週明けの月影高校は初夏の暑さで生徒たちがうだっていた。
「クーラーついたばっかだから全然涼しくねぇー」
「下敷きで
「やだね、これは俺っちのだ」
この時期、朝のホームルーム前は毎年こうなのだ。
「おはようみんな。ホームルーム始めるよ」
担任である春ノ戸が教室に入り、生徒たちは自分たちの席へ戻っていく。彼もまた、クールビズのシャツへと切り替え対策を施している。
諸連絡が話され、テストの話題に移り……
そんな中、恵那は誰も座っていない前の席を見つめていた。
黒い……渦の中にいる。
ここは池袋……か? 廃墟になってる……。
瓦礫の山に誰かが立ってる……。
ローブを被ってて誰か分かんねぇ。
「……れた」
……何だ?
「『継承』は……成された……ッ!!」
近づいてくる……ッ?!
「うぁぁぁぁああああッ!!」
跳ね上がるようにディルの体が起き上がった。
「ハァッ……ハァ……。夢か……」
周囲をきょろきょろと見渡す。アパートの自室だ。
知っている天井だったと安堵した身体はへなへなと再び布団に倒れる。
昨日、帰り道で
よく見れば、布団もまともに敷けていない。折り畳まれていた状態から開こうとして、そのまま倒れ伏していたことを彼は悟った。掛け布団に至っては出てすらいない。
全身が軋むように重い中、せめてもと布団は敷ききる。
しかし、掛け布団を引き摺り出したところで体が異様な暑さを検知していた。
そこでようやくディルは気づく。窓から見える陽が高いだろうことに。
「いま……なんじ……」
寝る前にスマートフォンを置く場所を見渡すも無い。少し秒を置き、ポッケから取り出す。昨日から入れっぱなしだったのだ。
目に映った時刻は正午過ぎ。七月にこの時刻まで窓が閉め切っていたせいなのか、体が熱い。
感覚の言うことを素直に聞き、ディルは窓を開ける。温まった空気は逃げ場を見つけたのか、外へ逃げていく。どうやら外の方がマシであるようだ。
(あ……がっこ……そのまえに、みず……)
くらくらとする頭で次の行動を考える。
しかし、蛇口の水を喉に押し込んだところで気力は限界を迎えた。
(きがえ……ふとんしまわ……なきゃ……てすと……)
シンクからふらつくように動く身体は、布団に着地をしたところで完全脱力。意識もそれに引っ張られ、落ちていく。
一方でその呼吸音は荒く、休む姿勢を見せていなかった。
部屋の気温は窓を開けたことで冷めつつある。それでも、彼の体は熱いままだった。熱中症ではない。
疲弊と未知なる存在に取り憑かれたことで発生した『熱』の症状だった。
部屋の扉をコンコンと叩く音がディルの耳に入る。だが体は動かない。
郵便? それとも宗教勧誘だろうか。いずれにせよわざわざ出る必要は無い。
彼のアパートにわざわざ尋ねる人物などそんなものぐらいだからだ。
まどろみの中で即決を下した彼の意識は再び深淵へと落ちていった──────
温かな蒸気、それにうっすらとした甘い花のような匂いが鼻腔をくすぐる。
何かがぐつぐつと音を立てているのが聞こえてくる。
少年の瞼がわずかに開き、瞳が音源たるキッチンの方を向いた。その視界の端で、目立つ
「────っぁ?」
言葉にならない呻き声が口から漏れた。
「あら、起きた?」
キッチンにいた紅髪の主……恵那が振り返る。制服姿だ。
「な、なんでここに……てか鍵は、学校、あぁクソッ今何時……」
「ちょっと落ち着いて。黒装クンすごい熱なんだから。ぶり返しちゃうわよ?」
ディルを落ち着かせるべく、彼の現状を恵那は答えた。
「黒装クン、学校休んでたから心配で来たの。春ノ戸先生も連絡聞いてないって言ってたし。一応ノックはしたのよ? でも鍵が開きっぱなしだったから」
迂闊。恵那だったから良かったものの、泥棒に入られたらどうしようもなかっただろう。とはいっても金目のものは特に無いのだが。
「で、少し中を覗いたら貴方が倒れてたのよ。……もう放課後よ。もしかして昨日からずっと倒れてたの?」
「覚えて……ない。どこかで窓……開けた気はする」
ディルの思考は上手く回っていない。
「何の……音?」
「お粥作るために台所借りさせてもらったわ。たぶん今日何も食べてないでしょ?」
「あー……うん」
正確には「昨日の晩から」だが。些細な問題だった。
昨日の『廃墟新宿』での戦闘疲労、食事を摂っていないことによる栄養不足、そして
全てが積み重なり、コンディションは最悪の状態だった。顔は赤く、目は半開き。情けないほどに衰弱した姿だ。
「ええと、このままだと熱すぎるわよね」
恵那はシンク下を開けて深皿を探し当てる。鍋からおたまで掬い移す。
その深皿が布団のすぐそばの小テーブルに置かれる。
「食べれる?」
「……たぶん」
ディルは横になったまま返事をする。その声はひどく弱々しい。
さすがに見かねたのか、食事の前に今の体調を調べようと、恵那は部屋を眺めた後ディルに尋ねる。
「体温計ある?」
「……ない」
「じゃあちょっとおでこ借りるわね」
体温を測る指標として額を選択した恵那。しかしディルの脳内アラートは反射的に断りのサインを口に出した。
「あっ……ちょっと今……だめだ」
「何で?」
理由を問われる。上手く回らない頭でありながら、ディルは言葉を組み立てようとする。
昨日から丸一日以上、汚れたままなのだ。彼女に不快感を与えたくないのは至極同然の考えだった。
「昨日シャワー浴びてないし、汗でぐちゃぐちゃだから……」
「へぇ……」
弱った身でありながら羞恥を隠そうとするその顔に、恵那の嗜虐心がくすぐられる。
だが、今のディルは病人だ。それを見込んでか、いつもなら飛んでくるはずの揶揄いを彼女は飛ばさなかった。代わりに他の言葉が投げかけられる。
「タオルあるかしら?」
「押入れのそこ……え、タオル?」
突然の問いにうっかり答えてしまったディル。さらに、聞かされた用途で目が点になる。
「体、拭いてあげる」
押入れからあっという間にタオルを発見した恵那はシンクに向かう。
(さすがに……それはマズイって!)
同年代の女子が自分の体を拭こうとしている。それは年頃の男子には、あまりにも刺激が強い出来事だ。肌同士が接触するわけではないにしろ、異性に体を
恵那がそれを理解しているのかしていないのか、それは分からない。しかし、そんなことは重要じゃない。
食い止めようとディルは動こうとする……が疲労困憊の身体は動いてくれない。
水が流れ、タオルをぎゅっと絞る音が耳に入ってくる。
「やっぱり、すごい熱」
傍に来た恵那は一瞬気絶していたディルの額に手を当てていた。仰向けの体、その真正面に彼女の顔がある。
身体は不調のはずなのに、聴覚はいつもより敏感に声を拾い、嗅覚は果実のような甘い香りを感じ取っていた。心拍数が上がる。
「だ、大丈夫だから……一人……で出来る」
辛うじて身体を起こし、恵那の手から布を奪おうとする。
しかし、直進する腕はあっさり躱された。そのまま身体が密着し、Tシャツに手が伸ばされる。さらに心拍数が上がる。
「ダメ。お粥食べてて」
有無を言わせない言葉の圧。もうディルは下手な抵抗をする余力も無い。諦めてその上半身を晒け出すことにした。
柔らかい炭水化物が口の中でたゆたう。暑い時期を踏まえてくれたのか、濃いめの味付けはディルの舌にほどよく響いてくれていた。
深皿からスプーンですくい口に運ぶ。ディルがそれを繰り返す間、恵那の手は彼の背中から横腹、胸へと動く。
当然ながらその間にはタオルが挟まってくれているが、それでも妙なくすぐったさには襲われっぱなしだ。少しのひんやりさとベタつきが取れる快適さでなんとか相殺されているが。
(なんだ……これ)
いくら弱っているとはいえ、「普通ここまでするか?」というのがディルの所感だった。
半魔であることを知られ、高層ビルから抱きしめフォール、さらには休日デート。ここまでにイベントはそれなりにあったものの、二人は別に付き合っているわけでも何でもないのだ。
これが普通の男子高校生なら、恥ずかしながらも喜び勇むのかもしれない。
しかし、ディルは簡単にそう思えないストッパーたる要因があった。
『私は与えた。貴方は何を
仮面の下は恵那と瓜二つである地獄の道化師が脳裏をよぎる。
恵那とギヴィング・デスは同一人物なのか。それを解き明かしていないという一点のために、ディルはどうにも恵那を信頼しきれていなかった。
踊らされたくないのだ。
『私の
道化師の言葉が反芻される。もし恵那とギヴィング・デスは同一人物であり、彼女の手のひらで踊らされているだけなら……考えると奈落に堕ちかねない。
踊らされたくない。
だから、ディルは一線を超えないよう恵那の行動を静止しようとしていたのだ。
だというのに!
今、恵那がしている行動は健全な男子を
(分かってやってんのか
さすがにスキンシップが過ぎる。かといって肉体パワーの差で止めるのも印象が良くない。
ならば彼が取る行動は何か。言葉による静止。
「なぁ……いくら何でもそこまでしなくていいんじゃないか?」
おかゆをすすりながら、それとなく問いただす。
「何をかしら?」
(何もかもだよ!!)
お粥を食し少しマシになったディルだが、恵那はまるでそれを分かっているかのようにおとぼけムーブをかます。
だがここで下がるわけにはいかない。
「年頃の女性が……そういうことするのはよくないっていうか……勘違いを招くっていうか……」
「あら、そうかしら? 私は弱ったクラスメイトを手助けしてるだけよ」
「ぐぎ……」
素知らぬ顔での返答。正論であるだけに言い返せない。勝手にやましい印象を抱いているのはディルなのだから。
「ところで『何を』勘違いするのかしら?」
挑発するように恵那はクスクスと笑う。それはまさに「分かってて言っている」者の態度だった。
プツン。
そして、その一言は
先ほどまでの力が入らない感覚は消えている。腹に飯が入ったことでエネルギーがチャージされたのだ。
「こういうことだよ」
ディルの身体が、動いた。
窓から入った風はカーテンを揺らす。
夕日が差し込む部屋の中、敷かれたままの布団に少女は横たわる。
そして、押し倒すような姿勢で少年は上に被さっていた。
「一人暮らしの男の家に上がる意味……分かってんのか?」
ディルの眼がいつもより険しくなり、恵那を睨む。細身だがしっかりと発達した筋肉、胸の正中線から露出した『
そこに普段の男子高校生はいない。人間では勝てない魔物だ。
逆に、恵那は彼を直視できないのか、目を斜め下に逸らしている。
夏の気温か、それとも火照りなのか、シャツは汗ばんで肌に張り付いていた。
頭脳明晰な恵那のことだ、この状況は理解できているだろう。
しかしディルは彼女の手を押さえつけてはいない。つまり、抵抗しようと思えばできるはずなのだ。
なのに、それを行わないということは……
(は?)
(は?)
(は?)
威嚇のつもりだったディルの脳内で巻き起こる混乱と響めきの嵐。
少女の視線がゆっくりと、まるで受け入れるように少年の顔へ向かう。
(おい……それって……)
恵那の唇が何かを呟こうとしたその時……
「見舞いやでー!」
「紳士的救援さ!」
「ど、どうもです……」
「メシとか持ってきてやっ……」
爽帆、泰輝、アユミ、宗也……いつものクラスメイトたちが一斉に玄関の扉を開けた。
……のだが。ちょうど彼らが見たのは、半裸のディルとそれに押し倒されている恵那。ご丁寧に布団の上。
「「……」」
「「「「……」」」」
互いに沈黙。
そして、四人とも何も見ていなかったと言わんばかりに目を下に逸らし、体を九十度回転。そして、先頭の宗也が一言かけて扉を閉める。
「……すまん」
あらぬ場面を見られたディルはドアに駆け寄りながら叫ぶ。
「ご、誤解だぁぁぁぁぁぁ!!」
この後めちゃくちゃ誤解を解いた。
ちなみに胸の『
ドアの鍵はしっかり閉めようね!