雪が積もる山奥の森。その一点から波のように衝撃が広がり、一つの影が真上に飛び立つ。
その影は上空で所々が破れた漆黒の翼を広げた。そして羽ばたくわけでもなく、その
飛んで、飛んで、飛んで。
山を、谷を、川を、越えていく。
曇り空を抜け、日が見え、そのまま沈む様が視界に入る。
そして……コンクリートの森が見えてきた。
満月が浮かぶ夜。その飛翔体……黒装ディルは適当なビルの屋上に着地した。
「ここが……東京」
休むことなく飛行を続け、ディルは辿り着いた。数多の魔物が潜む大都会、東京へと。
とはいえ、これで終わりではない。本来の目的はここからだ。
湾岸にあるというレイヴン製薬のビルを探さなければならない。さらには防衛網の突破法もだ。まさか「『
よもやディルは彼らに迎合する気はなかったのだ。ただの兵器として扱われるのが目に見えていたから。
(休憩するか? ……いや、きっと残りの命は僅かだ。猶予が惜しい)
停滞していた身体のエネルギーが燃焼していることで、頭の回転も上がっていた。冷静かと言われれば微妙かもしれないが、これまでの基準で考えれば充分マシな思考回路だった。
しかし情報が足りないのは事実だ。無事突入したとして地下のどこに解毒薬があるかも分からないのだから。
「ったく、地下のどこなんだよ……」
「地下三階の第二格納庫よ」
「なっ!?」
ついボソッと口から漏れた呟き、それにまさかの返答があり、ディルは驚愕から横へ跳び退く。
そこにいたのは、洞窟に現れた『地獄の道化師』だった。その仮面は形を変えることなく不敵な笑みを浮かべている。
「てめー……いきなり現れやがって」
猛犬のように唸り威嚇するディル。
洞窟では頭が回っておらず考えていなかったが、ここまで情報を掴んでいる存在が、敢えて自分を手助けする理由があるはずないのだ。例えあっても碌でもない理由だろう。
「まさかどこかの組織の回し者か?」
急に芽生えてきた不信感からか、ディルの疑念は口からぽろっとこぼれてしまう。
それを聞いた道化師は何かをこらえるような動作をすると、頭を上げて笑いだす。
「……っふ、フフフっ! アハハハハ!」
突然の奇妙な笑いにディルは困惑を禁じ得なかった。
「ごめんなさい。あまりにも可笑しくて」
一笑い終えた道化師はディルの方へ顔を向けると、動きの見えない口で語り始める。
「貴方の考えていることを当ててあげましょうか。ずばり、『私が貴方にわざわざ協力する理由がない』『あっても自分にとって良くない結果がもたらされるはずだ』でしょう?」
「───!」
「当たりのようね。じゃあまず最初の問いの答え。ノー。そもそも、私がどこかの回し者なら、すでにあの洞窟で貴方を捕らえてるわ」
エスパーのようにディルの考えを当てた彼女の言っていることは、確かにそうであった。
ディルが望まない最悪のシナリオ……「捕らえられ、魔物の兵士として動かされる」に至るなら、そもそもこんな自由行動をさせる時点で間違いである。飛んでいる途中に他の組織に捕らえられる可能性もあったのだから。
では何故この女道化師はディルに協力するのか。それは、地獄の道化師らしい倫理も損得も考えない理由だった。
「私の
そう言う姿は、まさに悪質な冗談が具現化しているようだった。
「何か与えて死ぬのを楽しむってか。クソみてーなやつだぜ……」
ボソッと嫌悪を吐いたディル。しかし、道化師の耳はそれを逃さなかった。むしろ、待っていたと言わんばかりに甲高く喋り始める。
「その通り! 故に人魔問わず私はこう呼ばれるの! 『ギヴィング・デス』、と」
giving(与えること)とdeath(死)を組み合わせた実に分かりやすく、そして厄介な性質を表した名前。
……しかし、それを聞いた少年の顔は口を開けて「何が?」と言った顔をしていた。これには道化師も予想外だったようだ。
「英語よ英語。これぐらい分かるでしょ?」
「……せ、成績悪かったんでぇ……」
そう返答するディルは目を逸らし汗がだらだらと流れ始めていた。最下位だったテストの点数の記憶が蘇る。
「はぁ……とにかく。私は貴方に情報を与える。貴方は生きるために全力で足掻く。私はそれを
とはいえ、自分に害をもたらすつもりが無いのなら、とディルは彼女についてあれこれ考えるのをやめた。それより今は自分のことだ。
「ま、情報はありがたく頭に入れとく」
そう言って飛び立とうとする。
「待って」
ギヴィング・デスはそう言ってディルを少しの間引き止める。手のひらにボールを浮かべ、下から弧を描くようにぽーんと彼に投げ渡す。ディルがキャッチするとそれは一枚の紙に変わる。
「ビル内のマップよ。あれば助かるでしょ?」
「お前……」
「ただの無理難題は全然面白くないじゃない? こう見えてハッピーエンドを期待して与えるのよ? 誰も為し得てないだけで」
「……サンキュ」
道化師の奇妙なサポートを手に取った少年は、覚えている数少ない英語で返答する。
そして、潮風が漂う方角へ飛翔した。
湾岸沿いに位置するレイヴン製薬ビル。大企業メルキセデク・ジャパンのグループ傘下の名に恥じない、しっかりとした造りの十階建オフィスビルだ。
が、その一階で爆発が起きた。
上空から斜めに落下してきた物体がビル側面へ衝突したのだ。
隕石か? 否、馬鹿力を一芸にまで落とし込んだ
地下二階。そこにはビルの外から斜め下に一階、さらには地下一階まで貫通攻撃を完了させた
解毒薬の在処まで一点突破する、あまりにも愚直で、しかしそれだけのパワーがなければ行えない作戦。しかし、それだけに消耗も激しかった。もし彼が全力を出せる状態なら、地下三階どころか地下五階まで突破できる可能性はあった。
「ハァ……ハァッ……あと一階……ってもこれじゃ先に……ッ……こっちがくたばっちまう……」
仕方なく、下へ降りる階段へ向かう。ギヴィング・デスから貰ったマップ通りの位置だ。
ビルが襲撃を受けただけあって、警戒アラートはフロアで鳴り続けている。
しかし、一気に地下二階まで、ましてやすでに階段を駆け降り地下三階まで辿り着いた魔物の前に、防衛は間に合っていなかった。
かろうじて巡回していた警備兵は、廊下でディルを目撃するも、あっという間に蹴散らされてしまう。弱っているとはいえ「単体でも最高戦力になり得る」と評された力。一警備兵ではどうにもできなかった。
むしろ、ディルにとってこれは時間勝負なのだ。ここで時間を食われるわけにはいかない。
通路の角を曲がり、駆け抜け、目的の部屋が見えてくる。厚い壁に囲まれているであろう第二倉庫だ。
(あそこを突破すれば念願の解毒薬が……)
そう思った時だった。
ふっ、と体が横に傾く。
(え──────)
そのまま壁に倒れ込みかけるも、なんとか左手で支える。眩暈とふらつき。しかしまだ動ける。壁に手をつきながら進もうとし……
床に赤い液体が滴る。
口から垂れる血だった。そして咳き込んだかと思うと、まとまって血が吐き出される。蝕まれている体がドクターストップをかけていたのだ。
(一気に……きやがった)
ここで倒れるわけにはいかないディルは、見える入り口によたよたと歩く。
孤児院にあった地下研究室の扉と同じタイプの扉。対魔物用の硬化が施されている鉄壁だ。全力を出せば破壊できるかもしれないが、それでは同時に力尽きてしまうだろう。
ギヴィング・デスが渡したマップに付随していたパスコード。それを入力すべく認証装置に触れる。
『魔物の反応を検知。迎撃システムを発動します』
「!!」
次の瞬間、天井、床、壁から水をかけるように電撃が発せられた。
「────────ッ!!」
動けない。あまりにも高い電圧で磁石のようにその場に固定された。対魔物用だけあって、ディルの全身を襲う電流は雷となんら変わらない、少なくとも衰弱していた彼にはそう感じられた。
(意識……が)
放たれ続ける電撃。泣きっ面に蜂とはまさにこのことだった。いや、絶体絶命の方が正しいだろう。今のディルにこれを打ち破る力は無い。
(あぁクソ……みんなから『生きろ』っつわれたのにな……)
残った
(あの女、今頃嗤ってんのか……? クソッタレが……まだ……足掻けるなら)
それでもと液晶画面に手を伸ばす。電撃を受けている者が触れても、壊れない仕様だったことをこのときばかりは感謝する。
痺れと震えでロクに動かないはずの指に全神経を集中して動かす。
『コード認証。オープン』
扉が開く。……が、放たれる電撃は収まる気配がなかった。
(動け……動けっ……あと少し……なんだよ……ッ!!)
しかし無慈悲にも電磁力で固定された足は動けない。檻の外で餌をちらつかされる動物はこんな気持ちなのだろうか。いや、彼のはそれよりも酷い状態だろう。
動け。
動け。
動け──────
ふっ、と視界が真っ暗になる。
(死んだのか……オレ?)
意識がぼんやりとしたような感覚。暗い視界。真っ暗な部屋の中の僅かな光。
(いや……生きて……る!)
停電だ。フロアの電灯が消え、さらにはディルを襲っていた電撃も止まったのだ。強い光の状態から一気に暗くなったために目が追いつかなかっただけであった。
自らを食い止めていた電流が消えたことで、少年の歩みは再開される。
しかし、すでに虫の息であった。足取りはたどたどしく、翼はだらりと力なく垂れ下がっている。
魔物としての視力だけはまだ健在なおかげか、暗い部屋の中でも目的のブツの位置はすぐに把握できた。ご丁寧に道化師のマップはここでも活かされている。冷蔵棚の区切り板、薬品名Anethum graveolens。それの前まで来た。
「ハァッ……ハァ……ッグ、ぅゔぉえっ」
だが限界がきていた。
血を吐くとともに、脱力するように膝をつき、立っていた体が床に接する。
「────……」
もう、言葉は出なかった。指の一本に至るまでが動作を受け付けなくなっていた。
(なぁ……終わるの……か?)
体の限界に引きずられ、心の活力も一気に抜けていく。僅かな水滴が日に晒されて小さくなっていくように。
僅かに動いたのはその瞼。それも、生物が眠る反射運動としての閉じる動き。
霞む視界の中、棚が並ぶ部屋の景色に青い布が舞うのが見えた。
頭が少しだけ上に上がる感覚。固い床から柔らかい何かの上に。
口に何かが運ばれる感触。流れるような、液体だろうか。
それは喉の奥を通って体の中心へ。
そして中心から体の隅々へ浸透していく。渇いた砂漠に雨が降るように……
目が、開く。
ビルの一階が再び爆発し、ロケットが打ち上がったように何かが飛翔した。
まるで悪魔のような黒い翼が大きく開かれる。所々が破れ褪せていた面影はない。剥がれ朽ちていた装甲は完璧な修復が施されている。
「っしゃオラァァァァァァアッ!!」
上空で響き渡る叫びを発した黒装ディル。解毒薬により完全適合した『
「……だいぶ耳に響いたのだけれど」
そうボヤいたのは彼の腕に抱き抱えられていたギヴィング・デスだった。
「あ……」
覚醒直後の溢れる力で地下三階から一気に突撃脱出を果たしたのだが、無意識にすぐそばにいた彼女……自らに解毒薬を飲ませてくれたギヴィング・デスも連れていったのだ。あまりにも一瞬のことでこの道化師は対応できなかった。
浮遊できるとはいえ、女性を空中で放り投げるような真似はディルにはできない。そしてとにかく、今この上空に留まることもまたよくない。少し気恥ずかしい思いを感じつつ、数百メートルほど離れた別のビルの屋上にひとっ飛びし、着地する。
「……」
「……」
互いに無言。ギヴィング・デスはふわりと宙を舞うようにディルの腕から離れ、地に足をつけた。
自身の高揚感に浮かれていたからか、彼女の身体が熱くなっていることにディルは気づかない。
「さて、その様子だともう大丈夫なようね」
「……あぁ」
ビル風に吹かれたからか、少し冷静さを取り戻したディル。改めて遥か後方で煙を上げるレイヴンのビルを眺める。
(そういやカメラとかには映ってるし襲撃犯として……いや、『
もう失うものが無いとはいえ、この先も生きづらいことには変わりない。
彼がそう思った矢先、目の前の道化師は手のひらから炎のスクリーンを出現させる。もはや恒例の動作だ。
「そうそう。これはサービス。色々と追われるのも面倒でしょう? 私が細工しておいたわ。別の魔物が襲撃したようにね」
そこには監視カメラと思しき映像。ディルが通った廊下に別の人間(の姿の魔物)が駆ける姿が写し出されていた。
そして、停電を引き起こしたのが彼女であることもうっすら推察した。
「お前……」
明らかに過剰ともいえるサービス。地獄の道化師が不可解な存在とはいえ、ディルはその真意を探らずにはいられなかった。
(こいつ……なんでここまでオレに。さっきも死ぬ寸前で助けてくれたし。そもそも洞窟にわざわざ来て情報を……あっ)
洞窟でのやり取りを思い出したディルは、その中にあった成功報酬のことも思い出した。
「ちょっと待て! 忘れたとは言わさねーぞ! 生き残ったら孤児院を襲撃したやつを教えるって約束だったろーが!」
今後の動向にも関わる重要な情報。あの時は復讐心が燃え上がっていなかったが、生きる意思が復活した今は違う。わざわざ孤児院を襲撃してきた明確な『敵』だ。知らねばいずれまた殺られるかもしれない。
少し口調を荒げて言ったディルに、ギヴィング・デスが返答したのは思わぬ答えだった。
「ダ・メ❤︎」
「は?」
ディルの顔に青筋が立つ。
「貴方が一人で解毒薬を手に入れていたらそうしてもよかったのだけど、最後に私が手助けしたでしょ? だから59点。ギリギリ不可とします」
青筋が顔のもう片方にも立つ。
「てんめぇ……」
「……でも、
突如として態度を反転し、手がかりを掲示した道化師に、ディルは頭が混乱する。
自分に情報を与えて命を救ってくれたと思ったら、肝心の情報は不完全、面白半分で自身を観るにしてはあまりにも──地獄の道化師の生態を鑑みた上で──不可解である、と彼は思ったのだ。
「……待ちやがれ! てめーは何が目的なんだ!」
ディルは叫ぶ。彼女が与えた手がかりなど今はどうでもよかった。
「私は与えた。貴方は何を
彼女のポリシーを表す、煽るような捨て台詞。そして、もうこれ以上話すことはないと悟ったのか、周囲の空間が歪みだす。退却のサインだ。
散々掻き回されたイラ立ちが限界に来たのか、ディルは腰をかがめて飛びかかろうとする。
「っるせぇ!! まずはてめーが顔を
空間を歪めて姿を眩まそうとするギヴィング・デス。それよりも一瞬だけ速く、ディルの神速は動いた。
彼は単純だ。単純であるが故に、ここまで自分を掻き乱した存在に、顔も知らぬまま去られるのが単に悔しかったのだ。
急接近した少年に道化師の動作が一瞬狼狽えた気がするも、彼はそんなことを気にも留めない。
伸ばした手が仮面に接する。後方に避けようとしたおかげで仮面が弾き飛ばされることは回避したものの、その位置はズレる。
鮮やかで輝くような紅色の髪が揺れる。
そこにあったのはディルと変わらない年頃だろう少女の顔。髪色を濃くしたような真紅の瞳は憂いを宿した表情だった。
予想だにしなかった素顔を見て、ディルの動きは止まる。その一瞬の隙に空間は歪みきったかと思うと、手品師が物を隠すように道化師の気配は完全に消えた。
「……
ビルの屋上に一人残った魔物の少年。
その頭の中は、仮面に隠された素顔でいっぱいになっていた。何もかもを嘲笑していたような態度からは考えつかないものだったギャップもあるだろう。
しかし、消えた彼女に思いを馳せていると、ディルの足……膝の支える力がふと急に抜ける。膝だけじゃない。体全体が、だ。
「うぁ?」
毒性に蝕まれていたときの生命力が抜ける脱力感とは違う。一種の多幸感にも近い感覚。
眠気だ。
(副作用?! さすがに今この場所で倒れるわけには────)
限界まで酷使していた身体は、『魔の因子』の完全適合で生命力が満ちたといっても、疲れそのものを癒やし切ったわけではなかった。
(あ。お礼……言い……忘れ……)
体が大の字のように屋上の床に倒れ込む。装甲や翼がガラス片を撒くように空へ消滅していく。魔獣化が解けるのだ。
(ね……む……)
そして、ディルの意識は睡魔の囁きに屈服していった……。
ディル「あの女、ミント姉やカンナよりもなんか重かった」(デリカシー皆無)
次でようやく過去編終われそうです。