「頼むから 祖国のために死んでくれ」
彼はボロボロと涙を流した。
その時、私は自分の気持ちに気付いた。気付いてしまった。よりにもよって、このタイミングで。
意識した途端、愛おしさが込み上げてくる。
あぁ。どうして。なんで、今なの。
もっと前に分かっていたら。彼と一緒にいた頃に分かっていたら。
黒騎士は何度でも甦る。黒騎士はフランスの滅亡を望んでいる。だからフランスの希望となる存在を殺すため黒騎士は何度でも甦る。フランスの希望が潰えるまで何度でも。
かつてそう語ったジャックの父親の顔がとても怖かったことを覚えている。私は彼からその話を聞いた時震えていた。死んでも甦るなんて黒騎士は悪魔に違いないとずっと思っていた。黒騎士が怖くて怖くて私は涙すら出ていたと思う。早く教会へ行き神に救いを求めたいとそればかり思っていた。
”甦るわけないじゃないか。黒騎士は人間なんだから”
けれどジャックは真顔でそう言い返した。
”きっと黒い鎧を纏っているだけで中身の人間は毎回別人なんだ。奴らは僕たちを恐怖に陥れるために黒騎士が蘇ったなんて嘘言ってるだけだ”
昔からジャックは妙に大人びていた。身体は私より小さかったし力も弱かったし毎日のように泣くから泣き虫ジャック、なんて呼ばれていたけれど。彼は自分の父親と対等に会話ができるほど大人びていた。私はずっと父親と会話している時のジャックが格好良いなと思っていた。と同時に私よりもずっと大人びてしまうその時の彼がとても遠く感じて寂しく思っていた。
私がジャックを強く意識し始めたのは、二度と彼に会えないと分かってからだ。パテーの戦いの最中、負傷し動けなくなった私を見て彼は冷静さを失った。私を攻撃したイングランド兵の元へ1人で突っ込んでいってしまった。それがどれだけ危険な行為か分かった上で、それでも彼は怒りを抑えられなかった。
それが最後に見た彼の姿だった。ジャックという司令塔がいなくなりフランス軍は混乱に陥った。リッシュモンがすぐさま代わりの司令塔を務めなかったらフランス軍は間違いなく負けていただろう。イングランド軍が撤退した頃ようやく動けるようになった私はジャックを探した。もし彼が軽症であれば真っ先に私のところに来てくれるだろうから私はまず救護施設の中で彼を必死に探した。けれど見つからなかった。
私は1人戦場となった地を歩いた。いつもであればここで祈りを捧げていた。けれど今はその余裕すらなかった。
ジャックが殺されたと、思いたくなかった。だから私は最低なことに遺体を1人1人確認していた。ここに彼がいないということは彼は死んでいないのだと納得させるために。
数日後、ジャックが死んだ姿を見たという話を聞いた。戦いの最中、深傷をおい救護施設へ向かう途中に彼が殺される瞬間を見てしまったとラ・イールは語った。
ジャックは怒り任せにイングランド兵を手当たり次第に攻撃していたからその報復を受け何人ものイングランド兵に刺されていた。あれは間違いなく即死だっただろう。多分顔すら分からなくなった遺体のうちの1人がジャックだ。
彼はそう語った。それから、私への報告が遅れたことを謝罪した。王太子から呼び出しを受けておりそちらを優先してしまったため、ジャックの生死連絡ができなかったのだと彼は説明した。
その話を聞いた瞬間、心にぽっかりと穴が空いたような、そんな不思議な感覚を味わった。
悲しいとか憎むとか、そういった言葉に当てはめることができない虚無感。これは一体何なんだろう。
私は立つ力すら失い膝をついた。頬に何かが伝った。雨かと思って上を見上げたら快晴だった。リッシュモンが慌てて私にハンカチを渡した。そこで初めて私は自分が泣いていることを知った。
”ジャック…本当に来るの?”
”当たり前さ。約束しただろう。君がその声に従うのなら、僕もついていくって”
私は、あの時。どうして彼を連れてきてしまったのだろう。1人で村を出るのは怖かったから彼の優しさに縋ってしまった当時の自分の愚かさを恨んだ。あの時彼を連れてこなければ。彼はこんな惨い思いをせずに済んだ。
どうして私は、彼の遺体すら分からないのだろう。あんなにずっと側にいたのに。ずっとずっと私を守ってくれた人。私のことを誰よりも考えてくれた人。そんな大切な人を見つけることすらできない。
あぁ。主よ。どうして彼の危険を知らせてくださらなかったのですか。
私はずっと後悔していた。そしてそれでも私は前へ進むことを選んだ。否、進まなければならないと思った。彼は私のせいで亡くなったから。私がフランスを救うという選択を選んだから彼はその犠牲になってしまった。であればここで引き返すことなど許されない。たとえ何を犠牲にしてでも、私はフランスを救う。
ずっとそう思っていた。
まさかこんな形で再会を果たすだなんて夢にも思っていなかった。
「あんたも、不憫だな……よりにもよって黒騎士とは。自分の運命を呪うんだな」
牢から出された先はいつも尋問されていた部屋とは異なる場所だった。通訳係の人は私に同情していた。今日私の審問を担当するのは教会の方ではなく軍人の黒騎士だという。黒騎士とは一度戦場で出会った。その時はとても太刀打ちできないほどの強さで私を追い詰めた。増援に来たジルが咄嗟の判断で彼を殺さなければ私はあの場で死んでいたかもしれない。
そう思うほど強かった彼が、ジルに殺されたはずの彼がここにやってくる。
”甦るわけないじゃないか。黒騎士は人間なんだから”
……否、きっとジャックの言う通り黒騎士は甦るわけではないのだからジルが殺した黒騎士とは別の黒騎士がやってくるのだろう。
「■■■■!■■■■■■■!」
扉の向こうから軍人の声が聞こえる。両手両足を椅子に拘束された私はその体勢のまま扉をじっと見つめた。やがて扉が開く。そこには戦場で見た黒騎士とは少し体格の違う黒い鎧を纏った騎士がいた。甲冑の形状もやはり若干異なる。ジャックのいう通り、黒騎士は甦るわけではなく中にいる人物が変わっているだけなのだろう。
そう思ったところで、あっと思い出した。私はこの黒騎士とは一度出会っている。私がここに拘束されてすぐの頃の話。イングランド兵が私を襲おうとした時の話だ。あの時は食べ物どころか飲水すら与えてもらえず本当にこのまま死んでしまうと思っていた。そんな時1人のイングランド兵が私の元へ訪れ、私の身体を撫で回し、舐めた。おぞましくてたまらなかった。私はその時自分の貞操が奪われてしまうことを察し絶望していた。
彼はそんな時に突然やってきた。彼は私を襲っていたイングランド兵を引っ張り上げると殴り出した。敵の私ではなく、味方のイングランド兵を、だ。何度も殴っていた。私は突然のことに理解が追いつかず暫く呆然としていた。その間黒騎士が兵士を殴り続ける鈍い音だけが響いていた。
やがて兵士が反応すら示さなくなった頃になってようやく我に返った私は黒騎士を必死に止めた。そんなことをすれば私もこの兵士と同じ目にあうかもしれないと思っていたが止めないと兵士が死んでしまうと思ったから必死に止めた。意外なことに黒騎士はすぐに殴るのをやめた。
その後、私は誰にも襲われることなく。暴力を受けることもなく。食事も与えられるようになった。
「■■■■■■■■■■」
黒騎士は私の正面の椅子に座ると何かを言った。が、なんと言ったか分からず首を傾げていると通訳係の人が今から審問を始めるとフランス語で言ってくれた。
「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■」
黒騎士は流暢に話す。私はその音を静かに聞いていた。
「自分の名前と年齢。出身を言いなさい」
「ジャンヌ・ダルクです。年齢は今年で19になります。出身はフランス。ドンレミ村」
黒騎士は手元の資料をじっと見ていた。
「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■」
私は目を閉じ彼の音に集中した。彼が被っている兜は戦場で見た黒騎士より禍々しいがその声には優しさを感じた。おそらく優しさを隠しきれないのだろう。
変わらない優しい音を私はしっかり聞いていた。
「ジャンヌ・ダルク。貴様は神の恩寵を受けたと認識しているか?」
「……」
「おい。答えろ。ジャンヌ・ダルク」
「……兜を外していただけませんか」
「な、何を言っている」
通訳係の人がギョッとした顔で私を見ている。
「顔を見て会話がしたいのです」
「お、お前の要望など聞いていない!いいから質問に答えろ!…目の前にいるお方がどなたか分からないのか…!」
「いいえ。答えられません。こちらの要望を受けていれていただくまでは」
「ば、馬鹿…ッお前、殺されたいのか…!?魔女には人間の言葉が理解できないっていうのか…!?」
通訳係の人が頭を抱える。彼がどれだけ声を荒げても黒騎士は反応を示さなかった。
「■■■■■■■■■■■■」
「ッ!?…■■■■■■…」
2人がイングランド語で会話をする。通訳係の人は黒騎士の様子を伺いながら会話をしていた。
「■■■■■■■■■■■■」
「■■!!」
通訳係の人が勢いよく立ち上がると彼に敬礼し部屋から出て行った。私は扉と黒騎士を交互に見つめた。
「……私のフランス語が、通じるか」
「!…はい」
暫くして彼がフランス語を話した。
「……はい、か、いいえで答えろ。私は、フランス語が、得意ではない」
私はジッと彼を見つめる。彼は頑なにこちらを見ない。私には興味ないというかのように手元の資料のみ見ている。
「…兜を外して。その要望に応えてくれれば付き合います」
何に、とは言わなかった。けれど彼には伝わったのだろう。彼は暫く黙り込んだ末、ゆっくりと兜を外した。見えた顔に、やっぱりと思った。どれだけ怖い兜で顔を隠しても、低い声で異国語で話したとしても誤魔化しきれるわけがないのだ。
1年間離れていただけで随分体格が変わり大人っぽくなってしまったけれど。見間違うはずはない。間違いなく、彼だった。
三度目の黒騎士は。その正体は私の幼馴染のジャックだった。死んでいなかった。
私の大切な人は。ジャックは殺されていなかった…!生きてくれていた!
そう思った途端、今までの心の穴がなくなったような。ようやく心が満たされたような。そんな不思議な感覚がした。
「もう一度、問おう。ジャンヌ・ダルク」
話したいことはたくさんあった。貴方はどうして生きているの、とか。生きていてくれてよかったとか。どうしてイングランドにいるのとか。一緒にフランスに帰ろうとか。もっともっと沢山話したいことがあった。いっぱいありすぎて何から話していいか分からないほど。
けれど彼はまるで私と初対面のように振る舞うから私は何も言い出すことができなかった。扉の向こうからは軍人の声が聞こえる。壁が薄いのだろう。そのこともあって私は余計に何も言い出せなかった。
「…貴様は神の恩寵を受けたと認識しているか」
その問いは数日前司祭に聞かれたものと全く同じだった。何故だか分からないがこの問いを投げかけた司祭はとてもニヤニヤ笑っていた。あの時私がなんと答えたか、それを共有していないはずはないだろうから、きっとこれはわざと問われているのだろう。
「……」
”もし君が神の声を聞いたというならば、それは教えに背く。言っている意味が分かるかい?”
思い出すのは遠い昔の記憶。ドンレミ村が襲われる前の記憶。ジャックと、ジャックの父親に神の声が聞こえると話した時の記憶。
”聞こえるはずがないんだ!!人間が神の声なんて!!僕らキリスト教徒は聞こえてはいけないんだ!!聞こえないと教えられているんだから!!聞こえたら、君は教えに背く。君が異端者になってしまうんだよ!!!”
神の声が聞こえるということがどういう事を意味するのか。全く分かっていなかった私に必死に教えてくれた時の記憶だ。
「もし私が恩寵を受けていないならば、神がそれを与えて下さいますように。もし私が恩寵を受けているならば、神がいつまでも私をそのままの状態にして下さいますように。もし神の恩寵を受けていないとわかったなら、私はこの世でもっともあわれな人間でしょうから」
司祭に聞かれた時と同じ答えを返す。彼は不満げな顔をした。はい、か、いいえで答えろという約束を早速破った私に思うところがあるのだろう。私はにっこり笑って返す。約束を破ってしまったのは申し訳ないけれど、はい、とも、いいえ、とも答えられないものを聞こうとするそちらにも問題があると思うから謝りはしない。
「……なるほど。確かに、これは……司祭の手に余るな」
彼は小さく呟きため息を吐いた。そして彼はようやくこちらを見た。
「ジッとしていなさい」
けれど目だけは合わせようとしなかった。どうして目を見てくれないの。そう聞きたかった。彼は無言で剣を抜き私のそばで膝をつくと、縄で椅子に縛り付けられた私の手に触れた。そして自らの剣で慎重に縄を解いた。
「あ、ありがとうございます…」
両手が自由になる。ずっと固定されていた手首を回していると彼が私の手を凝視した。
「…痛むのか」
「あぁいえ。大丈夫ですよ」
そこで初めて彼は私の目を見た。私が嘘をついているかどうか確認する時彼は私の目を見ていたから今回もきっとそれだろう。彼は私が嘘をついていないと判断するとすぐまた目を逸らし、今まで見ていた資料をこちらにも見えるようにテーブルに置いた。
「ここに貴様の証言内容が記されている。今から私が読み上げる。全て嘘偽りないと認めるのであれば、この部分にサインを書きなさい」
「…これは、貴方の文字ですか?」
「……だったら、なんだ」
私はそっと彼の文字に触れた。初めて彼の文字を見た。何故だか愛おしさを感じた。
「…初めて文字を見たのか」
「いいえ…でも貴方の文字は初めて見ました。文字は、不思議ですね。書く人によって抱く気持ちがこんなに変わるなんて」
「……。自分の名前は書けるか?」
「いいえ」
「…そうか」
彼は小さくため息を吐くと持っていた紙束の一番下を引っ張り出し置かれていたペンを手に取りサラサラと文字を書いた。その姿が、彼の父親と会話していたあの時の彼と重なって見えた。あの時と同じ雰囲気を感じた。格好良くて、遠くて寂しい。あの感覚が再び舞い戻ってきた。
「これを真似て書きなさい。書く場所はここだ。分かったか?」
「はい。ここですね」
「ま、待ちなさい!今すぐ書くんじゃない!!そこにサインするのは今から読み上げる証言を聞き君がその内容全てを認めた時だけだ!!!」
本気で慌てたらしい彼は私から紙を奪い取った。昔やんちゃな私の後を慌てて追いかけていた幼い頃の彼を思い出して、心が温かくなった。
彼は小さな声でなんで笑っているんだと呟いた。私はその呟きに微笑みで返す。彼はぐっと眉間に皺を寄せた。あぁ、この顔は彼が湧き上がる感情を押し殺している時の顔だ。
何も言わなくても分かる。伝わってしまう。多分これは私だけではなく彼も同じだろう。何故なら私達はずっと一緒だったのだから。
「先に、伝えておく」
彼の声が震えた。
「君は、1ヶ月以内に死ぬ。私が、君を…っ死刑にするからだ。君はサインすれば罪人として認めたことになり、火あぶりの刑に処される。逆にサインしなければ、これも同じく、火あぶりの刑に処される……分かるか。君がどんなに頑張っても運命は変わらないんだ」
「……火あぶり」
それは死刑の中でも一番重い罰だ。私は不思議と悲しいとは思わなかった。悔しいとも思わなかった。この戦争に加担すると決めた時から近いうちに死ぬ事を知っていたからだろうか。ただ、あぁここで死んでしまうんだなと思った。欲をいえばもっと苦しまない死に方が良かったけれど。私という存在がイングランドにとって忌むべき対象であることは理解していたから仕方がないと思った。
「……ジャンヌ・ダルク。私が、憎い、か」
「え?」
彼は私を見下すように笑う。彼らしくない無理した笑い方に私は動揺した。どうして、こんな事を聞かれているか分からなかった。確かに私は彼の手によって死刑に導かれるのかもしれない。けれどそれは私がそれだけのことをしたからであって彼を憎む理由にはならない。
だというのに彼は震えている。私に憎まれることに怯えているのだろうか。
憎むわけがない。だって、こうして会話しているだけで分かる。彼はずっと私を殺したくないと思っている。どうして彼は自分の気持ちが伝わっていないと思ってしまうのだろう。
「私は、私を殺す役回りが貴方でいてくれてよかったと思っています」
だって、そうでなければ私は貴方と再会できなかった。
こんな形でもまた貴方と会えて本当に良かった。
言葉に出さずその気持ちを伝える。彼の目が大きく見開かれる。多分私の気持ちは伝わったのだと思う。その証拠に彼は泣きそうな顔をしているのだから。
彼の口が動く。2回同じ動きをする。音はなかった。けれど伝わった。
ごめん。ごめん、と彼は震えながら音を出さずに言っていた。どうして謝罪をされているのか分からなかったけれど私は許すことにした。ニコリと微笑むと彼の顔が更に歪んだ。
「ジャンヌ・ダルク……」
彼が私の名を呼ぶ。
「どうか…頼むから」
ぽたり、と彼の綺麗な瞳から涙がこぼれ落ちた。
「祖国のために死んでくれ」
涙を流したまま彼は私を見つめた。これは再度死刑宣告をされたと受け取るべきなのだろうか。
私は心をぎゅーっと鷲掴みされたような苦しさを覚えた。何をされたわけではないのに彼の泣き顔を見ていると胸が苦しくなる。泣かないでほしい。私の大切な人。
私は何も言わず右手を伸ばし彼の頬を撫でその涙を指で拭った。彼はパチパチと瞬きをした。何をされたのか理解できないとその顔が言っている。次の瞬間、理解が追いついたのだろう。サッと彼の顔が赤らんだ。
また心がぎゅーっと鷲掴みされたように苦しくなった。なんで。彼は泣き止んでくれたのに。余計に胸が苦しい。
"恋なんて苦しいものさ。胸の奥をきゅーっと掴まれているような辛ささ"
「ぁっ…」
小さく声が漏れる。こんな時になって、私は自分の気持ちに気付いた。気付いてしまった。よりにもよって、このタイミングで。意識した途端、愛おしさが込み上げてくる。
あぁ。どうして。なんで、今なの。
もっと前に分かっていたら。彼と一緒にいた頃に分かっていたら。
「…読み上げるぞ。よく聞きなさい」
彼の左手が私の右手を触れる。伸ばしたままだった私の右手を彼はテーブルに置かせた。
その間、触れ合っただけでどれだけドキドキしていたか彼は知らない。
彼は淡々と読み上げる。私はその声を聞きながら自分の右手を撫でた。恋とは不思議だ。実はずっと恋してみたいと思っていた。母さんが恋とは甘い菓子のようなものだと言っていたから。食べ物を食べずとも甘さを味わえるなんて良いなと思っていた。
"恋なんて苦しいものさ。胸の奥をきゅーっと掴まれているような辛ささ"
けれど、彼の言う通り甘くなんてなかった。むしろ逆だった。彼とは手を繋いだことくらい何回もあったのに。それを私は今までなんとも思っていなかったのに。触れたところがいつまでも熱い。心臓がドキドキとうるさい。胸が苦しくてたまらなくて、でも愛おしい。
「全て事実と認めるか?」
「はい」
「…よろしい。では、ここにサインを」
彼は書類を私に渡す。私は言われた通りペンで文字を書く。これが意外に難しかった。どこに力を入れればいいかよく分からないし、どうやっても小回りがきかない。書けと言われたエリアをはみ出してしまう。文字が滲んでしまう。頑張って全部書いてみたが全然彼のように綺麗にはならない。そっと彼が紙をとり私のサインを確認する。あまりに汚かったので恥ずかしかった。
「……何か、欲しいものはあるか」
「え?」
「…なに。貴様はもう死ぬんだ。叶えられるかは別として言ってみるといい。これでも私は伯爵だ。パンや肉くらいなら食わしてやれる」
何故彼がそう言い出したかはわからない。けれど、彼がそう言うのなら甘えてみようと思った。
「十字架を、いただきたいです。自分のものは奪われてしまったので…」
「………君は、どこまでも…」
「え?」
「いや、何でもない」
彼はゴソゴソと自分の懐を探った後テーブルに置いた。置かれたのは木製の十字架だった。首にかけれるようチェーンがついている。
「ちょうど処分に困っていたところだ」
「処分って…これ、貴方のものでしょう?貰っても、いいのですか?」
「私のは別にある…これは、贈り物…だったものだ」
”…都会の男は、好きな女性に贈り物をするという話を聞いたんだ”
瞬間オルレアンで彼が言っていたことを思い出した。贈り物。ということは。これは彼が好きな女性のために買ったものだ。そういえばあの時既に彼は恋をしていた。これはその人に宛てたものだろうか。
ズキリ、と胸が痛んだ。先程まであんなに満たされていたのに、今は痛くてたまらない。
「……受け取れません」
「…そうか。では仕方ない。処分するよ」
「な、何故そんな…っこれは、貴方の大切な人への贈り物なのでしょう!どうしてその人に渡さないのですか?」
「…もう、渡すことができないからだ」
彼が目を伏せる。そこでようやく察した。彼はもう想い人と会うことができないのだと。渡せなくなったこの十字架は存在するだけで彼を傷つけるものになってしまったのだと。だから私に渡そうとしたのだと。
「…やっぱり、いただきます」
「……そうか」
十字架を手に取る。思ったよりも軽い。女性への贈り物だからきっと負担にならぬよう軽い素材を選んだのだろう。こんなところにまで彼の優しさを感じてしまい少し泣いてしまいそうだった。
「他に何か言い残したことはあるか」
「言い残したこと……そうですね。あります。オリバーというイングランド人を知りませんか?彼に伝言を頼まれていたんです」
彼は驚いた表情をした。
「お前を信じてられなくて済まなかった。お前は正しい、と。そう伝えてほしいと。イングランドの英雄になる男に伝えてほしいと言われました」
「……そうか」
彼はグッと唇を噛み締めた。あぁやっぱり、あの方の言っていた、英雄になる男とはジャックのことだったんだ。伝えられてよかった。ホッと胸を撫で下ろす。彼はそれから暫く黙り込んでいたがやがて口を開いた。
「審問は以上だ」
彼は椅子から立ち上がる。私はこんなにも未練がましく彼を見つめているというのに、彼は足早に私の横をすり抜ける。まるでもうここにいたくないと言っているようで。私は酷く傷ついた。
「お願いを!」
咄嗟に声をかける。
「最後に、お願いを聞いてくれませんか」
考える間もなく口が勝手にそう言っていた。どうしても彼を引き止めたくて。これで終わりにしたくなくて。考えるより先に声が出てしまっていた。
「……聞くだけ聞こう。ただし、必ず叶うと思うな」
彼は足を止めてくれた。けれどこちらを向いてはくれなかった。
「…ありがとう、ございます。あの……」
思わず、黙ってしまった。お願いを聞いて欲しいと言っておいて肝心のお願いを考えついていなかった。
何を、言おう。
もうここで、告白してしまおうか。この胸の痛みを、苦しさを愛おしさを彼にぶつけてしまおうか。
そう思ったけれど、できなかった。扉の向こう側にいる兵士に聞かれてしまうかもしれない。彼は頑なに私と初対面であろうとしているのだから、関係がバレたら迷惑がかかる。そう思うと、告白なんて絶対できなかった。
だから、その代わりに。愛の告白の代わりに。発した言葉は。
「貴方はどうか、長生きしてください」
そんな当たり障りない。けれど、私にとっては告白と同義語の言葉。彼は暫くその場に立っていた。そして、イエスともノーとも言わず部屋から出て行った。
彼の宣言通り。それから一週間も経たず私は火あぶりの刑に処されることになる。
そこで命を落とした私は知らない。
この時の私の言葉が後に彼を苦しめることになるなんて。きっと英霊とならなければ永遠に知らなかっただろう。