化物ってヤツ)

 

 

話にあった、襲い掛かって来るという化物の影。

警戒を切らさずずっと周囲に気を向けているけれど、一向に現れる様子が無かった。

遠目に見た時はチラチラと何かが見えていたのに、実際に入ってみれば影も形もなく、拍子抜けだ。

 

……だが、その代わりにとでもいうように、木々を結ぶ真っ赤な糸が少しずつその数を増やしていった。

 

ひとつ進む度、ひとつ曲がる度、道筋を進むごとに赤い糸が増えていく。

なんとなく触れてはいけない気がして全部避けているけれど、その内道筋を辿るのに支障をきたしそうだった。

 

 

(……なんか、どっかで見た事なかったっけ。木と木の間を、通る糸――)

 

 

どこだっけ――そう深く考えかけたその時、背後で響いていた筈の肉の津波の音が、ぴたりと聞こえなくなっている事に気が付いた。

振り返れば見えるのは白い靄と赤い糸だけで、肉塊の迫って来ている気配は無し。

 

……やっと止まったか?

これなら少しは足を緩めてもいいかと、そこでようやく立ち止まり、

 

 

「――え?」

 

 

……ふと、見回せば。

とある一方向を除き、ぐるりと赤い糸に囲まれていた。

 

今さっき通り過ぎた場所にも糸が引かれ、まるで戻る事を禁止されたようにも感じて。

 

 

「…………」

 

 

振り返る。

()()()の示す道筋は、糸の張られていない方向に伸びていた。

 

私は少しの間その先の靄を眺め……やがて、葉っぱの切り傷だらけの足を進め――。

 

 

「…………………………は」

 

 

……そして、見つけた。

 

見るからに古臭い、型落ちのノートパソコン。

会場で剛拳おじさんが壊してたヤツとそっくり同じで、やっぱりどう見ても不法投棄された物にしか思えない。

 

ただそれだけの、何の変哲もないパソコンが――どうしてか、真っ赤な蜘蛛の巣に捕らわれていた。

 

 

「……あ、え?」

 

 

本当に、心底、何一つ意味が分からなかった。

 

とある高い木の間に張られた、人間が何人も収まるだろう程に巨大な巣。その中央に、件のパソコンが収まっていた。

何度見てもその光景は変わらず、()()()の眼に映るのも同じもの。現実だ。

 

そんな、傍から見れば間抜けとも言える光景なのに――何故か、おなかの底が重たくなっていて、

 

 

――【……だっ! や……ろぉ……!!】

 

 

「っ!?」

 

 

突然、パソコンの画面に光が灯った。

 

同時に何か声のようなものが流れ……よくよく見れば画面には小さなウィンドウが開き、何かの動画が再生されていた。

縦長形式の、たぶんスマホで撮ったヤツ。どこか薄暗い場所で、二人の男女がもみ合っているようだった。

 

 

――【……って、……ミトより……、……らさぁ! そん……、……】

 

――【……やだぁ! このっ……んぅ……!!】

 

 

映像は荒く、音声はノイズだらけで詳しい部分は分からない。

でも、明らかに剣呑な状況なのは雰囲気で伝わった。

 

 

――【……せぇなぁ! いいか……、……とけ……!!】

 

 

男の方が女を殴り、馬乗りになったのが分かった。女は激しく抵抗するけど、更に何発も殴られた末、やがてぐったりと弛緩した。

それでも意識だけはあるようで、痛ましい嗚咽が小さく流れ続けていて……。

 

 

(……あ。これ、って)

 

 

――そして男の手が女の下半身に伸びた時、これが何をしている映像なのか、やっと理解した。

 

理解した、けども……こういうのは黒髪女の話とかで聞いた事があるだけで、実際に見た事なんて無い。……色々、追っつかない。

そうして頭と一緒に身体も固まってる中、画面の中で男女が重なり、揺れ、はじめ、て――。

 

 

『見なくていい』

 

 

……それを目にする寸前、私の眼前に紙の束が展開した。

インク瓶が手帳を展開させ、私とパソコン画面の間に大きなページの仕切りを作ったのだ。

 

そこに綴られた文章を読んだ途端に肩の力が抜け、知らず止まっていた息が吐き出されていった。……キッツい。

 

 

「……な、に。なんなの、アレ……?」

 

『さぁね。だがアレらが何であれ、君が見る必要のないものというのは確かだ。見なくても、目的は達せられる』

 

 

インク瓶はそう並べると、向こう側の景色からパソコン画面だけを白塗りした光景を、眼前のページに中継し始めた。

 

しかも私の動きに合わせて映す景色を切り抜き動かす、リアルタイム原寸スケール。あまりにも強引な方法でのモザイクがけに、うっかり小さく噴き出してしまった。

 

 

「……はぁ。よし」

 

 

落ち着いた。

 

未だノイズ混じりの音声は流れていたが、そんなのもう知らん。

胸糞悪いもん見せやがって。込み上がる吐き気を怒りに変え、手帳をぎゅっと握り締め……するとまた手帳が展開し、ページを私の拳に巻き付けた。

 

そしてそのページから黒いインクが湧き出して、拳を真っ黒に染め上げる。

 

――これで、殴りゃいいんだな?

 

 

「――ふんッぬぁぁああああああああああああああ!!!!」

 

 

念のため剛拳おじさんを真似て叫んで、思いっきり地面を蹴った。

 

インクまみれの拳がページの中のパソコンを穿ち、その画面を突き抜ける。

同時にインクが弾け、パソコンの中に染み入るように潜り込んでいって、

 

 

『――おつかれさま。後は、僕が何とかする――』

 

 

――ぱちん。

その文章を見た直後。まるで蝋燭の灯が吹かれるかのように、全ての光が掻き消えた。

 

 

暗転。

 

 

 

 

 

 

――あーあ、終わっちゃった。

 

――もうちょっとだけ、一緒にオカルト探し、したかったんだけどなぁ……。

 

――でもまぁ、いっかぁ。すっごく楽しかったもんね。

 

――うん、ほんと、楽しかったなぁ……面白かったなぁ……あは、うふ……。

 

――…………。

 

――ほんとはね、一緒になっちゃおうかなって、思ってたの。

 

――こんな機会、たぶんもう二度と無いと思うし……そっちの方が、いいから。

 

――……でも……でもね。わたし、一番だったんだって。一等賞なんだって。

 

――後継で、ステージ? っていうのも、コトちゃんより高いって……だから……。

 

――………………。

 

――また、視てるから。

 

――今までみたいに、別で。ずっと、あいつ、誤魔化しておくから。

 

――それでね、いつか、いつかは……。

 

――……ああ、ああ、そうなれたなら、うれしいなぁ。

 

――あはぁ

 

 

 

 

 

 

……………………

 

 

…………

 

 

……

 

 

 

 

「う……?」

 

 

……誰かの声が、聞こえていた気がした。

 

楽しかったような。嬉しかったような。懐かしかったような。

ふわふわとした感情の残り香が胸に漂い、ぼやけた意識を淡くつついた。

 

 

(……あ、え? 私、なにが……)

 

 

どうやら、いつの間にか眠っていたらしい。

冷たい床に手をついて起き上がり、ぼんやり頭を軽く振る。

 

……なんか、なんだっけ。

んー、と唸り、ぼうっとしながら右眼をこすって、

 

 

「――っ!?」

 

 

完全に目が覚めた。

 

飛び起き周囲を見回せば、そこはもう廃病院なんかじゃなくなっていた。

 

あんな寂れた施設とは似ても似つかない綺麗な部屋で、夕陽の橙なんてどこにも無い。

床には大勢の人が倒れていてビビったけれど、魘されているのを見る限り、さっきまでの私と同じくただ寝ているだけのようだった。

そしてその全員が五体満足で、患者衣を着ている人なんて一人も居ない――。

 

――全部全部、あのイベント会場の時に、戻ってる。

 

 

「かっ……帰れた……? 戻れたんだよな、これっ!?」

 

 

嬉しさに声が跳ね、すぐに再び右眼に手をやった。

 

当然やっぱり縫い目は無いし、血も出てなければ、這わせた指先もしっかり見える。

取り出したスマホを鏡にすれば、見慣れた真っ赤な瞳が瞬いていた。

 

そんないつも通りの美少女のご尊顔に、今だけはすごく安心して「っ……?」同時に、僅かな痛みが胸に走った。

 

……寂しさ、だろうか。

理由の分からないそれに、右眼に手を当てたまま首を傾げ――。

 

 

「――しっかりするんだ!」

 

「っ!?」

 

 

その時、離れたところで声がした。インク瓶の声だ。

 

弾かれるように振り向けば、部屋の中央にあるステージの端に彼の姿が見えた。

こちらに背を向け、何かの傍でしゃがみ込んでいるようだった。

私はそれにさっき以上の安堵を抱き、他の寝ている人を踏まないように注意しながら駆け寄った。

 

……けれど。

 

 

「大丈夫、君はちゃんと間に合っている。もう助かっているんだ。だから気を確かに……!」

 

(……なんだ?)

 

 

すぐに雰囲気がおかしい事に気が付いた。

 

インク瓶の言葉には余裕がなく、空気も不穏にピリ付いている。

おまけに近付くごとに鉄錆の臭いが……血の臭いが漂って来て、酷い胸騒ぎが私を襲った。

 

何だ。今、何が起こってんだ。

足を速めた私は一息にステージへ跳び登り、インク瓶の隣へと立って、

 

 

「――え……」

 

 

 

――そこにあったのは、鮮血に横たわるスミトの姿だった。

 

 

 

蒼褪め、苦悶に満ちた顔を血で汚し、浅い呼吸を繰り返しては時たま小さく咳き込んで。

床には大きな血だまりが広がっており、おびただしい量の血が失われてしまった事が嫌でも分かった。

 

突然の凄惨な光景に、私は少しの間呆然として――すぐにハッとしスミトに詰め寄る。

 

 

「お……おい。おいっ! どうしたんだよ、おいって……!!」

 

「落ち着いて。一応、僕のインクで血止めはした。ギリギリだけどまだ生きてる」

 

 

よく見れば、腹部をべっとりと染める赤の中に、黒いインクがちらりと見えた。

どうやらおなかに傷があるらしく、そこにインクを張り付けてこれ以上の失血を抑え込んでいるらしい。

 

それに少しは安心したが、瀕死である事には変わりない。唇を噛み、混乱に埋め尽くされる心を宥める。

 

 

「な、なんで……何があったんだよ! せっかく、帰って来れたのに……!!」

 

「……僕がステージの上で目覚めた時には、既にこんな状況だった。床に血だまりを作ったスミト君が倒れていて……そして、彼も」

 

「あ……?」

 

 

ちらと、インク瓶の視線が別の場所を向いた。

 

するとステージを飾るオブジェの影に、また別の血だまりが広がっているのが見えた。

私の位置からは完全には見えなかったが、脚だけこっちにはみ出ていて、ピクリともしていない。

 

 

「っ……あ、あれって……」

 

「ヨート君……スミト君のお兄さんだ。彼はもう、ダメだった」

 

 

インク瓶はそれだけを口にすると、ヨート――金髪男の死体から視線を離させるように、私の肩を小さく叩く。

 

 

「今さっき、君の親御さんに助けを頼んだ。もうすぐここに来るはずだから、君は――、!」

 

「う……ぁあ……」

 

 

その時、横たわっていたスミトが身動ぎをした。

インク瓶が素早く介抱し、また呼びかけを始めるが――ふと、スミトの視線が何かを追うように動いている事に気が付いた。

 

つられて振り返れば、その先には半開きとなっている部屋の出入口があって。

 

 

「――……ム、チュ、さん……?」

 

 

そして、スミトは消え入るような声でそう呟くと、完全に意識を落としてしまった。

 

焦ったが、インク瓶が冷静のままだったので、致命的な状態ではなさそうだ。

私は小さく息をひとつ。それから少し考え、とりあえずこっちからも『親』に連絡を取っておこうとスマホを取り出し……。

 

 

「…………」

 

 

……もう一度、半開きの出入口を振り返る。

 

誰も居ないし、何も無い。痕跡なんてもっての外。

きっと朦朧としたスミトが、妙な幻覚を見ただけだ。そう思うのが、きっと正解。

 

けれど――どうしてだろう。

私には、そこには確かに誰かが居たんじゃないかって、そんな気がしてならなかった。

 

 

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