────数ヶ月後のことだった。
彭城国で虐殺が起こった、と徐福は言った。軽薄に残念がる女は、部屋の私物を纏めていた。
「このままだと間違いなく死にますけど、どうします?」
今日の夕食はどうするか、そんな程度の気軽さで彼女は言った。実際に彼女にとっては、そのくらいの話なのだろう。
「逃げるか」
自分でも少しは迷うかと思ったが、口から出た言葉は淀みなく吐き出された。故郷よりも、目の前の女を追う方がいいと思った。
「お、本当に? どこ行きます?」
「財産全部と使用人連れて、北に逃げる」
「北〜? 道中でバレたら死ぬよ?」
「どうにかしろ、詐欺師だろ」
その辺誤魔化すのは世界一得意だろう、おそらく。
「方士です〜バカにするなよ〜。ま、なんとかするけど、タダじゃ嫌ですよ」
「逃げた先で財産半分好きに使っていいぞ」
「行った先で金だけ貰って私が逃げたらどうする?」
ニコニコと、悪戯っぽく目の前の女は笑う。冗談なのか、本気なのか、わかる?と言わんばかりの試すような色が瞳に浮かんでいた。思わず、それを鼻で笑う。
「いいさ、どっちみち死ぬのには変わらん」
笑む女の手を握った。ふと、そうしなければいけない気がした。
「一緒に来てくれ、でなきゃ困る」
「私は困りませんよ?」
そう言われてしまうと、困ってしまう。何せ、渡せるものなど何も無い。俺という人間には、この女に役に立つ様な事など何も持ち合わせておらず、せいぜいがこの家にある家財程度だろう。
「…………頼む」
縋るような気持ちだったのかもしれない、そうだったとしたらあまりに情けないけれど。それでもただ手を握って、頼むことしかできない。
「えへ、いいでしょう。財産は共同でいいですよ」
にこり、と、女は笑った。いつもの人を馬鹿にしたような、黒猫のような笑みではなく、人懐っこい少女のような笑みで。
「でも、破産したらお前のですからね」
「……なんだそりゃ、俺は商売できんからお前のせいだぞ」
「投資する方が悪いんだよ、基本的にはね?」
にへら、とまた性格の悪そうな笑みに戻った。やっぱり詐欺師だと思う。
「さーて、じゃあ引越しの準備だ! 荷物纏めるよー」
「もう始めてるよ、3日もすればもう出れる。あっちに知り合いがいるんだ」
「……え、友達とかいたんですね」
「意外とな、人付き合いは好きでもないが嫌いじゃない」
昔、冀州で商売しに行ったと思ったら、何故か医者になったとか抜かしていた友人がいた。まだ息災なのは知っている、要領のいい男だったから、きっとそれなりに頼りになるだろう。
「道中、危険な気もするが、どうにかできるか?」
「無茶言うなよーむむむ……道中、大勢が通れるような場所はやめた方がいいかな。今の魏の軍なら、多分黄巾党の残党抱えてるから会ったらすぐ殺されちゃいそうだし」
「……なんだ、滅んでたのか黄巾党」
「うん、とりあえず冀州なら暫くいたし、私が洛陽から来た道を辿れば生きて辿り着けるでしょ」
洛陽とな、なんとまぁ都会から来たものである。
「ま、途中で死んだら置いてくからね」
「そうしてくれ」
俺は多分、そうしない気がするが、相手がそうしてくれるとわかるのは気楽だった。
そうして、二人して荷物をまとめ始めた。二人とも、自分の荷物は少ない。いや、書物は幾らでも持って行けるだろうが、気に入ったもの以外は友人や、親戚に渡した。
彼らにも、事情は伝えた。少なくとも、知り合い皆は逃げ延びるだろう。
中原に入ろうとしたのは、おそらく、徐福が向かうであろうとした場所だったから。少なくとも、南に逃げ延びて、田舎暮らしをしようという気はないだろうな、と思ったからだった。
使用人達も、どうせ逃げるなら都会のほうがいいでしょうし、と話す。多少の危険があっても、そうする事に疑問はなかった。
当時は、何も知らなかったが、この選択は間違いではなかった。西側から大勢の軍隊が迫ってはいたが、北側は比較的それも少なく、それ故にどうにか辿り着けたのだろう。
当然、大人数で資産を持っての道行は危険だ。食い詰めた賊に殺される危険性も高い。
しかし、「え、大丈夫大丈夫、そういう事にならないように色々してますから」なんて方位と睨めっこしながら、徐福は言った。それを疑いながら、馬車に乗りながら進んでいた。
数日もすれば、本当だったのか、と少し感心する。どういう理屈なのかてんで理解できないが、賊にも会わず、道中では小さな村で食事を貰えすらした。
「本物なんだなあ」
「本物なんですよ」
夕暮れの空の下、馬車の中、村のはずれで分けて貰った粥を隣で啜りながら、自慢げな顔で笑う女の顔を見る。本当に悲しそうな顔の似合わない女だな、となんとなしに思ういい笑顔だった。
「ま、着くまではみんな死なないと思いますよ。その辺はちゃんとやりますとも」
「そうか……ところでこの粥」
「まずい……」
「うむ……」
ちょっとした物々交換で貰った食事だが、驚くほどまずい。まぁこんなものだろうという諦念と、それはそれとして襲いかかる無味と青臭さが織りなす飲み込めなくもない程度の味。捨てる程薄情でもないのだろう、目の前の女と二人して無理やり飲み込んだ。
「……寝る」
「おう」
苦々しい表情を浮かべて、荷台に敷いた布の上に寝転がり呻く女の不貞腐れたような声がなんだか愉快だった。
気がつけば、日が沈む、火を焚く家もいくらかはいるが、早々に眠りにつくのが殆どだ。旅の疲れで、連れてきた使用人たちも皆眠りについている。
隣で寝転がる女の呼吸と、風の音だけが聞こえる。隣に眠る女の顔を眺める、笑みもなく、白い肌が死人のような静謐さで照らされていた。不安になるほど、美しい姿だった。
「…………どうして、一緒にいてくれたんだろうな」
胸に残る不安感は、目の前のそれの姿だけではなかった。目の前に現れたこの女が、隣に居ることが、いつの間にか随分と大事になっているような気がした。
だがそれは、離れれば耐え難い何かが己を襲うだろうという確信にも似た不安となっている。
釣り合うだけの何かがない、報いるための術がない。ただ、それでも、隣に居る事だけが欲しかった。
おかしな話だ、俺はこの女のことを何も知らない。何も聞かず、何も見ようとしていないというのに、こんなことを思うなんて。
袋小路に入りそうな思考を断ち切って、身を横たえた。荷台は狭い、触れる体温が暫しの間不安を誤魔化してくれた。ほんの少しだけ、自分とは違う温度、香と薬の匂いに混じる汗の匂い。
もし、出会わなければ、この全てを知らずに故郷で一人死んでいたのだろうか。
ああ、それは少し嫌だなと、笑って目を閉じた。
流血と、不完全な不死。
死ぬまで共にいようと決めた日。あるいは、一緒に死にたくなった、愚かな欲が生まれた日の前の夜のこと。