『魔物』なんてものは存在しない。
それは『昼の側』の不文律。
だが、『夜の側』に一歩踏み入れば、世界は数多の魔物で溢れていることを知るだろう。
そのとき、人は────……
路地裏でその姿を現した『半魔』は地を蹴った。黒い翼が大きく広がり、加速度を上げ人狼に飛びかかる。
それを見た人狼もすぐさま反応し、眼前へ跳ぶ。
互いに掌を広げ、それがぶつかり合う。
魔物同士が衝突する余波。それだけで突風と思わんばかりの風圧が発生する。
組み合う腕の力は互角。しかし、それに代わって頭上の牙はディルに向かう。
下からの蹴り上げ。反応が速かったのはディルだった。
一瞬よろめく人狼だったが、すかさず自由になった腕を動かす。爪による乱撃がディルに向かう。
それに対し少年は腕を交差しガード。
この
しかし、その結晶はただの金属とは違う
そのため、見た目以上の硬度をもつ。いかに人狼といえど、そこに傷はつけられない。
そこへ後方から壁を蹴ってもう一体の人狼が現れる。上から攻撃するつもりか?
いや違う。狙いはディルの後ろ、この場で最も弱いただの人間……
「ぐぅっ!?」
飛びかかろうとした人狼の腹部に重い衝撃が入る。まるで鉄の棒に叩きつけられたように。
そして、その勢いは殺されることなく、人狼を来た方向へ押し返した。
「な、なぁっ!?」
自身に衝撃を与えたのは何か。人狼の見開いた目がその正体を捉えた。
半魔の背中から生えていた黒い翼。それが最初より大きくなり、鈍器のように人狼を叩きつけたのだ。
シルエットだけ見れば竜や悪魔のそれだが、その実態は伸縮自在の厚い膜だけで形作られた骨や筋肉のない異様な翼だった。
威嚇するように広がった翼は、ディルの後方……恵那への道を塞ぐ。
「こいつには触れさせねーよ」
人狼たちは感じていた。後ろの女に狙いを向けた瞬間、この半魔の殺気が強くなったことを。
ならばと、狙いをこの半魔だけに絞り、人狼たちが再び飛び掛かる。
攻防が数十秒続く。人狼は弱くない。
だがこの半魔の少年は、一対ニという状況でありながら互角に立ち回っていた。並の半魔以上の戦闘力をもっていることは明らかである。
埒があかない。
そう感じた人狼たちは互いに頷くと、体勢を立て直すべく後方へ距離を取る。
その隙をディルは逃さない。翼を広げ飛行、距離を詰める。
だが、それこそが人狼たちの狙いであった。
「「俺たちの咆哮を受けてみな!!」」
人狼は一瞬のうちに息を吸い込んだかと思うと即座に咆哮を放つ。
あまりにも速い行動。距離を詰めることに気を取られすぎたディルは認知が追いつかない。
「!?」
『電光石火』。
人狼が全感覚を総動員することで一瞬だが猛烈な速度で動くことを可能とする奥義。
そして、二体の人狼が重ね合ったその咆哮は、もはや威力を伴った衝撃波であった。
路地裏いっぱいに木霊する衝撃。中心に位置する人狼の周囲は缶が割れ、壁にヒビが入る。
(動けない!?)
「ククク……俺たちの咆哮は魔物でも動けなくなるのさ!」
ディルの動きが鈍くなる。この衝撃波の最大の特性は、対象の肉体に圧力をかけ、立つことすら困難にする作用。
「そしてお前の弱点はそこだ!」
ディルの装甲は硬い。だが全身を覆っている訳ではない。攻撃や防御に用いる腕や足はともかく、顔や首はただの人間と変わらず露出したままなのだ。
そして、そんな状態であるなら人狼の牙が突き刺さるのも容易である。
膝をついて動けないだろう半魔、その首に牙が迫る。
顎が閉じる音。
しかし人狼は訝しんだ。食い込ませたはずの牙からとどめを刺した感覚が得られない。
そこまでしてようやく気づく。目の前の色に。
黒い。
ディルの黒い翼が人狼の攻撃を壁のように防いでいた。あんな薄い翼がコンクリートをも砕ける牙を? 困惑する人狼。
そして、ディルは一言呟く。
「グラビティ」
翼が、衝撃を放った。
「!?」
人狼に全身を上から押さえられる感覚が襲いかかった。
重い。先ほど自分と後ろの相方が放った咆哮のそれと同等、いやそれ以上と言える圧力。
「ぐがっ……これ……は?!」
重力。物体が地面に引き寄せられる力……いわば『重さ』。
それがこの
そして人狼を食い止めたこの隙は、ディルの動きを回復する猶予として充分だった。
「終わりにしてやる!」
ディルが両手を広げた。と同時に、鎧で覆われた手の甲の横からブレードが生える。高速で生成されたそのブレードに、冷気でもガスでもないまさしく『白い闇』としか形容できないエネルギーが纏わっていく。
敵のすぐ前にいながら動きを止められた人狼。その視界に、自分よりも小さな半魔が腕を動かす様が入ってくる。
その腕の刃が自らに向かって……
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
刃は人狼を左から右へ大きく斬り裂いた。
深く広くつけられた傷口からは、血が溢れ出す。猛烈な痛み。
だがそれだけではなかった。痛み以上に、全身に
肉体どころではない。魔物としての存在根幹を成す
「ありえねぇぇぇぇ! なんだ、なんなんだこれぇぇぇえ!?」
今までにない恐怖の感情。せめてもの抵抗に爪を振ろうとするも、ディルの拳はあっけなく受け止める。
もはや勝負はついていた。
「地獄で滅びろ!」
そう叫ぶとディルはもう片方の刃で人狼を斬る。
「クソォォォォ!!
「……?」
断末魔。
直後、人狼は内側から強い閃光を放ったかと思うと、空間ごと喰われるように塵となって消滅した。
「ひっ! し、死にたくねぇぇぇっ!」
肉片を残すこともなく相方が消滅するのを見たもう一体の人狼。恐怖に駆られたのか、後先考えずに逃げだす。
「待ちやが……」
ディルは追いかけようとするも、周りの空間が歪んだことに気づく。人狼の『ナワバリ』が消失し、元の空間に戻ろうとしていたのだ。歪みが消えていく。
そして、その一瞬の間に人狼の気配はいずこへと消えていた。
「ふぅー……」
一呼吸置いた後、ディルは元の姿……学ランを来た高校生へと戻っていく。
装甲が霧散していくのを見ながら、この後に控えている大きな局面について考えていた。
下手をすれば人狼を相手取るよりも難しいことだろう。
自身の後ろ、戦闘の間ずっとへたり込むように座っていた
彼女は目撃してしまった。
魔物を。『夜の側』の存在を。
一般的に、魔物を目撃した人間は恐怖する。何故か?
枝を折るように自分の首を簡単に握り潰せる存在。それが魔物だからだ。
いつでも自分の命を奪える怪物を目撃して正気を保ってられるだろうか?
(どうする……? 勢いに任せてその場で魔獣化しちまったが……誤魔化す方法なんて何もねぇ!!)
人を守るために行動したとはいえ、それはあくまで個人のエゴ。助けられた側がどう感じるかはまた別の問題である。最悪、「目の前で獲物を取り合っていただけ」と思われる可能性すらある。
恵那と目が合う。きょとんとしているも、意外なことに取り乱している様子はない。
ディルが元の姿に戻ったことを確認すると、ひざをはたいて立ち上がる。
「まさか、あなたが人間じゃなかったなんて……」
「どうするつもりだ」
「……」
今、この場で口封じのような器用さを発揮できるほど、ディルの要領は良くない。
もはや天運に祈るのみの状況だった。
「さっき、あの狼の一人が逃げちゃったじゃない?」
「……? あぁ」
「狼ってね獲物への執着が強いの」
「……?」
「つまりね、私また狙われてしまうかも。あーどこかにか弱い乙女を守ってくれる強い人いないかしらー」
「……はぁ?」
一瞬ディルの頭がフリーズする。この転入生は何を言っているのだと。
「……お前、こっちはこんな
「でも守ってくれたでしょ?」
「それは……」
本心を見透かしたような発言に、ディルは思わず言い淀んでしまう。
「正体、クラスの皆に言っちゃおうかしら?」
突然の脅し。
こうなるともう諦めざるをえない。
「あーもう、わーったよ!」
「じゃあ『契約』ね! 私を『守る』こと!」
そう言うと恵那は小指だけを立てて前に手を出す。
「……?」
「知らないの? 指切りよ」
「あー……」
もっと小さなとき、かつて過ごした場所で教わった記憶が思い出された。
やれやれといった顔でディルも手を前に差し出す。一つだけ突き出した小指を恵那の小指と交差させる。
(なんでこんなことに……)
正体を知られ、その上で取り付けられた契約。
しかし不思議と、ディルの心は久しぶりの人との交流に、少しだけ、心地よさを感じていた────。
「……ハァ……ハァ、ハァ」
池袋内、どこかの路地裏。半魔から逃走した人狼は息を荒くしていた。
「なんだあの半魔……! 刃の白い闇……まるで噂の『虚無』の力じゃねぇか……」
ボヤく人狼。相方を一撃で真の死たらしめるような魔物がいるとは思っていなかったのだ。
呼吸を整えていたその折、耳に音が入ってくる。
地面を叩く靴の音。人狼はおそるおそる顔をその方向に向けた。
路地裏の向こう、逆光に晒され青い人影が歩いてくる。
風で揺らめくマントと深くかぶったシルクハット。その下からは白い仮面が覗いていた。その風貌は奇術師そのものだ。
「あら……その様子だと逃げ帰ってきたところかしら?」
挑発じみた声色。それを聞き、人狼はわなわなと爪を地面に食い込ませる。
「あんたが与えた力!! 半魔相手にどうにもならなかったじゃねぇか! 俺たちはこの力があればこの街でいくらでも獲物にありつけるって聞いて……」
「『私は与えた。貴方は何を魅せてくれるのかしら』」
人狼が体をびくりと震わせる。
女の声から出たとは思えない強い威圧の念。普通の人間なら額に汗が見えただろう。
「ち、違うんだ。俺ぁただ使い方を勉強してたのさ。そう! チュートリアルってやつだ!」
圧に押されたのか、人狼から威勢の良さは消え去っていた。その口からはいかにこの場を取り繕うかを考えた三文言葉がべらべらと発せられる。
「だからつ、次は上手くやれるさ! あんたのことも漏らさない!」
しかし人狼の言葉など解さないように、仮面は手袋に覆われた指を動かしながらゆっくり近づいてくる。
「や、やめてくれ、力なら返すよ。そ、そうだクーリングオフ! 人間どもにはそういう制度があるみたいじゃねぇか! だ、だから……」
歩みは止まらない。
「こ、殺されるぐらいなら……ぶっ殺してやらてめぇ──────っ!!」
だが怒り狂おうとした矢先、頭の中で意識と行動の回路が途切れる感覚に襲われる。
「が……ふぇっ……?」
舌をだらしなく垂らし、人狼の意識はそこで途絶えた。
「もう少し、面白いものを魅せてくれると思ったのだけど」
『魔物』はパチンと指を鳴らす。毛と肉の塊に青白い炎が灯き、それを灰にしていく。
「でも、あの場にいた
夜闇の路地裏に『地獄の道化師』の笑い声が響いた。