向かいの馬房には、誰もいない。
綺麗に彼がいた痕跡すらも、なくなった。
「やっぱり元気ないな、ベル」
困ったように鼻あたりを撫でる厩務員さん。
なんとか受け入れることはできたものの、ぽっかりと空いた穴は塞がらない。
こんなんじゃ、ジャパンカップは無理かもしれないな……。
「放牧の時間だぞ」
厩務員に引っ張られて芝に降り立つと、この隣の放牧地にはカメハメハくんがいたんだよな……と寂しくなる。
「はあ……今のままでは到底ダメだ。」
負けるのは、嫌だ。
「ん……?あれ、あの柵……ちょっと脆くない?」
ぐるぐると徘徊してると柵が壊れかかっている。
珍しい。こういうのってすぐ直すのに。
「ほんの少しだけ……外、行ってもいいよね」
ダメってお母さんに言われたことあるけど、興味がある。
他馬は私たちみたいな生活をしているのだろうか。
柵を蹴って飛び越えて……。
脚はなんともない。よかった。もともと壊れてたからかな。
いつもは厩務員さんに引き連れられて歩くところを一頭だけで歩くのはドキドキする。
「建物が並んでて……コースもこんなに」
新鮮だった。
私の体が弱いから厩務員さんたちは私に対して過保護だから。
いつも調教で使ってるコースには他馬がいるみたい。
ちょっと見学してみよう。
「あれ、あの馬ってベルサフィールじゃないか!?」
「誰もいないな……?もしかして放馬したのか?」
人間が流石に気づいてしまった。
ごめんて。
「厩舎のほうに連絡したら、放牧して脱走してしまったみたいですね。……大人しくしてろよ?」
はあい。
紐をつけられてそのままキープ。
残念、もっと遠くに行きたかったのにな。
「その女性は誰だ?」
調教終わりの牡馬がじっと私を見つめている。
なんとなく同い年ぽそう。
「ごめんなさい。中断させてしまって。えっと、私はベルサフィールと言います」
「……気にするな。丁度俺も飽きていたところだった」
えぇ……それでいいのか。
「貴方、同い年よね?次のレースとかわかる?」
「確かジャパンカップ、と人間たちは言っていた」
「私と同じ!貴方名前は?もしかしたらこれからも同じレースで走るかもしれないわ」
ジャパンカップってかなり重要視されてるレースっぽいし海外の馬も来るから必然的にレベルが高いレースになるらしい。
「俺はハーツクライ。ベルサフィールのことはダービーで一緒に走ったキングカメハメハから聞いている」
「えっ……そうなの!?恥ずかしいわね」
「俺はダービーで二着だったんだが、終わったあと話しかけたら『幼馴染みの女の子はもっと速い』と言っていたよ」
そんな……私負けたのに……。
速い……そっか……ふふん。
「(チョロい……)」
「そっかーそうなんだぁ……。ジャパンカップ、ハーツも出るのね。いいレースにしましょう」
ダービーで二着ということは実力も相当のものだ、私に追い付けるか見せて貰おうじゃない!
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ジャパンカップ
2004年 11月28日
東京 芝 2400メートル
……体調は万全。
脚も問題なし。
オークスとほぼ同条件か。
なら三歳馬だけど私の勝ち目もあるかも。
「失礼。君はもしかしてベルサフィールじゃないか?」
「そうですけど……貴方は?」
待機してると大柄で威厳のある黒い馬が話しかけてきた。
ボス馬っぽいけど私は知らないから関東のほうのボス馬かな?
「すまない。私はゼンノロブロイ。君のことはシンボリクリスエスさんから聞いていてな。普段寡黙なあの先輩が饒舌に話していたから覚えていたんだ。」
「クリスエスさんですね、覚えています。そうなんですか……私のことなんて言っていたんですか?」
よその(前)ボス馬からどう思われたのか気になる。
あの馬でかかったしチビとか小娘とか思われてたらショックだけど。
「あー……いや、どうしよ……うーん……」
「そんなに渋るほどですか!?」
思ったよりボロクソに言われてるってこと!?
「いやそんなことはないよ。とても誉めていた」
そうなん……?ホントに……?
そうならいいんだが……
「とにかくお互いいい勝負にしよう」
「はい。」
威厳あるけど存外穏やかな馬だったなあ……。
「お、ベルじゃん。」
「知り合いなのかデルタブルース」
デルタブルースとハーツクライがこっちに来る。
ハーツは相変わらずイケメンだしブルースくんは一皮剥けたって感じがするね。
「小さい頃仲良くて……。ベルもこのレースに出走するんだな」
「そうよ。東京の2400は私がG1レースで勝った条件と同じだから……まあそこそこ自信はあるよ」
「うお、すっげえ覇気……俺もG1勝ったからな。お前のいう通り長距離で見事ハマったよ」
「そう。ならよかったわ。」
嬉しそうなブルースくんにこっちも嬉しくなる。
「……ところで、あの野武士みたいな馬はどなた?」
隅で精神統一している、怖いオーラを出す馬に目を向ける。
「あの馬はコスモバルク。どうやら地方からの出らしいな。クラシック三冠路線全部に出走してる」
ハーツがそう言う。
地方か……地方とここの差はすごいと聞くし怪物級の実力なのかも。
「あとはダイワメジャーというやつが強かったが……どっかに行った」
ど、どっかに……。
とにかくコスモバルクくんは注意、ってことね。
ゼンノロブロイ先輩もだけど。
「ほら、ベル。そろそろだぞ」
ノリさんが合図を送ってきたので素直にゲートインする。
枠はそこまで外じゃないね。
スッといけるといいけれど。
大外ウォーサンが入って準備完了。
王者を継ぐ者か、樫の女王か、伏兵か、地方からの刺客か、遅咲きのステイヤーか。
世界の峰に手を伸ばすのは、誰だ。
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『オークスを圧勝した樫の女王ベルサフィール一番人気です。牝馬初のジャパンカップ制覇なるか?二番人気は天皇賞秋の勝者ゼンノロブロイ。三番人気はコスモバルク。』
『ゲートインが完了しました。…………今スタート!各馬一斉にスタートしてやはりハナはベルサフィール、ベルサフィール先頭です。』
よっし、まずはハナはとれた。
オークスみたいなレースを……と言うけれど、相手は古馬、同期の牡馬。
今まで戦ってきた相手とは正直レベルが違う。カメハメハくん除いて。
東京は広く雄大なコースだから、思う存分私の力を発揮しなくちゃ。
瞬発力と末脚の持続力が大事ってオークスで学んだし。
『レースは淀みないペースで進んでいきます。二番手コスモバルク。三番手にトーセンダンディです。ゼンノロブロイは中団にいます。ハーツクライは最後尾』
私がハイペース作っても、他の馬はスローペースなこともあるんだよね。
まあ悠々自適に……私のペースで逃げるだけだけど。
『1000メートルの通過タイムは……57.6!?これは今年のダービーと同じ1000メートル通過タイムです!これはかなりきつい展開になりました!』
「まだいけるな、ベル」
「楽勝よ」
この程度じゃ壊れない。壊れさせない。
『先頭ベルサフィールから二番手コスモバルクまではおよそ7馬身!追い付けるか、追い付けるのか!』
風が気持ちいいな……これは調子がいいぞ。きっと気持ちよく勝てるはず。
コーナーを回り坂を上ると、とうとう最終直線だ。
500ちょっとの直線は末脚の持続力が問われる。
耐えないと……というか耐えるというよりどれだけ脚が出せるかだな。
『後続仕掛けて襲いかかる!だがベルサフィールとの差はまだまだあるぞ!ゼンノロブロイ!間からゼンノロブロイ!外……大外からハーツクライ!コスモバルク苦しいか?デルタブルースも頑張っている!』
「行かせない!」
「勝たせて貰う!」
「負ける……ものか!」
「私を……捕まえるなんて……絶対嫌……!」
捕まえられるのは、あのレースだけ。
あの馬だけ。
生涯私を捕まえられることができるのは、あいつだけだ!!
『ベルサフィール!ベルサフィール粘っている!三馬身のリード!ゼンノロブロイ追い付くか!?日本牝馬の夢か、秋の王者の意地か!』
『ベルサフィール、ベルサフィール!ベルサフィールが逃げきり勝ち!タイムは……タイムは2分20秒5!文句無しの世界レコードにして、自身のオークスのレコードを越えました!とんでもない、とんでもない馬が現れました!』
『二着はゼンノロブロイ、三着以下は接戦です。ですが、掲示板はゼンノロブロイ以外は三歳馬!』
一着 ベルサフィール
二着 ゼンノロブロイ(三馬身)
三着 コスモバルク(一馬身)
四着 デルタブルース(クビ差)
五着 ハーツクライ(ハナ差)
クリスエス「とても……可憐な女性だった……彼女に気を取られてタップダンスのやつにしてやられた……タップダンスシチーは許さん……」
ゼンノロブロイ「(……そのベルさんって二歳ですよね)」