幼い頃から人の演技や嘘が見抜ける体質を持っていた「私」は芸能界で栄光と転落を味わう。普通の学生に戻った後は進学し、やがて虹ヶ咲学園の演劇部部長となった「私」は二年生の冬にスクールアイドル優木せつ菜と、三年生の春に期待の一年生「桜坂しずく」と出会う。

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百合かどうかと言われるとだいぶ怪しいのですがまあそういう愛もあるんだろうなと思いました。


舞台は未だ青く

 

 ──この世は舞台、人は皆役者だ── ウィリアム・シェイクスピア

 

 江ノ島にでも行こうかと誘ったら彼女は一切の躊躇いなくはいと答えた。当然と言えば当然だ。こちらもスケジュールを熟知した上で誘っている。課外授業も、掛け持ちしている同好会も全て休みだというのは事前に調べ終えていた。そこまでする自分の感情を、もしこの場で洗いざらいぶち撒けたら彼女の素顔が見られるだろうか。真っ白なキャンバスにどす黒いペンキを塗りたくってしまいたくなるような、そんな気持ちを抑えて私は今、「演劇部の部長」として彼女に微笑んでいる。そして彼女もまた、瞳の表面に仮初の光を宿し「出来のいい後輩」を見事に演じきっている。

 

 私たちはもうずっと、舞台から降りられなくなっている。

 

 人の演技や嘘がなんとなくわかる体質は生まれつきだった。父が一度、残業で遅くなると電話越しで私と母に伝えた時、まだ赤ん坊だった私は身体中に湿疹が出て大声で泣いてしまったという。父はすぐに雀荘を出て帰宅し、それ以来ギャンブルに手を染めていない。成長するにつれ、嘘に対する体調の変化は軽減されてきた。その代わり他人の嘘や演技をよく観察するようになり、自然と私自身も何かを演じることに興味を持つようになった。

 五歳でプロダクションに入り、CMデビューしたのが六歳のことだ。地元の銀行のCMで、変なアテレコがされていたことは覚えている。次にカメラを向けられた時は小児用玩具のCMだった。スポンサーから宣伝用の玩具をプレゼントされた時は本当に嬉しかったが、多忙の末どこかの仕事場に忘れてきてしまってからはそれがどんなものだったかさえもう思い出せない。

 一番褒められたのはとある連続ドラマの準レギュラー枠を勝ち取った時だ。鎌倉を出て、東京のスタジオに通う日々が始まった。両親や親戚だけでなく初めて色んな大人から祝福の言葉をもらった。そこに隠された期待を背負い、私もなりふり構わず最大限の演技をした。クランクアップまで漕ぎ着けた時も同じように祝福の労いをもらった。ただ一人、大御所と言われていた女優からは「思い出ができてよかったね」と不思議な顔で言われたことだけ強く印象に残っていた。

 そして私の仕事はなぜかそれ以上増えることはなかった。最終回直前に起きた主演俳優のスキャンダルが大き過ぎたせいだろうか。それとも他の子役と違ってバラエティや教育番組に出るのを嫌がったからだろうか。両親は毎日のようにイライラして、いつもヒステリックに各所へ電話をかけていた。私は私で、出来るだけ家で感情を殺すようにしていた。辛いことも楽しいことも全部演技に乗せてしまえばいい。そうしてまたテレビに出られたらお母さんもお父さんも笑ってくれるから。

 小学六年生で大きな舞台のプリンシパルキャストをやった。

 中学一年生で小さな舞台の主演になった。

 修学旅行は欠席して雑誌の取材を優先した。

 あの女優の表情は「憐れみ」だったのだと気付いたのは中学三年生になって、普通の生活に戻った時だった。感情は殺しすぎると戻らないと気付いたのも同時期だったと思う。

 

「ようこそ、虹ヶ咲高校演劇部へ」

 オリエンテーション代わりの簡単なエチュードを終えて、先輩たちが挨拶をしてくれた。

「じゃあ早速だけど経験者の人は手を挙げて」

 疎らだが、何本か腕が伸びる。私もそれに合わせて平均的な高さになるよう手を挙げた。

「三分の一くらいかな。ありがとう、そしたら経験者の人にもさっきのようなエチュードをやってもらおうか」

 演劇部に入ったのは八割の打算と二割の気まぐれだった。自分のクラスから部室が割と近い方だったことや、一部の部活動のように本格的な実績がないためあまり厳しい指導や練習は無さそうだなと判断したこと等、要因はいくつかある。

「……すごい」

 三年生の一人が息を呑んだ。少し遅れて拍手。他の一年生など初めからいなかったように皆が私に注目する。この程度の展開ならレッスンで死ぬほどやった。共演者が出すサインの回収と誘導を少しばかり丁寧にやっただけだ。

 文字通り、皆の目の色が変わっている。初対面の人間に早速羨望や憧憬、嫉妬の感情を抱いている。なんて気持ち良くて気持ち悪いのだろう。でも笑ってはいけない、泣いてもいけない。あくまで堂々と、それでいて自然な謙遜を。共演者も褒めてあげないと。

「先輩ほどではないですよ」完璧なトーンと表情だ。

 そして終わればすぐ皆の中に気配を消して溶け込まなければ。そこまで演技ができて初めて私が私足りうるのだ。新しい幕は上がったばかりだ。私は……ああ私はなんて、醜いのだろう。

 その夜、家族の誰にも見つからないよう私は泣いて嘔吐した。

 

 翌日も、翌週も、数ヶ月経ってもどうやら私の過去に誰も気付かないようだった。

 確かにあの時は芸名で活動していたし、身長や顔つきも大分違うものになっている。受験が終わって髪もバッサリ切ったことも大きいだろう。公表することに抵抗もなかったが過去の栄光に引き摺り込まれるよりはよっぽど今の生活の方がいい。

 演技はいい趣味だ。手を抜かないだけで簡単に副部長にしてもらえた。学内公演でもすればその翌日からしばらくは大量のファンレターを貰い続けることになる。試しに脚本を書いてみたら顧問である現国の教師から大絶賛されてしまった。少し面倒なのは共演者たちの教育くらいか。多少は歯応えがないといい引き立て役にならない。普段の基礎トレーニングだけだと飽きるようなので、メソッド演技やルコック教育法をうっすらなぞった程度の気分転換をさせ、私の練習だから上達したと一、二年生にブラシーボ効果のように錯覚させる。それを見てさも一家言あるような顔をする三年生。

 この部活動自体がまるで滑稽な不条理劇だと思えてきた頃には部長のポストが用意されていた。

 

 二月の寒空で乾いた破裂音が響き、風に乗って火薬の匂いが鼻をつく。途端に騒ぎ出す周囲。しかしその表情は期待や興奮といった正の感情で漲っていた。

「せつ菜ちゃんがライブしてるって!」

「配信始まってるよ!」

 スマホを起動したり、会場に足を運ぶ生徒たち。その波に逆らうように私は部室棟に足を進めた。

 スクールアイドル同好会。いつできたのか知らないが、ここ数ヶ月で知名度だけは急上昇している同好会だ。「優木せつ菜」という謎の生徒が一人でゲリラライブをするのが主な活動となっている。

「副部長は今日のライブ見ました?」

 唐突に部員の一人が声をかけてきた。

「ああ、いや。たまたま離れた場所にいてね。スマホも充電が出来てなかったし」

 興味がない、と言うのは簡単だったが私が私であるための台本にそんな言葉はない。筋の悪いアドリブはしない主義だ。

「ええー。そんなこと言って、結局一度も見てないじゃないですか」

「ちゃんと日時指定をしてくれれば観に行くんだけどね。あの、優木さんだったかな。何かそういうことができない理由でもあるの?」

 無難な回答のつもりだったが、それでも部員は頬を膨らませた。

「ゲリラライブだからいいんですよ。非日常のワクワク感があって! 私も早くせつ菜ちゃんにスカウトされたりしないかな」

「非日常に行くなら、私の舞台じゃダメかな?」

「えっ!? いや、その、副部長に急にそんなこと言われ……」

 途端に赤面し、しどろもどろになる部員。想定から一ミリもブレないリアクションだ。

「さ、練習始めようか。まずはグラウンド五周から」

 アイドルなんて縁はない。ミュージカルなら乗ってやらないこともないが。

 グラウンドを走っている部員たちを窓から見守り、溜息をつく。息は曇天の中に静かに溶けていった。廊下から物音と話し声が聞こえてくる。吹奏楽部が何やら機材を運んでいるようだ。

「聞いた? せつ菜ちゃんがスカウト始めたんだって!」

「知ってる! 春から同好会始めるらしいよ! 私も誘われないかなあ」

 スクールアイドルのライブはいつも皆の心に余韻を残していく。なぜ彼女はわずかな期間でここまでの人気を得ることができたのだろうか。

 日常を突如割って現れる、非日常の中で生きるスクールアイドル優木せつ菜……もしかしたら彼女の存在自体が誰かの壮大な演劇なのかもしれない。

「どこの誰だか知らないけれど、お互い大変だね」

呟いた言葉も白い息の後を追って曇天の中に消えていった。

 

 本当のダイヤの原石は磨かずとも漏れ出る光でわかってしまう。

 桜坂しずくの第一印象はまさにその通りだった。練習の中でも端役、主役、狂言回し……どれをやらせてもほぼ満点に近い評価で演じ切ってしまう。単純な才能だろうか。否、彼女の本当の魅力が判明したのは地面に敷かれた桜の花弁が初夏の空気に染まる頃だった。

「転入してきたんだって?」

「あ、はい。珍しいですよね、こんな時期に。えっと……」

 食堂で懇親会も兼ねたランチをしながらしずくの動作を隅々まで観察する。食器の持ち方は丁寧だ。咀嚼は小さく、育ちは悪くないように見える。

「部長って呼んでくれればいいよ。ここを選んだのは家庭の事情とか? あ、答えづらかったらごめんね」

「いえ……実はやりたいことが前の高校にはなくて」

「演劇部のこと?」

 横で食べていた別の新一年生が口を挟む。部員としては二週間ほど先輩だからか、少し態度が大きくなっているようだ。

「えっと、それは……違います」

 にこやかに、遠慮がちに。注意深く観察するとまるで何かのマニュアルに沿うように答えていることがわかる。ああ、やっぱり。練習やオリエンテーションで見た時もそうだった。

 

 この子も私と同じで、何から何まで演技でできている。

 

「国際交流科はなかなか他所にはないもんね」

 私の隣の三年生が話をまとめに入った。

「ええ……それもあって。私、世界に出てお芝居してみたいから」

「すごいね桜坂さん。見てるところが私たちと全然違う」

「あっ、先輩。あたしだって世界進出は一応視野に入れて」

「はいはい、あんたはいいの。そういえば、桜坂さんってスクールアイドル同好会に入るって聞いたけど本当?」

 突然自分の周りから色が消えたような感覚に襲われた。しずくとは最も縁がないようなその単語だけが耳の奥でリフレインする。なぜ? 思考が、頭の中の台本がバラバラになりそうだ。

「……ちょう、部長? お箸落ちましたよ?」

「え、ああ。これはいけない」

 苦笑の表情を出して、箸を交換しに行く。胃の底から嫌なものがこみ上げてくるような気がして、誰にも見えないように大きく息をついた。席に戻る時にちゃんと聞き返そう。私は部員の活動に理解がある「部長」を演じなければいけないのだから。

「スクールアイドル?」

 聞き間違いでないことはわかっていた。

「はい! 演技力を高める勉強として役に立つかなと思って。だからこことは兼部になっちゃうんですけど……」

「ふうん、いいんじゃないかな。うちは音楽関係と掛け持ちしてる子は結構いるから」

 動揺は完全に消した。またいつも通りの演技をするだけだ。素っ気無さが強すぎてもだめ、変に共感するような表現もよくない。しかし、何ということだろう。桜坂しずくはスクールアイドルになるためこの学校に転入してきたのだ。優木せつ菜の噂でも聞きつけてきたのだろうか。とうに摩耗しきってしまった自身の感情が大きく脈打つのを感じた。スクールアイドル、なんて厭な響きなんだろう。

 

 練習用の台本を開くとしずくは目を輝かせた。

「これ、太宰治の『女生徒』ですか?」

「そうだよ。本番の舞台はオリジナルの脚本でやることが多いけれど、基礎練習には既存の作品を使うのがここの方針でね。映像化されてる作品だから模範解答も揃っている。ただ、他所でもやってることだからそんなに珍しい試みじゃないと思うけど」

「いえ、好きな作品だったのでつい。……あ、このページからはえっと、アデューフィリピーヌ! 最後は……なんでしょう、初めて読みます」

 才能こそ目を見張るものがあるが経験値は他の素人と同じ、等身大の高校一年生だ。心のどこかでほっとしている自分がいた。知識や経験はこれから積ませてあげればいい。

「久生十蘭の『キャラコさん』という小説だよ。希少な作品だけど学校の図書館に映画版もあったはずだから今度観てみたらどうだい」

「久生十蘭……やっぱり部長も古典が好きなんですか?」

 彼女の表情が一層に輝いた。自分に心を許してくれていることは満更でもなかったが、それ以上にしずくの演技がほどけてしまっていることがとても悲しくなった。

「嗜む程度だよ。古典は誰しも通る道だからね」

「……そうですか」

 開きかけた彼女の扉がまた閉じた音が聞こえた。しかしそうであるべきなのだ。常在舞台であることは誰にでもできることではない。今年中に私と肩を並べられるのは彼女しかいないのだ。

「さ、屋上に行こうか。そろそろ練習を始めないと」

 歩き出すと後ろから三歩離れて着いてくる気配がある。窓の外で今年最後の葉桜が散っていた。

 

 スクールアイドル同好会が解散したという話を小耳に挟んだのは五月の半ばだった。南棟の屋上に足を運ぶと、そこには優木せつ菜や桜坂しずくは居らず別の人影が風に髪を靡かせて立っていた。

「本当に廃部になったんですね」

 声をかけると人影はゆっくりとこちらを向く。その正体は生徒会長の中川菜々だった。部活動会議で何回か顔を合わせていたため全く知らない間柄というわけでもない。

「あなたも入会希望だったんですか?」

 菜々は訝しげにこちらを睨む。

「あなた、も?」

「いえ、失礼しました。そんなことを尋ねてくる二年生がいたものですから」

「私は違いますよ。ただ部員の一人が世話になってましたから。どんなものだったのかなと思って」

「桜坂さんですね」

 ふと、菜々の言葉がどこか芝居がかっているように聞こえた。それと同時にこの生徒会長にも少し興味が湧いてきた。風が少し強くなる。

「優木せつ菜はどこに行ったんですか?」

「さあ。この学校は広いですから」

「残念、演劇部にスカウトしようと思ったんですけど」

 飄々とした雰囲気を崩さず菜々の表情を盗み見る。シルバーフレームの眼鏡の奥にはどんな光が宿っているのだろうか。

「スクールアイドルで結局実績を出せませんでしたから。今更新しい部活は難しいんじゃないでしょうか」

「へえ、そうだったんですね。彼女の生きられる場所は舞台の上しかないと思っていたんですけど」

「……何が言いたいんですか」

 声色から怒気が隠しきれていない。なぜ廃部を決定づけた側の彼女がこんなに感情的になっているのだろうか。

「すみません、やっぱり今のは忘れてください。会長ももう戻りませんか。ここは風が強いですから」

 記憶が正しければ優木せつ菜が現れたのは「中川菜々が生徒会長になった直後」だ。だがそれと今回の騒動を結びつける気はなかった。何よりこのやり取りで、少なくとも中川菜々はあまり演技が上手くないことがわかってしまった。

「……舞台の方が素顔だったんですね」

「なっ、何か言いました?」

 逆なんだ……。自分の中で何となく腑に落ちた。この人は、舞台の上では自分を曝け出している。そして今私の前で見せている生徒会長という顔は、最早演技ですらなくその場しのぎの嘘をついているだけだ。言葉にすれば陳腐なものだが、それでもその生き方がひどく羨ましく思えてしまった。やはりあの同好会は無くなってしまって正解なのだ。長居させればいずれしずくの演技も塗り損なって乾いたペンキのように剥がれ落ちてしまう。彼女の才能が失われることだけが今の私にとって何よりも辛いことだった。階下に向かう菜々を見送ってドアを閉めようとした瞬間、微かに歌声が聞こえたような気がした。振り返ってみたがそこには名残惜しそうに吹く春風の音だけが響いていた。

 

「桜坂さん! またスクールアイドル同好会復活したんでしょ!?」

「私もせつ菜ちゃんの復帰ライブ観たよ!」

「宮下さんって人も可愛かった!」

 一学期の中間テストが終わり、部室に入ると話題はスクールアイドル一色に染まっていた。鬱陶しさは決して表に出さず、淡々と支度に取り掛かる。

「で、桜坂さんはライブいつするの?」

 その言葉で一瞬腕が動かなくなった。視界の端に入るしずくの照れた顔が次第にぼやけていく。

「私はもうちょっと先かな。今天王寺さんって子が準備してる段階で」

「えっ、天王寺って情報処理学科の?」

「私あの子が笑ってるの見たことないよ」

 期待の声が困惑に変わるにつれ、私の視界も元に戻ってきた。

「きっと大丈夫だよ。とってもいい子だから」

 しずくが表情や声色を演技に切り替えてフォローしている。嘘をついているわけではなさそうだから、天王寺という子を本当に信頼しているのだろう。だがそれをこの場で熱弁するつもりもないようだ。それでいい、自身の仮面を守るため本心ですら演技に塗り替える。それが演者・桜坂しずくの生き方なのだ。話がひと段落したところで大きく手を叩いた。

「今日は練習の前に一つお知らせ。来月は藤黄学院と合同演劇祭をやることが決まった。二年三年は来週からオーディションと役割分担、その後一年生にもオーディション受けてもらうから今のうちにしっかり基礎を積んでおくように」

 突然の大きな発表にざわめき立つ部員たち。三年は特に困惑しているようだ。一年を合同演劇祭に出した前例がなかったからだろう。しずくの方に目をやるとその場から浮きすぎない程度に高揚した演技をしている。まさか彼女も、自分の才能のためにオーディションの場が設けられたとは思っていないだろう。

「桜坂さん、練習の後でちょっといいかな」

 そして、私と彼女は日曜日に江ノ島へ行くことになる。

 

 水色と白のワンピースの上でブラインド越しに射す柔らかい陽光が絶え間なく模様を作り替えている。電車に揺られている間、私は何度もしずくの横顔を見た。緊張しているからなのかそれとも何か別の思惑があってのことか、遠くを見つめているようでもぼんやりとはしていない締まった横顔だった。

 一度腰越で下車すると、そのまま自宅に寄るからとしずくは私の前を歩き出した。

「通り道ならわざわざ迎えに来なくてもよかったのに」

「いいんです。私がそうしたかっただけなので」

 表情は見えない。やがて彼女は不意に左の脇道に入りそのまま大きめの日本家屋の中へと消えていった。数分ほど待っていると、優しげな親子のやり取りが塀の向こうから聞こえてきた。やがて動きやすい服に着替えたしずくが大きなレトリバー犬を連れて現れた。

「すみません。よかったらこの子も一緒にいいですか?」

 予想外のことで少し面食らったが、断る理由も特になかった。

 一キロほど歩いたところで江ノ島大橋が見えてきた。オフィーリアと呼ばれているレトリバー犬はきちんと躾けられているようで、突然走り出したり用を足したりするような素振りは見受けられない。

「結構歩かせてないですか? いつでも休んでいいですから」

「誘ったのは私の方だよ。それにこのくらいの距離ならいつもやってるトレーニングの方が体力を使う。日焼け止めも塗ってあるから日が高くなっても全然平気さ」

 それからはしばらく他愛のない話が続いた。ファッションのことや学校の授業のこと、舞台のメイクと普段の化粧の違いについて語ったり、二人とも鎌倉育ちだから江ノ島の話でも盛り上がった。オフィーリアはエスカーに乗ることができないので仲見世通りやヨットハーバー前を回っていく。

「ところで、今度の藤黄との合同演劇祭なんですけど」

「何かオーディションに疑問点でもあったかい?」

「いえ、そういうことではなくて……あの荒野の雨って何かモチーフになった物語があるんですか?」

「そうだね……。強いて言うなら川端康成の『古都』は少し参考にしたかもしれない。荒野の雨の主人公は双子とは少し違うけどね」

 古典戯曲や文学の話をする時だけ、いつも彼女は演技を止める。それがどうしても私には耐えられなかった。やめてくれ、私は君の良き理解者になりたいわけじゃない。舞台から降りられない者同士として私の孤独を引き受けてほしいだけなんだ。

 まだオフシーズンだからか、あまり人影は見られない。鳥の声と波の音だけが優しく流れていく。空の青と海の蒼が二人と一匹を静かに染め上げていく。

「エマ・ヴェルデさん、だったかな。録画だけど配信見たよ。PVの構成とか……よく出来てた」

 話題の種が尽きてきて、ぽつりと呟いてしまった。そういえば私がスクールアイドルを褒めるのは初めてかもしれない。嫌う素振りは見せてないつもりだが、積極的に好きな振りをする気もなかった。

「……そう、なんですね」

 意外にも歯切れの悪い返答だった。普段のしずくなら仲間への称賛でも自分のことのように喜ぶはずだが。前方に目を遣るとオフィーリアに一瞥された。「嘘ばっかり」とでも言いたげな目をしていた。

「雨……」

 しずくがそう言うと同時に耳に何か当たるのを感じた。見上げても空は青いままだ。

「通り雨のようだね」

「折り畳み傘、持ってきてます」

 狭い傘の中に二人で入る。雨の勢いは弱く、オフィーリアは平然と歩いている。時折私の肩に触れるしずくの肩の体温が昔のことを思い出させた。まだ純粋な気持ちで舞台に立っていた頃、劇団の友達と演技抜きで遊んだこと、公演が終わると必ず両親が抱きしめてくれたこと。

 記憶が蘇る度に私の歩幅は少しずつ狭まっていき、しずくとの距離は開いていく。

「しずくは……」

 なぜ演技を続けているのか。本音を認めてくれる友達も、家族にも恵まれているのに。そう喉まで出かかったが上手く声にならなかった。

「部長?」

 振り向いてほしくない。演技ではない私の顔を、彼女に見られたくはない。気づけば私はしずくを後ろから抱きしめていた。

「あの、部長……」

 開いた傘とオフィーリアのリードが手から落ちる。しばらく前に進んだ後、十五メートルほど先で忠犬は怪訝そうに立ち止まった。

「どうしても、アイドルという舞台からは降りられないのか」

 今度はしずくが声に詰まる番だった。他の部員たちが軽口で掛け持ちを咎めるそれとは明らかに雰囲気が違うことを彼女も察したのだろう。

「だって、私の憧れの人がいるから……」

「優木せつ菜か! あんなものは演者ではない。ただの……」

「違うんです! 私が本当に憧れたのは」

 しずくの口から出たのは、とうに捨てたはずの私の芸名だった。

「五年前に一度だけ小さな舞台の主役をやってましたよね。母に連れられて見に行った、生まれて初めての演劇だったから覚えてるんです。舞台の上のあなたは歌も演技も上手くて、本当にキラキラと輝いていて……私、その姿に感銘を受けてこの道を目指すようになったんです」

「あれは……」

「この学校で出会えたのは本当に偶然だった。もう二度と、あなたの演技を見ることができないと思ってたから。だからこそ頑張ってきたつもりなんです。これは神様がくれたチャンスだから。でも、演劇の勉強だけじゃ私の何倍も努力してきたあなたには絶対追いつけない。だからスクールアイドルという道は、いずれあなたに追いつくための私なりの近道なんです!」

 全てが本音だった。一欠片の演技もない言葉が、体温が容赦なく私の心を何度も貫いた。

「オフィーリア!」

 腕の中から弾けるようにしずくは走り出す。反動でなす術もなく崩れ落ちた膝の上に大粒の雫がぽつぽつとこぼれ落ちた。雨ではない、自分の目から出たものだと気づいた時、真っ直ぐな声が私に顔を上げさせた。

「聞いてもらえますか。私の歌──」

 

 いつが最後だっただろうか。演技ではなく、心の底から声を上げて泣いたのは。

 

「今日のことは誰にも言いませんから。部長も、まだ歌のことは秘密にしててもらえますか」

 改札前でしずくは申し訳なさそうにそう言った。どことなく不憫に見えたので軽く彼女の頭を撫でる。

「らしくないところを見せてしまった。でも私ももう吹っ切れたよ。今日は付き合ってくれてありがとう」

「そ、そうですか」

 しずくはほっとしたような表情を見せた。先程とはうってかわって「出来のいい後輩」という演技のヴェールが完全にかかった上でのリアクションだった。沈黙が流れていく。出会ってそろそろ三ヶ月だが、彼女と演技抜きで話したのはこれが初めてかもしれない。

「借りた服はまた今度、洗って持ってくるから」

「あ、それはいつでも大丈夫です」

 演技とも言えない社交辞令だ。それでもなぜか今までと違ってどこか心地良かった。

 電車の到着メロディが流れる。私としずくはその場を後にしようと、どちらからともなく互いに手を振った。

「ああ、そうだ」

 一瞬、脳裏に優木せつ菜のライブ映像が浮かんだ。

「今度のオーディション、少し基準を変えようと思うんだ。詳しくは言えないけど、それでも今日のしずくならいい結果を出せるって私は信じてるから」

「えっ? それって……」

 言葉を待たず、私は電車に乗り込んだ。駅が見えなくなってから空いた席に座る。ヨットハーバーで聞かせてくれたしずくの歌を思い出す。真っ白なキャンパスはぶち撒けられたペンキさえも純白に変えてくれた。自分を演じ切ることで優れた表現を出せる俳優は大勢いる。しかし自分を曝け出した上で、優れた表現を生み出せることができればそれはもう……。

「私を超えてくれ、桜坂しずく」

 茜色に染まった海を目に焼き付けて、私はそっと瞼を閉じた。




読んでいただきありがとうございました。

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