(まずいまずいまずい……)
グイーネは追われていた。
どれだけ走っても振り切れない。それだけでも訓練された相手だということが分かる。手持ちの道具はそう多くない。逃走用の煙玉や閃光玉を補充していなかったことをグイーネは後悔した。
周囲にはモンスターの気配もある。少しでも足止めをくらったらすぐに追いつかれるであろう。
「なんでこんなことになるのよ!」
話は少し前にさかのぼる。
ボヘロスの東に位置する、民主国家オーフェ。かつては贄の国呼ばれ、奴隷たちが虐げられていた国である。現在は民主主義国家として生まれかわり、魔族との戦争以降目覚ましい復興を遂げていた。王族たちが主導をしていたわけではないため、王族が多数亡くなることとなった監獄の事件による影響も少なく、比較的平穏な国と言えた。
その中心部へ向かう馬車の中で、グイーネは揺られていた。
「やっぱりボヘロスに行くのは難しそう?」
「そりゃ嬢ちゃん、無理だよ。トータスが陥落してからこっち、完全に封鎖されてるもん」
グイーネの質問に馬車の主が軽い口調で答える。
ボヘロスとオーフェの中間に位置するトータス小国が陥落して以降、両国の行き来は完全に閉ざされていた。
「トータスには見張りがうじゃうじゃいるらしい。まず通れねぇ。迂回したとしても、南は魔族との戦争のときに作られた城壁が山ほどあるからなぁ」
「私も最初は南から行こうとしたんだけどね……難しかった。北は?」
「まぁどうしてもってなったら北だろうなぁ……あっちはあっちでシンガナとバチバチやってるらしいが、南側よりは紛れ込みやすいだろ……ただ……」
「ただ?」
「あちこち緊張状態で、ルクルックの防壁が稼働してるからな今は。北を回るにしてもかなり大回りになることになるなぁ」
「そう……それしかないなら、仕方ないわ……色々教えてくれてありがとうおじさん」
「いいってことよ。嬢ちゃんの母国なんだろ?帰れるといいな」
話している間に馬車は市街に到着した。
グイーネは軽い足取りで馬車から降りる。
「あと……少しだけ気になるんだけど」
「うん?なんだい嬢ちゃん」
「隣国があんなことになったのに、随分気楽そうなのね」
「あぁ……」
馬車の主は少し気恥ずかしそうに顔を伏せる。
「別にこの国のやつらみんながってわけじゃないぞ。ただ俺は……ボヘロスが王様になるなら、そう悪くないと思ってる」
「……はぁ?」
「えーっと……街にあるボヘロス様の石碑のとこ行きゃなんとなくわかるよ」
「石碑?ボヘロス様の石碑ってここにもあるの?」
「あぁ。ただ古い方じゃねえぞ。新しいほうだ。……じゃあ俺は行くぞ、いい旅を嬢ちゃん」
そう言って馬車の主は去っていく。あの態度を見るには本当に恥ずかしかったのかもしれない。
「仕方ない……行ってみますか……」
言われた通り、グイーネは石碑まで足を運ぶことにした。
話にあったボヘロスの石碑は街の外れにあった。いくつかの石碑と、中心にはボヘロス呼ばれた聖女の像が祭られている。街外れとは言え、人だかりは少なくない。かつて自分が祈っていた聖女の像のまわりにも多くの人がいたことを思い出し、グイーネは少しだけ気分が良くなった。
「行けばわかるって……」
グイーネはいくつかの石碑を眺める。そこにはこのような記述があった。
『キシェ歴940年
聖女ボヘロスはこの地を訪れ、虐げられし者たちを救った。』
「……なにこれ?」
キシェ歴940年にこの国の奴隷たちは解放された。しかし、それを解放したのは聖女ボヘロスではなく、魔族達である。魔族達は現れた当初、産場や永久洗脳の技術を確立しておらず、そのために、多くの奴隷を騙し、戦力として編入する必要があったというのが通説である。
「不思議なことにね。奴隷が解放された地域にはどこにもこんな話があるんだ」
隣に立っていた男がグイーネの独り言に自然と答える。それがあまりにも自然だったからか、グイーネもなんの違和感も覚えず言葉に耳を傾けた。
男は真剣に聖女の像を見つめて目を離さない。釣られて、グイーネも聖女像のほうに目を向ける。
「実際に自分はボヘロスを見たことがあるなんて人も居たりしてね……自分たちを解放したのは聖女なんだと信じている人もたくさんいる」
「なんで?そんなはずあるわけないのに」
「そこは簡単に答えが出せる問題じゃない。元をたどれば誰かの狂言ってのが一番有力な説なんだけど……他にも魔族達が意図的に流した噂という説もある。変わった話としては、魔族の中に本当にボヘロス様みたいな少女がいたんだとかね。実際に少女の姿をした魔族がいたらしい……今となっては確かめようもないけど」
「……」
「それに……辛い時代だったからね……そう信じこまなければやっていけなかった……っていうのが一番かな」
「それは……少しわかる……」
多くの人間が死んだあの時代。誰も彼も不幸で、なにかに縋らなければ生きていけなかった。そんな時代に、魔族に解放された元奴隷という肩書はあまりにも重かった。救いの主は世界の敵ではなく、伝説の聖女である。そう願わなければ生きることに耐えられなかったのだ。
聖女ボヘロスは一部のものにとって、神聖なものとなっている。だからこそ、ボヘロスという名のついた国に厳しい目を向けられない。バカな話ではある。理屈だけ言えばまるで筋が通っていない。そもそも聖女ボヘロスが今の奴隷たちを救ったという、最初の前提からしておかしいのだ。だからこそ、馬車の主もあのような態度になったのであろう。
それでも、それに縋ることしかできなった人達を、グイーネは否定しなかった。
「ありがとう。なんとなくだけど……理解できたわ」
「そんな、気にしなくていいよ。それより、僕なんかの話をちゃんと聞いてくれてありがとう」
そう言いあい、二人は聖女の像から目を離し、お互いに向き合った。
「……グイー……ネ?……」
「……あなたは……」
お互いの姿を確認した二人は同時に目を見開く。
そうしてまた、一つの悲劇がはじまった。
「やっと追いついた……」
「……あなた……ゲオルイースの次くらいに運動できなかったのに、随分動けるようになったのね」
結局、グイーネは追いつかれていた。街から離れた森の中。二人は向き合っていた。男の両手には細身の剣と黒い刀が握られている。その姿は殺意に満ち溢れている。
「まるで本物のグイーネのように話すんだな」
「だって……私本物だもん」
「彼女はもう死んでる」
「死んだのは間違いないんだけどさ……話せば長くなるというか……話すことはできないというか……」
「心配しなくいい。僕も聞く気はない」
そう言って男はグイーネに向かって踏み込んだ。
剣が打ち合う音が響く。男から振り下ろされる攻撃を、グイーネは手持ちの短刀で捌いていく。
「あのがり勉にしては中々やるじゃない!」
グイーネの言葉に男はなにも返さない。明確な殺意だけをもってその言葉に応えている。
(いよいよ本格的にまずいな……)
男がグイーネのことを人ではないものと認識しているのは間違いなかった。人間が生き返ると言えば、それは魔族との融合以外にあり得ない。ならば目の前にいるグイーネが魔族と思われるのも無理はなかった。散々忠告されたはずなのに、このような事態になったことをグイーネは恥じていた。
(ボヘロス領内ならともかく……まさか、あんなとこに私のことを覚えているやつがいるなんて)
表向きで言えばグイーネが亡くなったのは10年も前である。親しかった人間以外、顔も忘れているのが普通の年月。仮に多少顔を覚えていても、よく似た人と済ますはずであった。
問題はボヘロスから遠く離れたあの地の、あの時間の、あの場所に親しい仲の人間がいたことだ。
(あり得ないでしょ普通)
攻撃を避けつつグイーネは考える。
(どうすべきか……)
相手の腕前は中々のものだが、本気になったグイーネほどではない。それは肌で感じていた。
考えられるべき手段は3つ。
1.この状況からなんとか逃げる。
(もう絶対諦めないわよね……振り切ったとしても増援を呼ばれてもっと面倒な事態になりかねない)
2.口封じもかねてここで死んでもらう
(これは論外……だとすると……)
「ねぇ!少しでもいいからやっぱり私の話を聞いてくれない?」
3.なんとか説得する。これしかなかった。
しかし、簡単に相手は止まらない。両手の剣は的確にグイーネの首に向かてくる。
「本当に私なんだって!」
「……」
「色々あって生き返れて!」
「……」
「信じられないのはわかるけどさ!」
「わかる?」
攻撃を続ける男が口を開いた。
「お前に……僕の何がわかる!」
男は激昂し、剣を振るう手にさらに力がこもる。冷静さを欠いたその剣筋には更なる怒りが込められていた。
「わかる!」
グイーネはその怒りに言葉で返した。
「実家はボヘロス邸宅の近くのパン屋!父親はがさつで母親はおっとり!兄弟はいない!」
「っ!?」
男はその言葉に動揺し、グイーネはさらに言葉を続ける。
「運動はできない!子供向けの紙芝居をバカ真面目に聞くくらいガリ勉!理屈ばっかで頭でっかち!みんなで遊ぶときちょっと浮いてた!」
「……え?……」
「だから!誰かに言われたバカみたいなアイデアを真に受けて、自分の名前が呼ばれやすいようにいつも青い帽子をかぶってる!」
「……まて……」
男の手が徐々に緩んでいく。
「名前はブルー!……それで……たぶん……子供のころ…………私のことが好きだった……と、思う……」
自分で言いだしておいて、恥ずかしくなったのかグイーネの言葉が詰まる。
男の手が完全に止まっていた。もう、攻撃する意思はなさそうであった。男は何度か呼吸を整え、口を開いた。
「バカみたいなアイデアを出したのは誰かじゃない……君だ」
「え?そっち?」
グイーネの目の前には、青い帽子を被ったブルーという男がいた。
「信じてくれた……?」
「……信じてはいない……融合した魔族はその人間の記憶を読む」
「でも止まってくれたじゃない」
「あんまりにもくだらない話を持ち出されるとね……魔族の擬態にしても凝りすぎな気もする。いまの段階で断定できる材料はない」
「それなら、もう信じてくれていいじゃない」
「だからといって絶対というわけじゃない。印象だけで決められる問題じゃないだろ」
「あなた、本当そういとこのせいで浮いてたんだからね」
「…………余計なお世話だ………あとそれに君は受けるだけで僕に一度も反撃しなかった。……だから……話くらいは聞く」
そう言いながらも、ブルーはグイーネに剣を向ける。
「ただし、少しでも不審に思ったら斬る」
「もちろん。いいわ、それで」
話をちゃんと聞いてもらえるなら、グイーネに異論はない。
「でも……この話聞いたら後戻り出来ないからね。あなたのとこの皇帝にも秘密よ」
「…………どうして皇帝の名が出てくる」
「だって、あなた帝国の兵士でしょ」
「……理由は?」
「あなたの動き、ボヘロスの剣術がベースだけど、帝国式の崩す技も混ざってる。我流ってよりは短期間でもちゃんと習った感じだった」
「驚いたな……すこし戦っただけで、そんなことまでわかるのか」
「あと、帝国の特務兵がこっちに入ってきてる噂を聞いた」
「なんだよ。ほとんどそれが理由じゃないか」
「それだけじゃ、しらばっくれるかもしれないでしょ?私の話術の賜物よ」
「……はぁ……裏をかくようなことばかりしてると、そのうち足元すくわれるぞ」
グイーネはいたずらが成功したように笑顔で、ブルーもそれに合わせるような苦笑をしている。楽しかった幼少期に少しだけ戻れた気がした。
「それじゃぁ……長い話になるけど……」
そこからは、ひたすらに苦痛が続く話が始まる。グイーネは自分の人生の全てを話した。ブルーも黙って聞いた。ひたすらに辛い時間であった。
魔族が現れて逃げ出したこと、レジスタンスとして戦ったこと、捕らえられたくさん酷いことをされて死んだこと、残滓に乗っ取られ大王として活動したこと、ゲオルイースのおかげで今があること。話し終えるまで、長く、とても長くかかった。
「……これで全部」
しばらく沈黙が続いた。長い沈黙だった。そうしてしばらくしてブルーが声に出した。
「ごめん……」
「なにを謝ってるのよ……」
「……君が魔族に捕まったと聞いた時。僕はなにも出来なかった」
「誰だってそうだった。あなたのせいじゃない」
「……監獄の中でなにか酷いことが起きているかもしれない……その話も知っていた」
「あなたは帝国にいたんでしょ?遠く離れた土地の話だもん……それにあの時期は皇位継承で揉めてたらしいじゃない」
「……君に辛い話をさせてしまった……」
「……それで、信じてくれたなら……いいの……」
また沈黙が続いた。二人とも顔をあげることが出来ないでいる。辛い記憶で涙を流す姿はお互いあまり見られたくなかった。
しばらくして、二人はやっと落ち着いて話が出来た。
「二人とも目的は同じだ。僕も君も不穏なボヘロスをなんとかしたい。そのためにボヘロスに向かう」
「そうね……あなたは皇帝からの命令で?」
「…………皇帝は一々直接命令なんてしない。僕が勝手に動いてるだけだ……もしかしたら他の兵士も動いているのかも……とりあえず、帝国じゃまだそこまで本格的に動き始めてはないと思う」
「いいの?そんな勝手なことしても」
「こればかりは特権みたいなものだからね……魔族と疑われるものを殺すためならなんでも許される。例えばどこかの国でそういうものを殺して、お尋ねものになったとしても、帝国に帰れば褒められる。まぁ魔族は絶滅認定されてるし、今でも有効かは微妙だけど」
「随分雑なのね……間違って殺されたり、言いがかりで死ぬ人もいたんじゃない」
「……いたかもしれない……違うな……きっといたんだろう……でも、そのくらいしないと魔族はこの世からいなくならない。いや、もうこの世にはいてはならないはずなんだ。歴史の上ではもう絶滅してるはずなんだから」
「でも……残っているかもしれない」
「あぁ、君の話にも出てきたしね……もしかしたら、今のボヘロスにもいるかもしれない」
ボヘロスを支配しているという『ボヘロスの使徒』と名乗る謎の存在。その正体を突き止めることが二人の共通の目的であった。
「一緒に行かないか」
誘ったのはブルーのほうからだった。
「目的は同じだ。二人で行動したほうがなにかと有利だ。情勢を見る限り、それなり長い旅になるだろう。ルートも限られるし、紛争地帯も多い。まずはマキシマス経由で北上して、海上を通ってレイスに向かう。そこから南下して……」
「あのねぇあなた……」
「なんだい?」
「もっと雰囲気のある誘い方できないの?」
「例えば?」
「え?……え~っと……『僕の旅には君が必要だ!』……とか?」
「僕の旅には君が必要だ。一緒に来てくれないかグイーネ」
「あ……はい。よろしくお願いします」
間の抜けたやりとりで、二人の旅が始まることになった。
「とりあえず、一度街に戻りましょうか」
「そうだね、派手な追いかけっこする羽目になったから騒ぎになってないといいけど」
「いいじゃない。二人で追いかけっこしてたとでも言えば」
「あのなぁ……君の見掛けならギリギリ通用するかもしれないが、僕はもういい大人だぞ」
「いい大人だって追いかけっこくらいするわよ。ほら、お祭りのときとかよく追いかけられてたわ」
「それは君がゲオルイースと二人して言うことを聞かないから……いやそもそも、そういう話じゃ……」
ブルーの言葉が少しだけ詰まる。なにか考えているようであった。
「どうしたの?」グイーネが聞く。
「……あの日のお祭りのあとの話なんだが……」
恐る恐るブルーは言葉をつづけた。
「……あの日……あの魔族が現れたあの日から……君は3体の残滓に囚われるまで、ずっとレジスタンスとして戦っていたんだよね」
「…………そうよ、あの日から、あの時まで、私は魔族に後れを取ることなんてなかった」
とりとめのない楽しい会話が急に変わり、グイーネは少し気落ちしながら答えた。
「いや、なんでもないんだ!……ごめんよ。変なことを聞いてしまって……話題を変えよう!」
ブルーは取り乱して話題を切り替える。
「そうだ、僕も随分腕を上げたと思うんだけど。君の眼から見てどうかな?」
「……なかなかのものだけど……まぁ中の上ね」
「それってどのくらい?」
「その辺のモンスターくらいなら問題ないけど。一流相手には厳しいってところ」
「ちなみに君は?」
「私は超一流。さっき私が本気だったらあなたなんて瞬殺よ。瞬殺」
「いやそれは言い過ぎじゃ……」
「なんなら試す?」
「…………遠慮しておくことにしよう」
そうしてまた、他愛もない話が始まる。グイーネは随分楽しそうだ。誰かと遠くの土地に旅をする経験は、彼女にとってもはじめてのことであった。
ブルーも同じように笑いながら歩みを進める。しかし、その拳は血が滴るほど強く握りこまれていた。
街に戻った二人はひとまず旅の準備を整えることになった。
「保存食なんかは僕が用意する。君は回復薬や道具を頼む」
「ちょうどよかった!色々切らしてたのよね。クロスボウも新調したいし」
「ひとまず有り金を半分ずつで分けて……旅に必要なものはしっかり準備しよう」
「任せなさい。私の買い物上手っぷりを見せてあげるわ」
「……わかってると思うが。必要な物だけだからな買うのは。無駄使いはしないでくれよ。二人で合わせたお金とか屁理屈はなしだぞ、ほとんど僕の金なんだからな」
「当り前よ。必要なもの以外には1イルだって出さないんだから私」
「……じゃあ、買い出しが終わったらここに集合で。まぁ1時間後くらい目安で」
そんな会話があった2時間後。
「お待たせ!ちょっと時間かかっちゃった」
「ちょっとって……なにをしてたんだ君は……」
大幅に遅れて戻ったグイーネをブルーは怪訝な顔で見ている。
「値切り交渉とか、掘り出し物探ししてたらねぇ……つい……はいこれ戦利品」
グイーネが買ってきたものを自慢げに並べる。
回復薬などの薬品や、武器道具等。必要な装備は十分にそろっていると言える。
「あと……これよ!」
グイーネは自身満々な顔で見せつける。手には小さな指輪が一つあった。
「なに?すごい加護でもついているのか?」
「そういうのはないわ」
「え?」
「ふふふ……これは……間違いなく異世界の指輪よ!」
「……はぁ?」
「ほら見て内側に知らない言語が彫られてる!しかもすごく精密!装飾の宝石も未知のものよ!とんでもないお宝なのこれは!」
「……相変わらずだね君は……」
随分テンションの高いグイーネについていけず、ブルーはすこし戸惑う。幼少のころからこの手のものに目がないという記憶はあったが、今でも続いているとは考えていなかった。
「わかったよ……あと、残ったお金は?」
「残ってない」
「え?」
「全部使った」
「ちょっと待って……君自分で買い物上手とまで言ってたよね」
「そうよ!ここにあるもの全部きっちり最低価格で購入しているわ」
そう前置きし、それぞれがいくらだったか、自信をもってグイーネは語った。確かにどれも驚くほど安い価格で購入されていた。
「なるほど……そうかそうか……ぼったくられたわけではないと……つまりだな……有り金のほとんどがその指輪に消えたと……」
大事な路銀がいきなり半部以下になり、ブルーは怒りを隠しきれないでいた。口調は穏やかだか、指輪を見る目はまったく笑っていない。
「ちょ、ちょっと待って……無駄使いじゃないわよ!これ出すとこに出したら5倍……いえ!10倍の値で売れるわ!もしかしたら100倍までいっちゃうかも!」
「なるほど……いつかの備えと言うわけだ」
「そうよ!先行投資!むしろ感謝してほしいくらいだわ!」
「よく、わかった……じゃあはい……」
ブルーは手を開き前に差し出す。まるでそれを寄越せと言っているようだ。
「……なに?」
「いつか売るためのものだろ?僕が預かっとく」
「いやいやいや……だって見つけてきたのは私だし……」
「僕の金で買った」
「あなたじゃこの価値はわからないでしょ?こういうのはわかる人がもっておくものよ……」
「僕の金で買った」
「そもそもあなたの指には入らないわ。だけど私の指にはピッタリ……」
「僕の金で買った」
「なんとかならない?」
「ならない。僕の金で買った」
押し問答のすえ、指輪はブルーの手に渡った。確かにきれいな装飾品ではあった。彼はしばらくその指輪を眺めてなにか考えているようだった。そして大事に懐へと仕舞った。怒りは随分と和らいでいる。
「なに?あなたもその価値がわかった?」
「……いや……いつ手放そうか考えてただけだよ」
「やめてよ!?私の指輪を勝手に売るなんて!?」
「僕の金で買った指輪だ……まぁ手放すときは君に話すよ。どうせ僕には必要ないものだ」
「ふーん……まぁ預けといてあげる。それじゃぁ……もう一度手を出して」
今度はグイーネのほうが手を出せと催促してくる。
「……なんで?」
「その手のひら、怪我してるでしょ。今見えた」
「……あぁ……大した傷じゃ……」
「いいから見せなさい。いざってとき剣振れないわよ」
そう言って、グイーネは無理やりブルーの手を握り開かせる。
手のひらは、いまでも少し血が滲んでいた。片手を傷のある手に添えたまま、グイーネは回復薬を取り出す。
「どうしたのよこれ」
「……」
「……聞いてる?」
「うん?……あぁ……」
ブルーは処置をされる手を見つめながら、上の空で言葉を返す。
「なに?どうしたの?」
「いや……君……本当に生きてるんだなって……」
添えられた手の体温を感じながら、ブルーはそうつぶやいた。
その言葉を聞いてグイーネは目を細め少し微笑んだ。そのまま静かに処置を進める。
結局手のひらの傷の原因は聞けずじまいであった。
日も落ちはじめ、街からは人影も徐々に減ってきている。
「とりあえず今日はこのくらいにして、明日になったら出発しよう。どこに集合しようか……君の宿は?」
「え?まだ、取ってないし。お金もない。……あなたは?」
「僕は今日の部屋は取ってるが……」
「じゃあ、私もそこでいいわ。椅子くらいあるでしょ」
「……いや。いいのか君?」
男と若い女だ。それなりのことが起きてもおかしくない組みあわせではある。
「大丈夫、大丈夫。あなたにそんな甲斐性ないでしょ」
「……馬鹿にされてるんだろうが……まぁいい。否定はしない。ベッドは君に譲るよ。確かソファーがあった」
そうして、宿へと向かうことになった。
二人は少し離れて歩みを進める。
宿は町外れにあった。最初に出会った、ボヘロスの石碑の近くだ。宿の窓からは、聖女の像も見えた。この時間には周りに誰もいない。真っ暗な夜の中に一人いる聖女は寂しさを感じさせる。
「そういえば……あの像。ちゃんと顔があったわね」
グイーネが何気なく話題を振る。
「私が祈ってたボヘロス様の顔はわからなかったけど……実際にあんな感じだったのかしら……」
その言葉を聞き、長く間を置いてからブルーが応えた。
「実際のボヘロス様はわからないけど……あの像にはモデルがいる」
「え?そうなの?」
「最初に少女の姿をした魔族がいたって言ったろ?……」
また長いこと間をおいた。その言葉を口に出すのか迷っているようであった。
「デスポリュカ……あの像にモデルになったのは、魔族デスポリュカだ……」
魔族デスポリュカ。情報が錯綜しすぎて、もはやどのような魔族であったのか、誰にもわからない存在であった。魔族の総指揮をしていた真の支配者、融合した一魔族の兵隊、奴隷解放の実行犯、そもそも魔族ではなく利用されただけの人間、本当に人間を愛した魔族、諸説あるがその実態は掴めていない。
歴史の表舞台に出てきたのは一度きり。帝国の前の皇帝と魔族との同盟が結ばれようとしたときに政略結婚の相手としてその存在が確認されている。結局、その同盟は現皇帝ナージェジタととある国を治める超獣ファによるクーデターにより阻止されることになる。帝国と魔族との同盟が完成すれば、世界は間違いなく魔族のものであった。それを防いだという事実は、ナージェジタが皇帝として君臨するための、最大の足掛かりとなった。
デスポリュカはその直後にボヘロスにて死亡したとされている。
「……そのことを知らない人のほうが多いと思う……彼女が表舞台に出たのなんて、魔族が本格的に侵攻する前の話だからね……それに、今更魔族の姿を崇めていたことにするわけにはいかない。だからこの話は広まらないし、あの像が聖女ボヘロス。それでいいんだ」
「……私は……ボヘロス様を魔族の形で祭るなんて……嫌だわ……」
「…………そう……だね……だから黙っておいてくれ。周りにも聞かせたい話じゃない」
時間ももう遅い。いくつか言葉を交わしたあと、二人はそれぞれ寝床に入る。
しばらくすると、ベッドのほうから寝息が聞こえ始めた。グイーネのほうは眠ったらしい。ブルーはソファーの上でいまだ寝付けていない。
目まぐるしい一日であった。気持ちの整理もつかない。これからのことを考えると不安でたまらなかった。一緒に旅をしようと誘ったことも、間違いであった気がしている。
ソファーから、グイーネのほうを眺める。小さな寝息にかすかに動く体。彼女が生きている。その点だけは、ブルーにとっての救いであった。