いやマジでびっくりしましたね、パソコン開いてひっくり返りました。
いつの間にか冬が終わり、春が来ていた。
肌を撫でる風は温く、緑と花の匂いが混ざる。
旅路には特に異常もなく、目的の街へとあと数日といったところだった。平原の開けた道を馬車が進んでいく。車輪の転がる音を聞きながら座り心地の悪い荷台の上で、空を眺める。しばらく雨も降らないだろ、と雨避けの幌は畳まれていた。
昼下がり、青空を眺める。隣にいる女の鼻歌を聞きながらそうしているだけで、何故か笑みが浮かんだ。
「……なにニヤニヤしてんの?」
「……してない」
「してたけど、なんかいいことありました?」
「ずっとここで一日寝てただけだろうが、お前も」
旅というのは、暇なものでもある。長い移動時間は持ち込んだ書物を全て読み終え、2周目に入る程度には退屈をもたらしていた。
「……あと二日もすれば着くだろうってよ」
「お、やったぁ。取り敢えずお酒飲もうお酒、禁酒しすぎた」
ケラケラと笑う女の声が、よく響く。甲高いというわけでもないが、可愛らしいと人は言うのであろうその声が好きだった。
「うーん……昨日の占いだと今日は一日晴れるだろうし、寝ちゃおうかな」
「まだ寝るのか……」
昼まで寝こけておきながら、食事を終えた昼下がりにまたすぐ寝ようとする姿は自堕落な飼い猫のようで、呆れて笑ってしまう。
言った通りに寝転んで、目を瞑っている女を横目に、ただ遠くの空を眺める。流れる雲と、遠くを飛ぶ鳥の群れをひたすらに見送りながら、ただ無心でいた。
一羽の大きなカラスが、視界を横切った。立木に留まったそれが、鈍い鳴き声を響き渡らせて黒い目でこちらを覗き込んでいた。
何か、嫌な予感がした。しかし、その正体はわからない。首筋が疼くような感覚だけを残して、視線を外したその時にはもう、カラスは消えていた。
あれは、そう、確か屍の多い場所でよく見た。あの時は獣だったが、不吉な予感が脳裏に張り付くようにして剥がれない。
風の音がする。遠くから吹き荒ぶ風が、遠く弱り果ててたどり着いたような冷たい風の音。
「……おい、起きろ」
「んぅ、なんですか、せっかく寝ようと……」
「雨だ、多分な。準備しろ」
「はぁ? そんなわけないでしょー? ……えっ」
女の訝しむような顔が歪む、驚きと、過ちに気がついた時の青褪めた時のそれを浮かべる。
「嘘、嘘、なんで!? あっ、最初の条件間違えた!?」
「天気くらい、誰でも読み間違えるだろ」
「ちーがーうー! もしかしたらこの道行くと危ないかもだから!」
おそらく占具……だろうか、袋から雑多に取り出したそれらをがちゃがちゃと弄り回しながら焦る彼女の姿と、不吉な予感が重なる。
「なぁおい、危ないって言ってもこんな開けた所で襲われたりなんて────」
何かが、風を切る音がした。
ぐずり、と肉が裂ける音がする。
────目の前の女が、血を吐いていた。
胸に、何かが突き刺さっていた。何か、ではない、矢だ。何かを殺す為に使うモノ、それが、確かに女の命を貫いていた。
「──────」
ひゅう、と肺から空気の漏れる音がする。咄嗟に抱き抱えた身体に力は無い。流れる血が掌を濡らす、生暖かい温度と、鉄の匂い。
「おい、おい、なんの冗談だ」
周囲を見る、木陰に襤褸を着て、頰の痩けた男が一人、弓を構えている。男は血と泥に汚れていて、飢えた犬のようにギラギラとした瞳がこちらを見つめていた。
おそらく、一人逃げ延びた逃亡兵か、山賊。偶然街道を進む無防備な商人の馬車を捨て鉢で襲いかかったのだろう。
やけに冷静な頭が現状を把握する。抱える掌に温かい血流れる。ぽつり、ぽつりと、雨が降り出した。
そうだ、殺そう。
抱きかかえた女の身体を静かにと横たえる。使用人たちの悲鳴がどこか遠くに聞こえた。飢えと、疲労で男の動きは緩慢だった、恐らく、自分のしていることもはっきりとわからないのかもしれない、きっと、矢が当たったのも偶然だろう。
走れば数秒の位置だ、木陰で泥に塗れた男の姿は確かに見えにくい、だからここまで気が付かなかったのだろう。
何も考えずに走って、身体ごと男にぶつかった。人を殴ったことなど経験がない、だが、とにかく目の前の人間を動かなくさせたかった。
足元のおぼつかない男は簡単に地面に転がって、俺は馬乗りになっていた。手近に落ちていた岩を掴んで、迷いなく顔に叩きつけた。
一度、二度、三度、と振り下ろす。ばきり、と骨の折れる音がして、悲鳴が聞こえた。
四度目から声を上げなくなった。
五度、六度、七度、八度、段々と殴る石からぐちゃり、と水音がする。気がつけば、雨が降り始めた。
九度、十度、そこから先は数えるのをやめた。
雨と、泥に混じって、男の頭は無くなっていた。石を手放して、掌を見つめた、黒々と汚れている。
────酷く、体が冷える。雨のせいなのだろう。
「…………あ」
そうだ、あの女のところに行かなければ。しかし、泥に塗れた手で触れたら嫌がるだろうか、どこか場違いな考えが残る。
陰に隠れて様子を見ていた使用人達が寄ってくる、心配する声を他所に、荷台に近づいた。
女は横たわっている、胸から血を流し、どうにかしていたか細い息すら失われていた。
矢は体を貫いていたから、折って背中側から引き抜いた。
もう一度、抱きかかえる。まだ熱がある、ただ、苦痛に染まった表情で目を閉じている。
「…………こんなので死ぬのか、お前」
数百年を生きたんだから、もっと丈夫かと思ったのに。強く抱きしめてみる、いつも隣で感じていた鼓動がしない。どうにも現実感がなかった。少し揺すってやれば、また減らず口と文句を言い出すんじゃないか、なんて考えが消えない。
「おい、おい、冗談じゃないぞ。まだ返してもらってないぞ、俺一人だと一文無しになる」
雨が女の血を流していく。ここから、熱さえも奪っていこうとするのか、と怒りにも似た気持ちのまま、強く体を抱いた。
「……頼むよ、お前がいないと……」
いないと、どうなのだろう。きっと、問題はないはずだ、だって、他人なのだから。このまま進んでいけば、きっと新しい土地でそれなりに生きてはいけるだろう。
運悪く知人が亡くなった、そんな不幸はありふれていて。幾度か、経験はあった。だが、何故だろうか、どうにも納得がいかなかった。
だって、こんなにも痛い。何も傷を負っていないはずなのに。わからない、これがなんなのかなんて何もわからなかった。
嫌だ。俺は、とにかく嫌だ。こんな理不尽を許してはいけない、と泣いたのかもしれない。あまり、記憶にない。
ただ、雨の中で抱いている身体から感じる熱を逃さないようにして────そうしていたら音が聞こえた。
聞こえないはずの鼓動が聞こえる、都合のいい錯覚ではない、確かに、いつも聴こえていたそれで。
まさか、と顔を覗き込もうとして。
「いっっっっっっったぁ!!!? 心臓止まった! 死ぬかと思った!!!」
────甲高い叫び声と共に、何故か徐福は目覚めた。ごつん、と俺の頭に跳ね上がった彼女の頭がぶつかる。痛い。
びっくりしたので取り敢えず殴った。何やら文句を言っている、雨が降っていて良かった、この女に泣き顔を見られるのだけは本当に嫌だったから。
─────安心した、置いていかれるのも、置いていくのも嫌だから。
…………死ぬのは嫌だ、悲しいし、痛いし。
でもね、一生のうちには一人くらいは一緒に死んだ方がマシだなって思える相手が出来るものさ。
それがこの日、わかったんだ。
ちょっと情けないし、馬鹿な話だろう?