少年が魔物となった過ぎ去りし日々の話。
『失墜』。
地球の守護者が虚無と衝突し、『
それから幾許かの月日が経った頃だった。
関東から離れた北の何処か、山間に位置するとある田舎の駅。日に数えるほどしか電車が来ないその場所に、男性がぽつんと一人立っていた。
日本人ではほとんど見かけない金髪、それが外部からの人間であることは容易に分かることだった。線の細い顔立ちに後ろで一つに括った髪は、こんな田舎でなければ若い女性の眼差しを集めたのは想像に易くない。
「参ったなぁ……」
左手の腕時計と、右手の
日はつい先ほど沈んだ。うっすらと悪い予感はしていた。時刻表を見る。現在の時間以降の欄は白紙。
「やっぱりか……」
フリック・アドワルソン。
製薬企業に勤める彼は、出張でこの地域に来訪していた。来日して数年以上、電車の本数が少ないことぐらいは想像できていた。
しかし、スケジュール通りに行かない仕事の都合上、こういった事態に遭うこともあり得なくはなかった。
学生時代に植物・動物問わず理科学全般を学んだ彼はその教養の高さから教職に就いていた。優秀な論文も出していただけに、研究者たちから惜しまれる声もあった。
だが、今彼が勤めている企業は諦めなかった。優秀な才能をそのままにしておくのは惜しいと。彼が教職を求めているのならそれを実現できる環境を、その傍で研究にも打ち込める土壌を用意しよう。経営陣はバックアップを整え、フリックを熱烈にスカウトしたのだ。
さすがの彼もこの厚意を受け取らないわけにはいかなかった。教職に就いていたとはいえ、学生時代に打ち込んだ研究も魅力的なものだと知っていたからだ。
その手を取った彼は、企業が立ち上げた孤児支援NPOで教育者として勤めつつ、合間を縫って研究チームの仕事を行う生活を始めた。一見ハードではあるが、それこそが彼の望んだライフワークでもあったため、問題はなかった。
そして今。その
幸い、人が少ない地域なのもあっていくつかある宿が埋まっているということはなかった。
街並み、というには建物が少なく、駅から見える道路の先も屋根より木々が多かった。灯りを頼りにすれば宿まで歩くには困らないだろう。踏むと地面があっさり見える程度で済む雪、というのも助かる要素だ。
しかしその歩みは少し進めたところで止まった。
道路の先に橋が見えていた。川を渡るためのただの石橋だ。
フリックが歩みを止めたのは、そこに立ちすくんでいた一つの人影を目にしたからだった。背は低い。子供……さらにいえば小学生の低学年ぐらいだろう。
だがそれよりも目についたのは服装であった。四肢は覆えているものの、ボロボロの黒い衣服、首に巻いてかろうじてマフラーにしたような布切れ。それが『異常』であることは誰でも分かることだった。
街灯が見える。暗い。灯りが弱いわけではない。重い。瞼が?
寒い。雪が降っているからだ。どこか暖かい場所へ。無い。捨てられたからだ。
そうだ。『無い』のだ。いたのかもしれない親というものは気づけばいなくなっており、その知り合いだという人間たちは尽く
お前。
そこの。
ガキ。
もはや名前など思い出せなかった。不要なものだと認識していた。いらないのだ。名前も、自分も。
ただ、何も無い。行く宛も。生きる意味も。虚無。ひたすらに虚無が続く。
わずかに残っている感覚器が、何かが近づいたのを感知した。首を動かす。
人間の足が見える。誰かがいる。頭を動かす。上に。
金色の髪が目に入る。見たことのない人間だった。
様子を見かねて近づいたフリック。子供の反応は朧げで、同年代ほどの子供たちを見てきた彼にとって、
兎にも角にもテンプレートとも言える質問を行う。
「名前は?」
フリックは問う。少年の反応は無かった。
「えー……と、上の名前じゃなくてもいいよ、下の名前でも」
再び問う。少年はわずかに首を傾げるのみだった。
「まさか、名前が分からない……?」
フリックは重症であると察知した。肉体的虐待どころではないだろう。精神面での摩耗。
喋れない状態に陥る例は知っているが、名前に対して反応すらないのは異常事態にも程があった。もしや名前を与えられてすらいないのではないかと。
早急に何かしらの処置の必要性を感じたフリックは、かつての学生時代に講義で学んだ内容を思い出す。
『名前を付けるということは命を吹き込むことと言っても過言ではありません。名前を与えられること、それは自分がこの世界にとって意味がある存在だと認識することなのです』
フリックは少年の
暗い、奥深くまで沈んでいきそうな黒。底までたどり着いたとして何も無いだろう瞳に、フリックは一瞬だが『本当の虚無』というものを感じた。
ごくりと唾を飲み込み深呼吸をする。冷たい空気が肺に入り、出てきた息が辺りを白くする。
自身の中にある記憶のデータベース、その中から今この場でつけられる最適なモノを検索する。
……
あった。
それが本当に最適だったのかどうかは分からなかった。しかしその瞬間は「これだ」という因果を感じたのだ。
「ディル」
静けさ漂う橋にぽつりと言葉が響いた。フリックは繰り返す。
「ディル」
少年は目の前の男性が何かを言っているのが分かった。しかしそれが何を意味するかが分からない。
「『ディル』。君の名前だ」
意味がつながった。
『ディル』と名付けられた少年の瞳……何も無い虚無の黒に明るい光が差し込む。色は変わらず黒のままだが、以前の黒とは明確に違っていた。
「とりあえず、暖かい場所へ移ろうか」
フリックはディルの手を引き、再び宿へ歩きだした。
東京から遠く離れた内陸の僻地。自然豊かな木々に囲まれる山々。その中に少し開けた丘がある。大きな月桂樹がそびえる横にその建物はあった。
そんな施設のある部屋の中。数名の児童が手に工具……主にとんかちやノコギリを持ってとんかんと作業に勤しんでいた。
ここは工作室。椅子や机など、孤児院の設備を作成したり、修繕作業を行うための作業部屋だ。元々廃屋だった建物を、土地ごと買い取ってリフォームした孤児院であるが、ところどころ当時のままの壁もあるのだ。そのため、古くなった箇所を修繕し、道具の使い方を学ばせていた。
「フリックさーん、もうぼんどついたー?」
「いや、あと五分はかかるかな? 数えよっか」
「フリックさんみてみてきれーにきれた!」
「いいね、じゃあそれはこっちの箱に入れようか」
児童たちが作業報告をてきぱきと聞き入れるフリック。
そんな中、一人の少年の動向が目に入った。半袖短パンの少年がまごまごした様子で手を動かしている。道具は持っていない。
(もしや……)
少年の机まで歩いていき、声をかける。
「ディル君、どうしたんだい?」
「えと、これはあの、その」
声をかけられた少年……黒装ディルはまごまごした手と連動するように口の動きもまごまごしていた。
フリックにより保護された彼は、結局親族が見つからず、そのまま孤児院に入ることになった。
当初は言葉を全く話せず会話すら苦労していたが、二年が経過した今は年相応に喋れるようになっていた。企業のバックアップで体の検査をしてもらい、おおよその年齢も判明した。現在は九歳。
「ディルにぃ、くぎの大きさちがう……」
「うわーっ! 言うなよカンナ!」
まごまごして何も言えないディルの横で作業していた少女……カンナと呼ばれていたショートボブカットの子供が彼の袖を引っ張った。銀色に煌めく髪が揺れる。
彼女はディルより一つ下であり、ディルの一年後に孤児院へ入った。そのため、ディルは何かと接点が多く、気づけば妹のように世話することが多くなっていた。
とはいえ、実際は慌てやすいディルを落ち着いて補佐することも多く、「どっちが世話しているのやら」と年上の子供たちが笑い話にすることの方が多かった。
そんなわけで大きさ、もとい長さを間違えたがために、憐れな釘は木材の厚みの中でその先端を出すことなく埋まった。頭も叩ききってしまったため、もはや救出は望めなかった。
「あー、これはもう仕方ないね。とりあえずもう一本釘を用意して……」
「え、でものこったくぎでぼろぼろどーんに……」
「大丈夫だよ。すぐ横に打っても壊れたりはしないから」
子供特有のよく分からない説明に
元教職員ということを踏まえてもそれは難しいことだった。それができる人材。彼をスカウトした企業・レイヴン製薬にとって、それだけでも大いに価値があった。
「フリックチーフ、本国のラボから以前のサンプルの相談が……」
孤児院の職員である別の大人がフリックを呼んだ。この孤児院にはフリック以外にも五、六人ほどのスタッフが働いている。いずれもレイヴン製薬からNPOに移籍した者だ。そして、フリックは彼ら、というよりも孤児院全体を統括する、いわば院長のような立場にあった。
もっとも、彼自身の若い容貌も相まって、よりライトな呼び方である研究職時代の「チーフ」の方が定着した。そもそもフリックは立場を気にしないスタンスであったため、それすら要らないと思っていたのだが。
「じゃあ私の代わりに子供たちの手伝いを頼むね!」
「はい」
呼びにきたスタッフにその場を任せ、研究の相談をするデスクルームへぱたぱたと走っていくフリック。
教育と研究に奔走する慌ただしく、されど賑やかな声が絶えない日々。それが黒装孤児院の日常風景だった。
孤児院の立つ丘は何十キロ先までの景色が一望できる場所であり、何もないときは外に出て風景を眺める子供も少なくなかった。
さらに、孤児院の横に立つ大きな月桂樹。その枝を利用して作られたブランコからはその景色が一層魅力的に映るのだろう。遊ぶ時間になると子供たちが我先に取り合う人気スポットだった。
一方、そんな争いに我関せずと言った顔で
ブランコが吊るされた枝とはまた違う枝、その上に腰をかける少女。ホットパンツと頭に巻いたバンダナがその活発さを示す一方、その態度は歳の割には余裕を感じさせるものだった。
小学生の子供たちにとってリーダー分のような存在であり、どこか世慣れした雰囲気は数少ない中学生以上の子供すら一目置くほどであった。髪色を示すブロンドは、海外から拾われてきたことを意味していた。
そんな彼女のお気に入りの場所がこの樹の枝の上。
「なーミント
「なんだよいきなり藪から棒に」
「ヤブ?」
「ことわざだよ。唐突に、って意味だ」
「ほへー」
できたての木登りでディルが枝からぶら下がり話しかけていた。九歳の幼子にとって一、二歳年上の人物はとても大人に見えるのだ。それが年上ですら一目置くミントであるなら尚更。
憧れを抱きそんな風になりたいと思うのはおかしくなかった。特に不器用が目立つディルにとっては。
「要領なぁ……アタイは
「ここに来る前ってどんなとこだったの?」
「やめろやめろ。聞いたら後悔すっぞ。それにフリックに聞いたけど、お前だってここに来る前は相当やばかったらしいじゃねぇか。下手すりゃまた『虚無』に引っ張り込まれんぞ」
「う……うん……」
目を下に向けて明らかにしょんぼりとする弟分。見かねてか、ミントは丁寧に説明をする。
「あれだ。要領だなんだ言ってるけど、アタイの場合結局は浅く手広くだ」
「あさくてびろく?」
「そーだ。例えばだな、料理と工作とお算数、他にも色々できるさアタイは。けどなー、工作はカンナみたいに綺麗な模様を彫ることはできないし、かけっこじゃお前の方が速い。みんなが得意なことでアタイに挑めば勝ってんだよ」
「そーなの?」
「そうそう。一芸に秀でるってやつ。お前なんか馬鹿力もいいとこだけど、五人で持つ物をお前一人が持てれば効率は五倍だ。要するにお前はお前の得意なことやれって話」
褒められたような気がしてディルはぱあっと笑顔になっていく。
「わかった! フリックさんの手伝いしてくる!」
そう言ったかと思うとディルはぶら下がっていた枝から手を離し、
そのまま建物に入り、わき目も振らず彼はフリックに話しかけに行った。
「ほんと単純なやつめ……」
建物の外からでも聞こえるディルの声にやれやれと思いながら、ミントは一言、胸の内から溢れてしまったように呟く。
「
黒装孤児院には国外からの子供もたくさんいます。カンナやミントもそうです。
捨てられ子、難民……様々な事情を抱えた子供をここの孤児院は引き取っていました。
そして引き取られる子には何らかの条件もあるようで……?