こんな日々がずっと続いてほしい。そう思っていた。
ジャックは昔から泣き虫だった。3つの頃はよく夢を見て泣いていた。怖い夢を見たと言って泣いていた。そのくせ、どんな夢だったんだと聞くと忘れてしまったというのだから子供というものは本当に勝手だ。肝心の原因を忘れたくせに怖かったという記憶だけでジャックは毎晩泣いていた。
6つの頃は同じ村の子達に馬鹿にされ泣いていた。ジャックは生まれつき身体が弱く容姿も男前とは言い難かった。はっきり言うと女々しい子だった。元気な子が多いこの村でジャックは格好の的だった。
9つの頃ジャックは悔し泣きばかりしていた。恋をした女の子 ジャネットもといジャンヌに自分よりも親しい男の子がいたのだ。彼 リュークは体格に恵まれ同年代の子達の中ではリーダーのような存在だった。ジャンヌがジャックではなく彼を頼っていたのは当たり前の事だった。だがジャックは相当悔しかったらしく、ある時泣きながらリュークよりも強くなりたい。父さんは傭兵だったんだろう。僕に稽古をつけてくれ、と懇願してきた。こんな時でも泣いている息子を見て呆れを通り越し愛おしさを感じていた。
10になった時ジャックは虐められても泣かなくなった。妻にすぐ泣く男ではジャンヌに嫌われるぞと言われたからだ。ジャックは同年代の子達の中では賢い方だった。口喧嘩では負けなしになった。だが言い負かした相手が殴りかかってくるようになりジャックはほとんど負けていた。体が小さすぎて相手に振り回されてしまうのだ。まだ稽古をつけて一年。彼はまだまだ弱かった。けれどジャックは喧嘩に負けても泣かなくなった。ジャンヌの前では絶対泣かなくなった。彼はこの頃になってようやく堪える術を学んだ。
だが彼はジャンヌのいない自宅ではよく泣いていた。怖い夢を見たのだと言って泣いた。どんな夢だと聞くと覚えていないという。全く子供は勝手だ。成長したと思っていたのにきっと彼の根本は3つの時からあまり変わっていないのだろう。
「父さんは、僕には剣の才能がないと思っているんだろう」
ある日ジャックが稽古中にそう言った。稽古を始めて2年。毎日素手でジャックを転がしていた。体の小さく非力なジャックは真正面から相手と戦っても勝てない。だからまず転び方といなし方を教えていた。
「何故そう思う」
「だって父さんずっと剣を持たせてくれないじゃないか」
「お前は身体の使い方が分かっていないからな。身体の使い方がわからないものに剣を持たせたら自分を刺しかねない」
「そんな馬鹿なことしないよ」
「そう言うという事は、お前がまだ身体の使い方を理解していないからだ」
ジャックは不満そうな顔で起き上がる。彼にはまだ理解できないのだろうがいつかきっとわかる日がくる。
「父さんはお前を才能の塊だと思っているよ」
疑いの眼差しを向けられる。嘘だと言う彼の心の声が聞こえた。
「お前には理解できないと思うが私にとってお前は希望の子なのだ」
「どうしてそう思うの」
「お前が私の息子だからだ」
「強くなるんだジャック。お前は身体も心も強くなれる。お前は私の息子なのだから」
ジャックは不可解そうな顔だったが、はっきり頷いた。
「父さん、僕は強くなりたい。母さんが女の子は強い男の子と結婚したがるって言ってたから」
ジャックは真剣な顔で言う。
「だから僕、リュークより強くなってジャンヌと結婚したい」
「……結婚、したいのか」
「うん」
「…そうか」
少し困った。例えリュークより強くなったところで結婚できる保証などどこにもない。がジャックは今それだけを目的に辛い稽古に耐えているのだ。ここで下手にジャックの決意を揺るがすことは言いたくなかった。
「であれば強く立派な男になるんだ。そうすればジャンヌも振り向いてくれるかもしれない」
言いながらまぁ無理だろうと思った。ジャンヌは家の手伝いをよくするとても良い子だがお転婆な子だ。ジャックよりも男勝りな彼女は恋愛ごとよりも外で遊ぶことの方が好き。食べることの方が好きな子だ。あのままじゃジャックがどんなに頑張ったところでお友達止まりだろう。
「…ジャック。稽古はここまで。祈りの時間だ。早くしないとジャンヌに会えないかもしれないぞ」
ジャックは慌てて家の中へ入って行った。ここ最近のジャックはジャンヌという単語を出せば呆れるほど言うことを聞く。一時期は教会へ行くことすら億劫がっていたというのに。
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教会へ行くと予想通りジャンヌが祈りを捧げていた。外で遊ぶことよりも食べることよりも祈りを捧げることを優先するほど彼女は熱心な信者だった。
祈りを捧げ終わった彼女に軽く挨拶すると彼女は嬉しそうに微笑んだ。隣でジャックは不満そうな顔をした。お前は実の父でさえ嫉妬をするのか。
「おはようジャック」
「お、おはよう」
「こらジャック。顔を背けるな。ジャンヌに失礼だろう」
そのくせ恥ずかしいのかジャンヌの顔を直視できないでいる。こんな態度でジャンヌと結婚したいと思っているのだから天邪鬼な子は難しい。
「ジャンヌはいつも祈りの間何を考えているの」
「ジャック」
強い口調でジャックを咎める。この子は好奇心旺盛なのか時折こうして無遠慮に人に聞いてしまう。
「昨日までいつも通り平和を守ってくださったことへの感謝と今日もお守りくださいって祈りの言葉を伝えているの」
ジャンヌはあっけらかんと答えた。ジャックは少し驚いた顔をして私を見た。
「そうなんだ…父さんと、似てるね」
「そうなの?ジャックは?」
「え…っ」
「私は答えたよ。だからジャックも教えてよ」
一歩ジャンヌがジャックに近づく。ジャックは半歩下がった。
「僕は…父さんと母さんが元気に過ごせていることへの感謝と…」
「と?」
「や……願い事をしてるだけで」
「願い事?どんなお願いなの」
「それは……秘密」
ジャックは顔を真っ赤にして消えそうな声で言う。ジャンヌは秘密なら仕方ないねとあっさり引き下がった。
「ジャック…お前まさか」
まさか、主の前でジャンヌと結婚させてくださいなんて祈ってないだろうな。
ちらりとジャンヌと見た後でジャックを見る。ジャックは私の言いたいことが分かったのだろう。彼は更に顔を赤らめて俯いた。しかし否定はしなかった。
「…全く。お前はとんでもない息子だ」
「え?」
ジャンヌはキョトンとした。
「いや、なんでもないさ。それよりジャンヌ早く家に帰らなくていいのかい?お母さんが待っているだろう」
そう言うとジャンヌはハッとし慌てて教会から出ていく。ジャックはその日一度もジャンヌと目を合わせられなかった。
ジャックはその後も相変わらずジャンヌに夢中で彼の世界の中心は常にジャンヌだった。が、ある日彼はとんでもない失恋をすることになる。それは彼が12の時だった。
「ジャンヌ。僕はこれから強くなるから。だから僕と結婚してほしい」
祭りの日だった。ジャンヌの父が毎年行ってくれる祭りの日。彼女の父はこの村一帯をしきる優秀な方だった。戦で負け深手を負った私をこの村へ引き入れてくれたのも彼女の父だった。
その日は彼が用意してくれた酒がたんまりと用意されていた。勿論これは大人のもの。子供が飲むだなんて許されない。だというのにジャックは飲んでしまった。否、誰かに無理やり飲まされたのだろう。好奇心旺盛な彼とはいえそんな事をすれば私がどんなに怒るか分かっていたはずだ。きっとジャックは被害者なのだろう。
そして被害者な彼は酒の力で隠していたその思いをジャンヌに打ち明けてしまったのだ。
「えっ…」
ジャンヌは呆気に取られていた。いつも目を合わせない奴が突然真剣な顔でプロポーズしてきたのだ。そうなるのも無理はない。
「いやだ」
そうして、残酷なその三文字を口にした。ジャックは泣いた。ジャンヌは慌ててごめんなさいと謝った。
「私まだこの家の子でいたいから…それに急に結婚って言われても…そんなの分からないよ」
謝った上でそう言う。ジャックはどこまで冷静に聞けているのだろうか。もう最初の三文字しか聞いていないのではないだろうか。そう思うほどジャックは大号泣していた。周りにいた人間はジャックを見て大笑いする。
その歳以降、ジャックは祭りに参加する事を嫌がった。酒によって告白したのならば酒の力で記憶をかき消して貰えばよかったのに不安なことに一連の出来事を覚えてしまっていた。
不穏な予感を感じたのは、ジャックが16の時だった。この歳になってもジャックは相変わらず身体は弱かった。それでも体調を崩す頻度は幼い頃に比べ格段に減った。だが背丈は13のジャンヌと変わらぬほど小さかった。
「声が、聞こえるの」
不穏な予感はジャンヌのその発言だった。
「フランスを救いなさいって私に言うの」
その話を聞いた時ジャックは顔を顰めた。おそらく私も同じ顔をしていただろう。
「ジャンヌ、ジョークでもそんな事を言ってはダメだ」
「ジョークじゃないよジャック。本当に聞こえるの。今は何も聞こえないけど…教会で祈っていた時に。誰もいないはずなのに声が聞こえたの」
ジャックは困った顔で私を見る。この頃、神の予言を聞いたという話を何件か聞いたことがある。どれも嘘っぱちで当たりやしない予言。神を信じ敬う者にとってそれは許されない行いだった。
それをまさかジャンヌがするとは思いたくなかった。
「ジャンヌ。君がどれほど信心深い子であるか私は知っている」
私はジャンヌと目線が合うようしゃがみ彼女の目を見て言う。
「我々人間には神の恩寵を受けたと認識することはできないんだ」
「おん、ちょう?」
「神からの恵みのことさ。もし君が神の声を聞いたというならば、それは教えに背く。言っている意味が分かるかい?」
ジャンヌは首を傾げる。13の彼女には難しい話なのだろう。だが16のジャックには意味がわかったらしくジャンヌの肩をガシッと掴んだ。ジャックの顔は真っ青だった。
「ジャンヌ。その話は誰にもしてはダメだ。こんな誰が聞いているかもわからない外でなんか絶対にダメだ」
「どうして?私は本当に声を」
「聞こえるはずがないんだ!!人間が神の声なんて!!僕らキリスト教徒は聞こえてはいけないんだ!!聞こえないと教えられているんだから!!聞こえたら、君は教えに背く。君が異端者になってしまうんだよ!!!」
ジャンヌは、えっ、と声を漏らし目を大きく見開いた。
「ジャック、声が大きいぞ…もうこの話はやめよう。いいかジャンヌ。決して誰にも言ってはいけないよ」
ジャンヌは悲しそうな顔をして俯いた。けれど彼女は頷かなかった。
それから1年が経った。
ジャンヌが私にその話をすることはなくなった。村の人達の様子を見る限りジャンヌは話していないのだろうと思う。
けれど、私は聞いてしまった。見てしまった。ジャックにまたあの話をするジャンヌの姿を。
「どんどん、具体的になっているの。おるれあんに行きなさいって言うのよ。ジャックはおるれあんって知ってる?」
「聞いたことある…けど、ここからじゃかなり遠い。僕らじゃとても行けやしないよ」
「そう…」
彼女の家の裏庭で2人は会話をしていた。小声で話していたが風向きのせいでその内容は筒抜けだった。
「ジャンヌ。君はどうしたい?」
ジャックは問う。
「君はその声の導くままオルレアンに行こうと思っているの?もしそう思っているのなら」
「思っているのなら?ジャックは私を止める?」
「…止めたいけれどね。君は頑固だから僕が止めたところで止まらないだろう。だから僕は君についていくよ。これでも父さんに鍛えてもらったんだ。用心棒くらいはできるよ」
ジャンヌは驚いていた。きっとジャックが危ないからやめろと釘を刺すと思ったのだろう。私もそう思っていた。そうするべきだと思った。
「でも1日待ってくれ。武器や防具一式父さんに借りないといけない」
「貴方のお父さんは多分許してくれないと思う」
「うん。だから言わないよ。勝手に借りる」
「え…」
「大丈夫。戻ってくる時にちゃんと返すさ」
ジャックは笑う。ジャンヌは暫くジャックをじっと見つめていた。
「ありがとうジャック。でもね、私は行かない」
「え…」
今度はジャックが驚いた。
「行けば本当にフランスが救われるかもしれないけれど…でも私みたいな農家の娘が行ったところで何かの役に立つとは思えないから」
それにね、とジャンヌは続ける。
「私この村が大好きなの。ジャックはここを出て遠くの知らないところに行きたいと言うけれど私はずっとここにいたい。ずっと母さんと父さんと兄さん達とカトリーヌと一緒にいたい」
「…そっか」
「ジャックとも一緒にいたいけど…でもジャックは遠くに行きたいんだよね」
「いや僕は」
「遠くに行っちゃうのは寂しいけど仕方がないよね。でも遠くに行っちゃっても、たまには村に戻ってきてね」
ジャンヌはギュッとジャックの手を握る。ジャックは困った顔をした。一時期ジャックはよくこの村を出て遠くに行きたいと行っていた。ジャンヌに夢中になるより前の頃の話だ。当時村の子に虐められ泣かされていたから彼はこの村が大嫌いだったのだ。けれどジャンヌに恋してから以来、彼は一度も村を出たいと言わなくなった。全く現金な子だ。
「君がそう思うのなら戻ってくるよ」
「ありがとうジャック」
約束よとジャンヌは笑う。
2年後、この村が。
ドンレミ村がイングランド軍に襲撃されることなど露知らず我々は束の間の幸せに酔いしれていた。