次回、最終回。
────春が近づく。
空気は生命の腥い匂いを孕んで、暖かい風を吹かせる。
まだ、桜は咲いていない。
二人、寝台で融けるように微睡んでいた穏やかな日だった。握る手の温かさを、永遠に続く物だと勘違いしてしまいそうな日だった。
「……そろそろですねぇ」
冬が終わる、冬が終われば、多少は波も穏やかになる。そうなれば、もう船は行くのだろう。
「数日後にでも、行こうかなと」
「そうか」
「はい」
彼女の頭が、猫のように体に擦り付けられた。
「……終わりですねぇ」
「そうだなぁ」
何がとは聞かなかった、その必要はなかったから。
「はい、終わりです。……ありがとう」
何か、決意したような声だった。多分、俺が知らない何かを決めてしまったような、そして、優しげな声だった。ずっと昔に、童の頃泣いていた俺を慰めた誰かの声に、随分と似ている気がした。
思わず、それを聞いて、彼女の体を抱き寄せた。何故かはわからなかったけれど、どうしてもそうしたくなった。
「……ん」
少し驚いた顔をして、そしてまた腕の中の女は笑った。
「ねぇ、やっぱり、やめよっか」
彼女の指が、とんとんと俺の胸を叩く。
「全部やめてさ、二人で……何処にでも行こうよ。ほら、別にさ、これでも色々できるし。何処でだって……」
「いいよ、いいんだ」
多分、俺のことを思っているのだと思う。ああうん、それだけで本当は嬉しいし、出来るならば頷いてしまいそうだけれど。
「いいんだ、これで」
だってほら、どっちにしたって、後悔が残る。それならせめて、お前の為に生きていたいじゃないか。
「夢を、諦めちゃいけない。何も、お前が捨てる必要があるものなんて、ないんだ」
「────お前は」
「ああ、いや、いい。それは、言わないでいい」
止めはするけど、多分言ってしまうのだろう。それは、残酷なことをしてしまったなと思う。
「お前を、捨てるのは嫌だ……」
ああ、畜生。
こんなことを、言わせたくはなかった。こんなことになるなら、出会わなければよかったと思ってしまう。こんなことになるなら、出会わなければ彼女はきっと完璧に、歩いて行けたのに。
「だから、連れて行く」
「────?」
「あの後、書き換えたんだ」
ああ、アレをか。ふむ、それは困る、だって、俺はお前の足を止めるわけにはいかなかったからああしたのに。
「お前が死んだらお前は呪いになるけれど、私に融ける」
言いながら、彼女の指が、体に食い込んでいた。痛みはない、痛みがない? 指先には赤黒く、暗い光が宿る。
「だから、お前は一人にならない。死しても、お前は……」
「……そうか」
なんとなく、何を言っているかを理解する。元々、俺が死んで、それで起こる呪いで殺すはずだったのだが。なるほど、俺を呪いそのものに変えてしまうのだろう、まぁ、生兵法なりに理解するとそういうことになる。そうなっても、意識はないだろうし、まあ、死体を運ぶ手間は無くなるかもしれない。
「手間をかけるなぁ」
「手間じゃない」
「ああ、そうだ。もうみんなには伝えてあるから、連れて行ってくれよ」
遺言には全部、これからする事を書き連ねていた。付き合いの長い者達からは、呆れられてしまったが、それでもわかってくれた。皆、彼女のことも気に入っていたようだから、きっと助けになってくれるだろう。
「……あのですねぇ」
「ん?」
「結構、大事な話をしてるんですけど」
「ああ、そうだなぁ」
まぁ、大事な話だ。でも、なんというか、今日は酷く穏やかだった。暖かい陽光の下で、目の前の女を抱き寄せている。それはなんというか、悲しくはなかった。少し、彼女が悲しんでいるのかもしれないことだけは気がかりだったけど。
「……心臓に、術式を繋げました」
「そうか」
「明日にでも、多分起動します」
「そうか」
「……怖くない?」
「ん、結構怖い。でも」
「でも?」
「結構、幸せかもな」
「────」
目を見開いて、泣きそうな顔になる。ああ、どうにも上手くない、どうしたら笑ってくれるだろうか。俺としては、この天気にそんな顔なんてして欲しくないのだけれど。
「この馬鹿」
「馬鹿とはなんだ馬鹿とは」
「阿呆」
「……はぁ」
ずっと、泣きそうな顔で笑う女の顔を眺める、多分、誰よりも綺麗だと思う。なんだか今日は素直にそう思えた。
「なぁに、ほら、地獄とかで会えるだろ。ろくな死に方じゃないんだし」
「そりゃ、そうだけど」
「ならいいじゃないか」
ごろん、と抱きしめていた手を離して、大の字になる。空は酷く青い、突き抜けるような青空だった。
「良い、青空じゃないか」
「うん」
憎たらしいくらい綺麗な天気を眺めて笑う。
────ああ、やっぱり赦してくれるんだ。
腕の中で、ぼんやりとそんな事を思う。もう、2度と触れられなくなる体温と、香と体の匂いがした。
そういえば、一度も、◼︎しているなんて言われたことなんてないな、と思う。頑なに、その言葉だけは言わない男だった。というよりも、それを言うことをひどく恐れているような人だった。
ああ、きっと。最後まで言ってくれないのかもなぁなんて思って、寂しくなった。
でもまぁ、私も言えなかったから、お互い様なのかな。でも、それでもいいと思った。
それが、最後の心残りで、私がこの男に唯一赦されない僅かな事なのだろうと思う。それがあるだけで、ほんの少しだけ私の痛みは減る。私が彼に与えられなかったもので、彼からも与えられない、釣り合いが取れている、数少ないものだった。
そうして、良い青空だなんて笑ってこちらを向く、目の前の男に口づけをして笑う。本当に、何処までいっても、私にだけは優しい男だと思った。
そうして、目の前の男の側にいる。穏やかな1日は、それだけで終わった。
次回最終回とは言ったけれども、当然、サマーキャンプはね。