22話「雨のち晴れ」
六月も終わりに差し掛かり、東京の空模様はしとしと降り続く連日の雨に苛まれていた。
梅雨の季節だ。
月影高校もその影響下にあった。閉められた窓によって廊下に湿気が充満し、生徒たちはジメジメとした不快感に襲われていた。
しかし、そんな環境も教室に入れば一変する。私立高校であるツキ高にはとある設備が導入されているからだ。文明の利器、人類の叡智の結晶……
その名は、エアコン。
技術の産物であるそれは老朽化が激しい新校舎においても、しっかり存在感を放っていた。
湿気を除き、快適な空気を提供するこの装置のおかげで授業中と休み時間共に生徒たち(そして先生たち)は素敵な学園生活を送れるのだ。
……のはずだが。
三年二組の教室、窓際の席ではキノコが生えんばかりのどんよりとした雰囲気を醸し出す生徒がいた。
「……おーいディル、どしたー」
ディルと呼ばれたその生徒に話しかけているのは
六限目が終わり、放課後のホームルーム前だというのに机に突っ伏したままの彼を心配して声をかけたのだ。
「オレはもうダメだぁ……」
机からくぐもったような、それでいて泣きそうな掠れ声が漏れ出る。
「……成績か?」
「はぐぅあっ!!」
まるで電気ショックを受けたようにその場で肩を震わせたディル。もちろん顔は机に突っ伏したままだ。
宗也にとってこの程度は大した推理力を必要としなかった。普段の授業中、教師に指名されたディルが「分かりません」と答えること数十回。小テストのたびに意気消沈して負のオーラを発することもまた数十回。先ほどの授業にて、教師が期末テストの告知をしたことも踏まえ、ディルが成績に危機感を抱いていることを見抜くぐらい訳なかったのだ。
「宗也ぁ……ヘルプ……」
ディルは顔をカタツムリのように持ち上げながら宗也に頼み込む。宗也は期末テストの点数で常に上位にランクインしている男だ。説明も分かりやすく、課題の手助けをしてもらった実績もある。彼の力が加われば欠点は防げるだろう。
しかし返ってきた答えはディルを絶望の淵に叩き込んだ。
「
宗也が所属する模型部は、毎年八月に行われる展示会に向けて七月から準備を始める。無論、期末テストともバッティングするわけだが、部員たちは互いにテスト範囲をカバーし合うことで負担を最小限にしているのだ。
もちろん宗也もその一員であることに変わりなく……流石にディルの面倒まで見る余裕はなかった。
そして、模型部の活動を時折り聞いていたディルは、宗也が展示会に向けて気合いを入れ始めていることもその雰囲気から勘づいていた。そして、自分の行いで友の邪魔をするわけにもいかないと。
しかしその理性と現在の
自分の成績がピンチであることに変わりはないのだ。頼みの綱である宗也には頼れず、もう一人の友人である
「みんな……卒業おめでとう……オレは来年こそ一人だわ……」
うなだれたままのディル。思考が飛躍し後ろ向きにも程がある言葉が漏れ出る。
一層強まった負のオーラに、話しかけた宗也もたじろいでしまった。
……のは一瞬のこと。
視界の端で何かに気づいた彼は、ディルに気づかれないようその机から少し距離を取る。机に頭を伏せたままの少年はそのことに気づかない。
後ろから近づく細く小さな
「えい」
「ホギゲ%☆ン#ヴァァア?!」
シャツの隙間を掻い潜って、うなじから背中に異物が入り込む感覚。ディルの肌センサーは刺激を脳に伝達し、素っ頓狂な叫び声を指令した。机のがためきと奇怪な声に教室の聴衆が視線を向けるも、それが黒装ディルと
余計な視線を集めてしまったディルは起き上がった体をそのまま後ろに向ける。シャーペンを服の隙間に突っ込んだ犯人の方へと。
「
その視界には後ろの席の女子生徒・
「だって、ああでもしないと起きそうになかったじゃない?」
「あのなぁ……こっちは頼みの綱が切れたんだ、項垂れるぐらいさせてくれ……」
「……別に美崎君じゃなくても、他の人に勉強教わればいいんじゃないかしら」
「何言ってんだ、泰輝はオレとどっこいどっこいだし他に勉強できるやつなんて……」
そこまで言いかけたところで、ディルは目の前の少女がこちらをじっと見つめていることに気がつく。
それが意味することに気づかないほどディルは鈍感ではなかった。すなわち……
「まさかお前が教えるとか言わないよな……?」
「あら、私が賢くないように見えるの?」
「い、いやそんなことは」
暗に示された『恵那が勉強を教えてくれる』という、ディルからすれば願ってもいなかった救いの手。
しかし、ここで迂闊に頼み込むことを彼は躊躇していた。意識している相手に情けなく物を頼みたくないという、ひどくちっぽけなプライドが邪魔をしていたのだ。客観的に見れば些細なことなのだが、しかし本人にとっては、恵那に少しでもいい印象を与えたい大きなこと。好意を抱いてなかった最初の頃ならこうなっていないだろう。
(ってもここで
目が泳ぐ様子を数秒見せたディル。それを見た恵那は一瞬だけ、まるで城を攻めあぐねたかのような表情をした。そして次なる一手を打つべく、ディルの席の近くにいる
「黒装クン貰ってもいいかしら?」
様子を見ていた宗也に微笑みながら話しかける。クラスのほとんどは気づいていなかったが、そこには少しばかりの威圧感が漏れ出ていた。もちろん、察しのいい男・美崎宗也は気づいている。
「どうぞどうぞ。こいつの勉強見てもらえるなら大助かりだ」
「オイ人を物みてーに扱うな」
ようやく反応したディルだったが、そこを待ってましたと言わんばかりに宗也が後ろから耳打ちをする。
「つか何を躊躇ってんだ。勉強も見てもらえるし距離も近づける。
「ばっ……ななな何を言って」
「実際成績やばいんだから素直に頼んどけよ」
実際その通りである。背に腹は代えられない。ディルは顔を前に向けれないまま、恵那に目を合わせるとぼつぼつと口を動かした。
「お、お願いします……」
そのとき、恵那はどんな表情をしていたのだろうか。会話に参加していなかったものの、近くにいたクラスメイトA.H.氏はこう述べている。
「に、にやけそうな口を必死に閉じながらとてもいいおもちゃを見つけたような……恍惚って言ったらいいんでしょうか。ある意味恵那さんらしいな……って」
さらに恵那は追撃をかける。
「でもタダでってのは公平じゃないわよね?」
さらなる条件付け。ディルはこのパターンに覚えがあった。恵那が転入してきた初日、魔物を撃退した直後の契約と同じ流れだ。
切れるカードが無いディルは無理難題であろうと受け入れるしかない。何を言うつもりだと構えた彼の心はヒヤヒヤが止まらない一方、余裕であるはずの恵那は何故か一呼吸して息を整えている。これから言うことがまるで大事な事のように。
そして、彼女が突き出した条件は、取引とは思えない言葉だった。
「こ、今度の日曜日、新宿のパフェの店に、い、行かない?」
聞いたディルの身体が、まるで動き方を忘れたように止まる。
「ぇ……?」
拍子抜けしたような声が出る。
恵那の顔に先ほどまであったはずの余裕は無い。真剣さが伺えた。
そして数秒の間を置いた後、ディルの思考回路はようやく言葉の解析結果を出力した。
(つまりそれって……デートじゃねーか!!)
それを認識した途端、少年の呆けた顔がどんどん赤くなっていく。
今まで恵那にからかわれる案件はいくつかあったものの、こういった
動作がしどろもどろになっていく。
しかしここは教室。公の場と言っても過言ではない。恵那の発言は教室の様々な勢力に波紋を呼んだ。
「おい……なんであいつ躊躇ってんだ即答しろよ」
「まさか断るつもりか……やっぱDQNだな」
「浮かれポンチがよ……」
隅から男子生徒たちによる様々な僻みが聞こえてくる。
(オオオオイイイ!! こっち何も変なことしてねーだろーが! 五秒遅れただけでそこまで言われる筋合いはねーぞ!!)
心の奥で言いたい文句を発散させつつ、改めて恵那の方に目を合わせる。二回目だ。
答えは決まっている。
「分かった。しゅ、集
(……噛んだ)
落ち着いて対応するはずが心の奥底の浮かれようが滲み出ていた。
その様子にぷっと恵那は笑いだす。
「笑いやがってこんにゃろ……」
「ごめんなさい。決め顔にしようとして口がついてきてないのがつい……」
「はぁーっ?! わざわざ決め顔にしようとなんて思ってねーし!!」
「黒装クンそんな感じだしL◯NEでゆっくり打ち合わせしましょ……くふっ」
「ツボってんじゃねーよ……」
いつもの談笑と同じ空気になる二人。ともあれ休日に予定が入ったことにディルの胸は期待で膨らんでいく。
そこに後ろから声がかかる。
「遊ぶのはいいけど勉強の方も忘れたら駄目だよ」
「わーってるって。欠点取らなきゃなんとか……」
後ろからの声にいい加減な返事をしたディル。しかし、その声のトーンは宗也だと思っていたものと違うことに言いながら気づいた。ゆっくりと、顔と胴体をその方向に向ける。
「デートもいいけど期末テストも大事だからね」
そこにはいつの間に教室に入ってきたのか、担任教師・
宗也の方はというと、さっさと自席に座っていた。
「ウッス……」
気圧されたような弱々しい返事を聞いたところで、春ノ戸はまだ教室内で散り散りの生徒たちに呼びかけた。
「はいはい皆座って。ホームルームさっさと終わらせるよ」
その声に呼応するように生徒たちは自分たちの席に戻っていく。
ホームルームでの諸連絡を聞きながら、ディルは急遽入った週末の予定に思いを馳せていた。
(っても最近雨ばっかだしな……)
学のないディルではあるが、さすがに今が梅雨の季節であることぐらいは知っている。盛り上がるイベントも生憎の雨では楽しみが半減だ。嬉しさと残念な気持ちが半々のまま、頬杖をつく。
ふと、ディルの目に強い光が差し込んだ。反射的に上の瞼と下の瞼が距離を縮めた。それに連なるように彼は手をかざし、隙間から光の出所……窓の向こう側を眺める。
先ほどまで雨を降らせていた雲と雲の間から夕刻を示す赤い威光が晒されてた。数日ぶりに姿を見せたお天道様に恐れをなすように雲はどんどん散っていく。
その様子と反するように、眺めるディルの心は期待に覆われていく。
(週末も晴れそうだな)
梅雨が、明けた。